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2015年10月の記事一覧

かくれた次元

2015/10/08は用事を済ませた後、京都の丸善に行ってきました。京都の丸善は本の揃えと展示の仕方にバランス感覚とセンスがあって良かったです。洋書も充実していますし、京都の本文化もまだ暫くは大丈夫そうです。これを見ればTSUTAYAが如何にヤバいかが分かります。京大生協のショップルネもそもそも丸善ほど大きくないのが デメリットなのは分かりますが、昔を知っているのでもうちょっと頑張れるんじゃないか、とは思います。

例えば8日は「動物学・生態学」のコーナーでエドワード・ ホール『かくれた次元』(みすず書房)が表を向いて展示されているのを見つけたので、思わず購入してしまいました。動物学・生態学としてはちょっと異質な本ですが、その関係者でもみすず書房と聞いたら興味を惹き易いですし、少なくとも日高敏隆訳のインパクトくらいはお分かりになると思います。ある程度内容を理解していないと出来ないセレクションなので、感心しました。

「多数の人々の積極的な協力と参加なしには、一冊の本といえども出版には至らない。それらの人々すべてが不可欠だったのに、表紙のカバーに記されるのは著者の名前だけである。けれどこの最終的な産物は一つのチームの共同の努力の賜物であることを、著者はよく知っている。チームのメンバーの中には、その役割がとくにはっきりしていて、その助けがなかったら原稿が出版社の手にわたらなかったであろう人々が、いつも何人かいる。私がとくに謝辞を述べたいのは、これらの人々に対してである。」

という文章や、別種の個体間の相互作用と同種の個体間の相互作用を分けて考える、

「これら二つの進化圧の間には、きわめて重要なちがいがある。異種間の競争の舞台では、第一級のものだけが発展する。それはその種全体を包含した競争であって、一つの種の動物の異なる系統の競争ではない。これに対し、一つの種の中での競争は、品種を洗練させ、それぞれの品種の特徴的な性質を強調してゆく。いいかえれば、種内競争はその動物の出発点での形を増強するのである。」

などどこかで聞いた話、小さい頃訪ねたことがあるChesapeake Bayの島でのシカの大量死が栄養失調でなく過密によるストレスで起こること、小さい頃住んでいたRockvilleでのドブネズミを使った個体群密度の維持のメカニズムとストレスや異常行動の関係の実験、そのシンクでの(I)平常と変わらない攻撃的ドミナント・オス、(II)攻撃・性行動を忌避するオス、(III)過剰に攻撃的で性的な下位オス、(IV)汎性愛的オス、(V)外へ出て行く謎のオスのクラス分けなど、興味深い話題が多いです。10-12匹のドブネズミで一つの集団を形成するようになるなど、物性屋や相転移屋さんが興味を持ちそうな話題もありました。勿論out of dateな議論もありますが、とても面白く読めます。

そこで抜粋を幾つか。

「風の方角とにおい、踏んでいる氷と雪の感じを手掛かりとして、エスキモーは目で見ては区別のつかない氷原を一○○マイル以上も旅するのである。アイヴィリク族はさまざまの風に対してすくなくとも一二の異なった呼名をもっている。彼らは時間と空間を一つにまとめており、視覚的空間よりはむしろ、聴覚・嗅覚空間に生きているのだ。さらに、彼らの視覚的世界の表象はX光線にも似ている。彼らの画家は自分に見えようと見えまいと、そこにあると知っているものを全部描きこむ。浮氷の上でアザラシを狩る男の絵や彫刻は、氷の上にあるもの(狩人と犬たち)ばかりでなく、その下にあるもの(息を吸うため息抜き穴へ寄って行くアザラシ)も描くのである。」

人が違えば全く異なる表象空間に住んでいることを示してくれる人類学的な記述ですね。

「現代人は、スペインやフランスの洞窟の一五、○○○年以前の壁画を見る場合、あまりにも性急に結論を下さないようにしなければならない。過去の絵画の研究によって二つの事実を知ることができる。すなわち、(一)われわれ自身の反応から、われわれの視覚の体系と予期するものについていくらか知ることができ、(二)過去の時代の人間の知覚世界がそのようなものであったかもしれないという何らかの観念を得ることができるということである。しかしながら、われわれが現代において彼らの世界について描くイメージは、継ぎ合わせて復元された博物館の壷のようにつねに不完全であり、原型の単なる近似物にすぎない。人間の過去を解釈しようとする試みに対する最大の批判は、その試みが過去の視覚世界の上に現在の視覚世界の構造を投射しているということである。」

同じ社会に属している人同士でも表象は異なってくるのに、それが歴史や古典、考古学の世界になればこういうことになるのは当たり前ですね。常に謙虚な姿勢が必要です。

「偉大な芸術はまた深いところで伝達をおこなう。時によるとメッセージが完全に到達するのに、何年もあるいは何世紀もかかることがある。実際、真の傑作がその最後の秘密を譲り渡し、それについて知るべきことをすべて知り尽くしたなどということは決してありうることではない。」

「アメリカ人が日本人の行動様式をいい表そうとするとき、もっともよく使うのは、「遠回し」ということばである。日本で何年も過し、最少限ぎりぎりのところで妥協して暮してきたあるアメリカの銀行家の話によると、彼にとっていちばん扱いにくく手強かったのは、日本人が遠回しなことであった。「気狂いになるのにいちばん手取り早いのは、古い型の日本人を相手にすることだ。やつらは要点の回りをぐるぐるぐるぐるとまわるだけで、それ自体を取り上げることは絶対ないのさ。」同じように、ただちに「要点にとり組もう」とするアメリカ人の強情さが、日本人に解せないのだということを彼らはもちろん気づかない。われわれアメリカ人が、なぜいつも「論理的」であろうとするのかがわからないのである。」

きつい言い方ですが、古い日本人でなくても現在でも「要点の回りをぐるぐるぐるぐるとまわるだけ」の人物は日本人には結構いますね。例えばイギリスの場合、問題点を問題点だと把握することはきちんと出来るようで、部外者に対する体面はともかく問題は内々には処理されて数年すれば問題が解決する場合もあります。日本の場合、論理的かどうかよりも当事者の権力の大きさや対峙した場合の面倒臭さの方が優先される場合も多く、逆ギレしたり如何にして被害者を加害者に仕立て上げるのかに執念を燃やし始め、更なる状況悪化を招いて退っ引きならなくなることが多々あります。国のやり方を見ていれば分かり易いでしょう。

「私が一九五七年に日本を訪問した際、もっとも大きい成功をおさめていたイエズス会宣教師は、地方の慣習を取入れて、会の規範を侵していた。三段論法的な前置きを手短かにすませて、スイッチを入れかえ、要点の周囲をまわりながら、カトリック信者になると、どんなにすてきな感じ(日本人にはこれが大切)がするかを微に入り細を穿って述べたてたのである。」

というのもこれに類似していますね。

こんなきつい表現だけではなく、エドワード・ホールはこうも述べています。

「西洋と日本のちがいは点のまわりの動きや点への接近、交差点に対して線を強調することなどだけではない。空間の全経験のもっとも基本的な相が西洋と異なっているのである。西洋人が空間について考えたり語ったりするとき、彼らはものの間の距離を念頭においている。西洋では、ものの配置を知覚し、それに反応するように、そして空間は「空虚」だと考えるように教えられている。このことの意味は日本人と比較したとき明らかになる。日本人は空間に意味を与えるように―空間の形と配置を知覚するように―訓練されている。このことを表すことばがマ(間)である。このマ、すなわち間隔、が日本人のあらゆる空間経験における基礎的な建築上の区切りなのである。これは生花において働いているのみでなく、他のあらゆる空間の配置でもかくれた配慮となって作用している。日本人はマを扱い配置するのにきわめて熟達しており、欧米人に感嘆と、ときには畏敬をさえ、ひきおこさせるのである。空間を取扱う巧みさは、かつての首府京都の郊外にある一五世紀の禅寺、竜安寺の庭に集約的に現われている。庭の現われ方そのものが驚きをひきおこす。暗い、羽目板で囲まれた本堂を通ってある角を曲ると、突然力強い創造力の発現の前に立たされる。一五個の岩が砂利の海から立上っているのである。竜安寺を見るのは感動的な体験である。人はその秩序、静寂、極度な簡素の修練によって圧倒される。人間と自然がどうしたものか形を変えて、調和の中にあるものとして眺められるのである。ここにはまた、人間と自然の関係についての哲学的伝達がある。庭の石は、どこから眺めてもその一つがいつもかくれているように配置されている(これは恐らく日本人の心への、もう一つの手掛かりであろう)。彼らは記憶と想像がつねに知覚に参与すべきだと信じているのである。
 日本人が庭を作るのに巧みな理由の一つは、彼らは空間の知覚に視覚ばかりでなく、その他あらゆる感覚を用いることにある。嗅覚、温度の変化、湿度、光、影、色などが協同して、身体全体を感覚器官として用いるように促がす。ルネッサンスとバロックの画家の単一点遠近法に対して、日本の庭は多くの視点から眺められるように設計してある。設計者は庭の鑑賞者をあちらこちらに立止まらせる。たとえば池の真中の石に足場を与えて、丁度よい瞬間に目をあげて思いがけない見通しを見つけるようにするのである。日本人の空間の研究は人をある点まで導いて、そこで何かを自力で発見できるようにするという日本人の習慣を説明する。」

多分に仏教的な視野、まさに「かくれた次元」ですね。論理性の話と同次元と言う訳でもないようで、どちらか一つを立てるしかない競合排他的でもないと思われるので、両立は可能でしょう。最近TLでもこれに類似するある研究が評判になっているのを見かけたような気がしますが、日本人のしたオリジナリティの高い研究には、こういうものも多いような気はします。私は外国の文化習慣的なことに関してはアメリカとイギリスのことが少し分かる程度なので、大陸ヨーロッパのことすらよく分からないので、この本でのそれぞれの差異についての解説は興味深かったです。ただアラブ人の方々の記述が流石に相手を理解しているものではないように見受けられましたが、アメリカ人とアラブ人の間は論理以前に文化的にもやり難い部分があることは人類学の眼鏡を借りれば分かり易くなるような気がします。そういった意味でお薦めの本でした。『江戸しぐさ』とか馬鹿なことを言っていないで、ちゃんとした人類学者の比較文化学に基づいて何か言えばいいのに、と思います。妄想を広めて良いことなどはありません。
かくれた次元
エドワード・T・ホール
みすず書房(1970/10/30)
値段:¥ 3,132

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