2011年3月の記事一覧
「堤防は無力」を超えて
東北地方太平洋沖地震は東日本の太平洋側約500キロにわたって被害をもたらしました。
その中でも、とりわけ大きな被害をもたらしたのが津波です。
過去の経験や様々な調査、研究の予想をはるかに上回る津波が襲ったのは事実であり、その津波によって多くの犠牲者が生まれたことも事実です。
それでは、われわれは「堤防は無力だ」ということができるでしょうか。あるいは、「日本人は自然との調和という伝統を忘れて堤防で自然を征服しようとしたが、そのつけが出た」ということは適切でしょうか。
確かに、今回の地震による津波の前には、既存の堤防は「津波を防ぐ」という役目を果たし切れていなかったかも知れません。
しかし、もし堤防がなければどうなっていたでしょうか。後日の検証を俟たねば確定的なことは言えないかも知れません。ただ、直観的には、堤防がなければ、津波の被害はより大きなものになっていただろう、と思われます。
「堤防は無力だ」あるいは「自然と共生する日本の伝統を顧みる必要がある」ということは、決して間違いではありません。
ただ、「無力な堤防」の代わりが「自然との共生」なのか、あるいは自然と共生すれば津波の被害はなくなるのか、という点にまで視界を広げるなら、物事はそれほど簡単ではないということになるでしょう。
新聞は「結果論に終始する態度」を脱却せよ
ビヘイビア・サイエンティストの清水佑三氏は、かつて、決断しない人に失敗はなく、失敗したという結果だけをみてものを言うことを結果論だと定義しました1。
結果論についてのこのような定義に従うなら、東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故について「地球は自然への畏敬が足りず、結果として津波に負ける原発を海辺で動かし続けた。天災が暴いた人災である」とし、「全電源が長らく使えない事態も見込んでいなかった。想定の甘さは「千年に一度」が無残に証明した」とする朝日新聞の随筆「天声人語」の態度2などは、その典型的な事例でしょう。
随筆という性格からすれば、このような意見は朝日新聞の社論とはいえないかもしれません。
しかし、1954年1月に、「原子力の平和利用」を推進するために読売新聞が「ついに太陽をとらえた」という連載記事を掲載して世論形成を図ったのと同じように、朝日新聞や「天声人語」欄は、福島第一原子力発電所の危険性を訴え、その改善を求める世論の喚起を行ったのでしょうか。
すでに起きた出来事の結果から遡って原因を批判することは誰にでもできることですし、結果を見て大騒ぎすることも容易です。
確かに、結果に基づいて原因を検証し、それを次なる危機を回避するために用いるのなら、そのような態度は大きな意味を持っており、重要な態度といえます。
その点で、新聞が社会の木鐸を自任するのなら、結果論に拘泥する態度から脱却し、「危機」を未然に防ぐことにも力を尽くすべきでしょう。
しかしながら、もし、結果論に基づいて、それらしく、何かを言っているが実は何も言っていない文章を書き連ねるなら、われわれは、はたして新聞は社会の木鐸たり得るのか、あるいは、新聞にそのような随筆の欄を設ける必要があるのか、といった当然の問いを発せねばなりません。
「お前はいつも結果論だ」というそしりをまぬかれることが、新聞には求められているのではないでしょうか。
1 清水佑三, 人事部長からの質問, 第492回, 2005年4月26日, http://www.shl.ne.jp/hrqa/index.asp?y=2005&m=4&d=26. (2011年3月30日).
2 「天声人語」朝日新聞, 2011年3月30日1面.
菅首相は「東京電力と原子力安全・保安院への不信感」の原因を自省せよ
情報の発信者に求めらる「受信者への配慮」
東北地方太平洋沖地震の発生後、政府や官公庁から各種の情報が発信されています。
災害という「非常の事態」ですから、これは当然のことです。
ところで、情報を発信する際、正確性と迅速性を両立させるとともに、不要な言質を取られないようするというのは、とりわけ行政機関にとって実現が難しい問題です。そのため、往々にして第三の点である「不要な言質を取られない」という側面が重視されやすくなります。
「「水道水から放射性物質が検出された」という報道の直後にミネラルウォーターが店頭から消えた」という3月23日午後の首都圏の状態を例として考えてみましょう。
このとき、政府や他の行政機関は、「放射性物質そのものは危険だが基準値以下であればすぐに重大な事態にはならないが、念のため放射性物質が混入していると思われる食品や飲料水の摂取は控えるように」といった類の説明を行いました。
これは、「安全だ」と言っているようにも思われますが、断定はしていません。そのため、「安全ではないかもしれない」とも、「特定の条件の下では安全で、それ以外の場合は危険」とも受け止められうるものです。
そして、このような回答は、例えば「乳児は水道水の飲用を控えるように」というだけでは、「幼児は?」、「成人は?」という人々が抱くであろう当然の問いかけには答えていません。
これでは、こうした情報を受け取る人たちは、「この歯切れの悪さからすると、もしかしたら、何か重大な事実が隠されているのではないか」と不安を抱きかねません。
人は、情報を発するときに、往々にして発する側の視点に立ち、「何を発信したか」に注目します。しかしながら、実際には発信される情報には受け手がいるのです。従って、情報の発信者は、情報の受信者が「発信された情報をどのように受け取るか」についても配慮しなければなりません。
最も避けるべきは、情報の発信者が「情報を発信した」という事実に満足し、「どのように受け取られたか」に関心を払わず、結果的に受信者が不安に陥る、という事態であり、官公庁の発表に接した人たちが、「どうせ、嘘だろ、隠しごとがあるに決まっている」と、政府などの発表にかつての「大本営発表」と同じ程度の信頼しか寄せない、という事態です。
「国難だ」、「非常時だ」という声が聞こえるからこそ、常に受信者を念頭に置き、「正確性と迅速性と明確性」を同時に満たす情報発信が求められるのではないでしょうか。
「東北地方太平洋沖地震が関東大震災と同じ道を歩むこと」を警戒せよ
東北地方太平洋沖地震に関する各種報道機関の報道は、一面において現在起きている状況を伝達するという点で意義をもつとともに、他面においては、未だに本性的な要素である煽動主義が頭をもたげる場面が散見されます。
地震直後の「物資の買い占め」についての報道や福島第一原子力発電所の事故を原因とする「農畜産品や飲料水の放射能汚染」についての初期の報道などは、いたずらに人々の恐怖心を煽るものでした。
こうした態度は戒められるべきです。しかしながら、例えば政府が「正確な情報を」といった名目で報道の内容を検閲するようなことは、断じてあってはなりません。
1923年9月1日に起きた関東大震災では、地震発生の6日後である9月7日にいわゆる治安維持令が発せられました。
これは、一面において流言蜚語の取り締まりを目的としていました。そして、もう一面においては、政府の震災後の対応策への批判や「朝鮮人虐殺」などの報道を制限するという性格をもっていました。
こうした言論統制は、「右手に菓子、左手に毒杯」といわれた、1925年の普通選挙法と治安維持法の施行に至ってひとつの完成を見ます1。
そうした歴史に鑑みるなら、現在の報道のあり方は、たとえ煽動主義を捨てきれないとしても、政府や関係当局に対する批判的な視点を表明できるという点で、まだ健全な段階にあるといえるでしょう。
われわれも、報道機関からそのような批判性が消えないよう、報道機関と行政当局を十分に監視しなければなりません。
「大戦景気」が失速した後に起きた関東大震災は、昭和大恐慌を経て、政党政治の終焉と軍部の台頭への扉を開くことになりました。
「小泉景気」の失速後に起きた今回の震災が、関東大震災後と同じ道を指し示すことがあってはならないのです。
1 鈴村裕輔, 「関東大震災の教訓」の今日的意義. 2010年9月2日, http://researchmap.jp/joz2b5y3m-18602/#_18602.
「夏場の電力需要抑制」の議論に「火事場泥棒」は許されない
東北地方太平洋沖地震の影響によって誘発された福島第一原子力発電所の事故による電力供給力の低下が夏季の電力需要に対応できないことから、昨日、政府は、電力需要抑制のための具体策の検討に入りました。
その中には、夏時間、いわゆるサマータイムの導入や事業拠点の西日本への移転などの案が浮上していますが、いずれも効果は未知数です。
また、与謝野馨経済財政担当大臣は「電力料金の体系を変えなければいけない」と発言し1、低価格帯の使用限度料の引き下げや高価格帯の料金引き上げの可能性を示唆しました。
しかし、東京電力から電力の供給を受けている個人や法人は自らには何らの過失がないにもかかわらず、輪番停電やそれに伴う様々な不利益に直面しつつも、それを受け入れています。それは、人々が従順であるからではなく、東京電力が「供給できない」という以上、「供給を維持するため」の措置に従う以外に選択肢がないからです。
その意味で、人々は「被害者」なのですが、その「被害者」にさらなる不利益を求めるのであれば、「電力料金の体系を変えること」によっていかなる利益が生まれるのか、あるいはどのような不利益を回避することができるかを、与謝野氏と東京電力は明示しなければなりません。もしそうでなければ、「国難」に乗じて自らの思惑を遂げようとする「火事場泥棒」と指弾されても仕方のないことです。
特に、今回の福島第一原子力発電所の事故は、発端は地震とそれによる津波にあることが示唆されていますが、その後の対応には人為的な過誤が介在していた可能性もあります。そのような「疑惑に包まれた事故」の真相を明らかにせずに負担を強いることは、人を侮る行為以外の何物でもないでしょう。
さらに、夏時間の導入を云々する人がいますが、これも何を目的としているのか判然としない主張です。
本欄でも指摘しましたが、ソ連崩壊後に燃料の節約と光熱費の削減を目的として夏時間を導入したロシアでは、時間の切り替えに適応できずに体調を崩したり、ひどい場合には精神に異常をきたすなどの被害が起き、夏時間に伴う健康被害が原因で交通事故などが発生した、という報道がありました2。
報道の内容の信憑性には検討の余地があるでしょうが、実際に今年2月8日にロシアが夏時間を廃止したことは、夏時間と人間の体との間に何らかの関係があることを推察させます。
具体的な問題点が示されている夏時間を「夏季の電力供給問題」の解決策として持ち出すことは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、論理的な結びつきの弱い発想といえるのではないでしょうか。
これもまた、困難な状況を利用した不心得な行動のひとつです。
残念ながら、「政策通」という不思議な言葉が国政の場でも公然と用いられていることが示すように、日本の代議士は、基本的に自らが身につけておくべき最低限の能力である「政策立案能力」を備えていません。それゆえ、そのような人々の考えることは、結局のことろ近視眼的な内容に終始します。
「政策通」を自認する人々は、日本に住む人々の民度は、そうした「小手先の議論」を見逃すほど低くはない、ということを銘記すべきです。
1 日本経済新聞2011年3月25日夕刊2面.
2 鈴村裕輔, 「夏時間の導入で健康被害が増加する」というロシアの報道. 2011年1月19日, http://researchmap.jp/jorr377m4-18602/#_18602.
被災者支援に大切な「ともに歩む」という視点
東北地方太平洋沖地震が発生してから2週間が経過しました。
いまだ困難な状況の下に置かれている被災者のために、各種の支援が行われています。
その中で、人的支援は物的あるいは金銭的な支援とともに大きな役割を果たしており、今後も継続的な実施が不可欠となります。
ただし、人的支援に携わる、とりわけボランティアと呼ばれる人たちには、被災者を慮る心持が欠かせません。例えば、被災者に「頑張ろうね」ということは、口にする人に他意はなくとも、受け手である被災者は、「困難な状況の中からまさに死力を尽くして生還したのに、まだ頑張らなければならないのか」という気持ちを抱くかもしれません。
こうなっては、善意が悪意と受け取られ、双方の間に溝を生む契機となってしまいかねません。
これは、ボランティアとして支援活動に携わる人たちだけでなく、被災をまぬかれた全ての人に当てはまることでしょう。
それでは、被災者をまぬかれたわれわれは、どのような心持でいるのがよいのでしょうか。
選択肢は様々でしょうが、その中のひとつが、「被災者とともに歩む」という姿勢といえます。
映画Star Trek V: The Final Frontier(1989、邦題:『スタートレックV 新たなる未知へ』)の中に、ローレンス・ラッキンビルが演ずるヴァルカン人サイボックが"Now you've taken the first step. The other steps we'll take together."という台詞を発しますが、これなどは、まさにそうした姿勢を象徴する言葉といえます。
上からでもなく下からでもなく、被災者と同じ視点から進むべき道をともに歩む、という姿は、「未曽有の災害」を乗り越えるための重要な手がかりになることでしょう。
プロ野球団の経営者に求められる「慎重に考え、大胆に行動する」態度
「いつ開幕するか」という問題を巡ってパシフィック・リーグとセントラル・リーグの足並みが揃わなかったプロ野球は、「両リーグの意思の疎通の乏しさ」や「球界の最高権威者であるコミッショナーの無力さ」、あるいは「興行優先で選手や観客を置き去りにする強欲さ」といった点に注目が集まり、その声価を落としてしまいました。
職業としての野球に従事する以上、選手や経営者が主たる収入源である「試合」を実施することは、経済的自由権の観点からも肯定されなければなりません。
しかし、試合を「観客という消費者に対して選手の優れた技術や球場の雰囲気、あるいは勝利への陶酔感といった商品を提供する場」と捉えるなら、試合は単なる一回限りの催事ではなく、そこにおいて需要と供給の合致を必要とする市場となります。
もし試合が市場となるなら、そこには野球界という「業界」の意向だけでなく、例えば金融市場において典型的に見られるように、周囲を取り巻く政治的、社会的、文化的、宗教的な様々な要素に左右されざるをえません。
これは、何を意味するのでしょうか。
絶海の無人島で試合をするのでない限り、野球も、社会的な影響を受ける、ということが含意されているのです。
その意味で、今回の「開幕問題」に関しては、とりわけセントラル・リーグの経営者の態度をみると、あくまで3月中の開幕に拘泥する姿からは、球団という供給される商品を抱えている組織の経営者の意向が優先されるべきであって、市場を形成するもうひとつの要素である消費者としての観客の意向や、市場の環境に注意を払う必要はない、と考えている人たちがいたのではないか、と思われます。
「サプライサイド」といえば聞こえはよいのですが、こうした態度の背景には「売りたいときに売りたいものを売るだけだ」という発想があったのではないでしょうか。
日本プロ野球組織(NPB)の加藤良三コミッショナーは、3月17日(木)に「プロ野球は、プロ野球の世界のためだけのものではありません。それは、日本国及び日本社会と共にあるべきものです」という声明を発表しています1。
声明そのものは論理に飛躍があり、「プロ野球は被災地の人々にできる限りの勇気を届け、日本国全体に夢と希望を伝え、海外に対しても「日本は野球がやれる位落ち着いているではないか」「日本全体にはまだまだ底力があるではないか」との冷静で正確な事実認識を持っていただくための発信を行う役割を担うべきものである」という、一見もっともらしいものの主観的な願望の強い内容となっています。
しかし、「プロ野球と社会的のつながり」、あるいは「社会の中でのプロ野球」という観点を示しているという点で、一定の評価を与え得るものです。
球界の最高権威者であるコミッショナーの「社会の中でのプロ野球」という意見にもかかわらず、コミッショナーの指令に従うべき球団経営者2がその意を体現することがなかなか出来なかったというのは、一面においてコミッショナーが「軽い神輿」であることを示すとともに、他面において経営者たちが加藤氏の声明を適切に理解していない、ということを示唆します。
例えば、東北地方太平洋沖地震の影響を受けた地域を避け、被災をまぬかれた西日本で試合を行うなら、「日本全体にはまだまだ底力がある」ということを示すとともに、「電力消費の削減が必要な地域で野球の試合をするのは問題だ」という市場の意向にも沿うことになります。
一連の過程においてセントラル・リーグの球団経営者たちは、「社会の中でのプロ野球」という前提を忘れ、「試合を行うこと」を前提にして行動していました。それゆえに、リーグの総意として「どうしても3月中に開幕したい」となったのでしょう。
今回は、本日開かれた緊急理事会でパシフィック・リーグと歩調を合わせ、4月12日に開幕すること、4月中はナイトゲームを自粛すること、などが決まりました。
しかし、これを機会に、何が前提であるかを振り返らなければ、肩身の狭い「職業野球」の時代に逆戻りしてしまうかもしれません3。
「慎重に考え、大胆に行動する」ということが、これからのプロ野球、とりわけ球団経営者たちには求められているといえるでしょう。
1 加藤良三, ファンの皆様へ. 2011年3月17日. http://www.npb.or.jp/npb/20110317comment_com_news.html (2011年3月24日閲覧).
2 日本プロフェッショナル野球協約2010第9条. http://jpbpa.net/up_pdf/1284176133-994935.pdf (2011年3月18日閲覧).
3 豊田泰光, プロ野球よ、焦るな. 日本経済新聞2011年3月24日朝刊.
外国に向けた「震災後の日本の情報」の積極的な発信を
東北地方太平洋沖地震が発生してから12日が経ちました。今なお多数の避難所などでの生活を余儀なくされている人がいる中で、水道や電気、ガスなどの一刻も早い復旧や安全な住居の確保、あるいは物資の確保などが求められます。
それとともに、政府や被災をまぬかれた人々は、今、日本が諸外国からどのような視線を向けられているかに注意しなければなりません。
もしかしたら、「何をのんきな」と思われる人もいるかもしれません。確かに、目の前に被災した人たちがいる中で、遠くの外国での出来事を注意する、というのは、のんきな話かもしれません。しかし、外国の人たちが日本の実情を正しく把握していないとすればどうなるでしょうか。
断片的な情報や憶測があたかも真実であるかのように宣伝され、それによって外国の人たちが狼狽するというのは、その国の問題です。しかしながら、その国が日本そのものに対して疑惑や懸念のまなざしを向けるのなら、それによって生ずる不利益は、もはや外国だけにとどまらず、日本にも波及します。
例えば、日本に住む自国民に対して退避勧告を出したり、在日公館を西日本に移したり、あるいは成田国際空港から中部国際空港や関西国際空港に一時的に拠点を移す航空会社が出ています。これらは、一面では「自国民の保護」や「安全の確保」という観点が妥当な行動でしょう。しかし、もう一面では、憶測や推測に基づく行動であるといえます。
実際、当初は「津波で大変な被害」と伝えていた外国での報道も、途中から「原発の事故が大変なことに」という報道が多くなっています。
日本に友人がいる、あるいは日本語を読解できる、という人でなければ、自国の報道機関からの情報が大きな「情報源」となります。もし、このような人たちが「日本は原発が大変」という報道に接すればどうなるでしょうか。本当は原発の問題は日本の大部分では大きな問題ではないにもかかわらず、「日本全体が放射能に汚染されている」と考えてしまうかもしれません。
すでに、日本からの渡航者や輸入された農産物に対して放射能検査を行う国も出ており、国際社会における日本の立たされる位置は劣悪なものになりつつあります。
こうしたことは一時的な出来事かも知れません。しかしながら、もしそうであっても、真実に基づかない情報によって行動するのは、その国にとっても日本にとっても決して有益なことではありません。
このようなときだからこそ、被災をまぬかれたわれわれは、「確かに被災地は悲惨な状況だし、原発事故の問題も解決していない。しかし、日本の大部分は日常の生活を送っているのだ」ということを、海外の人たちに向けて発信しなければならないのです。
上記と同じ趣旨の内容は、すでに本欄でも指摘したことですが1、今後、ますます念頭に置いて行動することが求められるのは、「外国が日本をどのようにみているのか」ということであり、「日本は外国にどのように情報を発信するか」という点となります。
個人的な、あるいは団体としての交流の中で情報を発信するのがわれわれ一人ひとりの役割だとするのなら、国家間での情報の発信と交換は、当然ながら日本国政府の務めとなります。
政府の公式会見の場に英語の同時通訳を配置したのは「対外発信」に向けた第一歩といえます。しかし、そこにとどまらず、「自らの伝えた事柄がどのように受け止められたのか」、あるいは「伝えたいことと伝わったことにどのような差があったのか」を絶えず把握しなければ、真の情報発信が行われたとはいえません。
最初の一歩は小さくとも、次の一歩は深く、大きく踏み出さなければならないのです。
1 鈴村裕輔, 情報を発信せよ――不可欠な「日本の実情」の伝達. http://researchmap.jp/jolffibad-18602/#_18602.