錯視 日誌

2016年8月の記事一覧

ディーバーな関数論.笠原乾吉著『複素解析』(ちくま学芸文庫)

 ちくま学芸文庫からさまざまな数学書が文庫化されていることは今更ここで言うまでもないことですが,今月,また新たに一冊加わりました.
 笠原乾吉著『複素解析 1変数解析関数』.
 今回も期待を裏切らない渋い選択です.本書はもともと実教出版から1978年に出版されたもので,私も学生時代お世話になりました.

【ヘルマンダリズムと本書】
 かつて故倉田令二朗氏は数学セミナーでの伝説的な連載『多変数複素関数論を学ぶ』(1977-78)において,L. ヘルマンダーの多変数複素解析の方法を「ヘルマンダリズム」と呼びました.笠原著『複素解析』はそのヘルマンダリズムの雰囲気を醸し出している入門書と言えるでしょう.ヘルマンダリズムというのは,岡潔氏の仕事を非斉次コーシー・リーマン方程式という連立偏微分方程式を解くことに帰着させる主義を意味するものです.本書でも第5章では1変数のクザンの加法的問題が非斉次コーシー・リーマン方程式(後述)を解くことにより証明されています.クザンの加法的問題は,与えらえた極と主要部を有する有理型関数の存在を保証するミッタグ・レフラーの定理を一般化したものです.1変数複素解析の教科書でクザンの加法的問題を取り上げているものは極めて珍しいといえます.
 ヘルマンダリズムといえば,ヘルマンダー氏の本 "An Introduction to Complex Analysis in Several Variables" (1966)があり,その第1章が1変数複素解析に充てられています.正則関数の定義から初めて,測度論や関数解析を使ってルンゲの近似定理,ミッタグ・レフラーの定理,クザンの問題,ワイエルシュトラスの定理,さらにヘルマンダー氏の本を読み進めるのに必要となる劣調和関数の諸定理まで,証明を付けてわずか21ページで片づけてしまうというものです。初学者にはあまりのスピード感に恐ろしさすら感じてしまうかもしれません.
 これに比べると笠原著『複素解析』は初心者思いで,測度論や関数解析を予備知識として仮定せず,しかも1変数複素解析の有用な定理全般,たとえば正則関数の諸性質,留数計算,1次変換,リーマンの写像定理をはじめ,ポアンカレ計量の幾何や楕円関数,モジュラー関数の初歩も身に着けられるような配慮が行き届いています.

【本書の方向性を決定づけている冒頭部】
 ヘルマンダーの本でもそうですが,本書でも冒頭でいきなり偏微分作用素

$\frac{\partial}{\partial z}=\frac{1}{2}\left( \frac{\partial}{\partial x}-i\frac{\partial}{\partial y}\right), \quad \frac{\partial}{\partial\bar{z } }=\frac{1}{2}\left( \frac{\partial}{\partial x}+i\frac{\partial}{\partial y}\right)$

が導入され,コーシー・リーマン方程式

$\frac{\partial f}{\partial \bar{z } }=0$

が現れます.この導入は本書の方向性を決定づけているといえます.本書に現れる最初の「定理」は偏微分方程式論風の「 $C^1$級関数の場合,複素微分可能であることとコーシー・リーマン方程式をみたすことが同値である」というもので,その証明は終始本質的に実関数論的な計算によっています.正則関数は  $C^1$ 級関数が複素微分可能であることでもって定義されます.グルサーの定理によれば正則性を定義するのに$C^1$級であることは不要なのですが,本書では議論の「効率化」を図るため $C^1$級を仮定しています.また,コーシーの積分公式はグリーン・ストークスの定理を援用して一般化コーシーの積分公式

$f(z_0)=\frac{1}{2\pi i}\int_{\partial D}\frac{f(z)}{z-z_0}dz-\frac{1}{\pi}\int\int_D\frac{1}{z-z_0}\frac{\partial f}{\partial \bar{z } }dxdy$

を導き,コーシー・リーマン方程式を使って効率的に証明されています.
 本書のこの導入部とその後の議論展開を,関数論の古典的な本,たとえば吉田洋一著『函数論』(岩波全書)と比較すると,クラシックな建物と機能的でモダンな建築物のような違いが感じられます.もちろんどちらもそれぞれに良く,吉田著『函数論』の味わいもすばらしいものです.


【非斉次コーシー・リーマン方程式と複素解析】
 ところで非斉次コーシー・リーマン方程式というは,領域 D において,与えられた$C^{\infty}$級関数$v(z)$ 対して

$\frac{\partial u}{\partial \bar{z } }=v$

をみたす $C^{\infty}$級関数 $u(z)$ を見つけるという問題です.ヘルマンダリズムは,岡潔により解決された多変数複素関数論の難問を,この非斉次コーシー・リーマン方程式の多変数版を解くことにより,岡潔とは全く別の方法で解決してしまいます.
 非斉次コーシー・リーマン方程式は,もし解ければ正則関数(すなわちコーシー・リーマン方程式の解)を作るのに非常に便利なものです.本書の付録VIにも解説がありますが,たとえば正則とは限らない関数  $\varphi(z)$ が得られたとします.このとき,$v=\frac{\partial\varphi}{\partial \bar{z } }$ とおきます.もしこれに対する非斉次コーシー・リーマン方程式の解 $u$ が見つかれば,$f=\varphi -u$ とおくことにより正則関数 $f$が得られるのです.

では,非斉次コーシー・リーマン方程式はどのように解けばよいのでしょうか?本書の定理5.5.3にその解の構成方法が書かれています.1変数の場合,本質的な部分は,もし$v$がコンパクト台をもてば

$u(z)=-\frac{1}{\pi}\int\int_D\frac{v(\zeta)}{\zeta -z}d vol(\zeta)$

が一つの解になっていることです.これを基にして比較的容易に非斉次コーシー・リーマン方程式を解くことができます.といっても厳密な証明には実関数論的に少しめんどうな手間がかかることは確かです.
 
【あなどれない付録】
本書を読むのに必要な予備知識は2変数の微分積分と平面上のベクトル解析ですが,それは付録に懇切丁寧に解説されています.
 じつはこの付録,付録だからと言ってあなどることができません.これ自身読みごたえ十分で,存在感のある部分です.実2変数関数の微分積分からはじまり,グリーン・ストークスの定理は言うまでもなく,ポテンシャルや流れ関数,複素速度ポテンシャルなど平面上の流体に関する数学も登場します.ベクトル場がポテンシャル f と流れ関数 g をもてば,f と g がコーシー・リーマン方程式をみたすという定理など,コーシー・リーマン方程式の別の角度からの視点も学べるようになっています.
 また,付録において非斉次コーシー・リーマン方程式を,与えられた実数値関数 $\rho$ に対して

${\rm div}{\bf v}=\rho, \quad {\rm rot}{\bf v}=0$

をみたすベクトル場 ${\bf v}$ を見つける問題に帰着し,そこからベクトル解析的な方法で前出の非斉次コーシー・リーマン方程式の解を導いている点は非常に興味深いところです.
 もしかすると,本書の付録だけでも面白い平面上のベクトル解析の本として独立に成り立つのではないかと思うほどです.そしてもちろんこの付録が本書を読むにあたって大いに力を発揮することになります.

【おわりに】
 本書はヘルマンダリズムをある程度意識して書かれていると思われますが,それだけでなく1変数複素解析で押さえておくべき定理は一通りカバーしてあり,全体的にスマートな記述となっています.1変数複素解析の有名な定理を比較的少ないエネルギーで勉強できるユニークな良書です.問題の解答も完備しているので,独習にもむいていると言えるでしょう.


【補遺】
倉田令二朗氏の数セミの連載は最近,単行本として出版されています.
 倉田令二朗著(高瀬正仁解説)『多変数複素関数論を学ぶ』(日本評論社).
ヘルマンダーの本は和訳
 ヘルマンダー著(笠原乾吉訳)『多変数複素解析学入門』(東京図書)
もありましたが,今は出版されていないようです.図書館か運が良ければ古書店で見出せるかもしれません.ヘルマンダーのオリジナル論文には
 L. H$\"{o}$rmander, $L^2$ estimates and existence theorems for the  $\overline{\partial}$ operator, Acta Math.  113, 89-152 (1965)
があります.

【蛇足】
 このブログのタイトルですが,「ディーバー」は「ディーパー(deeper)」のタイプミスではありません.ただ,そちらにもひっかけてあります.念のため.




前回までの『私の名著発掘』はこちらへどうぞ

 

 

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