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リウトプラント『使節記』邦訳本(知泉書館、2019)覚書

 本書が労作であることは間違いない。とくに本文中に引用された古典作品や聖書の該当箇所に関する解説は詳細で非常に有用である。長年の近眼のおかげか未だに老眼鏡のお世話にならずに済んでいるが、註の字の小ささにはいささか難渋したことは告白しておく。それはともかく、全体を通読してみると、幾つか気になった箇所もあることは事実である。以下、備忘録代わりに箇条書きで提示する。行頭の括弧付の数字は、該当の節数である。

(7)本文17頁6行目から7行目にかけて、「そしてこれ故に、彼(ロマノス)は我々の王、くだんのフゴの庶子である娘を、自分の同名の甥(のちのロマノス2世)と結婚によって結び付けたわけです」という文がある。ロマノス2世は、ロマノス1世の娘ヘレナと皇帝コンスタンティノス7世の間に生まれた息子だから正確に言えば、ロマノス1世の孫に当たる。翻訳書では、付論I(159頁)においてこの箇所が引用された際にも「甥」と表記されており、こうした表記が原著者のリウトプラントの事実誤認に基づくものであれば、ことさらに些細な瑕疵を言い立てるのも詮無いことなので、そのままスルーすべきかと評者も思っていた。ところが、同箇所が再度引用された付論II(188頁)では、正しく「孫」とされているのである。そこで、訳者が底本として用いたと思われるLiudprand of Cremona, Relatio de Legatione Constantinoplitana, Edited and translated with Introduction and Commentary by Brian Scott, London, 1993(訳者はそう明言していないが、本校訂版の編者B. スコットのコメンタリーを参照した箇所が訳書の注釈に多く見られることからそのように推察した)で該当箇所を参照してみると、英訳(同書30頁)に以下のように訳出されているのを見出した。This was why Romanos joined in wedlock his own nephew and namesake with the illegitimate daughter of our king, the aforesaid Hugh. ちなみに同じスコットによる校訂版のラテン語原文(同3頁)は以下の通り。Et haec causa fuit, quod nepoti suo et aequivoco regis nostril eiusdem Hugonis spuriam coniugio copulavit. 英訳で「甥」と訳されているnepoti(主格nepos)は、手元のラテン語辞書(Charlton T. Lewis, An Elementary Latin Dictionary)を見ると、最初に出てくる訳語は “a grandson, child’s son”だから、リウトプラントは2人のロマノスの親族関係を正確に理解していたことが分かる。他方、邦訳でこの箇所を「甥」と訳出しているのは、上記スコットの誤訳を踏襲してしまったことが原因であると見てよかろう。

(15)註66(31頁)に「ポルフュロゲニータ」が帝国外の異民族に嫁ぐ事例は、確かに見当たらない」とあるが、この点はもう少し議論が必要であろう。本文中でリウトプラントはビザンツの高官から、緋産室生まれの皇女(「ポルフュロゲニータ」)が、異民族と交わるということは聞いたことがない、と言われているが、実際には、コンスタンティノス7世の異母姉アンナ(皇帝レオン6世の皇女)がプロヴァンス王(後にイタリア王、皇帝)ルイ3世に嫁いでいた可能性があるからである(ただし、この婚姻が成立したかどうかについては研究者間で論争がある。詳しくは、拙著『夢想のなかのビザンティウム―中世西欧の「他者」認識―』、昭和堂、2009年、36―37頁、および註43を参照)。
 他方、先のビザンツ高官の発言にもかかわらず、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスは『帝国統治論』のなかで、異民族のうちでフランク人だけは特例的にビザンツ皇帝家との縁組みを許されている、と語っているのは有名である(Constantinus Porphyrogenitus, De administrando imperio, eds., Gy. Moravcsik and R. J. H. Jenkins, Washington D. C., 1967, pp.70-73. 前掲拙著14頁も参照)。この発言は、皇女アンナのプロヴァンス王への降嫁を許した父レオン6世を免罪することを目的に為されたのだと一般的には説明されている。このあたりの話は、訳者が作成した参考文献リストには欠落しているが、R. J. Macrides, “Dynastic Marriages and Political Kinship”, in J. Shepard and S. Franklin ed., Byzantine Diplomacy, Aldershot, 1992, pp.263-280でかなり詳しく論じられている。
   なお、後から気付いたのだが、本訳書の系図1(231頁)には、ビザンツ皇帝レオン6世の娘アンナ(902没)が(プロヴァンスの)ルードヴィヒ3世と婚姻関係にあることが表示されている。そうであれば、この縁組みをどう解釈すべきか、本文中や注釈の中で触れて欲しいところである。

(19)註79(37頁)において、ブルガリア使節が宴席の場で自分より上座に就いているのを目にしたリウトプラントがいたく憤慨した理由について、「洗礼志願者」のような出で立ちのブルガリア人が、司教である自分より上位にいるのに苛立ったのだ、と記され、あたかも教会位階制度上の秩序が無視されていることが彼の憤慨の原因であるかのように読めてしまうが、こうした書き方は読者をミスリードするものであろう。リウトプラントはブルガリア使節の装束が「洗礼志願者」のようだった、と語っているだけであり、彼らが洗礼前の修行者だと思い込んでいたとはどこにも書かれてはいない。その後の本文の展開から分かるように、問題の本質は、ドイツ皇帝の名代であるリウトプラントが、自分より格下の存在と思っていた、見るからに粗野そうなブルガリア使節の下位に置かれたことであり、それ以上でも以下でもあるまい。

(40)註151(71頁)の「リウトプランド」は、自らも所属するゴート人が、広義のゲルマン族に含まれ…」という表記は、上手の手から水が漏れた例と言えようか。リウトプラントがランゴバルド系であることは、訳者自身、解題(xv頁)や付論I(134頁)で語っていることなのだが。

*本邦訳書全体を通じて強く感じるのは、注釈中で参照される文献が総じて古いことである。とくに今日ではなかなか入手も困難と思われる19世紀や20世紀初頭の文献が次々と提示されているところを見ると、これは訳者のある種の「美学」と見なすべきなのかもしれない。そうした印象がどれだけ事実に裏付けられているのか確認するため、巻末に付された参考文献リストから刊行年を調べてみると、「研究文献(欧文)」という項目に掲げられた135の文献(そのうち2つは刊行年の記載なし。F. Dölger, Regestenは第1巻の刊行が1924年、第2巻(改訂増補版)のそれが1995年とあるので2つとして計算。それゆえ母数は134。ちなみにRegesten第1巻の前半部(565-867)は2009年、後半部(867-1025)は2003年に改訂増補版が出ている)のうち、19世紀の文献が18 (全体の13.4 % )、20世紀前半(1901-1950)が26 (19.4%)となり、合わせて32.8%となり、参考文献のおよそ3分の1が70年以上前、そして10冊に1冊以上が120年以上前の文献によって占められていることが分かった。次いで、20世紀後半を10年刻みで数えてみると、1950年代: 5 (3,7%)、1960年代: 19 (14.2%)、1970年代: 22 (16,4%)、1980年代: 17 (12.7%)、1990年代: 22 (16,4%)となり、20世紀後半の50年間全体で63.4%になる。これに対して21世紀に刊行された書籍は 5 (3,7%)を数えるのみ(2010以降は2013刊行の文献が1種だけ)。このような結果になったのは、訳者「あとがき」(211頁)によれば、本邦訳書の原型を成したと思われる科学研究費補助金の研究成果報告書が完成したのが2004年のことというから、その後に刊行された文献については十分な目配りができなかったためかとも推察される。これはこれで問題がないわけではないが、評者がそれ以上に問題があるように感じるのは、訳者が、大昔の文献を「古典的名著」などと呼んで高く評価し、それらに大きく依拠していることに何の引け目を感じないどころか、むしろそうした態度を積極的に正当化しているようにすら見えることである。たとえば、本訳書96頁、註205で「コンスタンティノープルにおける絹織物業に関する古典的研究は、いまなおLopez, R. S., The Silk Industry in the Byzantine Empire, Speculum 20 (1945) p.1-46である」とか、あるいは同168頁、註44の「ニケフォロス・フォーカスに関する研究のスタンダードワークは、いまなおシュランベルジェの名著である。Schlumberger, Gustave, Un empereur byzantin au dixième siècle : Nicéphore Phocas, Paris, 1890 (2e éd., 1923)」といった言説がその典型であろう。もしも、こうした言説が最新の研究をフォローしていないことの免罪符として使われているのだとしたら、それは研究者としての識見を問われることになるのではなかろうか。
   ビザンツの絹織物産業にせよ、ニケフォロス2世フォ-カス帝の研究にせよ、上記文献の刊行以降も数々の参照すべき文献が刊行されているのはくどくど言う必要もあるまい。絹産業については、今日では、Anna Muthesius, Studies in Silk in Byzantium, London, 2004がまず参照されるべきであろうし、今回の訳書との関連では、同じAnna Muthesiusの “Silken Diplomacy” in Jonathan Shepard and Simon Franklin eds., Byzantine Diplomacy : Papers from the Twenty-fourth Spring Symposium of Byzantine Studies, Cambridge, March 1990, Aldershot, 1992, pp.237-248も必読であろう。ニケフォロス2世に関しては、Rosemary Morris(訳者も論文を2編だけ挙げている)の主著Monks and Laymen in Byzantium, 843-1118, Cambridge, 1995に加え、小アジア軍事貴族層に関するフランス学界の重要な貢献(Le traité sur la guérilla (De velitatione) de l'empereur Nicéphore Phocas (963-969), texte établi par Gilbert Dagron et Haralambie Mihăescu ; traduction et commentaire par G. Dagron ; appendice “Les Phocas” par J.-C. Cheynet, Paris, 1986; Jean-Claude Cheynet, The Byzantine Aristocracy and Its Military Function, Aldershot, 2006など。最近では、Luisa Andriollo, Constantinople et les provinces d'Asie mineure, IXe-XIe siècle : administration impériale, sociétés locales et rôle de l'aristocratie, Leuven,2017)を無視することはできない。さらに最近、ニケフォロス2世に関する5つの主要なテクストの原文と英訳を集めたDenis Sullivan, The Rise and Fall of Nikephoros II Phokas, Five Contemporary Texts in Annotated Translations, Leiden, 2018も刊行されている。『使節記』本文中でも言及のある、東方の対アラブ・イスラーム戦については、Georgios Theotokis, Byzantine Military Tactics in Syria and Mesopotamia in the 10th Century: A Comparative Study, Edinburgh, 2018 も参照されるべきだろう。
 訳者の恩師、故渡辺金一教授は、ビザンツ封建制論争にせよ、N.スヴォロノスがヴァティカン図書館で発見した「テーベの土地台帳」にせよ、はたまたH.-G. ベックのビザンツ国制史研究にせよ、そのときどきの学界でホットな議論が交わされていた最新のテーマに勇んで飛びつく「新しもの好き」の一面を有していたが、そうした渡辺教授が、今、その学問上の後継者であったはずの訳者の「学風」を目にしたら、いかなる感慨を抱いただろうか。いずれにせよ、こうした「学風」が後進の若手研究者に共有されることのないことを評者は願ってやまない。
 本訳書の註109(50頁)の記事から、評者は、訳者が近刊の『世界歴史体系(ママ。 正しくは「大系」であろう)イタリア史 I 』(山川出版社)において「ビザンツ帝国とイタリア」という部分を担当されていることを知った。今後、長く参照されるべき文献であるだけに、そこでの記述は、本訳書のなかで繰り返し参照されているJules Gay, L'Italie méridionale et l'Empire Byzantin : depuis l'avènement de basile Ier jusqu'a la prise de Bari par les Normands, 867-1071, Paris, 1904 やVera von Falkenhausen, Untersuchungen über die byzantinische Herrschaft in Süditalien vom 9. bis ins 11. Jahrhundert, Wiesbaden, 1967 に留まらず、 できれば最新の研究成果(Mladen Ančić, Jonathan Shepard and Trpimir Vedriš eds., Imperial Spheres and the Adriatic: Byzantium, the Carolingians and the Treaty of Aachen (812) , London, 2018; Daniëlle Slootjes and Mariëtte Verhoeven eds., Byzantium in Dialogue with the Mediterranean : History and Heritage, Leiden, 2019など)を、それが無理ならせめて、Michael McCormick, Origins of the European Economy: Communications and Commerce, A.D. 300-900, Cambridge, 2001やSalvatore Cosentino, Storia dell’ Italia bizantina (VI-XI secolo). Da Giustiniano ai Normanni, Bologna, 2008 くらいは十分に踏まえた上での議論が展開されていることを切に願いたい。

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小林功『生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像』を読む

  著者の小林功氏より送っていただいた『生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像』(ミネルヴァ書房2020年1月)を読了した。小林氏との付き合いは彼が京都大の学部生の頃に遡るから、かれこれ30年にも及ぶことになる。ある種の戦友意識を共有する仲と言えようか。著者との仲を思うと、以下のような小文を公表して著者の不興を買うのは我ながら余計な仕儀に思えなくもない。さりとて率直に感じたことを黙ったままにしておくのも学問的に不誠実な態度のようにも思われるし、何より精神衛生上、よろしくない。要するに、ここでの行為は、イソップ寓話のミダス王の耳を目撃した床屋が穴を掘ってその中に叫んだのと同様の所業なのである。

 もとより以下に書き連ねた文章は、本書を一読後に幾つか気になった箇所を備忘録代わりに書きなぐった覚書に過ぎず、学術誌に掲載されるような精密な分析に基づいた書評の体を成すものではない。著者が参照している中世初頭の東地中海情勢に関する最新の研究文献の多くも評者は親しく接してはいないことも申し添えておかねばなるまい。それゆえ、本稿の眼目は、本書で語られた細々とした事実関係を著者と同じ土俵で精査することではなく、本書の議論展開の仕方や考察の妥当性を検証することに限定されることになるだろう。なお、以下での議論は本書を通読していることが前提となっているため、未読の人にはいささか不親切な体裁になっていることもご承知おき願いたい。

 本書において、とりわけ気になったポイントは以下の3点である。
①コンスタンス2世の西方遠征と皇帝の意図をいかに評価するのか。これについては、イタリア本土の作戦行動と北アフリカのそれを別個に考察する。②「シチリア艦隊=救世主」説(これは著者の用語ではなく評者が便宜的に命名)の妥当性。③ローマ帝国の「後継者」をめぐる議論。以下、順を追って論じていこう。

 最初に①について。著者の記述によれば、662年に大軍を率いてコンスタンティノープルを出立したコンスタンス2世は、同年秋、南イタリアのタレントゥムに上陸、南イタリアもおけるランゴバルド勢力の拠点ベネヴェントを攻囲したがそれが容易に陥落しないと見て取ると作戦を中断して北上を開始、ナポリを経由してローマに入ったのが663年6月であったという。ローマに12日間滞在した皇帝はその後、同じ道を引き返し、ナポリを経てシチリア島に渡り、シュラクサに入り、その地を座所とした。
 皇帝が相当な大軍を擁していたにもかかわらず、ベネヴェント攻囲戦を途中で切り上げ、イタリア北部のランゴバルド王国との直接対決の素振りも見せなかった点などから、著者は、今回の遠征の主たる目的はランゴバルド勢力との対決にはなく、イタリア本土における作戦行動は兵力の消耗を避け、比較的短期間で切り上げられたと語っている(120-123頁)。著者によれば、イタリア本土の作戦行動が短期間で切り上げられたのも、皇帝のローマ滞在が2週間弱に留まったのも、当初のプラン通りだったということになる。本当にそうなのだろうか。外交や戦争は基本的に利害関係を異にする相手と渡り合う行為だから自分の思い通りに進むとは限らない、というか、そうならない方が普通だろう。今回の例でいえば、ベネヴェントを攻めてみたものの思いのほか抵抗が頑強で手間取ったことなどがその例だろう。ユスティニアヌス時代の対東ゴート戦争が緒戦こそ大成功だったものの次第に泥沼化してイタリア全土が荒廃したことは周知の事実であり、ユスティニアヌス時代と比べて遙かに国力の乏しい当時のビザンツ帝国が同じことはできないのは自明のことだったから、皇帝が当初からランゴバルド勢力との全面対決に消極的であったことは十分に頷ける。とはいえ、そうした事実関係の推移が、当初からのプラン通りだったかどうかはまた別の話ではないだろうか。自戒を含めて思うのだが、事件を後代から俯瞰することのできる我々は、それぞれの出来事を合理的に意味づけようとして、あたかもそれらは当初から計画されていたシナリオに沿って整然と進められたかのように事の推移を整理し直してしまいがちなのではなかろうか。ここで言いたいことは、コンスタンス2世のイタリア本土における作戦行動が皇帝の思い描いた当初の計画通りに進んだのか、それとも、様々な局面で決断を迫られ、結果としてそのようなものに帰着したのか、いずれであったかは結局、明らかではなく、無理して前者の解釈を採らなくてもいいのではないか、ということである。なぜ、そのことが気になるかと言うと、前者の解釈を採ると、プランの作成者としての皇帝の英明さが強調され、場合によっては実際以上に彼の偶像化が進むおそれがあるからである。コンスタンス2世の慧眼ぶりを過度に強調するのは危険である。ただ、この件に関して、これ以上の議論は水掛け論に陥りかねないため、このくらいにして次の論点に移ることにしよう。
 イタリア本土から撤収した皇帝の一行はシチリア島東岸部に位置するシュラクサに拠点を定めた。シュラクサは、もともとシチリア属州の首府であり、島の東部に位置して東方からの連絡を取りやすい位置にあったから、シチリアにおける皇帝の座所としては最適の場であることは明らかであろう。また、地中海の地図を見れば一目で分かるように、シチリアは地中海のほぼ中央に位置し、イタリア半島と北アフリカの両方同時ににらみを利かせられる位置にあったから、著者が言うように、皇帝の真意が北アフリカであったなら、この地は前方作戦基地として理想的であったことも容易に理解できるところである。
 一方、すんなりと理解できないのは、その後に実施された北アフリカにおける作戦行動の顛末である。小林氏の記述によれば、皇帝は、ニケフォロスという名の部将を北アフリカに派遣したが、後者がアラブ軍の小部隊と交戦して敗北してすぐにシチリアに逃げ戻った後は何ら有効な手立てを講じることもなく、一見したところ、無為にシチリアで時を過ごしている。その後、皇帝は暗殺されたため、彼が抱いていたであろう遠大な計画は結局、達成されぬままに終わった。1万を超える大軍を擁しながら皇帝がシチリアから動こうとしなかった理由について、小林氏は北アフリカに陸上兵力を送り込むのに十分な艦隊がシチリアに存在しなかったことを想定している。皇帝軍をイタリアに送り届けたビザンツ艦隊はすでに東方に帰還しており、北アフリカ作戦に投入することはできなかったと氏は語る(そうかもしれないが、本当にそうかは明証に欠ける)。著者の見立てによれば、艦隊不在という問題を解決するために皇帝が採った方策は、帝国の西方領土一円に艦隊税を課し、得られた資金で艦隊を新造することだったようである(127-8頁)。ところが著者も言うように艦隊建設は容易ではなく、艦隊の完成を待たずに皇帝が暗殺されてしまったことが彼の北アフリカ作戦が不発に終わった理由だった、ということになる。
 もしも北アフリカ作戦のプランが小林氏の説くとおりであるとすれば、正直に言って、かなり杜撰な作戦と言わざるを得ない。先にも述べたように、小林氏の議論に従うとコンスタンス2世の遠征はほとんど皇帝の思い描いたシナリオの通りに進行していたような印象を受けるが、一行をイタリアに運んだ艦隊はすぐに東方に舞い戻り、北アフリカ作戦に投入する艦隊は現地調達する、というプランが当初からの計画であったとすれば、立案者の才覚にはかなり大きな疑問符がつくのではないだろうか。コンスタンス2世が引き連れていた陸上兵力が1万を超える大軍であったことは著者の小林氏も繰り返し指摘していることである。言うまでもないことだが、動員する兵力が大きければ大きいほど、補給その他のコストは膨大なものとなる。それゆえ、大軍を動かすのであれば、作戦期間は極力、短く抑えることが計画立案者の腕の見せ所であったであろう。その点で、大軍を集めておきながら1箇所に留め置いて、長期間、待機させる、という今回の皇帝の策が事実であれば、まったくもって愚かな策であると言うほかない。大軍が駐留すれば、たちまち周囲の食糧事情は逼迫してくるであろうし、そうでなくとも外来の軍勢が我が物顔で居座り、無為徒食を続けられたら、そのコストを背負わされた現地住民の不満や怨嗟の念が次第に高じて深刻な社会不安を醸成するであろうことは容易に想像されるところである。大軍を率いてやってきた皇帝が、これから金を集めて艦隊を建設するから、それができるまで待っていろ、その間の飲食、宿泊コストはおまえらが負担しろ、などとシュラクサの市民に告げたなら、彼らは唖然とし、次の瞬間には計画のアバウトぶりにあきれ果て、無能な皇帝に愛想を尽かしたのではなかろうか。そのような計画が当初からのものだったと考えるのと比べれば、皇帝一行をイタリアに送り届けた艦隊が何らかの事情で一足先に東方に帰還を余儀なくされ、輸送手段を失った皇帝がシチリアに足止めされることになった、と考える方がまだ蓋然性が高いように思われる。この場合、皇帝のシチリア逗留は当初から彼が望んで引き起こしたわけではなく、予想外の事態が出来した結果に過ぎないことになる。もしもそうであるならば、彼は、東方から再び艦隊が戻ってくるのと同時に作戦行動を再開させるつもりであった、と見るべきであろう。艦隊をゼロから建設し、艤装を施し、乗員に鍛練を積ませてからおもむろに遠征に乗り出す、といった悠長な仕事ぶりは、本来、臨戦態勢にあったはずの皇帝にはそぐわないように思えてならないのである。

 次に、皇帝の努力の結晶とも言うべきシチリア艦隊が次の時代にその力を存分に発揮する、というテーゼの検証に移ろう。先にも述べたように、小林氏の著書には艦隊税の徴収に関する記述は見られたが、どのような形で艦隊が建造されたのか、造船に必要な木材はどのようにして調達され、造船施設はどこでどのように整備されていたのか、船員はどのようにしてリクルートされたのか、といった具体的情報は一切、提示されてはいない。史料がないのだから当然である。それゆえ、極端なことを言えば、艦隊税の名目で集められた税が本当に艦隊建造に用いられたのかどうかすら、本当のことは分からない、というのが正直なところだろう。小林氏が指摘するように、7世紀後半から北アフリカにおいてアラブ軍が沿海ルートではなく内陸のそれを選ぶようになったことがビザンツ艦隊の脅威を回避するためであったという説が受け入れられるとしても、そうしたビザンツ艦隊の活発な活動をコンスタンス2世の艦隊税導入の成果と結びつけるのはやや性急なように思われる。当のビザンツ艦隊がどこでどのようにして整備されたかは依然として定かではないからである。もちろん、その艦隊が艦隊税を元手としてシチリアで建造された可能性はある。しかし、それはひとつの仮説にすぎず、所与の事実として受け入れるのは難しい。

 同様の問題は第7章「守勢から攻勢へ」の議論にも当てはまる。670年代以降、ビザンツ艦隊は勢いを盛り返し、672/73年のシュライオン沖の海戦の勝利に見られるように目覚ましい活躍を示すことになった。その最大の要因として、著者の小林氏は、コンスタンス2世がシチリアで建造に着手した「シチリア艦隊が(すべてではないだろうが)シチリアから東部地中海域に進出し、アラブとの戦いに投入された」(174頁)ためである、という極めて注目すべきテーゼを提示している。「シチリア艦隊=救世主」説と評者が呼ぶのはこれである。このテーゼは確かに魅力的ではあるが、それを真実と信じるためにはさらなる検証が必要なのではなかろうか。まず、史料的に確認できることを挙げてみよう。①シチリアに拠点を定めたコンスタンス2世は西方属州に艦隊税を課した(その税で本当に艦隊が建造されたかは厳密に言えば定かではないが、建造された、と仮定しておく)。②670年代以降、ビザンツ艦隊が攻勢に転じ、目覚ましい活躍を示すようになる。史料的に確認できるのはこの2点であり、相当な戦力を持ったシチリア艦隊が東方海域に回航されたとか、シュライオン沖の海戦でビザンツ艦隊の主力を占めたのがシチリアで建造された軍船だった、とかいった具体的な情報は管見の限りではないようである。では、どうしてビザンツ艦隊の主力を成したのがシチリアからの艦船だったと考える必要があるのか、というと、著者は「エーゲ海までアラブ艦隊が容易に進出できる状況において、東方領域で艦隊が増強されたとは考えにくい」(174頁)ことをその根拠として挙げている。正直に言うと、評者は、この推論は極めて根拠が脆弱であると思う。この時期のアラブ艦隊はエーゲ海の内部に安全な寄港地を確保してはいなかったから、この海域内で活動できる期間は限定されていたのは明白である。仮にアラブ艦隊がマルマラ海にまで侵入することがあったとしても、そうした脅威は一時的なものであり、造船事業を含む広範な経済活動を長期にわたって麻痺させるようなものではなかったのではなかろうか。9世紀前半から10世紀半ばまでクレタ島がアラブ人に占領されていた時代、エーゲ海の島嶼部やギリシア、小アジア西岸部はクレタのアラブ海賊の襲撃にさらされ、その頻度や密度は7世紀のアラブ艦隊の襲来の比ではなかったと思われるのだが、そうした状況においてもビザンツ帝国は強力な艦隊を建造し、数次にわたりクレタ再征服を目指した大規模な艦隊遠征を実行に移している。それができたのは9-10世紀にはテマ制を初めとした防衛システムがすでに整備されたいたからであり、7世紀にはそうした態勢にはなかった、という反論は成り立つまい。コンスタンス2世がシチリアでできたことが、同時代のコンスタンティノープルにいた皇帝にできなかったとは思えないからである。
 評者が「シチリア艦隊=救世主」説よりもむしろビザンツ艦隊が東方地域で再建されたとする見解(「艦隊自前再建」説とでも呼ぶべきか)に傾くもうひとつの理由は、シチリアから回航されてきた艦隊が不慣れな海域ですぐに完璧なパフォーマンスを発揮できたのかいささか疑問に思うからでもある。言うまでもなく軍船を動かしていたのは生身の人間である。あたかも図上演習のように地図の上で駒を瞬時に動かすように空間移動させるわけにはいかず、新天地で最初から最高の働きができるとは限らない。想像してみよう。西方属州の血税を結集し、同地の人々が必死の思いで軍船を建造し、乗員も集めて艦隊を編成したとき、彼らの多くは、自分の身の回りの人々や生まれ育った故郷がこれで守ることができると思ったのではなかろうか。だとしたら、中央政府のお偉方の一声で東方海域に回航することを命じられた艦隊乗組員の感情はどのようなものであっただろう。家族や親族と離れて見知らぬ海へと進むように命じられたとき、彼らに十分な士気を保たせることはできただろうか。さらに、いざ東方を目指して出撃したとしても、移動する艦隊には補給も休養も必要である。航路上に寄港地を定め、エーゲ海に入って作戦行動を開始すれば、各地の島嶼や沿海部の海軍基地に入港して補給を行い、船体のメインテナンスを受ける必要もあったであろう。木造船の寿命は短い。乗員も常に補充が必要だ。そのたびにまるで輸血を施すようにシチリアから新しい艦隊がやってきたのだろうか。むしろ、長期にわたって持続的にビザンツ艦隊の活動が持続されたこと自体、エーゲ海島嶼部と小アジア・バルカン沿岸地域にそれを支えることを可能にする基盤が存在していたと見るべきではないだろうか。そうであれば、この地域に造船能力だけが欠けていた、と推定するのは理屈に合わないことになる。乗員の供給源としても、多島海で漁労や沿海交易に勤しみ、ときには海賊に変貌して、エーゲ海を自分の庭のように知悉する島嶼部や小アジア西岸、ギリシアの海の男たちの存在を忘れてはなるまい。海と共に暮らした彼らの伝統は紀元前に遡り、途切れることなく現代にまで至っているのである。
 もちろん、以上の議論も史料上の裏書きを欠く以上、仮説の域を出ないことは小林氏の所論と変わるところはない。問題はどちらの議論の方が蓋然性が高いと思われるかにかかっている。評者としては、670年代以降にビザンツ艦隊が盛り返したことに関して、ことさらにコンスタンス2世の個人的な功績を顕彰する必要はないのではないか、という立場である。東方海域でのビザンツ軍の態勢挽回にシチリア艦隊の貢献が仮にあったとしても、それは一時的なカンフル剤としての効果に過ぎず、より重要なのは、同海域において長期にわたり効率的な艦隊の維持と運用を可能にした現地システム(それには新たな軍船建造と乗員補充も含まれる)の構築の方であったと評者は考えている。長年のつきあいを経て思うのだが、著者の小林氏はひらめきの人なのだろう。そこから繰り出される仮説は大胆で斬新である。ただやや詰めが甘いところも散見される。ひとつの事象に対する解釈が複数ある場合、自分の解釈がベストであり、他の解釈がなぜ成り立たないかを説明することが求められるが、小林氏の場合には、スパッと正解とされるテーゼが提供されると、それ以外の可能性を考え、そうした可能性が成り立たないことを丹念に検証していく作業が不十分な場合が少なくない。そのため、氏の所説について、「そのように言えるかもしれないが、もっと別の解釈の余地もあるんじゃないの」という読後感を得る場合がままあるのである。それから、まったくの蛇足だが、本書の、196頁に「ミジジオスの息子のヨハネスは、彼のものと思われる印章がシチリアで発見されているので、シチリアにいたことは確実である」と著者が記していることにも一言触れておこう。ビザンツの鉛印章は書状や発給した文書に付されるものだから、印章が発見された場所に当人がいたとは限らないのは、印章学を囓ったことのある学者なら誰でも知っている常識である。

 最後に取り上げるのは、ローマ帝国の「後継者」をめぐる議論である。最初に言っておくが、評者はこうした「文明論」に類するスケールの大きな議論は個人的には苦手である。この手の議論は学問的に厳密な検証には向かないのも理由のひとつだ。そうした意味で以下の評者の見解はピントが外れたものかと危惧されるのだが、門外漢の放言としてお付き合い願いたい。
 本書の第9章において小林氏は、アラブ軍の首都攻撃を退けたビザンツがローマ帝国の「後継者」としての地位を不動のものとしたのの対し、ビザンツを打倒することのできなかったアラブ勢力はローマ帝国の「後継者」たり得ず、その一方で、自らが征服したササン朝ペルシアに対してはその歴史を自己の伝統の一部として完全に取り込むことができていたことを対比的に論じている。仮にそのような対照性が認められるとして、その場合には、後代にいたって振り返ったときにそうした違いが認められた、という話と、同時代の、たとえばここで問題となっている7世紀の人間がそうした違いを認識していたか、という話は切り離して論じる必要があるだろう。たとえば、本書224頁以下で著者はササン朝のフスラヴ1世がイスラーム世界において高い評価を受けていたことを語る際、註76でその情報元として掲げられているのは11世紀セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクが著わした『統治の書』であるから、問題となっているは前者のそれと見るべきだろう。ニザーム・アルムルクはペルシア人だったから、自民族の偉大な過去に特別な思い入れがあったことはその点で不思議なことではあるまい。気になるのは、そうしたササン朝ペルシアへの肯定的評価が非ペルシア系のムスリムにも、どの程度、共有されていたのかという点である。こうした方面には評者はまったく不案内であるため、具体的な事例を挙げた説明が得られれば有り難いところである。
 これに対して、同じく著者が第9章で展開している、ビザンツ皇帝の「地上における神の代理人」「キリスト教世界の守護者」というイメージは、対アラブ戦の敗北が続くなかで大きく傷ついたが、654年のアラブ軍のコンスタンティノープル攻囲失敗以降、大きく転換し、「神に守られる皇帝」というイメージが確認された、という議論は、基本的には事件の同時代人の認識が焦点になっているように思われる。この手の議論で難しいことは、この種の理念や崇高なスローガンが、どの程度、同時代人に真剣に受け止められていたのか、それともある種のお題目として、各人の行動を正当化するための方便に利用されていただけなのか、区別することが往々にして困難なことである。たとえば、著者は221頁において非カルケドン派に対して妥協的な態度を取る皇帝に対する一部の聖職者の批判が、対アラブ戦が敗北続きであることも相まって、属州総督や軍隊の不穏な動きを惹起させたことを語っている。だが、皇帝に対するこの種の属州総督や軍隊の反抗的な態度は、無理に「キリスト教世界の守護者」イメージが損なわれたから、などと言わずとも、相次ぐ敗戦によって軍事的統率者としての皇帝の権威が失墜したため、と考えても何の問題もないだろう。もちろん、反乱した側が自己の立場を正当化するため、打倒すべき相手が異端であるとか、「キリスト教世界の守護者」として適任ではない、などと言い立てることはあり得る。しかし、その場合には、彼らが蜂起した本当の理由が、皇帝が「キリスト教世界の守護者」に相応しくなかったからなのか、それとも他の理由(自らの野心の実現のためであれ、地域の政治的独立の達成であれ、あるいはそれ以外であれ)によるものなのか、しっかり見極める必要がある。多くの場合、人間は理念のためだけに生命を危険にさらすことはできない、それに踏み切るのは相応の実利が伴う場合に限られる、というまったく即物的な感覚を評者は有している。ビザンツではどうだったのだろうか。

 気になった点を書き連ねた結果、思いのほか長文となった。さすがにくたびれてきたのでこのあたりで筆を置くことにしよう。冒頭に記したように、この小文は評者の腹にたまったガスを吐き出したようなものである。吐き出してはみたものの、それで気分が晴れたかと言えばそれほどでもない。いずれにしても、これを機に特段、著者の反論を求めたり、広く学界 に論争を引き起こしたりするものではないことを申し添えておく。     
 (2020年3月22日記)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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