円環の理
映画の中のキリスト教的要素を話すとネタバレになるので、ここでは仏教的要素を話した後、キリスト教との相違点と共通点を書きます。『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズの中では「円環の理」という概念が出て来ます。それはまどかの願いによって世界の法則が書き換えられ、力を使い果たした魔法少女が魔女とならずに消滅することとなった世界のことです。これは仏教における輪廻転生からの解脱に似ています。「祈り」と「魔法少女」、「呪い」と「魔女」の関係も仏教の縁起の考えに似ているのですが、「円環の理」も多分に仏教的な解脱の方法と考えられます。消滅の代わりに復活するのが、キリスト教ですね。
古典における実際の縁起などの仏教思想の現れには、例えば以下のものがあります。『今昔物語集 巻第二 流離王、釈種を殺せる語 第二十八』では、「縁起」に基づいた諸行無常・諸法無我の考えが非常に大胆に描かれています。キリスト教では天国に行くか地獄に堕ちるかは自己の判断で左右出来る部分が大きいですが、仏教では諸行無常・諸法無我の考えにあるように、縁起という諸法の大きな流れの中で生かされている生きとし生けるものにはどうにもならない流れがあり、それを自覚してなお、生きる道を探すという違いがあります。それが「祝福」であるところは仏教とキリスト教(『ファウスト』など参照)とは共通で、ブッダも『ダンマパダ』や『ウダーナヴァルガ』の中でそう述べています。手塚版ブッダではルリ王子の物語は人災のように描かれており、悟りを開いた後もなお迷い苦しむブッダがいましたが、本来の仏教でのブッダがここにあります。能では似たような思想が底流にある演目に『善知鳥』という、猟師の霊が現れて殺生をした罪で地獄に堕ちていると訴え、我が子に近づこうとするが、子鳥と親鳥と引き離した報いで近づけず、鳥を捕える様子や地獄の苦患を見せ、救いを求めつつ消え失せるものがあります。能には演劇的趣向がありますが、テキストだけで比較すれば『善知鳥』よりも今昔の話の方がずっと深いように思われます。南方熊楠も重宝していた所以でしょう。
近年話題になった『ハリー・ポッター』シリーズには、シリーズを最後まで見ればキリスト教的要素があることが分かるでしょう。イギリスには『指輪物語』や『ナルニア国物語』以来のファンタジー小説の伝統がありますが、『ハリー・ポッター』は力をあまり使わず捨てることなど、扱っているテーマが『指輪物語』の後継として現代風に翻案されたものでしょう。学者であるトールキンの『指輪物語』には元々言語学や神話、宗教が積み重ねてきたものが取り込まれていますが、『ハリー・ポッター』にはその入口としての要素があるので、『指輪物語』と同じくキリスト教的要素が見られるのも当然なのです。ハリーとスネイプとの関係などは、物語の核心に触れる重要なものです。小説は1巻しか読んでいませんが、その映画以上の詳細な世界観の広がりは『指輪物語』にクエストやアドベンチャー的要素を強めたものをミックスしたものなので、映画よりもさらに面白いです。『指輪物語』のエンターテインメントとしての『ロード・オブ・ザ・リング』はともかく、『指輪物語』という小説自体は読むのに挫折する人も多いですが、『ハリー・ポッター』なら大人にも勿論読み応えのあるその哲学に多くの人が簡単に触れることが出来るでしょう。ハリーの成長と共に子供たちも歩んで行けると思います。
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