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2012年5月の記事一覧

能とファンタジーに思う

本日3回目の投稿で、ゴールデンウィークではこれが最後の投稿になる。4/22は国立能楽堂に橘香会を観に行った。演目は仕舞『養老』、舞囃子『桜川』、仕舞『二人静』『駒之段』『枕之段』、能『隅田川』、仕舞『老松』『井筒』『鐘之段』、狂言『入間川』、能『望月』と豪華なラインナップだった。

 

仕舞『養老』は脇能物で、所の者が養老の水を飲みに来て若返る下りだ。目出度さを象徴しているが、まだ幼い梅若万佐志さんが舞っていた。これからの期待の星なのだろう。『二人静』は鬘物で、吉野の菜摘女が舞うと静の霊自身も側に寄り添って義経を慕って舞うというある意味ホラーな要素を含む舞だが、シテの静とシテヅレの菜摘女がピッタリと息を合わせて同時に舞わなければならない、かなり難しい曲だ。『駒之段』は雑物『小督』からで、清盛の権勢を恐れた小督の局を仲國が連れ戻そうとするもので、小督の局の揺れ動く感情を仲國の舞が現すという一風変わった舞が特徴だ。『枕之段』は雑物『葵上』からで、『源氏物語』で葵の上に取り憑いた六条御息所の回心が描かれる。『老松』は脇能物で、菅原道真の詠んだ梅に続き、松も都から筑紫まで飛んで来たが、この松の精が泰平の御代を祝して舞う物だ。

 

『井筒』は鬘物で、在原業平を恋い慕う「井筒の女」紀有常の女が、たとえ男が浮気をしても女は男のことを変わらず思い続けるというもので、今の世の間隔からは少しずれた曲だ。「明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も、破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり」という最後の下りの、夢が破れて破れた葉が眼に入ってくる表現などは粋だ。『鐘之段』は雑物の『三井寺』からで、子供を捜す母が夢のお告げを受けた後、三井寺の鐘を打って子供に巡り会う話だ。鐘を打ったことを咎めた三井寺の住僧と母親の仏教問答が面白い。狂言『入間川』は大名が帰国の際、周囲が止めるのも聞かず入間川を渡ろうとして深みに嵌るが、それは入間では逆さ言葉を使う風習があるのを知っていて渡ってもいいと判断したためだと言い訳をすることから巻き起こるドタバタ劇だ。最後の方は逆さ言葉なのか何なのかよく分からなくなるコメディで、野村萬斎さんの演技が堪能できた。

 

舞囃子『桜川』は雑物で、自分を身売りして母を助けた子供を捜す狂女となった母が、桜川で我が子を思い出す最中、遂に再会を果たすものだ。川に落ちた桜の花びらを掬うシーンが見所だ。『桜川』と対照的なのが雑物の能『隅田川』だ。こちらも狂女となった母が我が子を捜すが、子供が亡くなったことを知ってハレの狂乱からケの悲哀の情へと立ち居振る舞いも移り変わる。母親は在原業平の歌を引いて我が子への想いを語るなど教養のある人物で、念仏により我が子の姿が垣間見えるようになるが、それを抱きしめることも叶わず雲散霧消してしまうところが見所だ。『桜川』とは違って救いようのない結末が物悲しくて良い。

 

能『望月』は雑物で、敵討ちがテーマの古いタイプの話だ。主君を討たれた家人の経営する宿に主君の未亡人と遺児、それに敵がともに泊まったことから敵討ちの算段になる。未亡人の曽我兄弟の謡、遺児の羯鼓、シテの獅子舞が中心のエンターテインメントとなっている。

 

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能に関する思想について少し述べてみる。

 

禅などの大乗仏教の根本原理としてある「現在実有・過未無体」ということが能というものには元々根底にある。これはつまり、「すべては現在においてとらえられるとき、ほんとうに存在できるのであり、現在から切り離された過去や未来は仮に想定された存在にすぎない」ということである。これに類似した量子力学の観測者的な思想はカントやサルトルなども持っているし、アンチテーゼとしては先ほどのやなぎみわさんが芸術として提出している。

世阿弥の『至花道』には「皮・肉・骨」という概念が出てくる。皮とは観客の眼に映る演技のこと、肉とは演じあらわすプロセスのこと、骨とはそのプロセスの生まれてくる心の深層である。これは能に限らず全ての演劇の演出には必須の要素で、演出上はまず骨を議論し、肉のアイデアを出してから実際に役者に演じてもらう具体的行動は皮となる。それは中学や高校の演劇でも同じである。これら三つを体現した役者は、演出としての役割も兼ね備えていることになる。これは以前述べた「近景・中景・遠景」の演劇思想にも似ている。

能には「序・破・急」があるのは多くの人が知っていると思うが、『花習』『花鏡』に依れば五番立のうち最初の脇能物と修羅物が「序」、鬘物と雑物が「破」、切能物が「急」になるのが基本らしい(ただし、時と場合によってはこの限りではなく、観客との相互作用で判断する)。「序」は基本で、脇能物のように手の込んだ技巧なしに祝言など自然の通りに整理された歌と舞があるとその世界にすっと入って行ける。修羅物は少し技巧が入るが典拠がはっきりしていて皆のコンセンサスを取りやすいので、次に入れると良いのだろう。「破」は細かな道筋へと進めて行く段階で、鬘物のような劇的な女舞やその場その場に合わせて演目を選んだ種々雑多な雑物が良いのだろう。「急」は総括なので切能物のような鬼や精の出てくるもので当日のテーマを隠喩させるのが良いのだろう。「序・破・急」は演目に限らず、能の表現方法全てにおいて内包されている考えである。

 

能では「序・破・急」が入れ子になっているが、入れ子構造は何も能に限った訳ではない。最近C.S.ルイス原作『ナルニア国物語』第二作『カスピアン王子のつのぶえ』と第三作『朝びらき丸東の海へ』の映画をDVDで観た。ここでは現実世界と平行して存在するナルニアの世界に迷い込んだ少年少女の冒険が描かれている。ただし時間スケールはナルニアの創世に立ち会ったポリーとディゴリーの現実世界での人生とだいたいリンクするかたちで、ナルニアは創世から消滅までの時代を突き抜けて行く。つまりナルニアが小宇宙、現実世界が中宇宙、アスランは大宇宙に居るのである。これは錬金術的でも仏教的でもあって面白い。

 

ナルニアというのは別世界ではあるが、少年少女たちが英雄となれる現実世界の下層構造となっているのである。ナルニア国物語では少年少女が英雄なのはナルニアの中だけでの話で、現実では庶民であることをきちんと描いているのは微笑ましい。年をとると言うことが変わるのかも知れないが、私は「自分はこんな扱いを受けてもいいような人物ではない」ということを自分で言い出したらおしまいだと思っている。映画でもハリポタのようないわゆる美少年美少女をキャストに選ぶのではなく、普通の少年少女が配役されているのは流石だと思った。また、小説では登場する少年少女が少しずつ世代交代して話が継承されていく様子も良く出来ている。いつまでも居座ってどんどん強くなるのではなく、バトンタッチが重要なのである。個人の価値、テンプテーションへの対処や思念の実体化の話などエッセンスはいくらでもある。

 

日本ではキリスト教的要素が入ってくるのは頂けないという人が多いが、私は結構いいことが描かれているし、小説を最初に手に取って読んだ24年前に比べれば、当時は気づかなかった新しい発見がいろいろあるので、良い小説としての条件は整っていると思う。映画はディーテールでは小説には及ばないが、映画の時間尺度でそこまで表現するのは極めて困難であるし、エッセンスと話の流れを掴むだけなら映画でも十分だと思う。そう思うと『指輪物語』をエンターテインメントとして仕上げた『ロード・オブ・ザ・リング』のスタッフは優れていたと思う。

 

『ナルニア国物語』は現実世界での小さな継承と仮想世界での大きな継承によるクロニクルであることが前面に出ているが、それが潜在化しているのが『指輪物語』の方だ。こちらは物語に現れる指輪戦争の背景として膨大な資料があり、その一部は追補編として出版されているが、大部分は作者のJ.R.R.トールキンはそもそも公開することを考えずに眠らされていたものだった。顕在化するクロニクルと潜在化するクロニクルがここにはある。

 

 

私が今まで読んだ物語の中で一番惹かれているものの一つはゲーテの『ファウスト』だが、これは小宇宙としてゲーテの人生が戯曲そのものにリンクし、中宇宙はおそらくドイツの歴史そのもの(某大学の名誉教授の方も私と同じ意見のようで少し安心しました)、大宇宙は私の現段階の理解では筆舌に尽くしがたい。メフィストフェレスはファウストが死んだ後にこう述べている。

 

過ぎ去った、とは馬鹿な言葉だ。どうして過ぎ去ったのだ。過ぎ去るのと、きれいに無いのとは、全く同じことだ。永遠の創造とは、一体なんの意味だ。創造したものを、無に突き落とすなんて。過ぎ去った、ということに、なんの意味があろう。それなら初めから無かったのと同じではないか。それなのに、何かあるかのようにぐるぐる回っている。おれはむしろ永遠の虚無のほうが好きだな。

 

しかし、それまでの多くのファウスト伝説や戯曲、また20世紀のトーマス=マンなどの物語と異なり、ファウストの魂は救済され、ナルニアでも時代の継承やナルニアの消滅にあるのはおそらく同じような思想である。肉体としての人が永遠普遍ではない方がいいと直感的に思っている人は多いかも知れないが、人文科学や社会科学では対象があまりにも複雑すぎてその検証は難しいだろう。自然科学では単純なモデル系を選ぶことが不可能ではないので、検証の余地がある。このまま書いても何のことだか分からないと思うので守秘義務には抵触しないと思うが、メフィストフェレスの問いかけに宗教論でなく純粋に理学的な方法で答えを与えることも骨は相当に折れるが不可能でもなさそうだと最近思い始めている。

 

今夜0:34はスーパームーンでした。

 

世阿弥能楽論集
たちばな出版(2004/07)
値段:¥ 3,200

ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛 [DVD]
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント(2009/11/18)
値段:¥ 1,890

ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島 [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン(2011/12/16)
値段:¥ 1,490


文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
J.R.R. トールキン, 瀬田 貞二, 田中 明子
評論社(2005/12)
値段:¥ 7,560

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/05)
値段:¥ 798


ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/25)
値段:¥ 903





 

 

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岡崎公園、やなぎみわさん

本日2回目の投稿です。4/14は京都国立近代美術館に行ってやなぎみわ演劇プロジェクトVol.31924 人間機械』を観てきました。

 

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開演まで岡崎公園を歩きました。桜が奇麗です。

 

 

 

風水では東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武を合わせて四神とします。昔の京都は北に丹波高地、東に大文字山、西に嵐山、南に巨椋池があったので四神相応となり、目出度い地形でした。その結果どうなったかというと、守りにくく攻めやすい地形であったため南北朝時代に何度も攻め落とされています。呪いごとを気にしすぎるのは駄目ですね。平安神宮では南と北には建物がありますが、白虎楼、蒼龍楼に四神相応を観ることが出来ます。

 

 

 

 

右近の橘、左近の桜は太政官の名残です。

 

 

 

大極殿など平安神宮の風景。

 

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1924』は関東大震災の直後の大正期の芸術家たちの活動に関する三部作で、三作目の『1924人間機械』は村山知義にスポットが当たっています。村山知義は劇作家・演出家・美術家・小説家・ダンサー・建築家として多彩な活動履歴を持ち、村山夫婦の創った絵本(『ナクナツタアカイヨウフク』、『しんせつなともだち』『おなかのかわ』など)は現代でも読み継がれています。劇中ではダンサー姿の再構成された「村山」を軸に、三部作の道化役で日本前近代の象徴である案内嬢が「村山」により大量生産され、「人間機械」などとして観客の眼前に出現します。本作では全員が写実的で多少グロテスクな同じ仮面を被っての出演でした。アングラ・不条理・ハプニングを内包したアヴァンギャルドな劇の進行には「村山」の精神が込められているかのようでしたが、結末はゲシュタルト崩壊したかのようで現代から観た「村山」像、さらには前近代の日本そのものとも重なり、最後まで「村山」的な何かが現されていました。現代美術の展覧会の映像作品を演劇的な即興性で拡張したかのような作品で、生粋の演劇人の演劇とは大分異なる趣があったで、ご興味のある方は今後の高松公演や東京公演をご覧になって下さい。

 

原案・演出・美術のやなぎみわさんは、モデル自身が老女になった時を創造した特殊メイクで有名な『My Grandmothers』、他『Elevator Girl』『Fairy Tale』などの作品で世界的に有名な方です。以前紹介した能『山姥』とも通ずるものがあることはご自身も述べられています。

 

人目のために容貌を変える女性もいるが

私は書画を見、雨後の山を見ることを好む。

自らの法眼を手に入れ、好書を読むことが

この世で一番愉快なことである。

人は私を眼光婆婆と呼ぶ。

 

千載一遇の縁とは、良き書良き友に勝るものはなく

生涯の清福といえば、ただ椀の中の茶、爐の中の香だけである。

 

という詩文もこのことをよく形容しています。

 

やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ
東京都写真美術館
淡交社(2009/03/01)
値段:¥ 2,600


 

 

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