研究ブログ

文末脚注も大事な情報

 論文では、あらゆる史料を駆使して議論を構築していきます。いうまでもないことですが、その典拠を明示しなければ、議論の客観性は担保できません。とはいっても、引用史料の典拠を本文で逐一記すと非常に煩雑になります。そこで論文では、史料の典拠を文末脚注に整理することで、円滑に議論を組み立てていきます。

 逆にその論文を検証するのであれば、脚注にある史料に逐一あたっていくという作業が必要になります。今回はそれを怠るとどのような結果になるのか、いつもの素人さんたちにご登場いただいて説明しておきます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200711.pdf

 私は『由緒・偽文書と地域社会』442頁で、次のように述べています。

「交野社」を蘭阪が「カタノ大明神」と呼んでいることと、国内神名帳をもとに作成した勧請神名帳には「交野大明神」がよくみられるという一致に注目したい。勧請神名帳は広く流布していることから、蘭阪もこの手の史料を目にしていた可能性が高い。つまり、延喜式神名帳との連続性も踏まえているのである。

 延長5年(927)にまとめられた「延喜式神名帳」には、全国各地の主要な神社がリストアップされており、そのなかに交野郡内の神社として「片野神社」の名があげられています。この神社の所在は、江戸時代になると忘れ去られていました。そこで並河誠所という人物が、交野郡坂村にある一宮は郡内で氏子が最も多い神社なので、これがかつての片野神社だと主張しました。それに対して三浦蘭阪という人物は、交野郡星田村にある「交野社」が片野神社に該当すると批判します。ところが現在は、並河誠所の説が通説となっています。

 並河誠所の主張は、後世の氏子数という極めて薄弱な根拠しかないのに対し、三浦蘭阪の主張には史料的な根拠が数々あります。そのため、どうみても三浦蘭阪の説のほうに軍配があがると私は判断しました。拙著では、三浦蘭阪が根拠としたと思われる史料を逐一検証していますが、上掲の一文はその一部にあたります。

 ここで私が注目したのは、星田村の「交野社」のことを三浦蘭阪が「カタノ大明神」と称していることです。延喜式神名帳と同じ時代に、国単位で主要な神社をリストアップした国内神名帳と呼ばれるものがあります。当然のことながら、延喜式神名帳と国内神名帳は重複する箇所が多いはずですが、河内国の国内神名帳は残念ながら残っていません。ただし国内神名帳は、中世になると各地の神前仏前などでの行事で使われる勧請神名帳に転用されます。そのため、国内神名帳の内容は、少しずつ形を変えつつも広く世の中に伝わっています。したがって、勧請神名帳は延喜式神名帳をベースとしながらも、少しずつ手が加わったものと評価できます。その勧請神名帳にしばしばみられるのが、「交野大明神」という呼称なのです。つまり、三浦蘭阪はいずれかの勧請神名帳を目にしている可能性が極めて高く、かつその内容と延喜式神名帳の間の連続性も知っているということになります。

 私のこの解釈に対して、素人さんたちは西井長和『星田懐古誌』上巻(交野詩和会、1979年)に掲載される次の写真を画像として貼り付けて、たびたび批判を加えてきます。

 

 

 この画像は、西井長和氏が所蔵される天文4年(1535)の勧請神名帳の一部です。個人が所蔵していることからもわかるように、勧請神名帳は比較的広く流布していました。この画像を貼り付けて【1046】では、「西井長和の星田懐古誌と馬部隆弘氏の由緒・偽文書と地域社会449頁を時系列にすると、馬部氏が引いた西井所蔵1535年神名帳の交野大明神書き込みの年代をいつとするかによって三浦蘭阪1834年の交野大明神が初出にもなる。原本何処だろう?」とおっしゃいます。西井氏所蔵の勧請神名帳を引用して私は議論しているけれども、画像によると「交野大明神」は行間への書き込みなので、天文4年から時期が下る可能性もあるといいたいようです。

 【1054】でも「#馬部隆弘 氏の由緒・偽文書と地域社会の片山長三の弟・西井長和所蔵の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神=星田神社=河内国交野郡式内社片野神社説はこの通り本文に書き添えられた物で真贋不明ではないかしら」ともおっしゃっています。行間への書き込みなので、この情報は「真贋不明」らしいです。【2672】でも、「馬部氏が片埜神社は星田神社という根拠の、片山長三の弟・西井長和所蔵(現在行方不明)の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神は、ちょっと記載が小さすぎて、後から付け足したものに見えるけどどうなんだろう?」とおっしゃっています。

 西井氏ご所蔵のものは、数ある勧請神名帳のうちの一つに過ぎません。ですから、他の勧請神名帳と比較すれば、写し忘れがあったから後で行間に書き足したことは明白です。しつこいようですが、【2716】でも「馬部氏も引く1941年西井長和「星田懐古録」(1979)28頁「ここに掲げた写真は編者所蔵の天文四乙未年の奥書のある神明帳である。」と同様の指摘をしているので引用しておきます。何がいいたいのかというと、素人さんは上掲拙著の一文に付けている文末脚注を明らかに見落としているということです。その脚注には、次のように史料の典拠を明記しています。

「恒例修正月勧請神名帳」・「花鎮奉読神名帳」(三橋健『国内神名帳の研究』資料編、おうふう、一九九九年)。勧請神名帳については、三橋健「研究の意義、方法及び範囲」(同『国内神名帳の研究』論考編、おうふう、一九九九年)。

 このように、私は西井さんのご著書も引用していませんし、ましてや西井さんご所蔵の勧請神名帳も引用していません。私が引用している勧請神名帳には、行間ではなく本文にしっかり「交野大明神」と記されています。

 最近になって素人さんたちは、勧請神名帳が西井さんご所蔵の一点物というわけではなく、世の中に流布しているものだとようやく気付いたようです。すると、あの手この手で主張を変えてきます。【2718】では「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は馬部隆弘氏が引いた西井長和「星田懐古録」(1979)28頁の神名帳とほぼ同じ。馬部氏はこれを式内社が並べられた神名帳と勘違いされたのでは?」とおっしゃっています。勧請神名帳に並ぶ神社名と延喜式神名帳に並ぶ式内社が完全に一致しないことは、「片野神社」から「交野大明神」へと呼称が変化しているように、私だって把握しています。このように中世的な変化を遂げつつも、式内社の痕跡を残したものが勧請神名帳なのです。こうした私の理解は、上掲の拙著の一文を読んでいただければわかるかと思います。むしろ、「勘違い」をしているのは、勧請神名帳が世の中に流布していることを知ってもなお、私が西井さんご所蔵の勧請神名帳を引用していると主張する素人さんですよね。

 【2731】でも「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は式内社を列挙したわけじゃない。」とおっしゃいますが、そんなことは百も承知です。さらに別の素人さんが【2741】で、「馬部さんは「式内社」が列挙された神名帳だと思ってたのね、「交野大明神」が掲載された、河内國の歓心寺の正月の勧請の神名帳を。それで星田神社が式内社片野神社だと思い、片埜神社を攻撃した。」とおっしゃいます。しれっと、西井さんのものから観心寺の勧請神名帳にすりかえたうえで、これは式内社を列挙したものではないという主張に重点を移すわけです。連携プレーを駆使しながら、必死になって主張を軌道修正している様子が伝わってきます。

 他の研究者はどうかわかりませんが、私の場合は「はじめに」と「おわりに」と脚注をみたうえで論文を読み始めます。主張点とともに、どのような素材を扱っているのかをあらかじめ把握しておくと、手っ取り早く理解ができるからです。ゼミ発表の様子をみていると、脚注をしっかりみていない人がいるようですが、実は脚注も論文のなかの重要な要素であることを理解していただけたかと思います。