研究ブログ

2016年2月の記事一覧

【追悼文】西田善夫さん――23年間のいくつかの思い出

昨日、元NHKアナウンサーで横浜国際総合競技場の初代場長を務めたスポーツアナリストの西田善夫さんが死去しました。享年80歳でした。


1958年に早稲田大学からNHKに入局した西田さんは、1964年の東京オリンピックを初めとして、夏と冬の合計10大会で実況中継を担当したほか、長く高校野球の実況中継を務めるなど、1970年代以降のNHKを代表するスポーツアナウンサーとして活躍されました。


私も、春と夏の甲子園大会の中継で、達磨省一さんと解説する西田さんの実況をしばしば耳にしたことを覚えていますし、1991年に丸善から出版された『オリンピックと放送』も、放送の現場から見たオリンピックの様子が抑制された筆致で描かれており、興味深く読んだものです。


ところで、私が西田さんに初めてお会いしたのは、青山高校1年3組の担任であった藤澤文洋先生が西田さんを講師に迎えた講演会を開催した1993年2月のことでした。


テレビや書籍で馴染み深く感じていた西田さんがよどみない口調とともに所定の45分間で話を終えられた様子は、限られた時間の中で出来事を的確に伝えるアナウンサーの力量を実感するには十分なものでした。


あるいは、早稲田大学在学中、友人と映画について議論した際に「当時、「監督の名前で見る映画を決めない」と生意気なことを言ったものです」と話されたことは、ブラウン管を通して感じられた率直な人柄を反映しているものと思われました。


さらに、1992年2月に行われたアルベールビルオリンピックに実況担当として参加した際、米国や英国のアナウンサーが、大会の2か月前に崩壊した旧ソ連の選手に言及する際、これまでの習慣でつい"the USSR"や"the Soviet Union"と口にすると、慌てて"former"と言い添えていたという逸話などは、放送の現場を髣髴とさせるものでした。


その後、西田さんはアメリカ野球愛好会に入会されたため、会の定例会合などで親しく交流させていただきました。


例えば、NHKが1977年に初めて大リーグのワールド・シリーズの中継を行った際、先輩のアナウンサーがいたために自分の担当にはならないだろうと思っていたら、幹部から「西田君、君がやりたまえ」と指名を受けたことや、事前に万全の体制で中継に臨むため、球界で最も大リーグに精通していたパシフィック・リーグの伊東一雄広報部長に適切な人材の斡旋を打診したところ、当時中央大学に在籍していた福島良一さんが適任であると紹介されたこと、あるいは現地の映像を東京のスタジオで実況するオフチューブ方式のため、打球が画面から見えなくなった際にどのように実況するか苦心したことなど、日本における大リーグ中継の草創期の歴史を直接伺えたのは、貴重な機会でした。


また、2005年11月に私が最初の単著『MLBが付けた日本人選手の値段』を講談社から出版した際に西田さんにもご覧いただいたところ、数日後に「大変読みごたえのあるご本でした。今度はMLBとメディアの関係も扱ってください」というお電話を頂戴したことは、大変ありがたく、また、2007年の二冊目の単著『メジャーリーグに日本人選手が溢れる本当の理由』で「放映権ビジネス」に焦点を当てて球団の経営を分析する契機となったものでした。


このように、西田さんとの思い出は様々ながら、特に印象深いのは、2007年11月25日(日)のアメリカ野球愛好会創立30周年記念パーティーでの出来事でした。


席が隣同士になったこともあり、西田さんにパリーグの記録部長を務めた千葉功さんが特別表彰により野球殿堂に入ることが出来るか尋ねたところ、「(特別表彰)委員の中にそういった方面(記録)に関心があって、しかも正当に評価できる人がどれだけいるか心もとないし、(2005年に)志村(正順)さんの殿堂入りがあったから、私も強く意見をするのが難しくなって」というお返事がありました。


西田さんの回答は、「殿堂入り」を巡り、特別表彰委員の間の関係がいかなるものであるかを示唆しており、言外の含意も含めて印象深く感じられたものでした。


それだけに、2011年頃から体調を崩し、2012年度でアメリカ野球愛好会を退会されたことは、残念なことでありました。


「スポーツは音を消しても楽しめるが、実況は音を消してしまえばそれで終わり。実況とはあくまでスポーツを視聴者によりよく伝えるための介添えだと思う。だからこそ、視聴者に感動を押し付けるようなスポーツの実況をしてはいけない」と、俯瞰的で沈着な実況を続けてきた西田さんの「教え」が次の世代に伝えられ、日本のスポーツ中継がより従事することが期待されるところです。


<Executive Summary>
Memories of Mr. Yoshio Nishida (Yusuke Suzumura)


Mr. Yoshio Nishida, a former announcer of the NHK and the president of the International Stadium Yokohama, has passed away at the age of 80 on 28th February 2016. Today I rememer some memories of Mr. Nishida sice 1993.

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日本の「報道の自由」を損なう高市総務相の「電波停止発言」

2月21日(日)、Wikitree Global Editionに私の最新のコラム「日本の「報道の自由」を損なう高市総務相の「電波停止発言」」が掲載されました1


下記に記事をご紹介しますので、ぜひご覧下さい。


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日本の「報道の自由」を損なう高市総務相の「電波停止発言」
鈴村裕輔


高市早苗総務大臣は、2月8日(月)の衆議院予算委員会で、「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたってあり得ないとは断言できない」と発言し、放送局が政治的な公平性に欠ける放送を繰り返した場合の電波停止の可能性に言及しました。


さらに、翌日の衆議院予算委員会でも高市総務相は「私が総務相の時には電波停止はあり得ない」としたうえで「将来にわたって罰則を一切適用しないとまで担保できない」と語り、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返し報道した場合、電波停止を命じる可能性に再び言及しました。


高市総務相の一連の発言を受け、野党からは「放送局の萎縮を招く」といった批判が相次ぐとともに、与党内でも「政府が統制を強めることには基本的に慎重であるべきだ」との声が上がっています。


これに対し、菅義偉官房長官は「当たり前のことを法律に基づいて答弁しただけだ」と強調するとともに、総務省は2月12日(金)の衆院予算委員会理事懇談会で、放送法が定める放送局の政治的公平性について「一つの番組ではなく、放送局の番組全体で判断するとの従来の解釈に何ら変更はない」とする政府統一見解を示し事態の鎮静化を図っています。


確かに、安倍晋三首相が、森喜朗内閣の官房副長官であった2001年1月に、旧日本軍の従軍慰安婦問題を裁く民衆法廷を扱ったNHKの番組について、放送前に内容に偏りがあるなどとして「公正中立の立場で報道すべきではないか」とNHK側に指摘したように、政府や政権党が放送事業者の放送する番組の内容に介入することは決して珍しくありません。


また、政府高官や権力者による放送局への圧力の行使としては、NHKの会長人事を主導した田中角栄首相や中曽根康弘首相の名前を挙げることができます。


特に、「パフォーマンス首相」とも称された中曽根氏は自らの行動が周囲にどのような影響を与えるかに絶えず注意するとともに、報道機関の報じ方が自らの人気を左右することを熟知した政治家でもありました。


実際、中曽根氏は首相在任中、後にNHKの会長となる島桂氏を2か月に1度程度の割合で呼び出し、ニュース番組の内容を文字化した書類を基に、NHK報道のあり方に詳細な意見を述べていたことは、公知の事実です。


しかも、日本において放送事業は免許制ですから、現在、放送局側が何らかの動きを示していない中で規制当局である総務省を所管する高市氏が電波停止にまで踏み込んで発言したことは、放送局に対して安倍政権が圧力をかけたと受け取られてもおかしくありません。


もちろん、一党一派の意見のみを報道することは、多様な意見が存在する現在の日本の状況からすれば、偏向的といわれかねません。


しかしながら、「政治的に公平であること」という放送法第四条の規定は、どれほど番組の内容を検証しても「挙証がきわめて困難」であることは、1964年に総務省の前身の一つであるの郵政省が臨時放送関係法政調査会に提出した文書の中で自ら認めているところです。


何より、政府の意見に反対する報道をすれば政治的に公平でなく、政府の見解を放送することが政治的に公平であるとするなら、もはやそのような状況の中では報道の自由が保証されているということは出来ないでしょう。


その意味でも、今回の高市大臣の発言は、日本における報道の自由を損なうことになりかねない、憂慮すべき事柄であるといえるのです。
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1 鈴村裕輔, 日本の「報道の自由」を損なう高市総務相の「電波停止発言」. Wikitree Global Edition, 2016年2月21日, http://www.wikitree.jp/story/10149.


<Executive Summary>
Internal Affairs Minister Takaichi' Comment Harms Freedom of the Press (Yusuke Suzumura)


My latest column "Internal Affairs Minister Takaichi' Comment Harms Freedom of the Press" is available on Wikitree Global Edition on 21st February 2016. Today I show the Japanese version to readers of this weblog.

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民主党と維新の党は「野合批判」を意に介するな

昨日、民主党の岡田克也代表と新の党の松野頼久代表が国会内で会談し、3月中に両党が合流するなど、7つの事項に合意しました1


今回の合意により、1998年に旧民主党を存続政党とし、民政党や新党友愛が合流して現在の民主党が発足した先例に倣い、民主党を存続政党とし、大半の議員が離党して合流後の政党に戻る方式が採用されることになります。


両党の合流は、今夏の参議院選挙に向け、自民党に対抗する態勢を築くために勢力の結集を図るものであり、とりわけ維新の党の組織力が弱いことを考えるなら、妥当な戦略であるといえるでしょう。


その一方で、消費税率引き上げに反対し、労働組合に依存するあり方を批判して民主党を離党した維新の党の松野代表に「なぜ“復党”するのか、説明責任が求められる」という指摘が寄せられ、あるいは、維新の党の衆議院議員21名のうち民主党出身者が10名であることから、新党は新味を欠くと指摘されている点2は、今後与党側や維新の党から分裂したおおさかい維新の会などから新政党への批判として寄せられることは確実です。


周囲からの批判については民主党の岡田代表は「われわれはしっかりと大きな方向性で綱領を作り、理念、政策を一致させ、安倍政治に代わる新しい政治を行っていく。そういう新党だ」と答え、選挙目当ての野合には当たらないとの認識を示しています1。


もちろん、いかなる政党であれ、政策上、あるいは戦略上の相違があることは明らかです。


また、両党の合同を復古主義的な政権への危機感の表れとする木村草太氏の見方や、両党とも国際秩序への関与の仕方より、党内など「内輪」の納得を優先させており、合流は内向き志向を強める世界的な政治潮流の1つの表れともいえると捉える櫻田淳氏の意見3については、一件妥当であるように思われるものの、前者の場合は両党を高く評価しすぎですし、後者に関しては選挙に勝つことが何より重要であるという政界の実態からすれば、「国際秩序への関与の仕方」は議席を確保した後の話に過ぎないということは容易に推察されるところです。


何より、1955年11月15日に自由党と日本民主党が合併して自由民主党が誕生した際も、岸信介のような保守派から松村謙三のような親中派までを含んでいたことを考えれば、新たに誕生する政党には、「ありゃ、野合だ」といった批判を意に介することなく、自民党に対抗出来るだけの、明快な理念と具体的な政策の提示が不可欠となります。


そして、もし理念や政策の提示が出来ないとき、新しく誕生する政党は参議院選挙の終了とともに内紛を起こし、再び分裂することでしょう。


1 民主・維新が党首会談を開き合流を確認. 民主党, 2016年2月26日, https://www.dpj.or.jp/article/108471/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E3%83%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%8C%E5%85%9A%E9%A6%96%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%8D%E5%90%88%E6%B5%81%E3%82%92%E7%A2%BA%E8%AA%8D.
2 民主・維新合流 「野合」批判をどうはね返すか. 読売新聞, 2016年2月27日朝刊3面.
3 民・維の政策、改憲・TPPで温度差. 日本経済新聞, 2016年2月25日朝刊4面.


<Executive Summary>
Establish a Strong Party: A Merger of the Democratic Party of Japan and the Japan Innovation Party (Yusuke Suzumura)


The Democratic Party of Japan and the Japan Innovation Party agreed to merge by the end of this March on 26th February 2016. By this agreement, they have to do their best to establish a strong party to fight against the Liberal Democratic Party.

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二・二六事件からわれわれは何を学ぶべきか

本日、陸軍のいわゆる青年将校が政府の転覆と天皇中心の政権の樹立を目指した二・二六事件が1936(昭和11)年に発生してから、80年目を迎えました。


1932(昭和7)年の五・十五事件後も非常時の暫定政権として斎藤実内閣が作られ、情勢の安定後に政党が再び政権を担当するというのが、二・二六事件前の人々の認識でした1


しかし、斎藤実に続いて岡田啓介が組閣の大命を受けたことで二代続けて軍人内閣が生まれ、しかも政党への政権の返還を前提とした斎藤内閣に対して、岡田内閣では暫定色が後退したことによって、政党政治の復活は難しさを増していました。


そのような中で起きた二・二六事件によって政党内閣制が崩壊し、軍の政治への介入が本格化したことは、周知のとおりです。しかも、軍部の台頭は日本国内の新英米派や国際協調主義の衰退と直結しており、1938(昭和13)年の近衛文麿内閣による「東亜新秩序声明」は、アジア諸国との連帯を強調することで英米主導の帝国主義や植民地主義を否定するものであり、日本の国際的な孤立は一層深まったのでした。


ところで、二・二六事件が起きた背景の一つとして考えられるのが、五・十五事件の首謀者に対する処罰の軽さでした。


すなわち、五・十五事件は人々に政党政治の腐敗を除くことを目的とした一種の義挙とみなされたため、首謀者に対する量刑は軽いものとなりました。


このような五・十五事件の首謀者に対する処罰の軽さは、体制の変革を求めた二・二六事件の首謀者たちに、目的が正しければ手段は問われないという誤った印象を与えるには十分なものであったと言えるでしょう。そして、こうした誤った印象の直接の淵源となったのは、1868(明治元)年に東京に行幸した明治天皇が泉岳寺に勅使を派遣し、大石良雄らを嘉賞したことです。


徳川幕府の定める法の秩序に背いて主君の仇討を行った赤穂浪士たちは、市井の人々の賞賛の対象とはなっても、目的のためには手段を択ばないというあり方によって、体制の維持のためには決して許されない存在です。


それにもかかわらず、明治天皇が大石らを弔い、義士として深く賞賛する旨の勅宣と金幣を賜ったこと2は、新政権の頂点に立つはずの天皇自らが、目的が適切であれば行動の内容のいかんは問われないことを宣言したに等しいものでした。


このことは、五・十五事件の首謀者の処罰で証明されることになり、17名の軍人や民間人が処刑された二・二六事件も、高橋是清大蔵大臣や斎藤実内大臣を殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠したという事柄の重大性にかんがみれば、必ずしも重い処罰ではないといえるでしょう。


その意味において、二・二六事件や五・十五事件、あるいは日本が国際的に孤立する契機となった満州事変、日中戦争の発端の盧溝橋事件など、首謀者が処罰されないか、軽微な処分で済まされた事例が多いことは、単なる偶然ではなく、むしろ明治維新の直後から培われたあり方であったということが可能となります。


それだけに、果たして「目的が正しければ手段は問われない」あるいは「目的が純粋であれば、罪も罪ではなくなる」といった態度が今日のわれわれから一掃されたのか、それとも今もなお形を変えて残っているかを考えることは、歴史上の出来事となった二・二六事件を今日の教訓とするためにも決して無駄な取り組みではないのです。


1 この点については、村井良太の『政党内閣制の展開と崩壊 1927-36年』(有斐閣、2014年)に詳しい。
2 泉岳寺大石良雄等へ金幣ヲ賜フ勅宣並ビニ記録. 鹿児島県立図書館, 掲載日不詳, http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/files/2011/05/103_%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84%E7%AD%89%E3%83%98%E9%87%91%E5%B9%A3%E3%83%B2%E8%B3%9C%E3%83%95%E5%8B%85%E3%81%9B%E5%AE%A3%E4%B8%A6%E3%83%93%E3%83%8B%E8%A8%98%E9%8C%B2.pdf (2016年2月26日閲覧).


<Executive Summary>
What Shall We Learn from the 26th February Incident of 1936? (Yusuke Suzumura)


The 26th February 2016 is the 80th anniversary of the 26th February Incident of 1936. On this occasion we examine the meaning of this incident for us.

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平成28年度国公立大学二次試験開始に際しての雑感:平成8年度試験の場合

本日から、国公立大学において平成28年度入学者の二次試験が始まりました。受験者の皆さんには、これまでの勉学の成果が十分に発揮されることを願うばかりです。


ところで、私が前後2回にわたって大学の入学試験を受けたことは、昨年の本欄でご紹介したとおりです1。そして、2回目の受験、すなわち、高校を卒業し、いわゆる浪人生として1年間を過ごした後に受けたのは、今日からちょうど20年前の1996年2月25日(日)のことで、志望の対象は東京大学文科I類であり、会場は東京大学駒場キャンパスでした。


会場に向かうために京王井の頭線駒場東大駅で下車した受験生がひしめき合うように2階の改札口の前に列をなしている光景と、改札口の外から会場へと至る道に駿台予備校、河合塾、代々木ゼミナールや東進ハイスクール、あるいはその他の中堅や小規模の予備校などが幟や横断幕を掲げ、教職員があるいは「がんばってください」と受験生に声をかけ、あるいは様々な資料などを配布している様子は、1年間の受験勉強の結果が問われる日がついに訪れたことを実感するには十分なものと思われました。


文科系の試験は第1日目が国語と数学、第2日目が社会と外国語でありました。


当時の私が理解した自分自身の学力の水準は、国語、世界史、日本史は他の受験生と同程度か場合によっては優勢で、英語は他の受験生と同程度か場合によっては劣勢、そして数学は劣勢、というものでした。


自己理解と当時の模擬試験の結果を総合すれば、合否の分かれ道が数学の結果にあることは明らかであり、センター試験が終わった後の二次試験に向けた勉強も、自ずから数学に重点が置かれました。


こうして迎えた数学の試験では、出題された4問のうち1問を完答し、2問目の半分程度まで回答して答案を提出しました。


前年の文科系の数学については「東大の二次試験の歴史の中で最も難しかった」、「1問完答できれば合格」などという話がまことしやかにささやかれていただけに、前年度の反動で易化したとしても、1問と半分を解いたということは少なからぬ自信となったことは間違いありませんでした。


しかし、100分間の数学の試験が終了して駒場東大前駅に戻る途中で、この自信が現実から乖離したものであることを実感することになります。


何故なら、私とは別の教室で受験していた駿台予備校で一緒の他の受験生3名と顔を合わせ、当然のように試験の出来栄えに話が及んだ際に、3名のうち2名が2問を完答し、1名が2問と半分を回答していたからです。


わずか3名の情報ではあったかもしれないものの、それでも3名の話は数学の能力の彼我の差を実感するには十分すぎるほどでした。


そして、第2日目の世界史と日本史、英語の試験は予定通り受けられたという手ごたえがあったものの、最終的には東京大学文科Iは不合格となりました。


もちろん、数学の結果だけではなく、自信をもって臨んだ国語や世界史、日本史の回答の内容も不十分であったかもしれませんし、あるいはどの教科も東京大学の二次試験に合格するだけの水準に達していなかったかもしれません。


それでも、日が傾き始めた駒場キャンパスの構内を歩きつつ、「数学、2問解いた」という言葉を耳にした時の「あ、これはしまった」という感触は、今でも私に強く刻印されています。


これが、「国公立大学の二次試験開始」という話題を目にするたびに絶えず思い起こされる、ごく私的な体験であります。


1 鈴村裕輔, 平成27年度国公立大学二次試験開始に際しての雑感:平成7年度試験の場合. 2015年2月25日, http://researchmap.jp/jorjb2mif-18602/.


<Executive Summary>
Miscellaneous Impressions for the First Period of the Secondary Examination of National and Public Universities of 1996 (Yusuke Suzumura)


The First Period of the Secondary Examination of National and Public Universites is held on 25th and 26th February 2016. In this time I remember miscellaneous impressions for my first experience of the secondary examination in 1996.

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【開催5日前】研究会「1930年代の日米関係」

2月4日(金)、2月15日(月)の本欄でもお伝えした通り、来る2月29日(月)、私が研究代表者を務める平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響 :英語版 『東洋経済新報』を 例として」(研究課題番号:15K16987)では、第3回研究会を開催します。


今回は池井優(慶應義塾大学)をお招きし、「1930年代の日米関係―野球とオリンピックを中心に」と題して行います。


どなたでもご参加いただけますので、興味のある皆様のご来場をお待ちしております。


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平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
 「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響 :英語版 『東洋経済新報』を 例として」(研究課題番号:15K16987)
 第3回研究会「1930年代の日米関係―野球とオリンピックを中心に」


[開催日時]
2016年2月29日(月)、18時30分から20時30分


[会場]
 法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー25階C会議室


[報告者]
 池井優(慶應義塾大学名誉教授)


[論題]
1930年代の日米関係―野球とオリンピックを中心に


[報告要旨]
1930年代の日米関係を文化交流、特に野球とオリンピックを中心に分析する。
1931年の大リーグ選抜軍の来日、1932年のロサンゼルス・オリンピック、1934年のベーブ・ルースら大リーグチームの来日、そして1936年のIOC総会で決定した1940年の東京オリンピック開催とその返上をめぐるアメリカの動きなどを考察する。


[司会]
 鈴村裕輔(法政大学)


[参加料]
 無料(どなたでもご参加いただけます)


[主催]
 当科研研究代表者・鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所、研究課題番号: 15K16987) ​


[後援]
 法政大学国際日本学研究所


[詳細情報]
http://hijas.hosei.ac.jp/tabid/1431/Default.aspx
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<Executive Summary>
The Research Meeting "The Japan-US Relations in the 1930s: Focusing on Baseball and the Olympic Games" (Yusuke Suzumura)


The 3rd Research Meeting for the Grants-in-Aid for Scientific Research (Research Theme: The Influence of the Transmission of Information Overseas by the Private Organization: In the Case of The Oriental Economist; Research Project Number: 15K16987) will be held at the Hosei University on 29th February 2016. In this time Professor Dr. Masaru Ikei of the Keio University will make his speech titled "The Japan-US Relations in the 1930s: Focusing on Baseball and the Olympic Games".

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【開催1か月前】HIJASワークショップ「環境とリズム」

来る3月22日(火)、法政大学国際日本学研究所環境・自然研究会ではワークショップ「環境とリズム:和辻哲郎の倫理学を手掛かりに」を開催します。発表者は法政大学国際日本学研究所客員学術研究員で東京大学大学院学際情報学府博士後期課程に在籍中の犬塚悠さんです。


発表では、和辻哲郎の環境論の再評価を行い、今日の倫理学的な課題への応用の可能性が検討される予定です。


興味、関心があり、日程の合う方は、ぜひご参加ください。


なお、詳細は以下の通りです。


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法政大学国際日本学研究所環境・自然研究会ワークショップ
「環境とリズム:和辻哲郎の倫理学を手掛かりに」

          

[日時]
2016年3月22日(火)、16時から18時


[会場]
法政大学九段校舎別館3階研究所会議室6


[発表者]
犬塚悠(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員、東京大学大学院学際情報学府博士後期課程)
        

[司会]
安孫子信(法政大学国際日本学研究所所員、文学部教授)


[備考]
どなたでもご参加いただけます(事前申込不要)


[詳細情報]
法政大学国際日本学研究所公式サイト
http://hijas.hosei.ac.jp/tabid/1437/Default.aspx
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<Executive Summary>
Workshop of the Research Unit on Environment and Nature of the HIJAS (Yusuke Suzumura)


The Research Unit on Environment and Nature of the Hosei University Research Center for International Japanese Studies will hold a workshop on 22nd March 2016. In this time Ms. Yu Inutsuka make her presentaion on a possibility of applying Watsuji Tetsuro's ethics on contemporal issues.

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【追悼文】ウンベルト・エーコさんの思い出

現地時間の2月19日(土)、イタリアの哲学者で小説家のウンベルト・エーコさんが死去しました。享年84歳でした。


エーコさんというと1980年に発表した小説『薔薇の名前』(原題:Il Nome della Rosa)で著名であり、私も『薔薇の名前』を通してエーコさんの名前を知りました。すなわち、私がエーコの名前を知ったのは、1991年3月3日(日)に映画版『薔薇の名前』(原題:The Name of the Rose、1986年)をテレビ朝日の「日曜洋画劇場」で鑑賞したときです。


ショーン・コネリーの主演ということで鑑賞した映画版は、暗鬱とした画面の様子が重苦しく思われ、淀川長治さんの「これね、ベストセラーのね、映画化なんですねぇ」という解説もいまひとつ腑に落ちないところでした。


やがて1996年に法政大学文学部哲学科に入学し、必修科目の「西洋哲学史I」を受講した際、担当講師の川田親之先生が講義の合間に「アリストテレスは今でもわれわれの日常生活の中で生きている」という事例の一つとして『薔薇の名前』を挙げられました。


古代哲学を中心に扱うの講義の中で『薔薇の名前』が出たことは意外ではあったものの、毎回示唆に富む講義をされ、重要な参考文献を挙げられる川田先生が言及した本であるだけに、一読しようと思ったのでした。こうして手にしたのが、ウィリアム・ウィーバーが1983年に翻訳した英語版でした。


神保町の北沢書店でThe Name of the Roseのペーパーバックを購入したのが1996年7月で、大学への通学の電車の中で3か月ほどかけて通読しました。日に日に表紙が朽ち、背表紙もちょうど真ん中のあたりで縦に筋が入った頃にアリストテレスの『詩学』における笑いについての論考が登場したときには、「あ、これが川田先生の言っていた」と、膝を打つ心持ちになったものです。


残念ながら、イタリア語を体系的に学んだことがなかった私には、原典と英語版の対応の正確さがいかばかりかは分かりませんでした。それでも、ページをめくるたびに原稿用紙にインクがにじむ様子が目に浮かんだのは、ウィーバーの翻訳のたまものか、それとも私の想像力のたくましさの産物かと思われました。


その後、1995年の小説『前日島』も英語版のThe Island of the Day Beforeを読んだものの、こちらはなじみにくく、表紙の鮮やか以上に具体的な印象が残らなかったのでした。


それとともに、記号学者としてのエーコさんについては概説書を紐解く程度で、最後まで詳細に読むことがなかったことも、今では懐かしい思い出の一つといえるでしょう。


<Executive Summary>
A Memory of Professor Dr. Umberto Eco (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Umberto Eco, a philosopher and an author, has passed away at the age of 84 on 19th February 2016. He is well-known author by his best-selling novel The Name of the Rose published in 1980.

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【映画評】『オデッセイ』

昨日は、19時6分から20時28分まで、新宿バルト9シアター6において、映画『オデッセイ』(原題:The Martian、2015年)を鑑賞しました。


寸評は以下の通りです。


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ジュール・ベルヌの『二年間の休暇』には15人の少年がいたし、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』も、「君たちはイギリス人なのに、何故」という凄惨な結末に至ったとはいえ、十指に余る同輩が登場した。何より孤島漂着小説の最高峰である『ロビンソン・クルーソー』も、クルーソーにはフライデーという仲間がいた。


このように考えれば、アレス3ミッションに従事したマーク・ワトニー(マット・デイモン)の不運の度合いは際立っている。なぜなら、宇宙飛行士のワトニーは火星探索中に嵐によって本隊とはぐれ、火星に一人で取り残されることになったからだ。


しかも、ワトニーの置かれた状況は絶望的だ。アメリカ航空宇宙局(NASA)が次に火星探査隊を派遣するのは4年後のことであるにもかかわらず、手元に残された食糧は1年分しかない。このまま食糧を漫然と消費し続けて最期の時を待つか、それとも何とかして4年間生き延びるか、ワトニーに与えられたのは、成功よりも失敗する可能性がはるかに高い2つの選択肢だ。


だが、誰が見ても窮地に追い込まれているはずのワトニーは、至って楽天的である。もちろん、大小様々な失敗に直面するたびに感情を爆発させることはある。それでも、すぐに気持ちを入れ替えて次の進路を選ぶ姿は、もしわれわれが、宇宙飛行士が精神的にも肉体的にも、そして知性の面でも洗練された存在であることを知らなければ、気楽な観光客と何ら変わりない。


一方、指令センターで偶然にもワトニーの生存を確認したNASAの職員たちの当惑ぶりと深刻な表情は、火星の住人と好対照をなしている。肝が据わっているのか小心なのか分からないNASA長官のテディ・サンダース(ジェフ・ダニエルズ)、一歩間違えれば根拠よりも自信が先行する火星探査統括責任者のビンセント・カプーア(キウェテル・イジョフォー)、アポロ13号のジーン・クランツに比べれば実直さで劣り、裏工作の能力で勝る主任管制官・ミッチ・ヘンダーソン(ショーン・ビーン)、あるいは勇気を振り絞って下す判断が失敗を招くアレス3ミッションの指揮官メリッサ・ルイス准将(ジェシカ・チャステイン)などは、ワトニーを引き立たせるための優れた脇役たちだ。


こうして、絶望的な状況、慌てふためく人々、そして楽観主義者の主人公の三つが揃うことで、『オデッセイ』(原題:The Martian、2015年)の物語は回転数を速めながら展開する。


アポロ1号の火災やアポロ13号の遭難と地球への帰還、あるいは『2001年宇宙の旅』や『アルマゲドン』、『サンシャイン2057』などの映画を連想させる場面が随所に挿入されたことは『オデッセイ』を既視感の強い作品にしているし、中盤に登場する中国航天局の「太陽神計画」といった安手の設定は見るものの失笑を誘うだけでなく、中国への配給をも視野に入れた政治的な思惑さえ推察させる。


こうした点は、原作者であるアンディ・ウィアーの能力の限界であろうし、現在の米国が置かれた宇宙政策上の環境に強く制約されているといえよう。


それでも、『オデッセイ』が魅惑的な映画であることに変わりはない。


例えば、砂嵐による遭難後に意識を取り戻してから傷口を縫合するまでの一連の動作は、ワトニーの判断力の高さと冷静さ、忍耐心、そして技術の正確さを印象的に描写する。あるいは、中盤でシカゴ大学出身であることを口にし、終盤で両親に言及する以外はワトニーの来歴が一切語られず、ワトニー自身も過去を振り返ることなく生き延びることを目指してひたすら前に進もうとしたことは、画面には明るい緊張感をもたらした。


さらに、ワトニーが後世の記録とするために日々の体験や出来事を映像に録画するという設定は、日常生活と乖離した宇宙空間を迫真的に描く場合に陥りやすい説明的な台詞の連続を避けることに成功したことも『オデッセイ』の見逃せない特徴といえる。


かつてのスモークの代わりに砂嵐を要所で効果的に活用し、時には芽生える若葉に焦点を当て、次の場面では赤くただれた火星の表面を走る探査車を画面の中心に小さく映し出すのは、スコットの色彩への優れた感性のなせる業だ。そして、ワトニーの爪に深く食い込んだ泥やただれた皮膚、あるいはやせ細った体は、視覚を通して見る者にワトニーの火星での生活の過酷さを連想させる。


火星への有人探査は2030年以降に計画されているという現実に照らし合わせれば、およそ荒唐無稽でしかない話は、監督であるリドリー・スコットの手腕に加え、コンピューターグラフィクスと生身の俳優たちの融合によって、生気を与えられたのである。


1970年代のディスコ音楽が多用され、火星のIPアドレスが「10.030.080」ということも含め、『オデッセイ』は前向きで明るい漂流物語という新しい分野を切り開いたといえるだろう。
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<Executive Summary>
Cinema Review: "Martian" (Yusuke Suzumura)


I watched a movie Martian staring by Matt Damon and directed by Ridley Scott at Shinjuku Balt 9 on 20th February 2016. Today I publish my review of this movie.

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【実施報告】「世界の中の日本と日本学」2015年度秋学期研修旅行(2)

去る2月8日(月)から2月15日(月)まで、私が法政大学社会学部で担当させていただいている演習「世界の中の日本と日本学」の2015年度秋学期研修旅行を実施しました。今回は、演習の受講生3名が参加し、イタリアのヴェネツィアとレッチェを訪問しました。


前回の第1日目から第3日目の報告1に続き、今回は、研修旅行の前半となる第4日目から第6日目までの概要をご紹介します。


■第4日目(2月11日[木])
今回は、ヴェネツィアからローマのフェウミチーノ空港を経由してブリンディシ空港に到着した後にレッチェに向かい、市内の探訪を行いました。


レッチェ市内に到着したのが17時30分過ぎということもあり、日の入りの様子を眺めつつ、決して広くはないものの紀元前12世紀以来の遺跡が見出され、あるいは16世紀以降に建てられたバロック様式の建造物の中に最新の設備を備えた店舗が構えられている様子などを確認しました。


いくつかの店舗で、歴史的な建造物の内部に最新の設備を導入し、外観と内装との調和を図りつつ活用している姿を見聞することができました。
 

夕食をFratelli La Bifalaでいただいた後、レッチェの旧市街の際にあるイオス・ホテルに投宿しました。
 

■第5日目(2月12日[金])
研修旅行の第5日目は、前日に引き続きレッチェを探訪し、ドゥオーモ、円形闘技場などの他、レッチェの旧市街の各所を巡検しました。
 

特にドゥオーモでは、神父が懺悔室の中で信者の来訪を待ちつつ聖書を紐解く姿が認められるなど、日常生活の中に息づく教会のあり様を実感することができました。


その後、16時58分にブリンディシ空港を出発し、フェウミチーノ空港を経て22時25分にホテル・ヴェネツィアに戻りました。


学生の皆さんからは今回のレッチェの訪問について「あともう一泊したかった」、「来られて本当によかった。また来たい」、「旅行ガイドには2ページしか紹介されていないのが不思議なくらい、すごく素敵な街だった」という声が聞かれ、レッチェの訪問は有意義であったと思われました。


何より、私がレッチェを訪問するのは、2008年9月に開催されたヨーロッパ日本研究協会(EAJS)の第13回大会に参加して以来8年ぶりのことで、「いつかまた訪れたいが、いつ訪れられるか分からない」と思っていたレッチェを再訪することができたのも、学生の皆さんの賛同があったからこそと、改めてありがたく思われた次第です。


■第6日目(2月13日[土])
ヴェネツィアに戻った第6日目は、作曲家のワーグナーが生前最後に訪れた地である「死者の島」サン・ミケーレ島を見た後、ガラス細工で著名なムラーノ島とレース細工で知られるブラーノ島を訪れる「三島めぐり」の一日となりました。


ムラーノ島ではガラス細工の販売店や工房のほか、サン・ピエトロ・マルティレ教会や、2007年に制作された「ガラスの星」と題する作品などを見学し、ブラーノ島でもレース細工の販売店やサン・マルティーノ教会の様子を見聞しました。


さらに、ヴェネツィア本島に戻った後は、サン・ジョバンニ病院を見学したのち、Fiaschetteria Toscanaで夕食をいただきました。


これで、所期の計画はすべて終了し、第7日目となる2月14日(日)にマルコ・ポーロ空港からカタールのハマド国際空港を経由し、2月15日(月)の22時20分に東京国際空港に到着して今回の研修旅行は無事に終了しました。


1 鈴村裕輔, 【実施報告】「世界の中の日本と日本学」2015年度秋学期研修旅行(1). 2016年2月16日, https://researchmap.jp/jo2f8vqk9-18602/#_18602.


<Executive Summary>
Brief Report of the Winter Study Tour of 2016 (2) (Yusuke Suzumura)


The Winter Study Tour of 2016 of the Seminar 3 of the Hosei University Faculty of Social Sciences titled "Japan and Japanese Studies in the World" held at Italy on 8th - 15th February 2016. I present a first brief report of this tour.

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