日誌

しばき隊と在特会と「相対主義」

在特会のレイシズムに対抗して、しばき隊が結成され活動していることは、ご案内のとおりだが、両者を巡る議論の中で頻繁に相対主義が問題化された。要約すると、在特会の行動を非暴力で抑制するしばき隊の活動が攻撃的に見えるので、どちらも同じような存在だという議論のことである。更にそれを「相対主義の弊害」と批判する声も上がるのである。例えば下記のような議論である。

 

「ある典型的などっちもどっち教徒との会話」

http://togetter.com/li/463741

 

このような議論がTwitterで見られる時に、思い出したのが2006年に発表された Charls Essの価値多元主義に関する論文である。私は倫理学も哲学も素人なので最近の研究については詳しい方の補足を願いたいし、読んだけど、難しくてよくわんなかった。

 

Ess, C. (2006). Ethical pluralism and global information ethics. Ethics and Information Technology, 8(4), 215-226.doi:10.1007/s10676-006-9113-3

 

これは翻訳されて下記に掲載されている。西垣によるCharls Essの価値多元主義に関する要約は下記に引用したとおりである。これを引用して論文も書いたのだが、実はこれを読んだ時には、あまり深刻には受け止めていなかった。しかし、今日の議論を見るにつけ、日本においても現実的な問題になったのを感じる。Essやその他の欧米の倫理学者にとっても、彼らの現実を考えるのに必要なアクチュアルな問題だったに違いない。

 

しかし、同時に、在特会をめぐる議論で言う「相対主義」は、下記で言う相対主義と同じなのか、疑問も残る。まだ、価値多元主義について考えるは早いのではないかとさえ思う。

 

下記で大切なのは、なぜ独善主義を批判し、相対主義を考えださなければならかったのか、ということである。それは「白人の男のプロテスタントだけが良い人間だ」という独善主義によって虐げられる人がいて、それに痛みを覚えたからである。

 

その経緯は、指向性において「レイシストもその反対派も、どちらも攻撃的だから同じだ」という言明とは、全く真逆のベクトルである。それを相対主義と呼んでは、独善主義からの脱却に苦労した先人に失礼である。同時に、いわゆる言論の自由も、基本的人権の一つとしてあるので、他人の幸福権や平等権を侵害する言論の自由などあり得ない。

 

価値多元主義について言及するのは、のいえほいえ氏が言うように、「まず近代になってから」先の話である。なんか、Essが遠くに感じられてきたが、それが今の私たちの問題である。ドイツの倫理学者Rafael Capurroが酔っ払っている時に、「あんた何で現代の情報倫理学なのにアリストテレスの話なんかすんの?死んじゃったじゃん。大昔じゃん。インターネットなかったじゃん。」と言ったら、"Because it's our family problem(家族の問題だから).アリストテレスはアテナイのムラの住人がどうやって生きるかを考えていた。"と言っていた。

日本にも「家族の問題」がある。それは3.11の前から存在していて、今次々と顕になっている。人々の生活の知恵も学問も、容易に解答を見いだせないである。反原発でも差別でも、何かのイシューに際して、必ず出てくるここで扱ったような横道もその一つで、それによって問題の本質から遠ざけられてしまう。

 

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 独善主義とは、地球上に唯一の「正しい倫理道徳」が存在するというものである。かつて一九世紀から二○世紀前半にかけて、いわゆる「近代化」の波とともに西洋のキリスト教倫理道徳がそういうものとして位置づけられたことは指摘するまでもないだろう。しかし、もはや一面的な真理観は通用しない。相対主義とは、いわば独善主義への批判としてポストモダン思想とともに台頭したもので、多様なローカル文化の価値を認め、唯一の「正しい倫理道徳」など存在しないと主張する。

 だが、グローバルに利用されるICTは必然的に技術的共通性をもつため、相対主義とは矛盾するとエスは述べる。無理にこれを両立させようとすれば、いわゆる「ゲットー」化が進み、地球上の情報通信が分断されてしまうというわけだ。さらに、「何でもあり」の相対主義は、ファシズムさえ許すことになるとエスは批判するのである。

 では、「多元主義」とはいかなるものだろうか。それはとりあえず、多様な倫理道徳同士の相違をふまえながらも共通する普遍性を探っていく試み、と見なせるだろう。これにも何種類かあって、たとえばローレンス・ヒンマンは「最小限の両立性 (Compatibility)」、ジョン・ロールズは「同一性共有による結びつき(Connection)」、チャールズ・テイラーは「補完性(Complementarity)」にもとづく多元主義をそれぞれ主張する。エスはこのなかで、相異なる同士が互いに学びあい補完しあうというテイラーの考え方にもっとも共感しているのだが、さらに第四の多元主義として「解釈的多元主義 interpretive pluralism」提唱するのである。

 端的に言うと、この多元主義は、「同一の倫理規範でも、その解釈や応用においてさまざまな判断がありうる」という考え方にもとづいている。エスによると、これはいわゆるフロネーシス(応用知)に近く、プラトン、アリストテレス、アクィナス、カントとつながる西洋哲学の正統的な流れにおいても見られるものだ。とりわけ、その解釈的多元主義をもっとも強く支えているのは、アリストテレスの「収赦的解釈多様性(focal equivocal)」という理念である。言語に注目すると、一つの言葉の意味は一般に複数ある。しかし、それらの意味同士はまったく無関係ではなく、およそ同一の軸に収数する場合が多い。つまり、唯一の絶対的一義性と、まったくの多義性との中間なのである。同じことが実践における道徳的判断においても言える、というわけだ。

 ところでエスの議論が興味深いのは、孔子もこういう考え方をしていると述べている点である。

 すなわち、儒教においては、同じ倫理規範を適用するに際して、さまざまな、場合によっては相矛盾する複数の判断が許される。複数の視座からの解釈多様性が認められるわけだ。それらの解釈同士は、ちょうど音楽のように、互いに調和し、共鳴する。まさにこの点に、エスは伝統的な西洋哲学と東洋思想との共通点を見出しているのである。西垣・竹之内.(2007:32-33)

西垣通・竹之内.(2007). 情報倫理の思想. NTT出版.

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