研究ブログ

東日本大震災被災地の半年後を訪ねる

東日本大震災から半年を迎えました。先日9月11日の14:46に目をつぶって黙祷を捧げていると、最近訪ねた被災地の姿が目に浮かんできました。

被災半年の直前となる8月末。私は福島県から岩手県まで4日かけて、被災地の現状を見る旅に出ました。走行距離は1500キロ近くという駆け足での旅でしたが、今後の研究および被災地支援の参考のために全体像を見ることを目的に、じっくり見たり何かをしたりするのではなく、ひたすら見て回ることに徹しました。

そこで見たことを詳細にまとめているとこのスペースには書ききれないので、箇条書き風にいくつかの点をメモしてみたいと思います。



がれきの片付け(=がれきをある場所に移動し集積すること)はいちおう進んでいました。ただし時間も費用もかかるコンクリート建造物や巨大人工物の解体はまだまだこれからという感じです。また交通不便な奥の方へと行けば行くほど、片付けが済んでいない場所は増えていきます。ある一部の場所だけを見て全体の進行状況を判断するのは危険で、地域ごとに大きな差があることを感じました。泥かきボランティアをしている人たちとも少し話をしましたが、まだまだボランティアの力は必要なので、長期的な支援を忘れないでほしいとのことでした。



被災前の土地の景観を知らないと、具体的な被害の状況は想像しづらいことを感じました。がれきが片付いた場所は、現在は一面の「草原」のようになっています。どこが家でどこが農地だったのか、遠くから見るだけでは見当がつきません。近くまで行くと建物の基礎が草むらに埋もれているのが見えてきて、ああここは生活の場所だったんだということがわかるという状況です。そんな中で私でも比較的想像しやすかったのが鉄道の跡地です。駅があったはずの場所に何もありません。ということは、駅舎、駅前広場、それを取り囲む商店、その周囲の住宅、すべてなくなったということです。「あるはずのものがない」というこの強烈な違和感を覚える「草原」というのが、とにかく今回は印象として残りました。



もう一つ印象に残ったのが地盤沈下です。海沿いの場所の中には、地盤沈下によって海水が入り込むようになった場所がありました。潮が満ちてくると、ブクブクと水が湧きだしてくるところもあります。ああ、地盤沈下した場所の復興は本当に大変だなと重苦しい気持ちになりました。海水につかっていない場所に比べて、復興のためにやるべきことがさらに多くなります。そうした場所に今も暮らす人々の生活をテレビ番組で拝見したことがありますが、実際に現地で海水がタプタプと流れ込む様子を見て、その精神的なショックは相当に大きいだろうことを感じました。



相馬や名取では、延々と続く津波被災地の大きさを感じました。海岸沿いは防風林がところどころに残ってはいるものの、海岸沿いにあったはずの家などは何もなくなっています。そんな場所が何キロ、何十キロにもわたって延々と続くのです。地を這うように陸地に侵入してきた津波がすべてを飲み込みつつ進んでいくさまを想像しました。またこの地域では、国道6号線(陸前浜街道)が津波が到達するかどうかの境界線になりました。おそらくこの街道は過去の津波被害によって決まったルートなのでしょう。そうした過去の経験を踏まえて、今後の土地利用や津波からの避難方法を考えていかねばならないと感じました。



女川、雄勝(石巻)付近では、津波のとんでもない高さを感じました。数階建てのビルでも全体が浸水して、高台まで浸水した跡があります。津波の高さは平時には想像もできない高さで、単に水位を伝えるだけでは実感がわかないかもしれません。映像などとともに伝える必要があると思いました。また女川ではこれら倒壊したビルを保存する計画もあるそうで、これらが東日本大震災とその津波災害のシンボルとなって、津波の怖さを後世に伝えていくものになるかもしれません。



陸前高田では、大きな町の中心部がまるごと消えてしまうことの衝撃を感じました。海岸沿いの低地からかなり奥の方まで、低い土地の建物は軒並み津波で消えてしまっています。広いエリアがさえぎるものなく一望できることに驚くと同時に、この広大な被災地域をどうやって復興していくのだろうと途方に暮れる気持ちにもなりました。小さな集落であれば全面的な高台移転も可能でしょうが、これほど広い地域を丸ごと高台移転するというのはやや非現実的ではないかという印象も受けます。一方で平地に再び住むのであれば、津波に強い建造物、都市計画、そしてコミュニティを再建していかねばなりません。高台移転は津波への究極の対策ではありますが、町ごとに地形的な要因が違いますので、一律に論じることはできないことを実感しました。



宮古市田老地区では、防潮堤の意味を考えました。田老地区では総延長2.5キロに及ぶ長大な防潮堤を築いて津波に対する万全の備えをしてきたつもりでしたが、今回の津波はこの防潮堤さえ乗り越えて、多くの人々が津波の犠牲となってしまいました。一方、宮古市の北にある普代村では、太田名部地区の15.5メートルの防潮堤や中心地区の15.5メートルの水門のおかげで、高さ14メートルの津波から集落を守ることができました(岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮 )。確かに普代村の防潮堤は他の場所に比べて一段高いので、その高さが運命を分けたことは納得できました。では他の地区も同じく高くすれば良かったのでしょうか。田老地区の防潮堤は普代村の10倍も長いことを考慮すれば、全体を同じ高さにまで引き上げるのに必要な費用は全く異なるでしょう。ここでも地形的要因の違いを無視して、一律に防潮堤の高さだけを論じることはできないことを感じました。



宮古市姉吉地区では、「ここより下に家を建てるな」という先人の言葉が刻まれた石碑の意味を考えました(具体的な言葉は津波ディジタルライブラリィの中の宮古市の一覧を参照してください)。人々はこの石碑の言葉を守って高台に集落をつくったため、観測史上最大の遡上高40.4メートルの津波を受けたにも関わらず、住家が流されることはありませんでした。この津波は石碑を少し下ったところまで迫りましたので、この石碑より下に家があれば津波が到達していました。その意味ではこの石碑が集落を救ったというのも確かです。とはいえ、姉吉地区に特有の地形的条件も影響していることを感じました。姉吉地区では、港の近くか、石碑より上の小さな平地か、家を建てるとしたらその二択しか選択肢はなさそうでした。しかし、もしなだらかな地形の途中に石碑があったら、教えを守り続けることはもっと難しかったかもしれません。この石碑の精神を他の地区に広げていくためには、そうした問題も考慮しなくてはならないと思いました。また現代の我々がこの石碑に相当する津波記憶装置をどうやって作ればよいかも大きな問題です。石碑に刻まれた言葉はおよそ100文字。現代でいえば1ツイートに収まる内容です。そんな凝縮した表現に思いを込めることができたのは素晴らしいことではありますが、現代の我々はもう少し多くの情報量で伝えていく必要があるのかなと考えています。



釜石市鵜住居地区では、津波教育の効果を考えました。今回の津波では、釜石市の学校で犠牲者が少なかったことが話題になりましたが、その大きな理由は近年に釜石市で群馬大学の片田敏孝教授が中心になって実施した津波教育にあると言われています。詳しい内容は速報:釜石が繋いだ未来への希望 -子ども犠牲者ゼロまでの軌跡-のページや小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃないの記事に紹介がありますので、ぜひ読んでみてください。「津波てんでんこ」の精神を肌で理解し、自ら状況を判断しながら津波から避難した子供たち。その一例として紹介された鵜住居地区で、子供たちが実際に避難したルートを確かめてみました。学校からだとしばらくは平らな道が続くので、たとえ走ってもそれほど高度を稼げなさそうな印象です。背後から津波が迫ってくる恐怖は大きかっただろうと想像します。そんな中でも、津波に対して子どもたちが的確な判断を重ねていったことは素晴らしいし、私が今回の震災で最も感動したストーリーの一つでもあります。ぜひこの経験を他の場所にも広げていけないものかと思いました。なお、上の写真はこの学校の生徒が作った看板です。釜石東中学校は看板の先、向かいの山のふもとにあります。



最後に福島県中通りは、ほとんど通過するだけになってしまいましたが、スーパーなどで買い物してみた感じでは、表向き日常の生活パターンが戻りつつあるように感じました。町には人が歩いているし、店には人々が買い物に来ているし、子供たちが自転車に乗って走り回っているところもあります。もちろん放射能の問題はまだ解決からほど遠い状況ですので、以前の生活に完全に戻ることは難しい状況でしょう。ただ人々がそうやって以前の生活パターンを取り戻そうと努力しているとき、外部の人間が情報提供の域を越えてあれこれ口を挟むのは余計なことではないかとも感じました。我々はこの放射能問題を決して忘れず、除染に最大限協力していくべきだと改めて思いました(「までい」の村、飯館を襲った放射性セシウム汚染)。



結局のところ今回の旅では、YouTubeで見た津波映像に写っていた場所を訪ねることが多くなりました。私にとってはそれらの映像が、津波前と津波中の光景を想像するための事実上唯一の手段だったからです。それは津波被災地有名スポットめぐり観光ではないか、という批判はあるでしょう。そういう面があることは私も否定できません。しかし被災地外(東京)の人間にとっては、やはり津波映像は津波の怖さを知るための最も有効な手段であり、震災の記憶が映像を元に形成されていくことも避けようがないことを実感しました。



津波映像を通して知った、大船渡で「かもめの玉子」を製造販売する「さいとう製菓」。その専務が撮影した津波DVDが「さいとう製菓」店頭で販売されていることを陸前高田仮設店で知りました。専務はこの映像をできるだけ多くの人に見てもらうことによって、津波の怖さと避難の重要さを伝えていきたいということのようです。これらの津波映像は今回の地震が我々に残した本当に貴重な資産です。被災地の外で将来への教訓として活かしていくことはもちろんですが、将来的に被災地がある程度復興したころには、これらの津波映像を現地で見られるようにする(例えば拡張現実的に現在の光景にオーバーレイする)ことも考えられます(ただし今はまだ時期尚早です)。そして映像に加えて写真や文章を組み合わせることにより、津波という大惨事の記憶を多様な視点から後世にアーカイブしていくことが重要な課題だと改めて考えました。



震災から半年、自分にできることはデータの整理と提供、説明にあると考え、主に東京から発信を続けてきました(2011年3月 東北地方太平洋沖地震関連情報)。今後はもう少し現地とつながり、複数人の協力に基づくプロジェクトに関わっていけたらと考えています。

(追記:2012-01-03 現地で撮影した写真を追加)
2011/09/22
スギ・ヒノキは塩害に弱いとは言われていましたが、はっきり分かっていなかったんです。
ですから、明確にその証拠が現れているのが今回の津波とも言えます。

総じて、放射能汚染の方に注目が集まり(もちろん重要課題ですか)、津波被害における森林の災害に目を向けているのはほとんどいないと思っています。

今度、開催される植生学会において、口頭発表をし、賛同してくれる研究者を集めて、本格的な調査を進めていきたいと思っています。

町を取りまく環境(森林)の災害時におけるガイドラインは植生という視点で見ることが可能であると、現地調査に行って実感しました。
山火事も、二次災害においては怖い存在です。林床の焼け焦げた跡を踏み歩いていて、火の手を想像すると、それは恐ろしい光景が浮かんできました。

今は人災の復興で役場も手一杯。営林署も管理どころではないので、タイミングを見て、アプローチをしていくつもりです。
2011/09/21
大槌町について書かれた記事やその前の記事等、拝見しました。津波到達範囲という客観的な指標だけではなくて(次の津波がその中で収まるという保証はないですし)、津波防災に対する精神を伝えていかなくてはならないのでしょうね。例えば「津波てんでんこ」はそういう精神をうまく伝えていると思います。

復興のアーカイブについては、すでに動き出しているグループがあるので、そこに加わって何かできないかと少しずつ動き始めている段階です。

ちなみにスギ・ヒノキの枯死については、本当に境界がくっきりしていて印象に残りました。あれはだれか記録しているのでしょうか?あれこそ「津波到達範囲」を精密に物語る指標ですよね。
2011/09/20
私は、9月11日、大槌町で黙祷を捧げました。
グーグルアースで見ると、津波被災の広大さが分かりますね。ただし、釜石市街地は建物が残っているので認識しにくい。実際に行ってみると、1階はとても生活が出来る状態ではないことを思い知ります。
すでに現地では津波危険区域が道路のボールで標示されていますが、それは津波の到達範囲を示しただけで、時と共に石碑のように忘れされてしまうような気がしてなりません。

津波の現状を刻銘に記録した上で、未だにボランティア支援で復興に力を注いでいる労力をアーカイブする基盤がほしいと思いました。