研究ブログ

正しい情報の選択

 文字史料には、事実が全て反映するとは限りません。そのため、複数の史料の間で、齟齬する情報が出てくることもあります。そういうときに、どの情報をいかに適切に採択するか、そこが研究するうえでの腕のみせどころです。

 椿井文書が今井家で販売されるのは、諸史料からみて明治20年(1887)から明治30年にかけてのことです。前回ご登場いただいた中村直勝氏は明治23年の生まれなので、椿井文書の販売が過去のことになった頃に、周囲からの伝聞などでその実態を知ったことになります。その集めた情報のなかに今井家の存在が不足していたため、中村氏は椿井文書の伝来過程を誤解していました。

 それに対して私は、現在の枚方市津田に居住していた三宅源治郎が、明治44年(1911)に記した「郷社三之宮神社古文書伝来之記」に着目しました。なぜなら、今井家に椿井文書が伝来するに至った経過を記していたからです。これによると、明治21年に三之宮神社の神職三松俊季は、朱智神社の神職中川政勝から、木津の今井家が所持する古文書のなかに、三之宮神社関係のものが存在することを聞いています。言うまでもなく、これは椿井文書です。中川政勝の仲介で今井家でその古文書を目にした三松俊季は、購入を熱望するようになります。明治28年に、三松俊季の日頃からの熱弁に動かされた三宅源治郎は、ともに今井家へ向かい、結果購入に至りました。

 この史料は、20年前のことをかなり詳細に記録しているので、当時の人のことですから日記などをもとにまとめたことは明白です。事実、三宅家文書のなかには三宅源治郎が残した関連する史料も多数含まれています。なお、素人さんたちは下記史料のうち【1172】で、「椿井文書木津町今井家流通説も馬部氏が発見した旧津田村三宅氏文書が根拠。それらが本物かどうか誰か確認した?」とおっしゃいます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200529.pdf

 勘違いされているようですが、私が「発見」したわけではありません。昭和40年代に始まる三宅家文書の調査の結果、確認されたもので、私は枚方市の市史資料室で公開されている写真帳から引用しました。本物かどうかを確認するのは、古文書が読める人ならば誰でも可能です。もう少し丁寧に説明するならば、誰でも確認できるところから引用するということは、仮にのちのち誰かに偽物だと突っ込まれても、特に問題ないと私自身が判断したことを意味します。同様に、私が新たに調査した史料も、全て撮影して市史資料室に保存しているので再検証は可能です。このようにして、私は議論の客観性を担保しています。

 【1142】では「#椿井文書 は中村直勝氏他が木津町椿井氏の「木津文書」とも呼んできたもので昔の文献にも掲載されているけれど、馬部隆俊氏が椿井文書だと鑑定している文書類は1911年津田村三宅源治郎が書いた原本閲覧不可の三松俊季が中川政勝から聞いた木津町今井家にあった椿井政隆古文書という伝聞が根拠で危うい」とおっしゃいます。【1147】でも「ではその伝聞の伝聞を記した1911年三宅源治郎の文書-津田山訴訟記の作者-は本物だろうか?筆跡はあうの?」とも述べます。【1183】では、主張点をより具体化しており、「椿井政隆→椿井政隆家族→今井良久→中川正勝→三松俊季→三宅源治郎と辿った伝聞が正しいかどうか確認しなければいけないし、」「郷社三之宮神社古文書伝来之記」「が本物かどうかの筆跡鑑定」「が必要」と述べています。

 前回も述べたように、私の説を否定したい素人さんたちは、半世紀以上前の中村説を虚偽をもって補足し、対抗しようとします。最終的には【2640】で、「中村直勝氏は木津の今井家で #椿井文書 は製造販売されたと記録している」というまでに至ります。そのうえで、私が根拠としたものを直接みることなく、徹底的に怪しい史料だというわけです。

 たしかに、明治21年段階の情報は伝聞の伝聞のようにみえます。しかし、三宅源治郎は、明治28年に3度にわたって今井家を訪問し、直接椿井文書の数々を閲覧し、今井良政と交渉のうえ購入しています。つまり、素人さんたちがおっしゃるような伝聞史料ではなく、「当事者」の記録です。むしろ伝聞史料は中村氏が残したもののほうといえるでしょう。

 今井家訪問前に三宅源治郎が得ていた情報は、素人さんがおっしゃるように伝聞の伝聞であるため、誤っていた可能性も少なくないです。しかし、三宅源治郎は今井家で情報を得ているので、仮に誤りがあったとしても、新たに得た情報で修正して記録するのではないでしょうか。

 三宅源治郎が、今井家で改めて事実関係を確認しなかった可能性はないと思います。なぜなら購入にあたって、土地約2000㎡の価格に相当する高額の代金を支払ったと自ら記しているからです。今井家まで行って伝来過程も聞かないまま、全てを鵜呑みにしてこの額を支払うでしょうか。3度も今井家に足を運んでいるのですから、直接再確認していることは間違いありません。

 三宅源治郎は、椿井政隆の息子である万次郎が今井家に質入れしたものだとも聞いています。仮に素人さんたちがいうように今井家で文書が偽作されており、それを隠すためによそから入手したものだと偽りを述べたと想定してみましょう。だとすると、江戸時代に椿井政隆が各地に写しとして頒布した椿井文書の原本が、今井家に存在したことを説明することができません。よって、椿井家から今井家に椿井文書が移動したことも事実といえます。

 あとは、それが質入れによるものであることを説明する必要があります。三宅源治郎は、明治7年から8年ころに質入れされたものと聞いています。実際、明治7年から9年にかけて編纂された『特選神名牒』という書籍に今井家所蔵の椿井文書が引用されることから、この時期に椿井家から今井家へ移動したことは裏付けられます。また、明治20年までは椿井文書が販売された形跡はなく、外に出回るとしても明治14年に井手の宮本直吉が今井家にあった「井堤郷旧地全図」を模写しているように、販売はされていませんでした。これは、明治20年以前は質草として機能しており、それ以降に質流れになったことを意味します。

 【2583】では、「椿井文書は椿井政隆の死後、木津の今井家へ質入れされたという1911年三宅文書の記録は、「建前」として説明されたものを三宅が文字通り受け取っただけ」といい、「ぶぶ漬けを真に受けただけ」とも述べます。これは三宅氏に対して言いたいのか、私に対して言いたいのか、よくわかりませんがひどい言いぶんです。でも、半世紀以上も前の話を鵜呑みにしていることから、「ぶぶ漬けを真に受けた」のはむしろ素人さんご自身ですよね。悪口は自分に返ってきますから気をつけましょう。

 椿井文書の伝来過程について、中村氏の著書ではなく、三宅源治郎の記録のほうが正しいと判断した理由をつらつらと述べてきました。論文では、ここまで詳細に記すことはありません。読者として研究者を想定しているので、ここまで丁寧に説明しなくてもおよその察しをつけてくれるでしょうし、わざわざ証明しなくてもよいことまで証明していたら話の本筋からそれてしまうからです。

 しかし、「もし仮に何か突っ込まれたらこのように返答するぞ」、という準備は何重にもしており、常に万全を期しています。その準備の一部が上述のつらつらとした文章です。これでも準備しているもののうちの一部です。論文を読むと、そのような準備をしていることはだいたい察しがつくので、研究者同士で野暮な揚げ足とりはわざわざしません。引用している古文書を一つ一つ本物かどうか確認しはじめたら、キリがないですからね。

 卒論提出後には、試問があります。私はときどき、研究者同士では聞かないような、あえて野暮な質問をしてみることもあります。「もし仮に何か突っ込まれたらこのように返答するぞ」、という準備がどれだけできているかを確認するためです。決して、意地悪というわけではありません。