日誌

2013年2月の記事一覧

3.11と関東大震災 カウンターバランスの結果

過去40年間になく社会運動が盛り上がっているのですが、ナチスが台頭するときに、共産党の票も伸びたという逸話が頭にこびりついて離れません。子安先生の言う関東大震災後の政治の推移と現状との相似を考え合わせると、3.11以後ずっと不安を抱えて暮らしています。
カウンターバランスの中で思わぬ結果が出てしまうことを恐れています。浅学非才な私は当てずっぽうしか言えません。なんとか危機を乗り越える道が開ける事を願うのですが…
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子安宣邦
関東大震災(1923)から満州事変(1931)まで10年もたたない。震災後の復興が昭和の戦争にいたる日本的システムを作っていったのではなかったか。いま災害後の復興がいわれる。日本的システムのうやむやな修復的再生ではない復興をわれわれはいかにして遂げるか。
Fri Apr 29 00:56:20 +0000 2011 via web
子安宣邦
@Nobukuni_Koyasu
Nobukuni_Koyasu 子安宣邦
昭和初期の政治的事件、満州事変(1931)も5.15事件(1932)も関東大震災(1923)からの日本の復興過程の事件だと見ることができる。昭和前期史をもう一度しっかり見ておくことが必要である。
4月6日 お気に入り リツイート 返信
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子安宣邦
Nobukuni_Koyasu 子安宣邦
大川周明の『日本精神研究」は震災後の精神復興の呼び声に応えて書かれたものである。だから彼において「日本精神」とは日本の復興を可能にする革新的改造のエートスであった。これは私の研究会(9日/早稲田)報告の予告である

インターネットでの「自己物語」とその共有 ――親密性と公共性の間――

書籍として出版予定になったので、一部のみ掲載します。
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1            はじめに

インターネット[1]上で自己を語る インターネット上のウェブ日記や掲示板、SNSと呼ばれる会員制コミュニティサイトなどが隆盛である。そこには学問的な知識や社会問題に関する議論も書かれているが、生活上の体験や心情の告白などを書いた記事も多く見いだせる。後者について考えることが、本章の主題である。このような体験談は、以前からインターネット上にあったが、最近はウェブログや前述のSNSなど、更新や書き込みが簡単なシステムが出てきたのでますます増えている。これらの体験談は、それを通して自分について語ることだとも考えられる。彼らは、インターネットで自己を物語っているのである。これを自己物語と呼ぶ。

1980年代に、「自分史」を出版すると言うことが流行した(小林、1997)。多くのひとびとが自己について物語る欲求を持ち、自分の生活の歴史を書籍として出版したのである。それと比較してみると、長く続けられているウェブ日記は、結果的に自分史に近いようなものである。そこまでまとまったものでなくても、その前段階、あるいは物語の断片というものがインターネット上にはたくさん見いだせる。今では自分史を語る場所が、インターネットに移動しているのかも知れない。


当事者性問題文献

McLelland, M. (2009). The role of the “tojisha” in current debates about sexual minority rights in Japan. Faculty of Arts - Papers (Archive). doi:10.1080/10371390903026933

Text http://ro.uow.edu.au/cgi/viewcontent.cgi?article=1213&context=artspapers

This paper considers two unforeseen outcomes of the primacy of the to¯ jisha in current LGBTQdiscourse. Firstly, through insisting on attending to the voice of each individual, it has proven difficult to establish common links among discriminated communities (or within communities)because of widely diverging perspectives.

田村による要約

According to McLelland(2009), the term “tōjisha” originatedin the fields of law, politics, and administrative studies, and has been usedcontinuously in these disciplines across the course of the twentieth century.Prior to World War II, in particular, the term tōjisha was most closely associated with legal studies, it referred to the people or parties directly involved in the matter, often the matter of alitigation/lawsuit. The early 1970s saw a shift in the application of the term tōjisha, beginning in the context of the women’s liberation movement and gradually expanding to the fields of social welfare and social work. The early 1980s saw a range of coalitions across different social movements representing the "socially weak", in what can be termed a broad tōjisha undo or movement with the aim of strengthening their bargaining power vis-a-visnational and local governments. However, the premise of solidarity was shown tobe somewhat fragile as conflict began to arise not only between tōjisha and hi-tōjisha but also among tōjish at hemselves. Indeed, there has always been a fundamental tension underlying the concept of the tōjisha (McLelland2009:195-7). 


川坂和義. (2010). ゲイ・スタディーズにおける「当事者」の言説の特徴とその問題点. 論叢クィア, (3), 86–109.
http://twileshare.com/uploads/3R-Kawasaka.pdf

 「当事者」を権威化し自身の正当性を根拠づけようとする言説は、「当事者」とは誰かという問いの中では「当事者」への欲望を喚起し、それを巡って他者と闘争関係を築く一方、「当事者」が特定の集団に結ばれ固定されるとき、そのような集団性を維持しようとするために保守的にも機能しだすのである。

平野智之. (2012). 「関係性としての当事者性」試論 : 対話的学習モデルの検討から. 人間社会学研究集録, 7, 99–119.
Text Link http://ci.nii.ac.jp/naid/120004901202

野崎(2004)は、本人と関係者全員を「当事者」であると設定し、当事者と関係者(援助者)の関係性において批判的な意見が行き来する回路が成立しうるかという視点から当事者性の再検討を試みる8。野崎は、自分が障害を有する研究者として、当事者性をもって自分に都合のいい主張や他の「当事者」の代弁をする危険性(倫理的課題)に触れる。その点では、たとえ「当事者の語り」が本人の体験と感情が事実によって支えられた唯一性によって〈重み〉を持つとしても、その〈重み〉は決して正当性を担保しないことになる。むしろ、〈重み〉を大切にしつつ他者の批判的介入を受け入れる立場が重要視されるべきという。

レポートの書き方が、説明だけでわかるか?

レポートの書き方は、水泳のようなものなので、書いたものを基準に基づいて批判してもらわなければ、身に付けることができない。口頭や紙面で書き方を教えても身に付けることは難しく、畳の上の水練になりやすい。さんざんやってもらった教員はそのことを忘れがちだが、そうである。
従って、繰り返し教員が添削することが望ましいが、その時間はなかなか取れない。学生の相互批評はとても効果があるが、その時間が取れないこともある。
そこで前回同様評価基準を示した上で、Wordファイルでの書式フォーマットに工夫をしてみた。そしてこのファイルに直接書き込むように求めた。

レポート書式A.pdf

レポート・論文には問と答えとその説明という構造があり、まず目的を書くことが重要であることを可視化しようとした。論文作法書には、時にこのような文例があるが、それをそのまま書式にした。文例は、ある先生が公開している学生レポートを改変したものである。感謝。

効果は次の通り。
1.枠が書いてあると、大概の学生には枠のとおりに書くことがわかる。
2.レポートの目的を明記するようになった。

実は、学部の段階では、この二つがわかることがとても大事だ。形式を身につけるということが、大事なのである。査読にかかるような学術論文でも、いったい何が目的なのか不明確なものがある。目的が不明確だと、方法も発見も結論も不明確になる。
高校までの作文は感想を求める事が多いので、学生諸君はレポートの冒頭を自分の人生体験で始めることがままある。そこは、関係ないのである。
以上