日誌

メタであること:自分自身に対して上に立つ義務

ピエール・ブルデュー/ロイック・J・D・ヴァカン,2007,『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待――ブルデュー、社会学を語る』(水島和則訳)藤原書店.

本書はブルデューとヴァカンの対談形式になっています。大学内部の「知識人」というものを批判的に論じたブルデューの別の著書『ホモ・アカデミクス』についての二人の議論のなかで次のようなやり取りが登場します。以下引用。

【ヴァカン:】しかしながら社会学に対する幻滅、社会学をむしばむ病の大半は、社会学がその能力を間違って行使しているという事実にその根をもっているのではないでしょうか。社会学は科学、哲学、法律、芸術といった普遍性を要求する活動をも含めたあらゆる人間の活動について、それらを対象としてとりあげる能力があると考えています。一言でいえば社会学は、いつも自分が「メタ」の立場にあると主張する高みに立っていないでしょうか。
 
【ブルデュー:】すべては、あなたが「メタ」という言葉で何を意味しているかにかかっています。科学的闘争ではほとんどの場合、誰もが「上に立つ」意味で「メタの立場にいよう」と試みているのです。[動物行動学者の]ケロッグがおこなったとても見事な実験を思い出します。ケロッグはサルの群れの手の届かないところにバナナを吊るしました。サルたちは飛び上がってバナナをつかもうとします。最後に群れの中でもっとも悪賢いサルタンというサルが、ガールフレンドのサルをバナナの下につれていき、すばやく彼女の上に飛び乗り、バナナをつかみ取って食べたのです。それを見ていたすべてのサルたちは皆バナナの下に集まって片足を上げて立ったまま、お互いの肩へと飛び移る機会をうかがったのでした。この教訓話(パラダイム)が科学的議論の多くにあてはまることがわかるでしょう。ほとんどの場合、論争はまったく不毛です。なぜなら人々は相手を理解することではなく、相手の上に立つことをねらっているからです。社会学という仕事につく無意識の動機のひとつは、社会学こそ「上に立つ」ためのもっとも効果的な方法を与えてくれることです。[しかし]私にとっては、社会学には「上に立つ」義務があるものの、それはつねに自分自身に対して上に立つ義務なのです。社会学は社会学とは何か、何かをしつつあるのかを発見するために自分自身の道具をつかわなければなりません。そして他者を客観化することにしか役に立たない「メタ」の論争的利用は拒否しなければなりません。
 
以上引用。【 】内は引用者。