錯視 日誌

グレン・グールドから思うこと

1.共感を呼ぶもの

 聴いていて幸せな気持ちになれる演奏。
 読んでいると安心できる本。
 グレン・グールドはそんな奇跡的なものを残してくれた人です。グレン・グールドは言わずと知れた20世紀のピアニストです。今日は学問を研究する者として,グールドに共感できるところを起点にして,私的な独白を書いてみようと思います。

【自分の空間を構築すること】

 
 グールドの演奏。それは,聴いているのがうれしくなる音楽です。もしまだグールドを聴いたことがないという方がおられましたら,たとえばベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の第一楽章のピアノの出だしの部分だけでも聞いてみてください。この最初のピアノのフレーズを聴いただけで,彼の世界に引き込まれてしまうでしょう。グールドが楽曲やピアノと一体になって,音以外の一切の外界の情報を断ち切り,安定し安心できる自分だけの居場所を作って,その中で音楽だけと向き合い,曲を構築しようとしていることが分かると思います。たとえ大勢の中にいたとしても,一人だけの自分の空間と時間が作れたとき,すばらしい仕事が産み出されることを示すものとなっています。

 グールドの言葉に次のようなものがあります。

芸術の正当性を証明するものは芸術が人びとの心のなかに燃え上がらせる内なる燃焼であって,それを浅薄に露出させておおっぴらに誇示することではない,と信ずるからである。芸術の目的は,神経を興奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく,むしろ,少しずつ,一生をかけて,わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである』(グールド[2])

 学問にも同じことが言えると思います。学者には,外に出て行って研究の成果を他の人にアピールするという行為がつきまとってきます。しかし,その一方,学者自身は,世の中とは隔離された自分だけの安定した世界を構築し,その中で新たな真理に出会ったときの驚きや,未解明の現象を論理的に説明できた瞬間に感じることのできる心地良さを味わえる状態を築いていくという側面もあります。「私の場合」という限定句付きで言うならば,精神的な静けさと隔絶された自分の世界が構築できなければ,自分を取り巻く空間の流れが秩序正しく感じられることもなく,真理は見えるようにはなりません。

 
【他人が何をしているかは重要ではない】

 『私が信じられないのは,わざわざこういう人がいることです。
  「この曲を弾いてみようと思います。なぜなら X と Y と Z が弾いているからです。ただし私なりの独自性を少々主張するために,ほとんど X の弾き方を踏襲しつつ,Y の弾き方の10パーセントを加味し,もしかしたら Z のテンポを採用するかもしれません。そうすれば三人の誰とも微妙に異なって思えるでしょうから,前にもそうやって弾いた人がいたよ,などと言われずに済みます。」
 基本的に,これは音楽を構造として捉える私の態度とはかなり大きく異なるプロセスです。
』(グールド [1, p.288])

 これは数理科学の分野でもよくあることです。以前,ある人と話していたとき,次のようなことを言ってきました。
 「最近,***に関係ある数学が流行ってきた。我々もああいうことをやらなければ。」
 なぜその人が「我々」と言ったのかは不可解ですが,それはともかく,やはりこれは私のスタイルとは大きく異なります。グールドは「音楽を構造として捉える」と言っていますが,私も理論体系を作ろうとするとき,科学全体の構造の中でものごとを考えます。だから,重要なことは科学,あるいは学問そのものであって,他の研究者が何をやっているか,何が流行っているかではありません。
 もちろん研究スタイルにはいろいろあって然るべきなので,誰かが 「他の人がやっている」 とか 「流行っている」 という動機から研究することを批判するつもりも,否定する気持ちもありません。あえて言うならば,グールド同様,それは私のやり方ではないということです。

【なぜグールドの演奏に共感できるのか】
 グールドの演奏に共感できるのは,彼の演奏からは,既知の楽曲が何となく鳴っているのではなく,彼が考え,音楽を構築していく過程を感じ取れるからです。たとえば,シベリウスのソナチネ第2番にしても,かの伝説的なバッハの「ゴルトベルク変奏曲」にしても,またベートーヴェンの「テンペスト」も,その演奏が始まった瞬間から,彼が構築していくものをわくわくしながら見ることができます。多分,それは他人が考えたことや大多数の意見に反しないように常識の二番煎じをしているのではなく,最初から自分の頭で考えたことを積み上げているからだと思います。彼の演奏は,学者が自分の理論を最初からこつこつと組み立てていくことに似ています。
 ところで,音楽でなくともこういうタイプの仕事からは,やはり同じ種類の共感を得ることができます。たとえば私の場合,カントの『純粋理性批判』がそれにあたります。この本を中学の頃からずっと読み続けているのは,カントが自ら考え抜いた議論を一個一個積み重ねていく過程を体験することにより,胸が苦しくなるほど心を沸き上がらせる感覚が得られ,それがうれしいからとも言えます。



2.隔絶と独創性

【自分の方法でなければ学べない人もいる】


 『諸先生方に最大の敬意を払いつつも,本当に大切な問題 - ここでは純粋に音楽的な問題を指していますが - を解決するには自分自身に頼ることを学ばなければいけないし,物事を自分で決定することを学ばなければいけないのだ』(グールド [1, p.39])

 この発言については共感以上のものを感じます。というのも,私にとってはそうせざるをえないことだからです。
 
 少し個人的なことを書きたいと思います。私はどの分野のことも,自分自身だけを頼りにした独学でないと,うまく準備が進められません。よく人から
  「数学以外の,脳科学や視覚科学,知覚心理学,画像処理,アートに関する部分は,どなたか専門家といっしょにやっているのですか」
と聞かれます。私の場合,専門外の分野でも,自分で本や資料をたくさん集めてきては調べて,一からその分野の話を独自に組み立て直していく作業をします。
 必要なことは頭の中に,多数の分野の建造物を自分に合った形に築くことです。そうすると,一見別々のものが自然に融合していきます。これは隔絶された世界の中でしか(私には)できません。ときどき
 「いろいろな人に自分のアイデアを話して,みんなで研究を進めた方がより大きく発展するから,そうした方が良い」
と言われることがあります。しかし,この段階では自分の世界を作って,その中にアイソレートしなければなりません。
 ところが,最近は孤立して理論体系を一から作り上げようとしている人には,流行に反するためか,「彼には協調性がない」 とか 「彼は変わっている(今風に言えばエキセントリック)」 などのレッテルを負の意味を込めて貼りつけることがあります。これに対する弁明をするならば,独創性は協調性と共存できないこともあるのです。
 人とのコミュニケーションをとるのは,私の場合,頭の中に新しい理論体系を作った後の段階になります。
 
【理論構築には厳しい自己審判能力が必要】
 
 グールドは次のように述べています。

 『お互いの演奏を聴くのをやめなさい。とにかく何よりもまず,特定の楽譜あるいは一揃いの楽譜を決めて,自分がこうしたいと考えているものを達成しようと努力したらいい。(中略)けれども自分の考えがまとまらないうちは決して聴いてはいけないし,信奉するべき解釈上の伝統とおぼしきものに基づいて考えをまとめてもいけない』(グールド [1, p.34])
 
 自分で組み立てた新しい理論の体系を作っておけば,伝統的な理論の何を残し,何を捨てて置き換えるかが判断できます。また,自分の理論を発展させつつ,実用に向けた新技術を産み出すことも自然にできるようになります。
 
 かつてデカルトは方法序説の中で次のように書いています。
 
 『他人の作ったものばかりを利用して,それに細工を加えることによって非常に完成されたものを作り出すのは困難であることがよくわかるだろう』(デカルト[3]))

 ただし,独自に学び,研究を進める方法をとるためには,何でも理解できるようになる必要,つまり多かれ少なかれ renaissance man /woman にならざるをえません。しかもかなり厳しい論理的な自己審判能力が必要です。そうでなければ,単なる非論理的な独断であっても,それに気がつかなくなってしまいます。独創性と独りよがりは危ういことに紙一重の違いです。


引用文献
[1] ジョン・P. L. ロバーツ編(宮澤淳一訳)『グレン・グールド発言集』(みすず書房).
[2] ティム・ペイジ編(野水瑞穂訳)『グレン・グールド 著作集2』(みすず書房).
[3] デカルト(小場瀬卓三訳)『方法序説』(河出書房).


他の書評は『私の名著発掘』へどうぞ

------------------------------------------------------------------