錯視 日誌

2017年12月の記事一覧

われ童子の時は・・・の句を聞いて。文語体と口語体。

 「われ童子(わらべ)の時は語ることも童子のごとく、思うことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。」(岩波文庫『文語訳新約聖書』より。以下、『文語訳』と略記)

 年末、Ghost in the Shell / 攻殻機動隊というアニメをたまたま斜め観していたら、聖書のこの句が耳に入ってきて、何だろう、と驚きました。(アニメの台詞がこの通りだったかどうかは、記憶が定かでありません。)
 きれいなグラフィックで描かれた近未来と主人公の醸し出すニヒルな雰囲気が、聖書の文語訳と妙にマッチして印象的でした。それで、改めて聖書を見てみようと思いたち、本棚から文語訳聖書を引っ張り出してきました。
 この一句、内容もさることながら、よく読むと訳文の調子が感動的です。
 ごとく、如くと続いた後で、「如くなりしが、人と成りては」と切り返して、そのあと少し長い文で締めるところが、背筋がぞくっとするほど上手い。どこかで引用したくなる気持ちがよくわかります。
 谷崎潤一郎は、文章の調子は音楽的要素であるから、調子の良い文を書く極意は教え難く、人の天性に依るところが多いという主旨のことを書いています。文語訳聖書の訳者はその天性を間違いなく持っていたといえるでしょう。

 口語訳ではどうなっているのかが気になり、今度は口語訳の聖書を持ってきて調べました。

「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」(聖書、新共同訳,日本聖書協会、1989。以下、『口語訳』と略記)
 
 文語体と比較すると、口語体のため文語体独特のシャープさはありません。しかし、口語体としての調子は良く、何より現代の私たちにとっては非常に明快です。
 ところで、くだんの部分の一つ前の文は次のようなものです。

「全き者の来たらん時は全からぬ者廃らん」(『文語訳』より)
「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(『口語訳』より)

 文語訳と口語訳を比較すると、ここでもリズム感というか調子では文語訳、一方、口語訳の方は、普段使っている言葉で書かれており、私には内容がすんなりと頭の中に入ってきます。

 ついでに私が文語訳聖書の中で好きな場面、イエスが誕生する夜、羊の群れの番をしながら野宿している羊飼いの前に、主の使いが現れるところを比較すると、

「忽ちあまたの天の軍勢、御使に加わり、神を賛美して言う、『いと高き処には栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給う人にあれ』」(『文語訳』より)

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(『口語訳』より)

どちらも、澄み渡った濃紺の夜空から光を燦然と放った天の軍勢が下ってきて、神を賛美する声が(おそらくは唄のように)、これまで聴いたこともないような調べで響き渡る壮大な様子が表現され、名訳であると思います。文語訳の方はこの情景が眼前に広がり、想像力を駆り立てられ、一方、口語訳は柔らかく、わかりやすい語り口になっています。心象的な違いをあえて言えば、文語訳の方は、天の軍勢がやはり怖い。どのような兵器で抗っても、即座に木っ端みじんにされそうな強さが感じられます。口語訳のほうは、天の大軍が来てほっとするような安堵感があります。もちろんこれらは、個人の印象に過ぎません。

 一世代前の人は、文語と口語の両方になれていたと思うので、全く違う印象を受けていたかもしれません。私などは、文語体で文章を書いたこともなく、滅多に読むこともないので、文語と口語は、まるで違う言語のように感じてしまいます。文語体は格調高い装いをしていますし、音読したときのリズムが良く、さらに言えばエキゾチックな感じです。
 攻殻機動隊のアニメの台詞は、ストーリー上の内容的な意味も勿論あるわけですが、リズム感としてこの辺の現代人の感覚に上手く訴えかけているのでしょう。


前回までの『私の名著発掘』はこちらへどうぞ

 

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プリンストン解析学講義第3巻『実解析、測度論、積分、およびヒルベルト空間』

エリアス・M・スタイン、ラミ・シャカルチ著、
『実解析 測度論、積分、およびヒルベルト空間』
(新井仁之、杉本充、高木啓行、千原浩之訳)、日本評論社
が発売になりました。
プリンストン解析学講義第1巻『フーリエ解析入門』、第2巻『複素解析』に続く第3巻です。

主な内容は:
第1章 測度論
第2章 積分論
第3章 微分と積分
第4章 ヒルベルト空間:序章
第5章 ヒルベルト空間:いくつかの例
第6章 一般の測度論と積分論
第7章 ハウスドルフ測度とフラクタル



詳しくはこちらをご覧ください ⇨ 出版社のHP
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歴史から消えた錯視の発見者 連載『コンピュータで錯視の謎に迫る』第7回

ITmeida NEWS
真っすぐなのに斜めに見える“不思議な図形”の正体 「歴史から消えた錯視の発見者」とは。
東大・新井仁之教授が解説する錯視の世界。第7回では、直線でありながら斜めに見える不思議な図形が登場。錯視にまつわる歴史もご紹介します。

⇩カフェウォール錯視。灰色の水平線が平行なのに傾いて見える。

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金沢大学理学談話会(数学分野)にて

金沢大学理学談話会(数学分野)で講演をしました。
角間キャンパスを訪れたのは今回はじめてです。前回、金沢に来てからもう6年もたっていました。そのときは金沢の街中で「北国会館の錯視」を発見しました。
今回は新しい風景の錯視を見出すことはできませんでしたが、旧知の方々と再会できました。研究会とは違って、談話会はいろいろな分野の方とお会いできるのが楽しい点の一つです。

自然科学5号館の入り口のところに錯視付きの案内がありました。


そういえばこれが今年度(といってももう終わりですが)最初の講演でした。

【データ】
金沢大学理学談話会(数学分野)
日時:2017年12月4日(月)17:00-18:00
タイトル:錯視の数学的研究と画像処理、アートへの応用
於:金沢大学自然科学5号館大講義室
講演者:新井仁之(東大数理)

アブストラクト:
http://mathphys.w3.kanazawa-u.ac.jp/2017dec04_rigakudanwakai.pdf
案内:
http://math.w3.kanazawa-u.ac.jp/wp/2017/11/09/colloquium20171204/
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