研究ブログ

2011年7月の記事一覧

北海道南西沖地震から18年を迎えた奥尻島

北海道南西沖地震から今日で18年を迎えた。この地震は、私の原体験の一つと言えるかもしれない。災害によって町が消えてしまうことの恐ろしさ、それを最初に感じたのがこの地震だったからだ。

北海道南西沖地震が発生したのは1993年7月。その確か2年前の1991年夏(もしかすると1992年だったか?)、私は奥尻島を旅行していた。後に北海道南西沖地震の被災地として有名になった奥尻島であるが、実は当時はこの島のことをあまり聞いたことはなく、旅行に同行した友人がたまたまここを行き先の一つに選んだのだった。江差町からフェリーで渡った奥尻島は、のんびりとした空気が流れる島だった。海岸に行くと浅い海水の中にウニが転がっており、自由に簡単につかまえることができた(北海道側では手づかみできるところにウニはいないだろう)。民宿ではウニ丼が出たし、海産物の食事もおいしかった。食後は同宿の人たちにビールをおごってもらって、いろんなことを話した。

島はレンタサイクルで一周した。そんなに小さな島ではないし、島中央部の峠越えもあるので決して楽な道のりではないが、車もあまり通ってないので自転車でも走りやすいことは確かである。西海岸には温泉があって途中でひと風呂浴びた。峠を越えた下り坂ではスピードを出し過ぎて転倒し、すり傷を負ったことを覚えているが、その後どうなったんだっけ。しばらく痛かったはずだが、あまり記憶がない。

そんな奥尻島旅行で泊まったのが、青苗地区の民宿だった。そこが津波で壊滅したニュースを見た時、信じられなかった。テレビに映し出される映像には、津波に襲われて瓦礫となり、炎上を続ける家々があった。町が津波でまるごと消えてしまった、民宿の人たちはどうなったんだろう、あの場所は二度と見ることができないのか、といろいろな思いがこみ上げてきた。この地震のあと、私は旅行先でやたらと写真を撮っていた時期があったが、そこには「目の前の風景がある日突然失われることがあるのだ」という奥尻島での体験が影響していた。今風に言えば、町のアーカイブをいま記録しておかないと、この風景は永遠に失われてしまうかもしれない、ということである。私が初めて災害義援金を出したのもこの北海道南西沖地震だったし、直接の被災者ではないものの「痛み」のようなものを初めて感じたのがこの災害だったように思う。

あれから18年、北海道南西沖地震の被災者たちは、東北地方太平洋沖地震の津波災害を見て18年前の自らの体験を振り返り、「災害を伝える」ことに新たな使命感を覚えているそうだ。今回の東日本大震災によって、改めて注目がよみがえった奥尻島。あの地震のあと、私は一度も奥尻島を再訪していない。東京からだとなかなか遠い島ではあるが、またいつか行ってみようかと懐かしい気持ちになった。

その他の地震に関する取り組み:地震関連情報
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「までい」の村、飯舘を襲った放射性セシウム汚染

今日は中山間地域フォーラムが開催する以下のシンポジウムに参加しました。

中山間地域フォーラム 総会・設立5周年記念シンポジウム 「『早期帰村』実現の課題-福島県飯舘村」

ここ数年私が共同研究を続けている東京大学の溝口勝教授に加え、福島県飯舘村の菅野村長も講演するとのことでしたので、現地の状況を知るいい機会だと思ったのです。そして本日の私の大きな収穫は、今さらなのですが、飯舘村がどんなところかを知ったこと、なのかもしれません。

飯舘村の名前は、福島第一原発事故関連のニュースで繰り返し聞いていました。また私自身も福島第一原発周辺の風向きマップ福島第一原発事故後の放射性物質の拡散と気象データの関係、さらには福島第一原発事故タイムラインなどを分析するなかで、飯舘村がどこにあってどのぐらいの放射線量を記録しているかについては理解していました。しかし、肝心の「どんな村なのか」については、まるっきりわかっていなかったのです。

まず感銘を受けたのは「までい」の村というコンセプトです。飯舘村では当初これを「スローライフ」と呼んでいたそうです。スローライフという言葉も確かに一時期流行りましたので、都会の人にはある程度なじみのある言葉かもしれませんが、そんな外国語からの借り物の概念では村民の方々が実感するには至りませんでした。ところがそれを方言の「までい」という言葉に置き換えてみたら、誰もが「ああ、それならわかる」と言い出し、そこから「までい」というコンセプトが人々の間に浸透していったというのです。村が目指す方向が一語で表せ、しかもそれが味わい深い方言の言葉だった、という点がまず素晴らしいと思いました。

そうした経緯をまとめたのがまでいの力という本です。「までい」の意味などもこの本には紹介されています。実はこの本、当初は2011年3月に発行する予定でしたが、東日本大震災を受けて急きょ村長のまえがきページを差し替え、2011年4月11日に発行したというすごいタイミングの本なのです。最初のページにはこう書いてあります。

ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯舘村の姿があります

3月11日まで、飯舘村は「までいの村」のコンセプトのもとに様々な試みを続けてきました。パネルディスカッションでは、民宿を経営する佐野ハツノさん(上記の本にも登場する人)のお話も大変面白かったのですが、佐野さんが活躍するきっかけとなったのがふるさと創生事業の資金を使ったヨーロッパ研修旅行だったというのは驚きました。無駄な使い道が散々指摘された同事業ですが、飯舘村では人材にきちんと投資したおかげで、資金が有効に生きていたのです。彼女のその後の努力と活躍、そして「までい」の力への思い、それも原発事故によってめちゃくちゃになってしまいました。

飯舘村の菅野村長は、2年後に帰村するという「早期帰村」プランを訴えます。今の避難生活のままでは犠牲が大きすぎるので、なんとか早く帰りたい、そのためには村民をもっと信頼して任せてほしい、と言うのです。この2年というのは、ずいぶん大胆な提案だなと最初は思いました。放射性セシウムの半減期は30年。しかも放射能汚染地図でも明らかなように飯舘村は高濃度汚染地域であり、普通に考えたら相当長期間にわたって戻れない可能性も否定できないのです。しかし村民にとっては村に再び戻ることが最優先の課題であって、それをどう実現するかを考えたいと。

いろいろ議論を聞いているうちに、なるほど、もしかするとこれこそが本当のチャレンジなのかもしれない、と思い始めました。チェルノブイリと福島は何が違うのでしょうか。チェルノブイリは情報も開示しなかったし対策も取らなかったので、多くの犠牲者が出て数十年も住めない土地になった。しかし福島は開示された情報をもとにみんなが全力で除染を進めたので、数年で住める土地に戻った。もしそんなサクセスストーリーができれば、これこそが世界に誇れる素晴らしい成果なのではないでしょうか。

3月11日以後、脱原発に関する議論が激しさを増しています(昨日の記事)。しかし、放言めいた言い方にはなりますが、3月11日以後における脱原発は、もはや以前ほどチャレンジングな課題ではなくなったという面があると思います。3月11日以前は、確かにそれは非常に困難な課題でした。しかし多くの国民がそれを口にする今となっては、流れの中で実現する可能性も出てきた課題とも言えます(少なくとも不可能というほど困難ではないということ、ただしそもそも脱原発は現実的なのかという問題は別の記事で検討します)。つまり、何が果たして真にチャレンジングな課題なのか、冷静に考える必要があります。

むしろ本当にチャレンジングな課題は、福島第一原発事故を収束させ、かつその周辺から避難した人たちが元通りの生活を取り戻せるように復興することにあるような気がしています。その解決策はまだ見えてませんし、多くの研究と大胆な解決策が必要で、それは脱原発よりもはるかに困難な課題になるでしょう。日本の現首相も歴史に名を残したいなら、チェルノブイリ事故対策よりもはるかに優れた福島事故対策で見事に住民を帰還させることで名を残すべきではないでしょうか。いずれにしろ脱原発のエポックメイキングな人物は、世界的に見ればドイツのメルケル首相になるでしょうから。。。

シンポジウムのパネルディスカッションでは、飯舘村全体の除染の方法として、放射性セシウムを含む粘土を洗い流す方法が提案されていました。この方法では、上流から下流(南相馬市方面)に影響が及んでいきますので、そう簡単に使える方法ではないとのコメントもありました。しかし自然に任せて、今後数十年間にわたって微量の放射性セシウムが流れ続ける未来を選ぶのか、それとも多少人為的で強引な方法かもしれませんが、最初の数年間を我慢すれば後は放射性セシウムをあまり心配しなくてもよい未来を選ぶのか、まさにそのような重い選択が問われているのでしょうし、そこにこそ福島第一原発事故の解決に向けた強い意志が必要になってきます。チェルノブイリと同様に「自然な半減期に任せる」というのでは、あまりにも受け身で無力です。むしろ原子力災害に対して徹底的な除染で立ち向かう人々の協力からこそ、日本が世界を感銘させるストーリーが生まれるのではないでしょうか。

というようなことを考えさせられたという点で、福島第一原発事故および飯舘村に関する見方が変わったシンポジウムでした。「までい」の村、飯舘が、一日も早く元の生活を取り戻せるよう、研究者も分野を越えて協力していく必要がありますね。
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地球の夜のあかりと電気エネルギー問題

本日、関東地方は平年よりも12日早く梅雨明けしました。今年の日本付近の天候は全般的に季節の進行が早く、沖縄地方からスタートした夏はコンスタントに平年より早く到来してきました。そしていよいよ、関東地方でも節電の夏が始まったのです。

そう、節電の夏。今年の人々の大きな関心事はエネルギー問題です。そのエネルギー問題を啓発する時によく使われる素材が「地球の夜のあかり」の画像です。そこで本日、以下のサイトを公開しました。

夜の地球:DMSP衛星によるNighttime Lights Time Seriesデータ(1992年〜2009年:Google Maps版)



これは、DMSP衛星という夜のあかりを観測できる衛星を用いて作成した、各地の1年平均の明るさ画像です。明るい場所ほど明るい色づけになっており、日本では関東地方や関西地方、そしてそれらをつなぐ太平洋ベルト地帯が特に明るいことがわかります。厳密にいえばこの明るさは必ずしもエネルギー消費に比例するものではなく、関東地方などは振りきれてしまっていますが、発展途上国などであれば夜の照明がエネルギー消費を比較的よく表すことから、これを使った人口分布や経済活動などの推定に関する研究が進んでいます。

私のウェブサイトでも、夜の地球:DMSP衛星によるNighttime Lights of the Worldデータというページで、1994年から1995年の画像をずいぶん以前から公開していました。今回は別のデータセットを用いて、1992年から2009年の1年ごとの画像をグーグルマップで拡大縮小できるようにしました。以前のバージョンよりはだいぶ便利になったと思います。

この画像からは、いろいろなことがわかります。日本は1992年から2009年の間にあまり変化していませんが、中国にスクロールしてみると、この期間に大きく変化している(=明るくなっている)ことがわかります。もちろんそれに合わせて、同国のエネルギー消費量も飛躍的に拡大したのです。またこの画像の一種の「名所」となっているのが、韓国と中国に挟まれた某国です。ここ、周囲に比べると不自然に暗いですよね。1か所だけぼんやりとしたあかりが見えますが、他は真っ暗です。しかも国境線みたいなものまで見える。まあ、この国のエネルギー消費が少ないことは一目瞭然ですが、かといって北朝鮮を「エコな国」と呼んでいいのかは微妙なところです。

またこの画像は、災害時における被害推定にも関連しています。上記のページにもリンクがありますが、Power Outage Detection Images For The March 11, 2011 Japan Earthquakeには、東北地方太平洋沖地震後の東北地方における夜のあかりの変化が見えています。停電になると前日と比較して暗くなりますので、その変化を見るのです。曇っている日は使えない、解像度もあまり高くない、といった弱点があることから精密な被害推定にはあまり使えませんが、宇宙からリモートセンシングを用いて地球を観測すると、「地震の爪痕は地球の夜景の変化として見える」ことは覚えておいてよいと思います。

さて今回の大震災では、東北地方だけでなく関東地方でも、計画停電の影響で真っ暗な夜を迎えた地域がありました。この計画停電の心理的なインパクトは相当に大きかったと思います。大震災前には電気エネルギーの問題を真剣に考えてきた人は少なかったかもしれませんが、計画停電で否応なく現実を突き付けられ、さらに原発の再稼働問題が全国的に拡大することで、電気エネルギーの問題は全国民が影響を受ける問題に拡大してきました。

そんな中、本日の夜は、NHKでシリーズ原発危機 第3回 徹底討論 どうする原発 第一部・第二部という番組を見ました。原発に賛成する人たち、反対する人たちを同じテーブルにつけて、日本の政治や各国の動向も踏まえながらお互いに議論しようという趣旨の番組です。番組に寄せられる意見の数からしても、視聴者の関心は大変に高いことが伝わってきました。

私自身も、最近は電気エネルギー問題に関していろいろな資料を読んでいます。その過程で感じるのは、一人の人物、一冊の本を鵜呑みにして何かを判断するのは危険だということです。あくまで私の印象ですが、この分野では「ポジショントーク」、つまり自分の立場が有利となるように言説が組み立てられている点を割り引いて考えないと、公正な比較は難しいのではないでしょうか。本日のNHKの番組でも、自分に有利な点を話し、自分に不利な点は話さないという偏りは、両陣営に見られたと思います。両陣営のトークの真ん中ぐらいが正しいよ、というような率直な(?)発言もありました。

福島第一原子力発電所におけるこれだけの大事故を見てしまっては、再生可能エネルギーの推進に向かうのも自然な流れでしょう。ところが「脱原発」と叫ぶだけで満足してしまっては、「ではどのような再生可能エネルギーを使うの?」という具体的な話に発展していきません。そして、具体的な話に入っていくと、風力派もいれば太陽光派もいるし、地熱派もいる、また系統の問題や発送電の分離など、各論では一筋縄にいかない部分も出てきます。そこをすっ飛ばして、わかりやすいメッセージだけで満足してはいけないと私は思います。

そこで必要になるのがデータです。番組の最後には「正確なデータが欲しい」ということが繰り返し語られていました。データがなければ正しい判断はできない。政府や電力会社はもっと公正なデータをオープンにすべきではないか、と。

私も同じ考えです。情緒や思いつきではなく、公正なデータの分析に基づいて政策決定すること、これが今の日本で強く求められていると思うし、私もそういう部分に貢献したいと考えています。本日公開した「夜のあかり」データは、これだけで何かを判断できるものではありません。しかし今後は、大震災を機に浮上したエネルギー問題に対しても、何らかの有用なデータを出していければと考えています。
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