錯視 日誌

2019年10月の記事一覧

「少女終末旅行」と「意志と表象としての世界」

ショーペンハウアーの哲学書『意志と表象としての世界』([1]) は
「世界は私の表象である」
という有名な言葉で始まります。
これはとても寂しく悲しい言葉だったのです。
この本は昔から時折読んでいたのですが、このことに今の今まで気づきませんでした。
もしも世界が私の表象であるならば、世界はとても狭く、私が消えれば世界も消えてしまいます。
『いや、そんなことはない。君が死んでも世界はずっと続くに決まっているじゃないか。』
そう反論されるのは目に見えています。多分私がいなくなっても世界は続くのかもしれません。しかし、それはほんの少しばかり私よりも長生きするであろうあなたの表象する世界であって、私の世界ではないのです。
そして、もしあなたが死んだとしても、確証はありませんが、さらに別の人の表象する世界は存在するのでしょう。まるで永遠に解析接続されていく関数のように、小さな表象の世界が延々と繋がっていくのかもしれません。
確かなことは私が消えれば、私の表象としての世界は無くなるということです。そしてもし世界の生物がすべて死に絶え、私が最後の一人だとすると、私がいなくなったらもはや表象としての世界も永遠に消え去ってしまうのです。
そうだとすると、「世界は私の表象である」という主張はとても寂しいものではないでしょうか。

こんなことを感じたのは、つくみず著『少女終末旅行』という漫画を読んだからです。
じつは先日、『少女終末旅行』という連続アニメをつられて見はじめ、とても面白いので最後の回まで見続けてしまいました。ところがこのアニメは物語の途中で最終回を迎えてしまいます。結末が分からないのです。そのため、どうにも気になり、アニメ化されていない最後の部分をコミックで読みました。
詳しいストーリーは明かさない方が良いと思うので言いませんが、主人公は二人の女の子、ちーちゃんとゆーちゃんです。二人は誰もいない世界(ただ旅の途中で別の二人の人には会いますが)にいます。そして、何があるのかわからない世界の上層を目指して旅をしています。ちーちゃんは本好きで、旅の途中『意志と表象としての世界』を拾います。本はもうほとんど世界に存在せず、貴重なものなのです。しかし、やがて拾った本やもともと持っていた本も、それに大切につけていた日記帳も燃料代わりに燃やさざるをえなくなります。
最後の方の場面で、ちーちゃんはゆーちゃんに言います。

『・・・私不安だったんだ。こんなに世界は広いのに・・・何もしらずに自分が消えてしまうのが・・・だけどあの暗い階段を登りながらユーの手を握ってたら自分と世界が一つになったような気がして・・・それで思った・・・見て触って感じられることが世界のすべてなんだって・・・よくわかんないよね・・・こんなこと言っても』
『わかるよ 私もずっとそれを言いたかった気がする。』
『・・・ユーのくせに』
『あ 日が』
(『少女終末旅行』第6巻より)

何かとても悲しく寂しい会話です。

正直なことを言うと、私は中学のときに哲学に興味をもち、最初に手にした本はショーペンハウアー『哲学入門』(旺文社文庫)でした。この本は「意志と表象としての世界」の抄訳でした。(このとき購入した旺文社文庫はいつの間にか紛失してしまったので、手元にあるのは中央公論社版です。)それ以来、何度となく抜き読みしていたのですが、この本の最初の部分はある意味認識論のようなことが書き連ねてあって、私自身は人の認識のメカニズムに関する学説ばかりに目が向いていました。
「世界は私の表象である」
『少女終末旅行』はこの思想に別の側面が潜んでいることを気付かせてくれた漫画です。
他にもちーちゃんとゆーちゃんの会話には趣きがあり印象に残る言葉がいっぱい含まれています。
アニメの音楽(末廣健一郎氏)もすごく雰囲気を出していて良いものです。
「少女終末旅行」は何か普通の漫画を超えたすばらしい作品だと思います。

文献:[1] ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(西尾乾二訳、中央公論社)

前回までの『私の名著発掘』はこちらへどうぞ

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