研究ブログ

2011年1月の記事一覧

「すると、なる」を「だから、である」に

昨日、大学の書店で岩田規久男氏の新著を見かけました。

経済学的思考のすすめ (筑摩選書)
岩田 規久男
筑摩書房(2011/01/15)
値段:¥ 1,575


最初の部分を、立ち読みとも言えないくらいザッと眺めただけなのですが、
帰納と演繹という考え方の違いについて説明があり、
帰納的な思考に基づいた経済論に対する批判が展開されていました。
有限の経験から発見した「真実」なるものは帰納的な推論にすぎず、
ある程度の蓋然性しか保証できない、ということが書いてあったと思います。

そう言えば、新井先生の新著にも帰納と演繹の話が出てきます。

コンピュータが仕事を奪う
新井 紀子
日本経済新聞出版社(2010/12/22)
値段:¥ 1,785


偶然の一致に過ぎないのかも知れませんが、
これからは「演繹」がひとつのキーワードになるのではないか、
という淡い期待を抱いています。

ただ同時に、マスメディアで演繹的な議論が展開されることは、
正直言うとあまり期待できません。
ほんのわずかな実例から、ある種の全称命題を「帰納的に」でっちあげ、
その限界も明確にせずにありとあらゆることに「演繹的に」適用していく、
という類いの話は、ある場合には分かりやすく、ある場合には刺激的で面白いものです。
それがギャグとして話されるのなら、まだ救いはあるのかも知れませんが、
それが事実としてまことしやかに語られるとき、それに触れる私たちは
自分のなかにある正しさの根拠を問われるのだろうと思います。


以前、新井先生とお話しをしているときに、
「学生さんの数学の話し方を見ていると『○○すると、こうなる』という説明が多い」
という話題になりました。
たしかに、これまでに私が担当した演習やゼミでも、
そのような説明が多かったような気がします。
もちろん、自分の講義でも「すると、なる」と説明をすることはあるのですが。

「すると、なる」というのは操作的な説明で、
自分の経験をもとにして判断をしているかのような言葉遣いです。
自分の経験というのは、人間の寿命が有限である以上は有限回のものなので、
「すると、なる」という説明はどこか帰納的です。
そして、帰納的な説明が保証してくれるのは、ある程度の蓋然性にすぎません。
ゼミなどで学生さんが「すると、なる」という説明をしていると、なんとなく気持ちが悪かったのですが、
その理由はここにあるのかも知れません。

一方、「だから、である」は論理を組み上げていく言葉ですから、
数学の話では、しっくりくる表現です。
ただし、「AだからBである」ときちんと述べるためには、
「Aだ」「AだからBだ」という断定的な主張をする覚悟のようなものが要求されます。
そのためには自分の頭でじっくり考えないといけません。
それは疲れる作業でもあるでしょう。


「すると、なる」と「だから、である」の違いが典型的に現れるのは、
等式と不等式の変形かなあと思います。
極端な例ですが、『A=B かつ B=C』 ならば A=C であることを証明するのに
「A=B に B=C を代入すると、A=C になる」
という説明は可能です。しかし、『A<B かつ B<C』 ならば A<C であることは、
「すると、なる」では説明がしづらいでしょう。
また、仮に「分母を大きくすると分数は小さくなる」という操作を丸暗記しているのだとしたら、
「0でない実数 a, b について、a<b ならば 1/a > 1/b である」
という命題が偽であることを見抜けないかも知れません。
不等式を扱うのは、非常に論理的な作業なのだと思います
(等式の変形にも論理は働いているのですが)。


自分の思考の構造を、「すると、なる」の世界から
「だから、である」の世界に組みかえることができるかどうか。
数学をきちんと扱えるようになるためには、ここが一つのポイントになるような気がします。
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十六年

阪神・淡路大震災にて亡くなられた方々に黙祷を捧げます。

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私たちの世代にとって、
1995年は大きな意味のある年ですが、
その数年前から始まっていたある種の動きの結論が、
最近になってようやく見えてきて、
それに気づいた人々がなんとか舵を切り直そうとしているような、
そんな感じがします。

個人的には、
自分たちが死んだ後の世界のことに、どれだけ心を砕くことができるか、
そして、そのことにどれだけ意味を見い出せるかが、
これからの鍵になるような気がしています。
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年の始めに

先月は、帰省も含めて新幹線に乗る機会が何度かありました。
私はいつも二列の席の通路側に座るようにしているのですが、
通路を挟んだ向かい側の三列の席に子供連れが座っていることが、二度ありました。
どちらも子供は幼なく、若い御夫婦の家族だったのですが、
どちらの御夫婦も、車内でもめていました。
子供を連れて移動となると、人は仲違いしてしまうものなのかなあ、などど思いつつ、
ipod のイヤホンを耳にさしました。

実家から森毅先生の本を一冊、持って帰ってきました。
はみだし数学のすすめ―人生、チャンスは二度ある (講談社プラスアルファ文庫)
発行日を見る限りでは、大学入学前後に読んだはずなのですが、
あまり強い印象を受けた記憶はありませんでした。
今回、読み直してみると、その冒頭には

  試験というもので、いったいなにを調べようとしているのだろうか。たぶん、<学力>といったものだろう。しかし、その<学力>というのが、知識や技能かというと、少し違うような気がする。
  おそらく、たとえば数学なら数学の世界が、心のなかにどれだけゆたかにひろがっているか、それが<学力>というものなのだと思う。たしかに、その数学の風景の一部としては、知識や技能もあるかもしれない。しかし、それ以上に、知識を忘れてもなんとかなり、技能でつまずいても回復できるほうが、<学力>のような気がする。

という記述があって、
やはり自分は森毅 (私は京大出身なので敬愛を込めて「モリキ」と読みます) に
かなり影響を受けているのだなあと思いました。

今年もよろしくお願い致します。
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