研究ブログ

学術論文における「周知のとおり」ということば

 論文を読んでいて「周知のとおり」という表現が出てくると、少し身構える。その次に書いてあるのがもし自分の知らないことだったら、気まずくなってしまうからだ。

 ところが、その「周知のとおり」とされていることをオレは知らない――という場面は、実際に結構あるのだ。

 そのことを正当化しようというのではないが、この「周知のとおり」は、広く使う人と狭く使う人がいるのだと思う。

 私は広く使うタイプだ。というのは、例えば私が日本語学(=学問領域)の中の文体史(=研究分野)について論文を書き、そこに「周知のとおり」という表現を用いる時、念頭に置いているのは日本語史つまり学問領域の方である。日本語学について基礎的な知識がある人には「周知のとおり」、という意味で使う。これがつまり「広く使う」という意味である。

 もっと広く使う、つまり日本語学の知識がゼロでも学術論文を読もうとするくらいの知的レベルの人には「周知のとおり」、という意味で使うこともある。

 

 他方、狭く使う人は(学問領域ではなく)研究分野の方を念頭に置いているのだと思う。つまり上の例で言えば、(日本語学に留まらず)文体史についてまで基礎的な知識がある人には「周知のとおり」、という意味で使っているらしい。

 中には、もっと狭く使う人もいるかも知れない。例えば日本語学(学問領域)の中の文体史(研究分野)の中の変体漢文(トピック)についての論文の中で、その学問領域に留まらずその研究分野にも留まらずそのトピックについてまで基礎的な(専門的な?)知識がある人には「周知のとおり」、と使うケースである。

 

 これを逆の方向から見ると、「周知のとおり」を広く使うか狭く使うかは、書き手が自分の論文の読者層をどう想定しているかに基づいている、と考えられる。「周知のとおり」を広く使う人は、自分の論文が自分の研究分野以外の人にも読まれることを想定(ないし、希望)している人であり、狭く使う人は、そのように想定も希望もしていない人であるのだろう。

 

 私は、自分の論文がなるべく広い読者に届くことを望んでいる。なので、自分の論文に関心を持ってくれた読者が、いわば「逃げて」しまわないように、この研究分野について特に知識がない人が読んでも分かるような書き方で、論文を書こうとしている。

 とは言え、あらゆる人が読んで分かるように書こうと思うと際限なく説明が必要になるし、またそのようにして書かれた文章は学術雑誌に投稿するには不向きでもある。

 こうした事情に左右されて、私の文章の中の「周知のとおり」の広さが決定されるというわけだ。

 

 ついでに言うと、私の論文の中での「周知のとおり」の幅は、以前よりも広くなっているようだ。かつて書いた論文を読み返すと、今の自分なら使わないだろうなというところ(今の自分には、「周知」と言うには専門的すぎると感じられるところ)でこの表現を使っていることがある。つまり、上記の「広い読者に届くことを望む」意識が、以前よりも今の方が強くなっているということなのだろう。

 

 自分の文章がなるべく多くの読者に届くように書き方を工夫するというのは、いつでも大切なことだと私は考えている。しかし、それは文章の唯一の書き方ではない。想定読者を狭めることで上手く実る文章というのも(おそらく)あるだろう。そしてそうした場合には、狭く使う「周知の通り」が上手く働くだろう。

 「周知のとおり」を使うことで、著者は、この文章の読者層として自らが措定する「幅」を暗に示唆することになる。読者はこれを参考にして、自分がこの文章の「お客」でないことを察して早々に立ち去ることができる。もっとも、その示唆を見て見ぬ振りして踏ん張る、あきらめの悪い人もいるけれども。