研究ブログ

立憲主義と「改憲」(4)

参院選では、「改憲」が重要な争点となります[1]。

安倍首相自ら、2016年1月4日に「参院選では憲法改正について積極的に訴えていきたい」と述べているにもかかわらず、最近、与党が「改憲」についてあまり言及していないため少し曖昧になっていますが、極めて重要な争点であることに変わりはありません[2]。

本ブログでは、2016年1月12日から、「立憲主義と『改憲』(1)」「立憲主義と『改憲』(2)」「立憲主義と『改憲』(3)」を公開しました。(1)から(3)では、自民党「改憲」草案の「緊急事態条項」を中心に、それが前提としている市民と政府の配置について見てきました。

立憲主義と『改憲』(1)」で見たように、自民党「改憲」草案「緊急事態条項」は、政府が好きなことを、国会の制約なしに行うことを可能にするもので、これはナチスが使った「手口」です。

背後にあるものの見方は、

政府が主権者で、国を色々動かす。国民は、国に属するので、政府が動かす対象の一つである。憲法は、国民の振舞いを規定する。

というものでした[3]。

立憲主義と『改憲』(2)」では、そうした態度が、原発事故後の「政策」に先取りされていることを見ました((3)は憲法学者木村草太さんの発言の引用が中心だったので、ここではちょっと脇に置いておきます)。

ところで、こうした実態にもかかわらず、「緊急事態条項」は、しばしば、「国民の皆さんの福祉と権利を緊急時にも守るために必要なもの」であるかのように語られています。

では、その国民の皆さんの「権利」は自民党「改憲」草案ではどのようになっているでしょうか。今回は、それについて書くことにします。多くは、憲法学者が書いていることですが、重複を厭わずに書きます。

最初に、ちょっと脇道に逸れます

現政権の基本的な態度は、報道の自由世界ランキングが72位と急落した日本の大手メディアで大きく報道されることはありませんが、少し調べると、明らかになります。

例えば、2012年5月10日に憲政記念会館(皮肉なことです)で開催された創生「日本」東京研修会の場で、第一次安倍政権で法務大臣を務めた長勢甚遠氏は、次のように述べています

「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ。」

創生「日本」のウェブサイトによると、会長は安倍晋三氏であり、副会長には菅義偉氏、下村博文氏、高市早苗氏、世耕弘成氏などが名を列ね、事務局長代理には稲田朋美氏、事務局次長には西田昌司氏、義家弘介氏、丸川珠代氏などの名があります。

ちなみに、稲田朋美氏は、

「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います」

述べているようですし、西田昌司氏も、2012年11月に

「そもそも国民に主権があることがおかしい」

と述べています。

「立憲主義と『改憲』(1)(2)」で確認したことを、これらの人々は、あからさまに表明しているのです。

だったら本来、面倒な分析などしなくてよいはずなのですが、例えば、稲田朋美氏は、「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います」と一方で言いながら、NHKの日曜討論などでは、

「自民党の出している憲法草案も、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、これは全く変えません。」

などとまったく別のことを平然と言うので(この発言は2016年6月26日)[4]、基本的な文献が何を示しているかをきちんと読みとることにもまあ意味はあるのかと思います[5]。

というわけで、本題に入りましょう。


A. 基本的人権

日本国憲法第10章「最高法規」は、第97条から第99条までの3つの条文からなります。

第97条は、次の通り。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この条文は、自由民主党「改憲」草案では、(丸ごと)「削除」になっています。

なぜ、この条文が削除されているのでしょうか。

同党の「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」では、「Q44 現行憲法11条を改め、97条を削除していますが、天賦人権思想を否定しているのですか?」という問いに対し、

人権は、人間であることによって当然に有するものです。我が党の憲法改正草案でも、自然権としての人権は、当然の前提として考えているところです。

と述べつつ、「人権は神や造物主から「与えられる」というように表現する必要はないと考え」て第11条の文言を変えるとともに、97条は11条と内容的に重複しているため削除した、と説明がなされています。

自民党「改憲」草案を理解するためには、第11条と第97条を見る必要があることがわかります。まず、第11条から見てみましょう。

まず、日本国憲法第11条:

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

自民党「改憲」草案第11条:

国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

実は、自民党「改憲」草案では「与えられる・・・という表現を改め」ただけではなく、「現在及び将来の国民に」という文言が落ちています。「与えられる・・・という表現を改め」たいだけならば、「現在及び将来の国民が享有するものである。」とでも言えばいいわけで(用語が重複するのでもう少し検討が必要ですが)、「ダメ押し」とも言える「現在及び将来の国民」がなくなっていることに対する説明はありません。

文言を形式的に読み取るならば、自民党「改憲」草案第11条の第2文は、「基本的人権」は「侵すことのできない永久の権利」であるという、「基本的人権」の性格についての記述にすぎず、「侵すことのできない永久の権利としての基本的人権を、現在及び将来の国民が有する」ことについては何も言っていません。一方、日本国憲法第11条第2文は、まさにその点を確認しているのです。

自民党「改憲」草案第11条を日本国憲法第11条と比較する限りでは、「基本的人権」の性格は変わらないように見えるけれども、その「基本的人権」を「国民」が有し続けるという趣旨は弱くなっている、と言えます。

次に、第11条と第97条の関係を考えてみます。

自民党の「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」では、「97条は11条と内容的に重複しているため削除した」とあります。

何となくもっともらしく聞こえもしますが、「内容的に重複している」から不要と言うときの「から」という接続は、それほど自明でもありません。

さほど良い例でもありませんが、大学院学生の部屋と図書館に同じ本があって、内容的に重複しているから一方は廃棄、というわけにはいきません。同じ中身でも、位置づけや役割は異なり、その位置づけや役割が大切だからです。

実際、日本国憲法の第11条は「第3章 国民の権利及び義務」の一部です。これに対し、既に述べましたが、第97条は「第10章 最高法規」の一部です。

位置づけが、異なるのです。

第97条が「最高法規」の一部であることは、そもそも基本的人権が「法の支配」、すなわち政府や力のある人が勝手に何でもできるのではなく法の拘束のもとに置かれることを支える原理として存在していることを意味します[6]。

少し乱暴に言うと、「第10章 最高法規」に第97条があることは、70年間維持されてきた立憲主義に基づく日本社会では、大元に基本的人権の保障があり、それが尊重されないような社会であってはならない(尊重されなければ社会が崩壊する)、ということです

「第10章 最高法規」の第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という規定とあわせて、この部分は、

基本的人権を国民が享有することが国の存在理由であり、それは最高法規である憲法がここに定めており、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はそれを破ってはいけない

ということを定めているものです。それがなければ「国」の存在意義はない、その条件を定めたもの、ですね。

これに対して、「第3章 国民の権利及び義務」のところにある第11条は、一応、国がその存在意義を大枠としては果たすという前提で述べられているもので、役割が異なります[7]。

というわけで、第97条の削除は、立憲主義国家として最高法規で定める国の存在根拠に基本的人権の尊重を置くこと、それが規定する国のかたちを、その大元で変更することにつながる可能性があることになります。


B. 第99条

実は、この大元での変更に関連/対応して、重要な文言が(緊急事態条項以外にも)、自民党「改憲」草案に存在します。やはり「最高法規」の章にある第99条(とそれに「対応」する自民党「改憲」草案の条項)です。

日本国憲法第99条には、次のように書かれています。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

立憲主義の基本は、政府が憲法の拘束のもとでものごとを行うことにあります[8]。ですから、特に、国の運営に関わる役割を担う人々について、憲法を尊重し養護する義務が、憲法に明記されています。

一方、自民党「改憲」草案の「対応する」条文は、次のようになっています。

(憲法尊重擁護義務)
第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を養護する義務を負う。

国・政府に対する拘束を記述する、という、立憲主義における憲法の位置づけから考えると、国民に対して尊重義務を書き込む(しかも国・政府の義務よりも前に)というのは、奇妙なことです[9]。

自民党「改憲」草案では、本来、政府や国の行動基準を定めるものである憲法が、市民の制約を定めるものに(も)なっているのです。

ここまでのところで(少し大雑把ですが)、日本国憲法では、国・政府の運営は、憲法の定めるところに従い、基本的人権を尊重することを最重要の条件として、行わなくてはならない、それが日本のありかたである、となっていることが確認できます。

これに対して、自民党「改憲」草案では、国の存在根拠としての基本的人権の尊重を謳った条文が削除されていることに加えて、「全て国民は、この憲法を尊重しなくてはならない」という(立憲主義の趣旨には本来そぐわない)文言が付加されています。

そんなわけで、憲法の文言の中で「全て国民」が有する権利に関して、何が書かれているかを検討する必要が出てきます。

ここで改めて、「第3章 国民の権利及び義務」(自民党「改憲」草案では、その第11条と重なっているという理由で第97条が削除されたのでした)に戻ってきます。


C. 「公共の福祉」「公益及び公の秩序」

色々なところで指摘されていますが、自民党「改憲」草案では、日本国憲法の「公共の福祉」が、「公益及び公の秩序」になっています。

この二つは、次のように、異なる概念です[10]。

公共の福祉が制約をかける状況:個人が権利を主張するときにそれが他人の権利を犠牲にするような状況

公益及び公の秩序が制約をかける状況:「国家の安全と社会秩序の維持」にとって不都合な状況[11]

でも「国家の安全と社会秩序の維持」は大切ですよね?

そうですね。
  1. 「国家の安全と社会秩序の維持」が、何よりも基本的人権の尊重のためにあり、それと衝突しない限り。
  2. 「国家の安全と社会秩序の維持」が、そのときどきの政府の恣意的な判断に依存しない限り。
これらについて、自民党「改憲」草案は、
  1. 上記「A.」で見たように、日本国憲法第97条を丸ごと削除することで、第一の点を放棄し、
  2. 「立憲主義と『改憲』(1)」「立憲主義と『改憲』(2)」で見たように、緊急事態条項を入れることで、何が「国家の安全と社会秩序の維持」なのかを、政府が恣意的に判断できるようにしています。
自民党「改憲」草案の中には、政府が恣意的に何が「国家の安全と社会秩序の維持」かを決め、それに反すると考えれば基本的人権の制限を可能にする言葉が埋め込まれているのです。

長くなってしまいましたので、ここで、よろしければ、「戦争のつくり方」をご覧ください。8分弱の映像です。


もう一点。「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に置き換えることは、憲法において何が/誰が何に束縛されるのか、誰がどのような役割を果たすのか、その配置を大きく変えます。

第13条を見ながら、その違いを整理しましょう(第一文の「個人」と「人」の違いについては、以下の「D. 「個人」と「人」で見ます)。

日本国憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自民党「改憲」草案第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

「公共の福祉」は主権者たる国民の個々人の権利の衝突をめぐる概念ですから、日本国憲法では、誰かと誰かが衝突しているときに限っては、まあ政府が何らかの手立てを取ることができる(憲法第73条では、政府は事務担当であると規定されています)、ただし、「衝突」の状況は、憲法で規定された基本的人権の概念から導かれるのであって、政府が決めるのではない、ということになります。

ちょっと強調点と言い方を変えると、日本国憲法のもとでは、基本的人権を有する主権者個々人の間でどうしても権利をめぐる衝突が起きてしまった状況以外で、政府は「国民の権利について」制限をかけるような介入はできない、ということです。

つまり、政府は個人間の権利の衝突の際にどうしても必要なら仲裁する仲裁者で、衝突の認定も仲裁も恣意的には行えず、憲法の規定を参照しそれに従わなくてはならない、ということです。

これに対して、「公益及び公の秩序」は「国家の安全と社会秩序の維持」という、個々人の衝突とは別レベルの概念で、かつそれについて自民党「改憲」草案では政府が恣意的に判断できるということなので、政府は個々人の人権に能動的に制約をかけることができるようになります。

自民党「改憲」草案のもとでは、政府は、仲裁者ではなく、人権を制限する主体となりうるのです。

もともと、立憲主義・憲法は政府が人権を制限する主体となることに歯止めをかけるためのものでした。自民党「改憲」草案が「改憲」でさえなく憲法と立憲主義の破壊だと言われるのは、その役割がなくなっているからです。

この配置の転換は、「個人」と「人」の違いにも関係しています。


D. 「個人」と「人」

日本国憲法第13条は

「すべて国民は、個人として尊重される。」

となっているのに対し、自民党「改憲」草案は

「全て国民は、人として尊重される。」

となっています。

(すこし厳密性に欠きますが)「個人」という言葉は、一人ひとり、という存在の単位を指すもので、属性には関係しません。これに対して、「人」というのは、実は、属性によって規定される概念です[12]。

属性概念は「っぽい」を付けてそれほど違和感なく使えます。「人っぽい」。これに対して、「個人っぽい」は(「個人」が漢語であるという表面的な語感の違いとは別に)意味として座りが悪くなります。

「個人」は、それぞれの人の「まさにこの私」であり、固有名で表されるようなあり方を指します。(私の名前は「影浦峡」ですが、この名前には「この私である」ということ以外、意味はありません(私は、影でも海岸でも谷間でもない)。私はまあ暗い性格ですが、明るい性格になっても、「この私」であることは変わりません。歳をとっても何故か「この私」です。

どんなに性格や見かけや社会的役割や・・・が変わっても、どうしようもなく、私は私です(「あの人は昔のあの人ではない」と言うことができるのは、「あの人」が「まさにあの人」であるという点は動かないから、です)。

「人」は、違います。人種差別の歴史を振り返るとわかりますが、ヨーロッパの人は、アフリカの人を、ある時期、「人」ではないと見なしたりしていました。

この違いに対応するかたちで、「個人」を「人」に置き換えると、「尊重される」され方を規定する主体が変わります。

両(後)足を投げ出して仰向けにソファに寝そべって、煙草を吸いながらスマホをいじっている猫を想像してください。

「すべて国猫は、個猫として尊重される」社会では、「あなたは猫っぽくなくてだめだね」と誰かがコメントしても、「私は私で、そもそも君に猫っぽいとか言われる筋合いはない」、と答えてお終いです。「っぽさ」は、個猫が尊重されることとはまったく無関係で、尊重されるのは、どのような性格や見かけや仕事であっても「私は私である」ということだからです[13]。

一方、「すべて国猫は、猫として尊重される」社会では、「君は猫っぽくないね」、「猫としてそんなんじゃだめだよ」と言われたとき、困ったことに、「私は私だ」というだけでは不十分です。「猫として」が「尊重される」際の基準になりうるからです。そして、その基準は、「この私」それぞれに固有のものではないので、そこに、何か他人が口を出す可能性が生まれます。

「猫」を「女」「男」に置き換えてみると、よりわかりやすいかもしれません。

日本国憲法の「個人」を想定するなら、置換えた結果は「個女」よりも「個」のほうがしっくりきます。そして、それが「個人として」の正当な意味です

一方、自民党「改憲」草案では「人」が「女」あるいは「男」に置き換わります。

「すべて女性の国民は、女として尊重される。」

しかし「個」としては尊重されなくてよい。

石原慎太郎氏の次のような発言は、ここからそう遠くないところにあります。

「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」」なんだそうだ。「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・。

基本的人権が社会の基本原理であることが憲法から消され、政府が「公益及び公の秩序」を恣意的に判断する可能性が開かれた中で、「人として」しか尊重されないならば、「お前は人として不十分だ」とされて尊重されなくなる余地が生まれることになります。

例えば、何らかの「義務」が果たせなくなったときに、「人として」尊重されなくなり、権利が保障されなくなる、という可能性が出てきます。

では、権利と義務の関係はどうなっているでしょうか。


E. 権利と義務、子ども

というわけで、権利と義務について、見てみます。

日本国憲法第12条には、次のように書かれています。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第97条、第11条とあわせて考えると、日本社会において個々人の「基本的人権」「権利」は、それを社会の基盤とすると同時に目的ともする、一番最初に置かれた概念です。

「濫用」は、自分におけるその権利が、ほかの「個人」のそのような(自分においてと同じく無条件の)権利と衝突したときにのみ定義されます。

一方、自民党「改憲」草案第12条は、次のようになっています。

(国民の責務)
第12条 この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

「自由には責任が伴う」ということを言う人がいますが(自民党「改憲」草案の外でも、本当に言う人がいるので驚きます)、「自由」の諸概念に立ち入る紙幅はないので大雑把にだけ言うと、自由に伴うのは危険であって、「責任」が伴うならそもそも「自由」ではありません。

とはいえ、ここで考えたいのは、「権利には義務が伴う」という点。

大人の契約では、まあその通りですね。お金を貸したら、貸し手には権利が発生し、借り手には返済の義務が発生するでしょう。

でも、ここで、権利を有する主体と義務を負う主体は別です。

ところで、自民党「改憲」草案では、どうも、同一主体において、権利には義務が伴う、と言っているようです。

これを社会構成の原則である憲法に書き込んで「権利」の基本規定に組み込むことは、単純に「権利」の定義として誤っているだけでなく、社会を根本的なところで維持不能なものにする可能性を開きます。

何らかのかたちで「義務」(自民党「改憲」草案では、緊急事態条項および「公益及び公の秩序」を介して、政府が定めることができるようになります)を果たせなくなったら、権利はなくなることになります。

(「権利」の規定として)「権利」に「義務」が伴うならば、生まれたての赤ちゃんは、基本的に何もできませんし、これから「義務」を果たせるかどうか何の保証もありませんから、「権利」など持っていない、ことになります。

これを突き詰めると、「権利には義務が伴う」ことを「権利」の原則規定とするような社会では、子どもの生きる権利(第13条に「生命、自由及び幸福追求の権利」が書かれていること、それが自民党「改憲」草案では「公益及び公の秩序に反しない限り」で尊重されるに過ぎないことを思い起こしましょう)を否定することも正当化されうる(子どもは義務が果たせないのですから)、ということです。

以下は、朝日新聞2016年6月18日の記事からの一部引用です[14]。

「自分で稼いで食べているわけでもない子供に下手に『権利』なんて覚えさせちゃ駄目よ! ろくな大人にならないわ」
日本会議政策委員の百地章・日本大学教授が監修した冊子「女子の集まる憲法おしゃべりカフェ」には、47歳の主婦が、こんなふうに叫ぶ場面がある。

これをめぐる問題は、同記事が紹介するように、見方の違い、ではありません。

義務を同一主体に権利の条件として求める考えは、子どもが生きることそのものを否定することを可能にするもので、子どもが生きることが否定される社会は、崩壊につながるしかないので、およそ少なくとも社会というものを想定している限り(そして憲法は社会を想定するからこそ存在が要請されます)、子どもの権利の対価として義務を求めることは、単に破綻しているからです。


最後、ちょっと急ぎました。分量が多いので、まとめはなしにします。

7月10日の参院選は、野党に政策をまかせるかどうかの選択ではなく、現在の与党の非民主的なやり方と立憲主義の破壊をそのまま続けさせるかどうかの選択です。


注、など

[1] 「改憲」と括弧でくくるのは、自民党の「改憲」草案は、近代国家の意味での「憲法」とは位置づけが異なるものになっているからです。これについては、例えば小林節・伊藤真『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!』(合同出版)、樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書)などを参照してください。

[2] 最近あまり言及されていないとはいえ、安倍晋三首相は、6月19日にも、参院選後に具体的な憲法条文の議論を進める、憲法審査会を始動させるといった意向を示しています
 参院選で争点ではないかのように位置づけられながら、改憲に必要な議席数を万が一与党が取ったら、「国民の信を得た」と述べて改憲を進める可能性が高いことは、前回選挙前に平和安保法制はほとんど話題にのぼらなかったにもかかわらず選挙後に「国民の信を得た」と言って推し進めた前例からも推測できます。
 なお、直接、憲法に言及されたかたちでたてられたものではありませんが、民進党の「国民の暮らしと平和を守る」という主張と、自由民主党の稲田朋美政調会長の「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います」という発言の対立は、「改憲」の性質にも関わるわかりやすい争点です。

[3] 日本国憲法で「国民」という言葉が使われているので、ここでもこの言葉を使います。

[4] とりわけ現政権には、発言に最低限の責任を持つという意識が薄いようです。安倍首相自身の、「汚染水は完全にコントロールされている」、「リーマンショック級の危機」と述べたすぐあとに「今ものすごい景気いい」と述べたり、探すと色々出てきます。「改憲」について、参院選後に検討すると述べながら争点ではないように語ったりしている点も、その一例です。興味深いことに、「保守的」であるとされる「生長の家」が少し前に出した「今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針 「与党とその候補者を支持しない」」という声明では、「生長の家」が、現政権の主張だけでなく、主張や論点を都合によって隠したり曲げたりするという、現政権のものごとの進め方にも問題を認めていることが見て取れます。

[5] このブログを読まれる方は多くないので、ここに書くことにどのくらい意味があるかはわかりませんが、誰もが書くべきことを書けばそれなりに情報は広まるでしょうし、このブログの記事も、10名の方が紹介して下さり、その10名の紹介をそれぞれ10名の方が紹介して下さる、ということが繰り返されれば、6ステップで100万人の方々に伝わることになります。

[6] 学者によって議論のあるところですが、2005年4月に公表された衆議院憲法調査会報告書でも、この(標準的な)見解が確認されています。

[7] 自民党の「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」では、「現行憲法の制定過程を見ると、11条後段と97条の重複については、97条のもととなった総司令部案10条がGHQ ホイットニー民政局長の直々の起草によることから、政府案起草者がその削除に躊躇したのが原因であることが明らかになっている」となっていますが、制定過程と文言の解釈は別ですし、因果関係として「ことから」の前の部分を「唯一の」あるいは「主要な」理由とする根拠はありません。ちなみにこれは、歴史的経緯に関するあるレベルでの事実性の問題ではなく因果性の問題。

[8] 本来、このへんで、立憲主義と国民主権、民主主義の関係も整理しておくべきなのですが、長くなるので飛ばします。立憲主義と民主主義の関係については、「あやめ法律事務所」っさんの「民主主義と立憲主義のはなし」が簡潔にまとまっています。

[9] 第2項で「天皇又は摂政」が抜けており、この点も極めて重要ですが、紙幅の都合からここでは扱いません。なお、自民党「改憲」草案起草委員会の事務局長礒崎陽輔氏は、「立憲主義」という言葉を学生時代の憲法講義で聞いたことがないと述べています。

[10] 浦部法穂「「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」」は、両者の違いを「公」の意味合いの点からわかりやすく説明しています。

[11] お嫌でなければ、「日本国憲法改正草案Q&A」Q15もご覧ください。

[12] 以下の論は「個人」の「人」ではなく「個」を主に扱います。「個人」という言葉が与えられたときに「個」を素通りして「人」の属性を主題化することはできないので、「個人」において第一義的に重点があるのは「個」だからです。

[13] そんなわけで(どんなわけだ?)、私は「みんな違って、みんないい」という言葉も、実はあまり好きではありません。そもそも、一体誰が、どんな資格で、それぞれの「この私」を「みんな」というカテゴリーに押しこめ、「違って」(違いを認識するためには共通の基準が必要です)と言うのでしょうか? 個人として尊重される、というのは、そんなことを言う前にただ存在している「この私」を何よりも基本的な出発点とする、ということのはずです。もちろん「みんな」という言葉の捉え方にもよるのですが。

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