研究ブログ

2009年12月の記事一覧

2009年を軽くふりかえって

この記事では、2009年を軽くふりかえって、
今年最後の更新にしたいと思います。

今年もいろいろなことがありました。ありましたが、
すべてのことを覚えているわけではありません。
なので、もしかすると、とても大事なことを書き忘れてしまうかも知れないのですが、
関係の先生方にはご容赦いただきたいと思います。

数学の研究者として、もっとも印象深かったのは、やはり、
あの「事業仕分け」の議論でした。
私はネットの中継などを完全にフォローしたわけではないので、
議論の内容の詳細は理解していないのですが、
私にとっては、あの国会議員の方の例の発言がすべてでした。
それに対する感想は、過去の記事で書きましたので繰り返しません。
私は、きちんとした意見書のようなものを書くのが苦手なので、
あのような子供っぽい現実離れした言葉しか吐き出せないのですが、
それでも多くの方に読んでいただいたようで、ありがたく思います。

さて、自分の仕事としては、
私の師匠(三人の先生がいらっしゃいます)の一人である三輪哲二先生の、
還暦のお祝いも兼ねた研究集会を、organizer の一人として開催できたことが
一番の思い出です。
私自身も講演者として指名されてしまったので、
この研究集会で話すネタを完成させなければならず、
なかなかプレッシャーだったのですが、
それもなんとか成し遂げて論文にできたので、自分自身にとっても良かったです。
来年からは proceedings の編集作業が本格的に始まります。頑張ります。
( と、その前に、自分の論文の修正を仕上げないと・・・ )

最後に、今年、自分にとって大事な大きな変化としては、
Researchmap に登録させていただき、このブログを始めたことがあります。
このブログのコメントを通して、多くの先生方からご意見をいただき、
また、いろいろなことを教えていただきました。
コメントをいただいた先生方、投票してくださったみなさん、
読んで下さっているみなさん、ありがとうございます。
そして、こちらを運営されている、新井先生、スタッフのみなさまに、
心から感謝したいと思います。

来年もよろしくお願いします。
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手紙

前略

一人暮らしを始めて、ずいぶんと時間がたったね。
いまの君は、名著として知られるあの数学書と格闘し、
一方で、ニーチェやハイデガーといった実存主義哲学に夢中になっているはずだ。
いや、夢中になっているという言い方は間違っているだろう。
なぜなら、君は苦しんでいるからだ。
残念ながら、君が嫌うような大人に、僕はなってしまった。
そんな僕が、君にアドバイスをするとしたら、
理由なんて無くて良いから、自転車にでも乗って太陽の光を浴びておいでよ、
ということなのだけれど、いまの君にはそれすら厭わしいに違いない。

あの地震のときには、自分と世の中との距離感に圧倒されたと言っていたね。
そして、自分は数学の世界に閉じこもるのだ、と。
しかし、例の事件があってから、君の決意も揺らいだように見える。
きっと「自分も彼らと同じだ」なんて思っているのだろう。

純粋数学の世界で楽しそうに踊っている人々に対して、
憎しみに近い感情を抱いているそうだね。
その憎しみと、数学が好きだという自分の感情とに引き裂かれているんだって?

僕の考えとしては、その苦悩は抱き続けていて良いのだと思う。
幅の広い感情を持っているということは、それだけ多くの人に共感できる可能性がある、
ということだからだ。

ただ、だからと言って、数学を楽しんでいる人たちを、
一人よがりな考えで嫌ったり、見下したりしてはいけない。
近い将来、君が読むであろう長大な推理小説のなかには、
「結界に結界張るようなややこしいことはやはりいけないんだ」
という台詞がある。その罠に、君も陥ってしまう。

なぜそれが罠なのか、いまの君にはなかなか分かってもらえないかも知れない。
ただ、僕の経験から次のことだけは伝えておきたい。
経験談を偉そうに語る大人ではありたくないのだけれど・・・

まず、楽しそうに踊っている彼らも、ただ無邪気に楽しんでいるのではないということ。
親しくなって話してみれば、彼らも数学や自分自身を実は客観視していて、
彼らなりの苦悩を抱えていることが分かる。
その苦悩があるからこそ、あのように踊りを楽しんでいるんだ。

そしてもうひとつ。
純粋数学から離れて数学をしているつもりでも、ずっと研究を進めているうちに、
純粋数学のど真ん中に出てしまう、ということがあるんだ。
これは僕の経験だから、間違いない。
平たく言ってしまえば、「数学はひとつ」ということだ。
なんだそんなことか、と君は言うかも知れない。
僕もそんなことは分かっているつもりだった。
しかし、実際にその地点に立ってみると、ちょっとした恐怖をも感じるような、
そんな偉大さを数学というものに見ることになる。
大袈裟だ、と君は笑うかもしれない。でも本当のことなんだ。

「数学が好きだ」という君の思いは、悪いものではない。
もちろん、ただそれがあるだけで数学者になれるわけではないから、
これからもたくさん勉強しないといけないだろうし、プロになるには多少の運も必要だ。
自分より才能があって偉く見えるような人にも出会うだろう。
そして、数学に対する君の熱い思いに水を差すような言葉が、
周囲の人々からたくさん聞こえてくるかも知れない。

しかしそれでも、「数学が好きだ」という思いを腐らせないで持っていてほしい。
君が嫌うような大人になってしまった僕からの、お願いだ。

草々


追伸 :
君が読んでいるその名著は、いまの君には難しすぎる。
もうちょっと易しい本を読むことを薦めるよ。

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1=0.9999999・・・?

タイトルの等式は正しいでしょうか?

これは人づてに聞いた話なので、真偽のほどは定かではないのですが、
ある数学の方の勤め先の教育学部の長は、
どこかの校長先生でいらっしゃった方なのだそうで、その方が
「高校までの数学は、高校までで既に学習している。
 だから教員志望の学生が大学で数学を学ぶ必要などない。」
という内容の発言をされたのだそうです。

私がタイトルの不思議な等式に初めて出会ったのは小学生の頃だと思います。
電卓で 1÷3×3 と入力すると 0.9999999 と表示されて、変だよねえ、という話です。
みなさんも、どこかで一度は耳にされたことがあるでしょう。
それほどマニアックな話題ではないと思います。

さて、いつまでも引きのばしていても仕方ないので答えを言いますが、
タイトルの等式は(解析学で通常用いられる実数の定義に従うと)正しいのです。
ただし、右辺が何を意味しているのかをはっきりさせる必要があります。この場合は
0.9, 0.99, 0.999, 0.9999, 0.99999, ・・・
で定まる数列の収束先を意味している、と理解するのが自然でしょう。
( ただし、上のような記述では「数列が定まっている」とは厳密には言えないのですが。)

タイトルの等式が正しいということを、自信を持って判断できるようになるためには、
実数とは何か、そして数列の収束とは何かを正確に理解していなければなりません。
そして、これらのことは、大学の教養レベルの内容です。
いや、最近では、実数論を教養レベルの微積分の一部として扱うことは稀なので、
理学部数学科で学ぶ専門的な解析学のレベル、と言うべきなのかも知れません。

ここで、「自信を持って判断できる」というのは、
誰か偉い先生が言っていたから、とか、教科書に書いてあったから、
などという外的な根拠を持ち出して判断するのではなく、
自分自身でいちからきちんと理解した上で判断できる、ということを意図しています。

数学の前で、すべての人は平等です。
たとえ学校の先生であっても、高名な数学者であっても、
展開している論理に傷があれば、それは正しくないのです。
そこに「権威」の入る隙はありませんし、入れるべきでもありません。
たとえ生徒が自分の見たこともないような考え方の答案を書いてきたとしても、
それを虚心に読み解き、正しいかどうかの判断をしなければなりません。

数学には、このようなラディカルな側面もあると思います。
数学の教員を志望する学生のみなさんに分かって/覚悟しておいてほしいことのひとつです。
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「数学を伝える」ということ

前の記事を書いてから、ずいぶんと時間がたってしまいました。
ここ数週間、基礎科学の研究についての「活発な議論」が行われていたようです。
それ自体は良いことだと思うのですが、悲しいことに
研究という営みそのものに対してただ批判的なだけのような意見もあったり、
ないしは「足の引っ張り合い」のような構図もあったような気がして、
そのような状況を目にしているうちに、
精神的なバランスを少し崩してしまいました。
いまはすっかり元気を取り戻していますが。

ここ数日は「数学を伝える」ということについて考えています。
これについては、多くの先生方がいろいろな意見を述べられていて、
かつ実行されているのですが、
一度、自分なりに考え方を整理してみたいと思ったのです。

しかし、様々な側面があって、簡単に整理できそうもありません。
そこで、とりあえず現時点で考えていることを以下に書きます。
以下の文章は何かを主張したり報告したりするものではありません。
これをタネとして、いろいろなご意見を広く聴かせて頂ければと思います。

**********
「数学を伝える」ということを考えるにあたって、
一番重要なことは「誰に伝えるのか」ということかも知れません。
ただ、これを考慮に入れると、現時点では自分の考えが発散してしまって、
本当にまとまらなくなってしまうので、この点については
とりあえず大雑把に「数学者ではない人に伝える」ということにしておきます。
以下の記述のなかでは、暗黙のうちに
もっと具体的な対象を想定してしまっているかも知れません。

便宜的に以下の 4つの側面に分けて書きます。
ただし、これらは相互に関連しあっていて、どれかひとつを取り上げて議論しても、
あまり意味はないだろうと思います。
あくまで自分の考えを整理するためですので、ご容赦ください。


(1) 数学の特異性

まず、この前提そのものが正しいのかを検証する必要はあるのかも知れませんが、
数学を伝えるときには、受け手に「自分の頭を使って考えること」を要求せざるを得ないと思います。
例えば、最近のテレビ番組などで理科の実験をエンターテインメントとして
見せていることがありますが、同様のことを数学でやるのは難しいように思います。
(理科の実験をエンターテインメントとして見せることを否定しているわけではありません。)
もちろん、このような見せ方が可能な数学もあります。
しかし、数学はそれだけではありませんし、そのような見せ方であっても、面白いものは
受け手に考えることをそれなりに要求しているのではないでしょうか。
数学の研究の内容を伝えるにせよ、その有用性を伝えるにせよ、
ないしは芸術性や面白さを伝えるにせよ、このことは避けられないように思います。


(2) 数学の「何を」伝えるのか

例えば、数学者ないし数学に詳しい人が、数学を伝えることを求められているのだとして、
何を伝えることを期待されているのでしょうか。
最先端の研究の内容なのでしょうか。
もしくは、中学や高校で学ぶ数学の利用価値でしょうか。
数学のものの見方や考え方、論理的思考のモデルとしてのあり方でしょうか。
数学者ではない人たちは、数学の何を知りたいのでしょうか。


(3) 数学を「どのように」伝えるのか

例えば物理であれば、調和振動子の計算ができなくても、
量子力学的な世界観について語ることはできるかも知れません。
しかし、このようなことは数学では難しいと思います。
それは、数学が自然科学ではないからです。
数学的な概念のイメージのようなものを述べることはできるかも知れません。
例えば、層の理論とは狭いところの様子をつなげて全体の様子を記述するための枠組みなのだ、
というような説明です。
しかしこれで、層の理論について伝えるべきことを伝えられているのか、
そもそもこのような説明は面白いものなのか、自分でも疑問に思ってしまいます。

数学者が数学を数学者以外の人に語るとき、厳密性をどこまで捨てるか、
ということを必ず気にされていると思います。
私自身としては、授業で数学をきちんと教えなければならないような状況以外であれば、
思いきって厳密性を捨てても良いと思っています。
しかし、どこかでそれを気にしてしまうのは、
他の数学者ないしは数学に詳しい人たちからの批判を予想してしまうからだろうと思います。

一方で、矛盾するようですが、数学の命はやはりその厳密性にあります。
数学の啓蒙書などで、たまに
「数学的に厳密な議論は数学者にやらせておけばよい」
というようなことが書いてあって、悲しい思いをすることがあります。
そのこと自体は正しいのかも知れませんが、それが
数学者は重箱の隅をつつくような下らないことを気にしているのだ、
という意味なのであれば、認めるわけにはいきません。
厳密かつ精密に論理を組みあげたものであるが故に、
数学は時間や空間を越えて信頼に足る(「役に立つ」)知の資源となるからです。
上のような発言は、数学という学問そのものに対する侮辱だと思います。

最近では、「人」から入るアプローチが注目されているように思います。
数学であれば、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」という本があります。
この本では、整数論の研究者たちの人間ドラマが描かれていて、とても楽しく読むことができました。
ただ、現代数学への入口としてこのようなアプローチが有効なのは分かるのですが、
果たしてこれで学問としての何かを伝えられているのか、あまりはっきりしないように思います。
これは、受け手がどこまで知りたいのか、ないしは、
発信者がどこまで理解させたいのかに応じて決まることなのだろうと思います。
そしてそれは、次の点と関連するはずです。


(4) 数学を「何のために」伝えるのか

そもそも数学を伝えたい人は、何のために数学を伝えたいのでしょうか。
そして、数学者には数学を伝える責任がある、と言うとき、それは何のためでしょうか。
(数学者には数学を伝える義務などない、ということを主張しているのではありません。)

数学の有用性を数学者自らがアピールしなければならない、という意見もあるでしょう。
これについては前回の記事で書きましたので繰り返しませんが、少なくとも
「役に立つ数学」と「役に立たない数学」という二項対立を外部から持ちこむことは、
数学という学問にとって健全ではないし、そのあり方を否定するものだと思います。

**********

まとまりなくダラダラと長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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