カウンセリング研究ブログ

2013年10月の記事一覧

懐かしい再会

今日は少し遠出をして、久しぶりに、以前勤務していた精神科を訪ねました。ほぼ10年ぶりですかね。退職してから十数年になります。もちろん、ようがあったのでいったのですが。

建物はそのままです。懐かしい。当時のまんまでした。そんなことよりも、お世話になった院長先生や、スタッフのみなさんと歓談することができ、感謝に堪えません。当時のスタッフは、あまり残ってなかったですね。でも、いろいろと親密にしていた男性看護師がいまや副院長になっていて、驚きももの木ですわ。精神医療について、在職していたとき、よく語り合ったことを思い出します。何人か、当時のスタッフとも歓談できて、ありがたいことです。

院長先生は、私にとって、いろいろな意味で恩人です。かなり時間をいただいて、いろいろなことを歓談することができました。自分はいま大学に勤めていますが、お話をしていると、まだ自分がその病院に勤務しているかのような錯覚に見舞われたほどです。在籍していた頃は、本当にいろいろなことを教わったなー。精神医療のなかで生きる心理士というアイデンティティ、なんだか院長先生に与えて頂いたような気がするのです。いろいろなことを任せて頂いて、とても自由に仕事していたような気がします。振り返ると、私はとても恵まれていたような気がします。

今日は、ただの日記です。私にとっては、とても思い出に残る一日になりました。

ではまた書きます。
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統合失調症の子供を支える母親のカウンセリング

今回は、統合失調症の子供を支える母親のカウンセリングと題してお話します。

以前、精神科に勤めていた頃のお話です。統合失調症の方に対する援助だけでなく、その母親に対する援助をいろいろと行っていました。心理士としての立場ですから、もちろんカウンセリングを介したお付き合いになります。母親をカウンセリングで支え、その母親が子供を支えると言いますか、子供を支えている母親がくじけそうになったとき、一時的に母親の支えになるようなカウンセリングなのですが。

大昔に、子供を統合失調症にする母親、みたいな理論が流行った時代がありました。ベイトソンの理論を取り入れた、フリーダ・フロム・ライヒマンでしたっけね。もちろん、その後、フェミニズムの立場からけしからんと言って叩かれましたけど、当然でしょう。病原性の母親と言いますか、母親が子供を病気にする様な論旨でしたからね。

私が支えてきた母親たちは、ライヒマンのいうような方はほとんどいませんでした。ダブルバインドでがんじがらめになっているような方は、ほとんど体験しなかったのです。反対に、自分のせいで子供を病気にしてしまったのではないかと自分を責め、悩み苦しむ母親が多かったような気がします。

母親がくじけると、統合失調症の子ども(もちろん成人です)に悪い意味での影響を及ぼすことは必至です。ちょっとくじけても、崩れ落ちないように、支え続けること、それが私の仕事の一つであったような気がします。

精神科を離れたので、もうこのような援助はしていません。しかし、統合失調症が軽傷化したと言われる時代になっても、やはりご本人を支え続けるご家族はたくさんいらっしゃいます。そんなご家族、母親を支える援助がまたしたいのですが、いろいろな事情でいまはできそうにありません。

でも、いつか私は戻るでしょう。そこに。
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治療的アセスメントのお値段

このブログで何度も紹介していますが、今回もスティーヴン・フィンの治療的アセスメントについてお話しましょうか。今回はそのお値段のお話になります。

フィンの著書の中で、治療的アセスメントのお値段について触れている個所があります。そこには、一例ですが、7回のセッションで$2610、1時間換算で$180ということです。いまは、もっと高額になっているはずです(おそらく倍くらい)。

単純に1ドル=100円で換算してみましょうか。な、な、なんと、治療的アセスメントを受けるには、26万円もの費用がかかるのです。唖然としますね。それに加えて、1時間1万8千円ということですから、アメリカの開業サイコロジストって、本当に○○なのですね。

ご存知のように、アメリカは民間の保険会社が費用を賄ってくれます。悪名高きマネージド・ケアの世界なのですが、もちろん治療的アセスメントも保険の対象になるようです。保険に入ることができるのは、やはり富裕層なわけでして(ちょっと言いすぎか)、貧困にあえいでいる人は無論だめなわけです。オバマ大統領が、保険制度の改革に苦心していますよね。

何かの資料で見たような気がするのですが、スティーヴの治療的アセスメントのプロセスを終えるには、確か今だと50~60万円の費用が必要だと思います。すごすぎます、これ。日本では無理ですね。もちろん、心理士のカウンセリングに保険が適用されるなどあり得ないわけですし、すべて現金でやったとしたら、誰もクライエントは集まらないはずです。よっぽどのお金持ち以外は。

私は思うのです。彼の治療的アセスメントをなんとか日本に普及させようと努力しているのですが、原法のままだと無理です。それを和風に変形して、経済的に、効率的に、お値段が安くなるように配慮しつつ行う必要があると思うのです。

私のカウンセリング・ルームは、フィンの治療的アセスメントにかなり近いことを無料で行っています。それを50万円で行ったとしたら、おそらくかなりの年収が見込めると思います。おそらく、いまの本職を離れても生活できるはずです。しかし、きっと、誰も来ないでしょう。なにせ、お値段が高すぎますから。

ブリーフセラピーの森先生は、効率とか、効果を、とても重視されていたかなと思います。カウンセリングとして効率が良くて効果があって、なおかつお値段が安いところにクライエントは集まるはずです。当然です。

はやく、効率のよい、お値段も安い、なおかつクライエントの役に立つ、そうした和風の治療的アセスメントを作りたいと思います。日暮れて道遠しですわ。

では、また書きます。
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カウンセリングにおける感動の場面

私は一応研究者ですから、研究目的でカウンセリングを行っています。とはいえ、具体的な臨床場面では、研究そのものは意識せずに、無心に相談者のお話に耳を傾けるだけです。

研究目的であることを承諾して下さった方がカウンセリングに導入され、音声と映像がレコーダーとVTRに記録されることになります。すべての方が研究のために音声を学術的な場で使用することをお認め下さります。映像については、お断りされることがあります。

さて、カウンセリングを行っていると、研究者としてではなく、一人の人間としてとても感動する場面に遭遇します。その多くは、深い情動体験をしつつ語る、相談者の姿を目の当たりにするときです。過去の心的体験を涙ながらに語る、とてもディープなセッションがそれです。

研究の成果を他の研究者の前で発表して、それを共有しようとするとき、文字だけでなく、音声をそのまま流すことがあります。もちろん、プライバシーにかかわる部分はカットしてです。とても感動的な、ディープな場面には、相談者の生の声と言いますか、そのままのクライエントの声が響いています。その声を、他の研究者たちに、音声データとして聞いて頂く必要のある場合があります。

そこには、たとえて言えば、生まれたての人間と言いますか、すべてを脱ぎ捨てた純粋無垢の人間が写し取られています。私は、やむを得ない場合だけ、その音声データを使うことがあります。しかし、映像を使うことは、あまりありません。音声は流せるが、映像は流せないということです。

なぜなのか。

いくら守秘義務を遵守する研究者たちとは言え、その姿を、映像としてさらすことがよいのか、いくら許可を得ているからと言って、生身の姿を特定の研究者とは言え晒すことがよいのか、とても気が引けるのです。やむを得ない場合は、音声なら使うことができます。しかし、映像となると、ちょっと考えてしまいます。

しかし、私の中には、これとは別の声も響いています。

特に、カウンセリングのミクロ・プロセスを研究するとき、音声だけではダメと思います。映像が必要なのです。映像を流しながら、具体的に分析し、論証していくことが重要になると思うのです。これは、研究を中心にした考え方ですね。相談者を中心にして考えると、映像は使えなくなるのです。

デジタル・データを研究とその発表に使用することの是非に関して、私はいまも迷っています。これからも迷い続けることでしょう。しかし、いまの時点ではっきりしているのは、相談者の許可なくデータを使うべからずという、至極当然のことです。許可のあるデータは使用し、許可のないデータは使用しない、いまの私は、そこのところから前進しないまま、考え続けています。

今回も意味不明のつぶやきになったようです。また書かせていただきます。
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怒りのコントロール-怒りはコントロールできるのだろうか?

今回は怒りのコントロールのことで呟きます。はたして、怒りはコントロールできるものなのだろうか。

心理相談室をやっていて、子供や夫、あるいはパートナーに対する怒りをどうすることもできない、一体どうすればよいのかと悩んで来談する女性が後を絶ちません。むかしは、爆発的な怒り、癇癪など、男性に特有の問題であったような気もするのですが、いまはもう時代が違うようです。

女性たちのお話を聞いていると、最後的には怒りが爆発して相手に手をあげたり、大きな声で暴言を吐いたり、物を壊したり、ドカーンっと爆発するのですが、それ以前に、怒りの準備体制のようなものがあるようです。

つまり、何か満たされない思いがあって、それでイライラしやすいところがあるようなのです。その満たされなさは、相手に触発されるものであったり、あくまで内的な何かであったりするわけで、一人ひとり違うはずです。

欲求不満耐性は一人ひとり違いますから、ストレスがかかるとすぐに爆発してしまう女性もいるでしょう。しかし、その多くは、非常に執着的といいますか、相手からすると「ねちねち」した態度が長時間続くわけです。そして、次第にエスカレートしていって、最後にはドカーンと爆発するのです。

執着的とか、ねちねちとか、とても失礼な表現になったかもしれませんが、怒りのコントロールに問題を抱えている女性の多くがご自分で使う表現なのです。悪気はありませんので、どうぞご容赦くださいませ。

さて、怒りのコントロールとなると、認知行動療法などが役に立つかもしれません。まあ、私は行っていませんけれど。

イライラしている自分に気がつくこと、まず怒っている自分を感じて意識できることが出発点になると思います。爆発した後で反省するという意味ではありません。怒っているその場で、あるいは爆発する前に、怒っている自分を意識するということです。そうすれば、自己コントロールへの道も開けるはずです。

しかし、それだけでは足りないと思います。体質的に怒りっぽい方もいるでしょうが、自分が生きてきた歴史の中で培われてきた怒りっぽさが、どのようにして形成されてきたのか、振り返って考えてみる必要があると思うのです。

ここに具体例を書くことができず、残念です。ですが、私の経験では、怒りのコントロール法をトレーニングすることなく、自分を振り返ってみることによって、結果として怒りのコントロールも上手に行えるようになる女性が少なくないのです。自分のいら立ちの答えが過去にある、何だか精神分析みたいになりますが、そのようにしてみずからを振り返ってみることによって、あー、そうかという気づきに至り、怒りそのものが沈静化することが少なくないのです。

怒りのコントロールでお悩みの女性は、アダルト・チルドレン(AC)とか、トラウマとか、その辺の本を少し読んでみてはいかがでしょうか。ためになること、思い当たることが、たくさん書かれているはずです。児童虐待にからむお母さんたちも、ぜひ読んでほしいです。自分の過去を振り返り、パートナーとの関係を振り返り、それを何度も繰り返しているうちに、何かに気がつくはずです。怒りのコントロールは、何かに気づいたときに、もう自由自在にできるようになっているはずです。

希望を失わずに、毎日を大切に生きて下さい。私のところに相談に来る女性に対しては、直接的に援助することができるのですが、それすがいり方々には、こんなかたちでメッセージを残すことしかできません。

今回は、怒りのコントロールに関してお悩みの、当事者の方々に対するメッセージになりました。ではまた書かせていただきます。


怒りのコントロールについては、こちらにも書いています。→怒りのカウンセリング
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いわゆる幻覚妄想状態について

今回は、いわゆる幻覚妄想状態について呟きます。

精神科に勤めていた頃は、幻覚妄想状態にある患者さんの回復過程を目の当たりにすることができました。そのプロセスにお伴するのは、主に精神科医と看護婦なのですが、私も心理士として、少しだけ関与していたような気がします。

いま、精神科病院を離れ、いわゆる私設相談室といいますか、開業領域でカウンセリングをしていますから、このような幻覚妄想状態の方々は、ほとんどまったくケアする機会がありません。しかし、それにもかかわらず、幻覚妄想状態と思しき人たちと、変わる機会は皆無ではないのです。

統合失調症の人であれば、発病した結果として幻覚妄想状態に陥ることでしょう。ところが、発病した結果ではなく、ライフ・スタイルそのものが幻覚妄想状態と変わりない方々の一群があるのです。

最も顕著なのが、いわゆる霊的体験を語り、神秘的体験にどっぷりつかっているような方々であると思います。彼ら、彼女らは、自分自身の心的体験の根拠を自分の内面からすくい取ることができません。そのすべてを、お告げや、超常的な声など、自分の外部に帰すことが少なくないのです。

発病しているわけではないが、外部の何らかの力によって行動を左右される、そのような行動スタイルが顕著なのです。似ている、でも違う、判断に迷います。

最近やっと日本語で読めるようになりましたが、ピエール・ジャネの「心理学的自動症」には、心霊現象を語る、ヒステリーや精神衰弱の方々が登場します。当時のフランスには、このような方々がたくさん存在していたのでしょうが、いまの日本にも、やはり似たような方々が存在しているように思います。私のところにも、もちろんやってきます。精神病理学的な意味でかなり重い人もいれば、興味本位といいますか、ちょっとした霊的な興味がある方まで幅広いのですが。

心的体験の構造は、発病した結果としてそうなっているとしても、発病していないのにそうなっているとしても、やはり似ているような気がします。幻覚妄想状態が、そこにはあるのです。発病している場合には、さまざまな精神薬が効力を発揮することでしょう。しかし、そうでなかったとしたら、薬に期待することは期待できません。私が対応しているのは、その、薬の効かない方々なのかもしれません。

妄想とは何か、幻覚とは何か、突き詰めて考えると、その意味は正常と異常の境界線を、おそらく壊してしまうような気がしています。そこには連続性があるだけであって、確固とした垣根などないような気がするのです。

精神科を離れたいま、私は精神病理学的に言って軽傷の方々や、健康な方々を対象としているような錯覚に陥っているのかもしれません。なんとなく予感がしています。私は、おそらく、統合失調症の世界に戻って、彼ら、彼女らのケアを再び考えだすことでしょう。こんなことを言うと、誤解を招くかもしれませんが、精神科病院に勤めていた頃の世界が、私の原点であり、ふるさとであるように思うのです。

またしても、まとまりのない記事になってしまいました。どうぞお許しください。では、また書かせていただきます。
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カウンセリングの失敗例

もう若手とは言えない年齢になってしまいました。臨床歴も20数年です。中堅ハチ公かな。今回は、カウンセリングの失敗例というテーマで書きます。

カウンセリングで、ああ失敗したなと思うときがありませんか。私はいまだにあります。もう少しこうアプローチした方がよかったとか、あそこは何も言わずに聞くだけでよかったとか、この年になってもいろいろとあるのです。クライエントに大きな損害やダメージを与えてしまうような失敗はあってはならぬことですが、小さな失敗ならいろいろとあるような気がします。

失敗の代表は、クライエントのドロップアウトであると思います。ドロップアウトもいろいろな理由があります。たとえば、よくなったので来なくなるとか、経済的・職業的な理由で継続困難になるとか、このような理由であれば仕方ないと思います。問題は、クライエントがカウンセリングに不満足であったり、苦痛を感じすぎてしまったり、ネガティヴな理由でドロップアウトする場合であると思います。

あるリサーチによると、カウンセリングをドロップアウトするクライエントは、50%から60%にのぼるようです。これ、ものすごい高い数字ですね。半数が途中で脱落してしまうのです。私の場合は、インテークのみでドロップアウトする人が10%、セラピーに導入されてからドロップアウトする人が20%くらいです。つまり、30%の人が来なくなってしまうのです。これは、リサーチを開始してからの短期的なデータです。今後もリサーチしますから、数値も変わると思うのですが。

私は無料でカウンセリングをしているので、経済的な理由でドロップアウトする人はいません。理由として考えられるのは、仕事や私生活が多忙になり、カウンセリングの時間を取れなくなる人がけっこういます。そして、自分の心と向き合う準備がまだできていなくて、いざ始めたものの、やっぱりやめますと断念するクライエントもいます。こうしたクライエントとは、話し合いの上でやめることになるので、ネガティヴな影響を与えることは少ないように思います。

問題は、突然、何の連絡もなしに、来なくなる人たちでしょう。私の場合、約1割の方々がこれに該当します。振り返ると、そこには一定のパターンがあるように思います。一言で言えば、他罰的なタイプです。私は自分を振り返ってみるタイプのブリーフセラピーをしていますから、自分について考えるつもりのない方は、基本的にお引き受けしていません。開始する前にしっかりと説明して合意を得て、そうするという方のみお引き受けするのです。うーん、何と言いますか、結論を言うと、自分について振り返ってみるつもりのない方がドロップアウトする傾向があるような気がするのです。

誤解のないようにもう少し説明しますが、私はいわゆる心理主義を嫌います。すべてその人の心の問題に還元してしまうような考え方です。自分を振り返ってみるというのは、もちろんそのような意味ではないのです。すべて自分のせいにする方には、それは行きすぎであると意見を述べることもあるのです。

専門家的ジャルゴンで言えば、MMPIの4-6-8が絡んでくると、自分を振り返ってみることが難しいようです。ドロップアウトは、私の場合、このようなタイプの方に集中しているような気がしています。

セラピーは万能ではありません。自分について振り返ってみる内省指向のカウンセリングも、そうなのです。ドロップアウトした失敗例について考えるのは、自分にとってとても勇気のいることですが、これからも考え続けるつもりです。自分の弱いところを鍛えて、多くのタイプの方々を適切に援助できるようになること、まだまだ修練は続きます。

ではまた書かせていただきます。
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最後のセッションあるいはフォローアップ

久しぶりの更新になります。

心理テストを使った、多元的ブリーフセラピーを実践しています。Brief Pluraristic Therapy with the MMPIというやつです、はい。ブリーフですから、5~6回のセッションで終わってしまうわけですが、それだけに、最後のセッションはとても重要なのです。

私の場合、フォローアップを最後のセッションから大体1カ月後に設定しています。この1カ月のあいだに大きな変化を遂げるクライエントが少なくないこともだんだん分かってきました。フォローアップのとき、クライエントは自分の意識に起こった大きな変化について語り始めます。笑顔で、嬉しそうに語るのです。では、セラピストは何をするのか。なにもしません。ただひたすら話に耳を傾けて、リフレクションするだけです。

クライエントの語りをなぞって、映して、照らし返すことが大切です。それだけでよいのです。いや、それがよいのです。あるいは、クライエントの実感にぴったりな言葉を探して、口にします。

この最後のフォローアップで、クライエントの変化の語りをリフレクションすると、クライエントには変化したことの確からしさが実感されるようです。ここでのリフレクションがあるのと、ないのとでは、おそらくセラピーによる効果の持続に大きな影響を及ぼすような気がしています。ただ、リサーチするつもりはありません。リフレクション有り無し群を人為的に作って操作するのは、倫理的に問題があるような気がするのです。

セラピーが成功すると、人間の意識は大きく、劇的に変化します。もちろん、意識だけでなく、行動も変化します。不思議です。とても不思議。何故意識の大系が再編成されるのか、いろいろな説がありますが、正直なところ、私にはどうしてなのか定かではありません。理論を考えても、ただの仮説。でも、引退するまでには、私なりの理論を作らねばと考えています。

喜びの中で変化について語るクライエントを目の当たりにすると、こちらも自然と嬉しくなります。本当にありがたいことです。臨床を続けていられるのは、最後の最後に、クライエントが安堵の表情を浮かべてくれることも大きいのかもしれません。もちろん、それがほしくてやっているわけではないのですが、自分に力を与えてくれるのは確かなことです。

何だか今回は、成功事例のお話になってしまいました。バランスを取るために、次回は失敗例のお話にしようか。

ではまた書きます。
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