錯視 日誌

本物の絵でないとわからない光の表現 - ルノワール展 国立新美術館

ルノワールの絵はコピーとかポスターをいろいろ目にしてきましたが、私自身はあまり好きになれませんでした。絵の周りに重苦しい焦げ茶の空気が感じられ、重圧感があり、胃のあたりに不快感を覚えるような気がしてしまうのです。というわけで、本物のルノワールを知りたいと思い、昨日の夜、国立新美術館で開かれているルノワール展に行ってみました。
 まず、ひと言。実際の絵を見ると、私のルノワールに対するかんばしくない印象は完全に払拭されました。絵の周りのあの焦げ茶の空気も重圧もありませんでした。それどころか実物を見てわかったのですが、作品に見られる陽の反射光の表現は、人がイメージとして持つ陽光を見事に描写していて、なぜルノワールに人気があるのかその一端がわかったような気がしました。

 たとえば『ぶらんこ』などはやや遠くから眺めると、若い女性をつつむ木々の隙間からの光が脳の中の「木漏れ日」の概念とぴったり合致、あるいはそれ以上のものを呼び起こしてくれます。美術展ではルノワールの絵を見ながら進んでいくと、急にこの絵が正面に現れるように展示されていますが、それはちょうど下を向きながら森の中を散歩していて、人の気配にふと面を上げてみるとこの光景が広がっているかのような効果をもち、一段と臨場感を感じることができます。しかも眼前に現れるのは、現実の世界の光のすばらしさが強調された理想の色彩の世界です。
 それから『ピアノをひく少女達』。部屋の中の空気が柔らかく、明るく、現実ではなく絵であるのにもかかわらず、その絵の中に入ってしまって、真綿に包まれながら少女のピアノをひく姿を眺めているような錯覚におそわれます。色は複雑に絡み合っていて言葉で表現できませんが、色に対する一次近似的な表現をするならば、左から右にオレンジ、ピンク、金、白、薄紅、黄緑、黄、白、青、赤茶がならび、特に左にあるベッドに繋がる壁のオレンジ、立っている方の少女の袖のピンク、ピアノを弾いている方の少女のドレスの白と腰のリボンのブルー、長い金髪とやや紅潮した頬、そして二人のふっくらとした腕の肌色、それに彼女らの後ろにあるカーテンの黄色と緑が、絵の印象を決定づけているように見えます。構図、色合い、全体の雰囲気、ルノワール展の絵の中でも、特に非の打ち所のない傑作のように思えます。
 このほかでは、『イギリス種の梨の木』が面白い作品でした。これは、近くで見ると、斜め下とそれよりやや少し上の部分が何か黒っぽくぼんやりと塗りつぶされているようで、ここだけなぜいい加減に描いたのだろうと疑問に思えるほどでした・・・。しかし、かなり離れて絵を見ると、驚きを禁じ得ません。まるで別の絵に変貌します。暗い塗りつぶしたかのような領域は大きな梨の木の陰として明確に見ることができるようになります。もしかすると、ルノワールが描いた場所から視た木の大きさになる位置で眺めるように設計された絵なのかもしれません。

 どの画家の絵についても言えることでしょうが、とりわけ印象派の絵の光の表現は現物でないと全くわからないように思えます。これは何度も経験してきたことで、ルノワールに限ったことではありませんが、しかし美術展に出かけるたびに思い知らされることであります。

2016/5/14 新井仁之