「プロメテウスの罠」から考える科学・社会・行政の関係
朝日新聞の「プロメテウスの罠」という連載記事が話題になっている。第3シリーズは「観測中止令」(2011年11月7日~2011年11月22日)。福島第一原発事故による放射性物質の拡散に関する観測と予測において、気象庁などの役所がどう動いたかという、私も強い関心を持っている話題を扱っていた。
まずはこういう話題を取り上げたことを高く評価したい。そして一連の記事の中で、私が特に関心を持った話題は、気象研究所からの論文公表や講演依頼が気象庁や気象研究所の上層部などの指示によって差し止めになった(?)という問題である。もしこれが本当なら、そこには公務員としての行動規範と研究者としての行動規範という異なる行動規範の衝突が生じていたことになる。もちろん職務上は、公務員としての行動規範に従う必要があるかもしれない。しかしこのような緊急時に公衆の利益になる重要な成果を公表しないことは、研究者としての倫理に反している可能性もある。そういう観点から、この事態の意味することを改めて検討する必要があると思うのである。科学と社会の関係はどうあるべきかという議論はこれまでも数多くあったし、科学コミュニケーションなどもその一つと言えるだろう。しかしそこに行政が介入してきて科学と社会の間を接続するチャネルが封鎖されたときに、研究者はどのように行動すべきなのか。それが今回の事態で問われたことだろう。私が日本気象学会の対応がおかしいと以前から言っている理由は、SPEEDIという行政システムのシングルボイスの下に研究者コミュニティを従属させ、社会と接続するチャネルを自らふさいでしまった点にある。
行政システムのような集権的な体制しかない場合、トップが判断ミスを犯したときに全体に大きな悪影響が及ぶことが今回の事故対応で明らかになった。ゆえに集権的なシングルボイス体制と並びたつ形で、自由に動ける多様なマルチボイス集団が社会には必要であると考える。そして研究者の役割は、自律的なマルチボイス集団をうまく維持して、シングルボイス体制と相補的な体制を作り出すことにある、というのが私の見立てである。もちろんマルチボイスであるがゆえの責任はある。多様性の中でもボイスの相互関係を説明するとともに、マルチボイスの中の共通性を取り出してなるべく少ない数のボイスに集約していくこと、などである。ただし放射線の人体への影響の議論などを見ていると、せいぜいダブルボイス程度にしか到達できないかもしれない。たとえそうだとしても、こうした集権的なシステムと自律的なシステムという複数のシステムを備えておくことには大きな価値があるはず。そして、そこに行政の過度なコントロールが及ばないようにするためのコンセプトが「学問の自由」なのだと思う。
一方、50年も継続した放射線観測が3月末に突然中止になった事件も紹介されている。もちろん観測を中止すべきでなかったのは明らかであるが、行政側の強い意思が働いて観測が中止に追い込まれたのかどうかについては、関係者の証言が錯綜していてよくわからない面がある。放射線観測がもともと縮小傾向にあったところに、関係者の以心伝心が食い違いを生み、局所的に下した状況判断が大局的に見ると大変まずい決断に至ってしまったという印象も受ける。例えば、中止命令が出た後も仲間の研究者の助けによって観測を継続したものの、後になってそうした観測を可能とした物品の「流用」をとがめられたというシーンが出てくる。なんとばかばかしいと思うかもしれないが、こういう杓子定規な対応は私の周囲でもよくあるもので、「嫌がらせ」ではなくルールに基づくまじめな仕事の結果であることも多いのである。「流用」に対して10円単位でも予算を返せというのか、と記者は皮肉のつもりで(?)疑問を呈しているが、そういう杓子定規な対応を招いた一端はマスメディアにもあるのでは、とここは突っ込みを入れたくなるところである。東日本大震災の復興においても、各地で杓子定規な対応が不満を呼んでいる。個人がルールに基づく「まじめな」対応をすると、現場の実情に応じた臨機応変な対応ができなくなり、全体として物事がうまく進展しなくなる。世の中全体に広がっている、大きな理念よりも細かいルールを優先する公務員的行動規範の矛盾を追及しない限り、いくら特定の個人を責めたって問題は解決しないのである。
だんだん「プロメテウスの罠」の悪いところに進んでいく。この点については、記事よりは長官記者会見要旨(平成23年11月17日) を見たほうがわかりやすい。ここには今回の記事を受けたと思われる質疑応答があるが、特に後半の質疑応答があまり意味のない方向に進んでいる(注1)。例えば「SPEEDIと気象庁との分担の問題」については気象庁の主張に分がある。拡散予測が国内で公表されなかった最大の責任はSPEEDIを公表しなかった文部科学省にあり、少なくとも気象庁には大きな責任はない(今後改善すべきという議論はありうる)。また「気象庁がIAEA向け拡散予測を隠蔽(?)した問題」も、以前にも述べたとおりIAEA向け拡散予測は国内対策には使えないものなのだから、これが公表されていたかどうかで事故対策に本質的な違いは生まれない。それに関連した「気象庁のシングルボイスの問題」についても、迅速な公開さえ担保されるのであれば、行政がシングルボイスであること自体はあまり問題ではない(そして実は国民の間にもそれを望む意見がある)。むしろその概念が拡大解釈されて、研究者コミュニティである日本気象学会までもが情報公開をためらうようなことがもしあるのであれば、それこそが問題だというのは先述の通りである。
行政対応のまずさの問題や行政の非効率の問題と、行政から科学への干渉の問題とは、本質的に異なる問題である。そして私としては、後者の問題をもっと取材してほしいのである。前者の問題は他の人でも追及できる。この連載を担当した中山由美記者には、ぜひ科学的視点からこの問題をさらに追及してほしいと願っている。
注1:この部分の質疑応答が誰によってなされたかは気象庁のページでは公表されていないので、「プロメテウスの罠」とは別の記者が質疑をしている可能性もある。
追記1:記事中の「森ゆうこ」議員の「活躍」については、疑問も呈されていることを付記しておきたい。森の一言によって予算が復活したかどうかは、森自身の証言によって確認できたわけではないようだ。
追記2:関連する話題を「数学セミナー2011年12月号」に書いた。タイトルは「SPEEDIによる放射性物質拡散シミュレーション/理想と現実の狭間から見えてきた問題」。この号には東日本大震災に関連するシミュレーションの記事が満載なので、ぜひ読んでみてほしい。
まずはこういう話題を取り上げたことを高く評価したい。そして一連の記事の中で、私が特に関心を持った話題は、気象研究所からの論文公表や講演依頼が気象庁や気象研究所の上層部などの指示によって差し止めになった(?)という問題である。もしこれが本当なら、そこには公務員としての行動規範と研究者としての行動規範という異なる行動規範の衝突が生じていたことになる。もちろん職務上は、公務員としての行動規範に従う必要があるかもしれない。しかしこのような緊急時に公衆の利益になる重要な成果を公表しないことは、研究者としての倫理に反している可能性もある。そういう観点から、この事態の意味することを改めて検討する必要があると思うのである。科学と社会の関係はどうあるべきかという議論はこれまでも数多くあったし、科学コミュニケーションなどもその一つと言えるだろう。しかしそこに行政が介入してきて科学と社会の間を接続するチャネルが封鎖されたときに、研究者はどのように行動すべきなのか。それが今回の事態で問われたことだろう。私が日本気象学会の対応がおかしいと以前から言っている理由は、SPEEDIという行政システムのシングルボイスの下に研究者コミュニティを従属させ、社会と接続するチャネルを自らふさいでしまった点にある。
行政システムのような集権的な体制しかない場合、トップが判断ミスを犯したときに全体に大きな悪影響が及ぶことが今回の事故対応で明らかになった。ゆえに集権的なシングルボイス体制と並びたつ形で、自由に動ける多様なマルチボイス集団が社会には必要であると考える。そして研究者の役割は、自律的なマルチボイス集団をうまく維持して、シングルボイス体制と相補的な体制を作り出すことにある、というのが私の見立てである。もちろんマルチボイスであるがゆえの責任はある。多様性の中でもボイスの相互関係を説明するとともに、マルチボイスの中の共通性を取り出してなるべく少ない数のボイスに集約していくこと、などである。ただし放射線の人体への影響の議論などを見ていると、せいぜいダブルボイス程度にしか到達できないかもしれない。たとえそうだとしても、こうした集権的なシステムと自律的なシステムという複数のシステムを備えておくことには大きな価値があるはず。そして、そこに行政の過度なコントロールが及ばないようにするためのコンセプトが「学問の自由」なのだと思う。
一方、50年も継続した放射線観測が3月末に突然中止になった事件も紹介されている。もちろん観測を中止すべきでなかったのは明らかであるが、行政側の強い意思が働いて観測が中止に追い込まれたのかどうかについては、関係者の証言が錯綜していてよくわからない面がある。放射線観測がもともと縮小傾向にあったところに、関係者の以心伝心が食い違いを生み、局所的に下した状況判断が大局的に見ると大変まずい決断に至ってしまったという印象も受ける。例えば、中止命令が出た後も仲間の研究者の助けによって観測を継続したものの、後になってそうした観測を可能とした物品の「流用」をとがめられたというシーンが出てくる。なんとばかばかしいと思うかもしれないが、こういう杓子定規な対応は私の周囲でもよくあるもので、「嫌がらせ」ではなくルールに基づくまじめな仕事の結果であることも多いのである。「流用」に対して10円単位でも予算を返せというのか、と記者は皮肉のつもりで(?)疑問を呈しているが、そういう杓子定規な対応を招いた一端はマスメディアにもあるのでは、とここは突っ込みを入れたくなるところである。東日本大震災の復興においても、各地で杓子定規な対応が不満を呼んでいる。個人がルールに基づく「まじめな」対応をすると、現場の実情に応じた臨機応変な対応ができなくなり、全体として物事がうまく進展しなくなる。世の中全体に広がっている、大きな理念よりも細かいルールを優先する公務員的行動規範の矛盾を追及しない限り、いくら特定の個人を責めたって問題は解決しないのである。
だんだん「プロメテウスの罠」の悪いところに進んでいく。この点については、記事よりは長官記者会見要旨(平成23年11月17日) を見たほうがわかりやすい。ここには今回の記事を受けたと思われる質疑応答があるが、特に後半の質疑応答があまり意味のない方向に進んでいる(注1)。例えば「SPEEDIと気象庁との分担の問題」については気象庁の主張に分がある。拡散予測が国内で公表されなかった最大の責任はSPEEDIを公表しなかった文部科学省にあり、少なくとも気象庁には大きな責任はない(今後改善すべきという議論はありうる)。また「気象庁がIAEA向け拡散予測を隠蔽(?)した問題」も、以前にも述べたとおりIAEA向け拡散予測は国内対策には使えないものなのだから、これが公表されていたかどうかで事故対策に本質的な違いは生まれない。それに関連した「気象庁のシングルボイスの問題」についても、迅速な公開さえ担保されるのであれば、行政がシングルボイスであること自体はあまり問題ではない(そして実は国民の間にもそれを望む意見がある)。むしろその概念が拡大解釈されて、研究者コミュニティである日本気象学会までもが情報公開をためらうようなことがもしあるのであれば、それこそが問題だというのは先述の通りである。
行政対応のまずさの問題や行政の非効率の問題と、行政から科学への干渉の問題とは、本質的に異なる問題である。そして私としては、後者の問題をもっと取材してほしいのである。前者の問題は他の人でも追及できる。この連載を担当した中山由美記者には、ぜひ科学的視点からこの問題をさらに追及してほしいと願っている。
注1:この部分の質疑応答が誰によってなされたかは気象庁のページでは公表されていないので、「プロメテウスの罠」とは別の記者が質疑をしている可能性もある。
追記1:記事中の「森ゆうこ」議員の「活躍」については、疑問も呈されていることを付記しておきたい。森の一言によって予算が復活したかどうかは、森自身の証言によって確認できたわけではないようだ。
追記2:関連する話題を「数学セミナー2011年12月号」に書いた。タイトルは「SPEEDIによる放射性物質拡散シミュレーション/理想と現実の狭間から見えてきた問題」。この号には東日本大震災に関連するシミュレーションの記事が満載なので、ぜひ読んでみてほしい。