(再掲)「哲学を学ぶなら岩波文庫を全部読め」を信じてはいけない理由
(2018年に「知の見取り図」というwebサイトからインタビューを受けて公開された(少し反響もあった)ものなのだけど、どうも本家のサーバーがずっと落ちているようなのでこちらに転載することにしました。インタビューの文脈としては「哲学科の学生は岩波文庫を全部読め」といった趣旨のことを言っている先生がいたので私は全く反対ですという意見をtwitterに書いたら多少バズってしまってそれで依頼が来たのだと思う。インタビュアーの方も政治哲学の知見をかなり持っている方で楽しくお話しできました。)
以下、本文
小難しい本を何冊も読むことが哲学を始める最初の一歩として相応しいわけではない。どんな順番でどんな本を読んだら良いのか、それらを推薦する理由は何か。慶應大学で倫理学を教える長門さんからお話を伺った。
目次 [hide]
1 自己紹介とこれまでの経緯
2 哲学や倫理学にまつわる偏見
3 長門さんの研究内容
4 本棚の紹介
5 読者の方へのメッセージ
自己紹介とこれまでの経緯
―――まずは長門さんに簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。
慶應大学博士課程を単位取得退学後、倫理学を研究しながら、同大学の非常勤講師などを務めています。特に「幸福」と「人生の意味」について研究しています。普段は学部生、特に教養課程の学生向けに授業を行っていることもあり、知の見取り図の活動理念には共感しています。本日はよろしくお願いします。
―――どういった経緯で現在の専門にたどり着いたのでしょうか。
子供の頃から日本の近代化の歴史やその精神性に関心があり、慶應大学文学部に進学しました。同大学文学部の1年目は教養課程で、その後専門に移る仕組みになっています。
1年目に履修した授業で「恋愛論の歴史」ということで、様々な古典を読む授業がありました。古典文学から口説き方を学んでみたり、中世の宮廷風風恋愛を覗いてみたりといった授業ですね。その中でプラトンの『饗宴』に出会ってしまったんです。
名前は知っていたものの、プラトンを読むのは初めてでした。レジュメを作るために図書館に行ってみると、プラトンに関しては研究書が豊富にあって、それらと照らし合わせながら自分の解釈を検討していく作業がとても楽しかったんですね。
二次文献が多く、また理論的精緻さ、精密さがあること、研究の方法論があるということが気に入って倫理学/哲学の世界に飛び込んでいくことになりました。
哲学や倫理学にまつわる偏見
―――哲学や倫理学は、世間でイメージされているものと実際の研究にかなりの開きがありますよね。長門さんはこの誤解についてどのようにお考えですか。
高校の倫理の影響が大きいのだと思います。哲学の有名な一節、例えばコギト・エルゴ・スム、(我思う、ゆえに我あり)といった言葉をたくさん覚えて、その言葉の意味や背景にある世界観を説明するのが哲学だと思われているのかな。
そのイメージが全くもって間違っているというわけではないですが、この分野の面白さは十分に伝わっていないなとは感じますね。
――――長門さんの言葉で哲学という分野を整理すると、どのようになるでしょうか。
概念を明晰にするということが哲学の真髄だと考えています。とかくこんがらがっているものを、みんなで紐解いていく作業。ある結び目をほどいたら余計複雑になったりするのが厄介なところです。
複雑に絡み合った糸のどこがどうつながっているのかを理解して、一本ずつ慎重に紐解いていくということが大切。闇雲にほどくのもダメだけれど、覚悟を決めて自分の立場にコミットして開拓していく必要もある。繊細さと大胆さが必要な学問だと思います。
――――とりわけ専門分野である倫理学という意味でいうと、それは社会とどうつながっているでしょうか。
例えば倫理学で取り扱う幸福という概念は、厚生経済学や心理学などにも応用されることがあります。経済学や心理学で使う道具そのものを、より精密で扱いやすいものにするのが重要な仕事の一つです。
医療倫理や生命倫理、情報倫理などはわかりやすく社会に関わっていますよね。海外では生命倫理や情報倫理などの政府の委員会に哲学者が入るのは当然のことです。日本の審議会などではそういう人がいない現状は悔しく思っています。
安保法制について憲法学者がやっていたような動きって、生命倫理の分野でも海外ならあるのですが日本ではないんです。海外では倫理学者が様々な社会問題に積極的に意見を述べる事は当たり前です。ロボット、AIの倫理学、プライバシーの倫理学、ポルノグラフィーの扱いなどいま日本でも重要な政策問題として取り上げられていて、かつ倫理学の射程に入っているものはたくさんあります。
長門さんの研究内容
――――これまで哲学や倫理学の一般的なお話を伺いましたが、長門さんの研究についてもう少し詳しくお聞かせください。
私が研究しているのは「幸福」と「人生の意味」についてです。幸福というのは昔から議論され続けてきた事柄です。『饗宴』で提示されるような美的な幸福観もあれば、アリストテレスのニコマコス倫理学で言われるような望ましい精神の状態とその発現といった幸福観というのもあります。
私がいま一番興味をもっているものはwell-being、あるいは福利と言われるものです。その人にとって良いこと、良い状態とはどういうことなのか。そこから出発して幸福というものの概念分析をします。この概念分析こそが倫理学の特徴です。
幸福だけでなく、私は人生の意味(meaning of life)にも関心があります。この分野は先行研究が極めて少ないのが現状です。幸福に還元できない人生の意味とは何か、これはこれまで考えられてこなかったトピックです。「不幸だったけど、この人生には意味があった」ということだって例えばあり得ると思うのです。
このペンは祖父からもらったものだから、私にとって「意味」がある、というときの「意味」に近い、重要さのような概念が人生の意味を考える上で参考になります。幸福とは「○○にとって良い」という文脈を持つのと比較すると、やはり異なる文脈があるように思います。
人間には他の動物にはない知的な能力(理性)があるのだからそれを伸ばすのが人生の意味なのだという考え方もありますが、私にはよくわかりません。それが人生の意味だとは到底納得することが出来ませんから。私はこの問いに今後も向き合っていくつもりです。
本棚の紹介
―――今回選書頂いた本棚「哲学・倫理学の輪郭を(ざっくり)つかむための読書ガイド:最初の5冊編」について、そのコンセプトや書籍の紹介を頂けますでしょうか。
選書の姿勢として、ビッグネームが書いた古典的な著作を入れず、最近のものを多めに紹介しました。特に割と新しくて日本人が書いた入門書を入れてあります。
「哲学の問題群―もういちど考えてみること」と「倫理学の話」は、人の名前時系列での紹介ではなく、多くの哲学者が悩んできた問題を中心とした本。入門者にとってはわかりやすく読んでいて飽きないのでオススメです。「人間とその生」「私と他者」「自由と行為」「知識と言語」「存在と世界」「善悪と価値」「社会と人間」「苦悩と幸福」など、哲学や倫理学に関心のある人なら必ず一度は考えたことのあるテーマについて掘り下げられています。
「哲学の道具箱」については「倫理学の道具箱」という本もあるのでセットで読んでいただきたいのですが、哲学や倫理学の領域で使い方が決まっている用語を実際にうまく使えるようにするための本です。この種のボキャブラリーが増えれば読める本が増えます。こういう用語集を丁寧に読むのはとても大事。用語集と言っても哲学辞典みたいなものは初学者の役に立つか怪しいところがありますが、道具箱シリーズは用語に関する読み物のようなところがあり、入門にオススメです。
「メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える」は去年最大のヒット作です。倫理学に関心のある多くの人は、実はこの「メタ倫理学」に関心があるのではないかと私は考えています。つまり、ある問題に対して「これが正しい」という主張に関心があるのではなくて、「なぜそれが正しいと言えるのか」を考えたい人向けの本になります。入門者向けの本にもかかわらず妥協がなく、最新の研究を反映している、素晴らしい一冊です。
「哲学思考トレーニング 」方法論に関連した本になります。問題を丁寧に見るということそのもののやり方が書かれています。哲学者というと闇雲に常識を疑うようなイメージがあるかもしれませんが、よい疑い方とよくない疑い方があります。そのための方法論、エッセンスが詰まっている本になります。
――――哲学や倫理学の本棚に古典が1冊も入っていないというのは、なんだか哲学のイメージと違って驚く人も多いように思います。
誤解しないで頂きたいのですが、古典を読むことはもちろん重要です。楽しいし有益だし哲学の重要な作業であるのは間違いありません。しかし、初学者がそういう本を片っ端から読破するべきだというのは教育的な態度とは言えません。とにかく古典を読んでればいい、といった態度には罠があります。
哲学の古典は何度読んでも読みつくせないような豊かなものばかりです。その意味では終わりがない。一方で、入門書に書いてあるようなことはすべて習熟することが求められます。そしてそれが身についてるかは客観的にチェックすることができます。
受験勉強だってちゃんと問題を説いて答えを確認して、という作業を通して身につけていきますよね。でも古典を読んでいるだけではそれが出来ません。今回の本棚で紹介したような書籍を読んで、それを整理しながら自分の理解を答え合わせしていくことが基本的な概念を理解するための一番の近道だと思います。
もちろん、入門書を読みながらミルやカントといった偉大な哲学者の足跡を追うことはとても楽しいものです。私は学部1-2年生の授業を受け持つことが多いのですが、彼らには夏休みなど時間のある時に古典を読むことを大いに奨励しています。
読者の方へのメッセージ
――――哲学や倫理学について学びたいと思っている方は多いですが、何かメッセージを頂けますか。
一番大事なことは、絡んでいる糸を解きほぐすということ。そして自分がどんな問題に向き合っているかを常に意識しないといけません。全部を一気にほどくような快刀乱麻というのは有り得ません。そういう、凄く細かくて地道な作業をするのが哲学をするということです。
一方では繊細であるべきで、一方では大胆である必要がある。そういう塩梅みたいなものも学べるような入門書を選んだつもりです。そのバランスこそが醍醐味になっています。
外国の有名な哲学者が書いたようなものにも知的な喜びがあまり無いものがある。そういうのは後回しで構わない。哲学すること、知的な喜びが感じられるものを味わえるような本を是非読んでみてください。
(追記:2020/1/15)
なんでそもそも「岩波文庫を全部読め」系の教育に反発するかというと、「そんなものは金もらってやる仕事としての教育の名に値しない」というだけでなく、どうでもいいタイプの反権威性を感じ取ったからだということに最近気づいた。私は根本的に権威主義者なのです。