研究ブログ

桑木厳翼「読書の種類」(1914年)

昔の雑誌記事を調べていたら、『読書世界』5巻1号(1914年10月発行)に掲載された哲学者・桑木厳翼(1874-1946)の「読書の種類」という一文を発見し、それが普段自分が卒論やレポートの書き方指導で、学生に手を変え品を変え試行錯誤しながら言いたいことを、あまりにも的確に表現していたので、感銘を受けて、全文書き起こしてみた。

卒論で本をたくさん読まねばならないというとき、そこには「研究資料として」読むことと、修養のために読むこととの間にはっきりした区別があって、本を読むのが苦手な人ほど、まずその点を踏まえることが重要に思える。このような考えはピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』に出て来る司書の問題意識にも通じるところが少しあるかもしれない。

 

ちなみに1914年という年は彼が京大から東大に移った年でもあり、「徒らに多読を排斥する者」が誰なのか色々検討してみたい思いにも駆られるが、ここでは措いておく。

※翻刻に当たっては原文の旧字は常用漢字に改めるなどの改変を加えてある。


読書の種類

文学博士 桑木厳翼

 

書物の種類

 一面から見れば読書は学者の糧であつて、その必要なことは今更らしく説くを須ひない所であるが、唯、その書物の種類や利用法やに至つては、場合によつては必らずしも一定して居ない。例へば、歴史を研究する人にとつては、書籍を離れるといふことは絶対に不可能であると言つても宜い程であるが、しかし一方また、其の書籍の中には、所謂『書物』として待遇することの出来ないものもある。即ち記録とか、古文書とか言ふものは歴史家に欠くべからざるものであるけれども、これを普通の所謂『書物』と同一視することが出来るか否かは、頗る疑問としなければならぬ。

研究資料

 普通、人は、書物と謂ふものは、人の智識とかまたは性格とかの上に、多大の教訓を与へるものであると思つて居る。随つて論語や、バイブルやは、常に斯ういふ意味に解釈せられ、修養の助けとせられて居るやうであるが、併し、同じことでも、史料のやうなものになると、左様ではない。単に史料のみでなく、如何なる書物でも、一旦これを研究の資料として取り扱ふ場合には、自ら其処に異つた方面が展けて来ると謂つて宜い。例へば、論語のやうな書物にしたところで、これを文献学的に一種の研究資料とした場合には、到底これを聖賢の書として味ふことは出来ないので、千万の昌言も悉く是一種の材料に過ぎないのである。また、文学書にしても、唯、その由来とか、その材料とか、またはその影響とかを研究して已む場合には、これ亦同じく一種の研究資料であつて、一個の文芸的作品として是を鑑賞すると言ふ心持は立ちどころに消滅して了ふ訳である。斯うなつて来ると、学者研究家の読書の能事は即ち材料の集輯と、整理とに尽きて、所謂修養とは風馬牛相関せざることになる。而して学者、研究家の読書は、書物を材料扱かひにするのであつて、これによつて品性を高め、修養に資しやうとする一般の読書家とは、自から這裡に於ける至上の目的を異にして居る。だから、極端に言ふ時は、書物自身を尊重する場合には、寧ろ学者とか、研究家とかの態度を捨てる方が善いと謂ふべきであらう。

学者の読書

 併しながら、上に述べた所は、所謂研究の中道にあるものゝ事であつて、その堂奥を極めた人は必らずしも左様では無いと思ふ。即ち、学者が終にその研究を完成して、その蘊奥に達した場合には、彼はその書物によつて深甚無涯の教訓を感得することも出来やうし、また、その書物の裡に絶対無限の興趣を覚えることも出来やう。尠くとも吾々は、さう期待して宜しいのである。

 要するに学問研究のために読書する場合には、書物は単に一種の材料たるに留まり、書物が書物自身としての価値を顕はすことが出来ないこともあると思ふ。既に一冊の、または数冊の書籍を絶大の権威として、これに追随し、これを信仰するのでは無いのであるから、書籍自身の価値も自然限局せられて来るし、また多数の書籍――すなわち材料に――就いて、比検考核するのであるから、従つて其の書冊の数も非常に多きを要する。

 単に性格の上に修養に資するためとか、または純主観的に感興――美的反響――を得るためとかの目的で読書するならば、書物は一二冊でも足りるだらうし、時としては全然書籍を離れても差支ないけれども、学者、考証家となれば、また趣が異つて来る。元来、学者が単に考証祖述にのみ没頭して、他を顧みないといふのは、勿論偏頗なことであるけれど、しかし全然書物を離れて一個の専門学者とならうとするのも不可能である。

誤れる両極端

 若し、学者が単に思想家として、または単に創作家として立つ場合には、勿論、自分の手当次第に気の向いた書籍を読めば宜いこともあらう。併し、これは単に思想家として、または単に創作家として立つ場合のことである。苟くも或事柄の専門学者として立つ以上、唯、手当次第の書籍を読んだばかりでは、決して其の責を全うすることは出来ないと思ふ。

 また若し学者が自己の思想の材料を得るために唯、他人の著書のみを頼りとして、毫も独創の見を出すことを得ないとすれば、彼は即ち迂儒であつて、決して学者たるの使命を尽したものとは謂へないのであるが、しかし一方、独断一点張で、すこしも研究家として必要な書籍を読むことをしないといふのも、謬つて居ると謂はねばならぬ。蓋し、これらは誤れる両極端である。

 同じく文学の事に与はる人にしても、文学者と文学研究家との間には、自から上に述べたやうな読書上の態度の相違がある。

 世の中には書物其ものが研究の材料たるのみならず、又其対象たることもあるのを忘れて、徒らに多読を排斥する者がある。是等の為には知れ切つたことながら、読書に種々の別があることを述べる必要があるのであらう。

(『読書世界』第5巻第1号、1914年10月発行)