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データに基づいた科学

空間の概念は、19世紀の半ばでは既に確立されたものと思われていました。イマヌエル・カントの『純粋理性批判』により、空間は我々の心に付随して予め存在するものであり、これに沿って感覚印象が組織され、それは必然的にユークリッド空間となると思い込まれていました。ところが1854610日、ベルンハルト・リーマンは教授資格試験の講義で、「幾何学の基礎における仮説について」と題して非ユークリッド幾何学であるリーマン幾何学を提出したのです。非ユークリッド幾何学自体は1830年代にロバチェフスキーが提出したことがあり、ガウスは考案しながらも「頭の悪い連中からとやかく言われるのを恐れて」発表していませんでした。リーマン計量と言われる一般化された距離の概念を用いた多様体の概念を初めて取り入れたリーマン幾何学は、アインシュタインの一般相対性理論に応用され、現在では例えばGPSの基本技術になっていることは記憶に新しいことです。リーマン幾何学では曲率が0の場合に放物のユークリッド幾何学となり、正負の場合は楕円・双曲の幾何学となります。このことから、哲学的な思考のみで自然界の原理を見いだすのは、たとえカントのような人物でも大変難しいことが分かります。哲学的思考には誤謬がつきまとい、それを現実のデータに則して修正していかないといけないのです。

 

自然科学のうち物理学や化学の世界では豊富な実験データにより理論が高度に洗練されていますが、生物学の場合は対象の複雑性からまだまだ理論が荒っぽいままで、現実のデータに基づかない全くの形而上学の理論でも平気でまかり通ることもあります。しかし、それは勿論誤りを含むことが非常に多いのです。化学史を紐解いても、ニュートン化学というニュートン力学に基づく理論がラヴォアジエの定量性を持った精密な化学実験によって否定されていったことにより近代化学が誕生しました。化学の世界は重力ではなく電磁気力が主役なので、そうなったのは当然なのです。

 

「種」に関する混乱した議論を持ち出すまでもなく、私が研究していた大腸菌染色体の分配機構の研究においてもそういうことは起こります。私の師匠の実験データに基づく研究は最初の5年間ほどはいつもほとんど認められないのですが、10-15年のうちに他の研究者が焼き直しをする形でブレイクスルーを起こし、20年以上経てばそれが定説になってきました。理論を唱えるばかりで実験をしなかった人はその間にだんだん顧みられなくなるのです。生物学においても頭の中の恣意的な理論に基づくのではなく、データに基づいた議論が求められていることは今も昔も変わりありません。