研究ブログ

無知が招く誹謗中傷

 前々回は、『河内鑑名所記』の原本に記された「はたほこ大明神」というくずし字を読めない素人さんが、その文字をトリミングして消去した事例を紹介しました。そして、その画像をもとに、『河内鑑名所記』の原本には「はたほこ大明神」とは記されていないと主張し、私の揚げ足をとろうとするのです。また、前回にみた事例では、私が触れてもいない西井長和氏所蔵史料を引用したことにし、疑わしい史料を用いていると批判していました。前回以降のわずかな期間にも、【3267】で「馬部隆弘氏は式内社片野神社は本当は星田神社の交野大明神と、片山長三の実弟・西井長和の「星田懐古誌」p.28-29,昭55掲載の極楽寺神名帳を根拠に云われる」と述べているように、素人さんたちの発言は無限ループで読者を疲弊させます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200717.pdf

 誤解とはいえ、それを根拠に悪意をもって研究不正となじってくるわけなので、客観的にみれば明らかな誹謗中傷です。最近は、SNSでの誹謗中傷が話題になっていますが、研究者も他人事ではないといえるでしょう。そこで私は、誹謗中傷と受け止めてただ泣き寝入りするのではなく、研究者として積極的に対処しようと考えました。【2048】でも指摘されているように、「ネットで誹謗中傷されていると思うような人だと、新しいものは生まれないはずです」から。

 その試みが、素人さんたちの発言を誰しもが自由に見ることのできる史料として残したうえで、その内容を分析するこのブログです。史料としてみることで、少し距離を置いて冷静に読むことができるようになり、誹謗中傷という表層から掘り下げて、問題の核心にも少しずつ迫ることができるようになりました。この分析結果が、SNSでの誹謗中傷を少しでも減らす一助となればと思っています。

 このように視角を変えることで、新たに見えてきたことをいくつか紹介しておきます。まずは、通常の歴史学とは異なる新たな分析方法についてです。2019年に私への批判が高揚しているところに、外的インパクトが加わると素人さんたちは支離滅裂な発言を始めました。その仮説をより確実なものとするには、実験を繰り返して、同じような結果になるか検証しなければなりませんでした。そこで、2020年3月の新書発刊直後に、素人さんたちを対象とした論文を公表しました。それによって得られた実験結果は、まさに私の期待通りでした。このように、通常の歴史学にはない実験という方法が目新しい点といえるでしょう。

 しかも、この実験の結果、期待していた発言もいくつか得ることができました。私の論文について、【2091】で「馬部氏は文書で反論したから、それでいいのでは?うちも反論するだけです。」とおっしゃるのです。知識レベルに雲泥の差があることを自覚せず、私のことを対等だと認識していることがこれでわかりました。だから臆することなく発言するわけです。勘違いしているようですが、私は「反論」しているわけでなく、たしなめているんです。

 このブログで最初に述べたように、「金銭的・時間的余力」があるため、ついつい偽史に入れ込んでしまう点に私は北河内の地域性を感じています。これが意味するところは、日常生活に必ずしも必要とされない歴史をわざわざ勉強したり、それによって自らの知識レベルが高いと錯覚したりする傾向にあるということです。もちろん皆が皆というわけではなく、こういう傾向にある人が多いという意味ですが、多いだけに連鎖反応も起こりやすいです。この傾向は、かつて枚方市で窓口業務をしていたときに市民の方々から得た発言で、身にしみて感じていました。しかし、史料的根拠を明示できないため、この点については論文では印象論に留まっていました。そのため、【2051】で「地域性なのか、学者に異常に冷淡かも。相手にしてない。」ともおっしゃるように、学者を学者と思わない地域性を文字に残してくれたことは大変貴重な成果といえます。学者の意見を軽視したうえで、利益獲得や宣伝のためには偽史だろうが何だろうが手段を選ばずに用いるというしたたかな地域性についても、素人さんたち自らがエビデンスを残し続けてくれています。

 臆することがない理由は他にもあります。【2677】で、「批判と誹謗中傷の境界、うちらにはやはりわからないなぁ。法曹家の意見はうちらの直観とかなり違うし。」ともおっしゃるのです。「批判と誹謗中傷の境界」がないという一言から、無責任な発言が続くのも思わず納得してしまいました。

 納得した理由は次の通りです。中傷とは、『広辞苑』によると「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」です。批判とは、いうまでもなく「事実」に基づいて行うものです。我々研究者は、批判が誹謗中傷にならないように、その発言の根拠が「無実」ではなく、「事実」であることを慎重に確認したうえでことに及びます。批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらすことになってしまい、研究者として致命傷を負うからです。それに対して、無知をさらしても匿名なので特に恥ずかしくない素人さんは、「事実」か「無実」かを特に慎重に判断する必要はありません。それに伴い、「批判と誹謗中傷の境界」もとっぱらってしまうわけです。

 【3116】で「好き放題書くなら、ブログでいいのでは?うちはもう好き放題で書いてるべ。」といい、続く【3117】では「他人に有料で文章を販売するのはとても責任があるもんね。」とおっしゃいます。無料のSNSだったら、無責任に誹謗中傷をしてもよいというお考えなのでしょうが、そんなこと許されるわけありません。公言するからにはそれなりの責任が生じます。【3117】では続けて、「電子書籍ですら国立国会図書館で保管される。子々孫々に(うちは子供いなくとも、うちの家系は残るわけで)恥をかかせることはできないよ。」とおっしゃっています。このブログも、史料集を完成させることに目的の一つがありますので、最終的には編集しなおして冊子にするつもりです。つまり、国立国会図書館に納本されるわけなんですが、子々孫々に恥をかかせることがなければよいですね。

 皆さんも、卒論のなかで先行研究を批判することになるはずです。素人さんの事例をみてもわかるように、無知に基づく批判は誹謗中傷になりかねません。また、論文での批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらしてしまうことになります。これらのことを肝に銘じておいてください。