研究ブログ

批判的に継承する

 論文を書くうえで批判精神は欠かせません。しかし、重厚な研究蓄積の継承も必要です。いわば、批判と継承という相矛盾した行為を両立させなければならないのです。論文を執筆する前の我々研究者は、この二つの間を右に行ったり、左に行ったりして、最適な位置を探して着地します。ですから、よい論文は読むと思わず納得するわけです。論文を読めば、結論としての最適な位置はわかるかもしれませんが、我々研究者が普段どのように右往左往しているのか、その最適な位置さがしの方法はなかなか示すことができません。その意味では、右往左往の過程も透けてみえ、不適な場所に着地する素人さんたちの言説は、思考の際に気をつけるべき点を学ぶとてもよい教材になります。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200604.pdf

 素人さんは【2683~2685】で、次のようなツイートを連投しています。「馬部隆俊氏は茄子作村の茶屋を引用しながら私市村の逢合橋について語るけど、茄子作村には茶屋前という地名があるのは知ってるはずなのにね。でもこれは少し面白い発見かも。だって、」「融通念仏宗法明上人が茄子作村の逢合茶屋で石清水八幡宮(当時だと護国寺?)の人と落ち合った場所が茄子作村の「茶屋前」という地名なら、だいたいこの古地図に「牽牛」とある場所あたり。ここから私市村の逢合橋で天野川を渡れば、倉治村機物神社へ向かう」「融通念仏宗は茄子作村の茶屋について記載しているから、私市村の逢合橋とは無関係のはず」

 前回は、下手な小芝居や人名の間違いから、人格が透けてみえるという話をしました。前回更新したのは5月31日ですが、そのわずか2日後に、さっそく「馬部隆俊」の再登場です。これについてはもはや驚きません。それよりも驚いたのは、「茶屋前」という地名を私が「知ってるはず」と指摘されたことです。正直に申しますと、恥ずかしながらこのツイートを見るまでその地名の存在を知りませんでした。素人さんが、なぜこのように決めつけるのかは、またあとで考えたいと思います。

 親切にも【2655】に「茄子作村の字名「茶屋前」がどこかは、『枚方市民俗文化財調査報告4 川越村』39頁,枚方市教育委員会,1996の吉田晶子氏のレポートに地図が掲載されている。」とお示しいただいているので、さっそく昨日確認してみました。すると、たしかに「茶屋前」の地名はありましたが、「小字」(こあざ)でした。せっかくの機会なんで、小字の説明をしておきます。

 江戸時代には、現在のように番号で住所を示す習慣はなく、田畠数枚ごとに字という地名が付いていました。検地帳では、田畠一筆ごとに右肩にその字が記されています。明治時代に入ると、村ごとに1から順番に一筆ずつ地番がつけられました。一見、合理的にみえますが、一つの村で千や二千を超える番地があると、結局どこのことを言っているのかわかりづらいです。ですので、村のなかでは相変わらず字が機能しました。明治22年(1889)には町村制が施行されて、全国的に合併がすすめられます。その結果、新たな村が成立したため、もとの村は「大字」、もとの字は「小字」と呼ばれるようになりました。

 その後、昭和37年(1962)に施行された「住居表示に関する法律」に基づき、境界線などをわかりやすく引き直したうえで、××○丁目○番○号という住居表示が振り直され、現在これが定着するに至っています。この住居表示によって、だいたいの場所がわかるようになってしまったため、大字・小字の必要性は薄れてしまいました。

 旧『枚方市史』113頁によると、茄子作村だけで100を優に超える小字があります。正確な数字は今すぐ把握できませんが、枚方市には江戸時代に37ヶ村ありましたから、市内の小字の数は3000を超えるとみてよいと思います。こんなにたくさんある小字を「知っているはず」とおっしゃるのですが、私の脳みそはそれほど性能がよくありません。

 では、素人さんは私の能力を買いかぶっているのでしょうか。そんなはずはないでしょう。となると、こういうことになるかと思います。茶屋前の小字を「知っているはず」という芝居を打つことで、私が情報を隠蔽しているかのようにみせたいのでしょう。

 茶屋前の話の前置きとして、「逢合橋について語るけど」と述べているように、どうやら私の逢合橋に関する説を批判したいようです。逢合とは互いに行き会うことを意味します。インターネットなどで調べてもらうとわかるように、逢合橋の名の由来は、織姫と彦星が年に一度会う場だという情報が広く世に出回っています。実は、この説が出始めたのは比較的最近のことです。そのことを示すために、私は融通念仏宗の中興の祖である法明上人にまつわる次のような伝承を紹介しました。

 大阪市内の深江から石清水八幡宮に向かっていた法明上人と彼のもとに向かっていた石清水八幡宮の使者が、逢合茶屋にて互いにばったり出会います。この奇遇によろこんだ法明上人は、使者から受け取った本尊の掛け軸をその場にあった松にかけて、念仏を唱えながら踊ります。これが、融通念仏宗における踊り念仏の始まりになったということです。そして、その現場となった「本尊掛松」の伝承地は、今も現地に存在します。

 もちろん、これは伝承なので鵜呑みにするわけにはいきませんが、それらしい伝承として受け継がれてきた以上は、例えば両者が出会った場所など、この話に出てくる地名の位置関係には矛盾がないとみるべきです。逢合茶屋の呼称が近世初頭まで遡りうるのに対して、当地で七夕伝説が広まるのは昭和後期になってからのことで、かつ逢合橋の名は少なくとも戦前には登場することから、私は法明上人の伝承こそが逢合橋の名前の由来だと指摘しました。ロマンチックな男女の出会いではなく、おじさんどうしの出会いの場だといわれると、たしかに腹が立つかもしれません。

 そのため素人さんは、逢合茶屋の所在は茶屋前であると批判してきます。明治時代に作成された仮製図で確認すると、茶屋前は④の位置に該当するので、ここに逢合茶屋を想定すると、③に架かる逢合橋の語源とするにはたしかに離れすぎています。ですが、茶屋の地名なんて日本中にごまんとあるので、茶屋前が逢合茶屋に該当する明確な根拠が欲しいところです。

 

 では、私が逢合茶屋と逢合橋が近接すると判断した根拠を示しておきます。よく知られるように、融通念仏宗は高野街道沿いに布教していきます。ですから、融通念仏宗にまつわる伝承もまた、高野街道沿いに展開します。深江と石清水八幡宮を結ぶのも東高野街道です。当時は、淀川の氾濫原と深野池を迂回しなければならないし、香里丘陵も避けるでしょうから、ルートはこれに限られます。ですから、法明上人と使者が出会ったのも東高野街道上でなければ、この話は根も葉もない話になり、人々の間で語り継がれるわけがありません。東高野街道は地図の①から②にかけて縦走しています。本尊掛松はその途上の⑤にあたります。ですので、逢合茶屋で遭遇し、思わず近くにある松に本尊を掛けたとするならば、やはり逢合茶屋は⑤に近接していないと話の筋が通りません。

 素人さんが想定するところに逢合茶屋があると、こういうストーリーになります。石清水八幡宮を目指す法明上人も深江を目指す使者も、なぜだか主要街道から逸れて寄り道し、わざわざ香里丘陵を登りました。そしておそろしいほどの偶然で④の茶屋前にて遭遇します。たしかにこの奇瑞を法明上人が喜ばないわけがありません。喜びのあまり山中を駆け抜けた法明上人は、斜面を下って本来通るべきであった東高野街道の⑤までたどりつくと、そこで見つけた松に掛け軸を掛けて踊りました。こんな法明上人に誰がついていくでしょうか。

 ただし、私が紹介した話にも一つ矛盾があります。逢合茶屋で逢合ったというのは話が出来すぎなのです。これは推論になりますが、逢合という地域呼称が先にあって、その語源だといわれるとしっくりくる話なので、法明上人の伝承が受け入れられたとは考えられないでしょうか。京都府八幡市で東高野街道から分岐して、東高野街道の東側を併走する山根街道という道があります。この山根街道は、地図でいうと私部村の⑥から③の逢合橋を渡って、⑤のすぐ北で合流しています。この二つの街道が再び行き会う場所だから逢合と呼ばれたとも想定できるでしょう。また、そのような交通の要衝には、茶屋があってもおかしくありません。

 素人さんは「私市村の逢合橋」とおっしゃいますが、正しくは私部村です。茄子作村の融通念仏宗信者と一体となって伝承が展開したため、本尊掛松は茄子作村の伝承として扱われることが多いですが、⑤の部分の東高野街道は私部村との村境としても機能しています。したがって、本尊掛松や逢合茶屋は茄子作村と私部村に両属するものといえるでしょう。橋の名称をつけるときに、近隣の名所にちなむことなどよくあることですし、上述の話を踏まえるならば、逢合の場は本尊掛松の⑤より北の交差点に該当することになり、③の逢合橋に近接します。

 おそらく素人さんは、茶屋前という小字を見つけたときに、これで私を足元からすくえると思い、狂喜したことでしょう。同様に、これから卒論に取り組む学生も、史料集をめくるなかで、これまで研究者がみつけていないような「大発見」をすることがあると思います。

 そのときに大事となってくるのは、批判的に継承するという意識です。素人さんはその意識に欠けているため、次の作業を怠っています。素人さんの「大発見」と私の説をすりあわせるならば、④の茶屋前から⑤の本尊掛松まで狂ったように走り、そしてそこで踊る法明上人の姿が浮かび上がるはずです。これを一度でも想像したならば、「大発見」ではないと気付き、引き出しにしまったはずです。このように、少し冷静になって、過去の研究者の説とすりあわせながら、その「大発見」が矛盾していないかどうか検証しなければなりません。

 素人さんは、さらに江戸時代に描かれた「古地図」の画像を引用して、私をなんとか追い詰めようとします。そして、④の茶屋前が「だいたいこの古地図に「牽牛」とある場所あたり」とおっしゃいます。茶屋と七夕伝説を結びつけようとするのです。しかし、その「古地図」をよくよくみると、「牽牛」と書かれている場所は、東高野街道から南に少し離れた場所で地図の⑦にあたります。つまり、素人さんは、東高野街道の右と左の違いもわかっていないようです。

 覚えている学生もいると思いますが、私は1回生向けの歴史学入門という授業で、上掲の仮製図を必ず用います。過去の景観を復原的に考察するうえで、仮製図がとても有効であることも改めて理解できたのではないでしょうか。