Sakaguchi Taro


碩学の論攷、碩学への追想より

2019/09/21

高木豊氏『Since1928 歩いた道 書いた物』より

| by 慈鎮和尚
 出講の時、佐藤先生(○進一氏)とお会いする事はなかったが、たまたまご一緒に帰る機会があった。先生から私の東京文理科大学史学科の一年後輩の一倉喜好氏の消息を問われた。お答えする情報をもっていなかったので、そう申しあげると、同氏の論文(『史潮』五二号掲載の「分一徳政令と室町幕府」)が『国史大辞典』の「分一徳政」の参考文献の一つに挙げられているが優れていた事とさらに研究が伸ばせる環境にいればよいがと、気づかっておられた。碩学に気づかわれた一倉氏が羨ましかったとともに、佐藤先生の優しさをいまさら感じたことであった。(○私に、括弧の脱落を補う)

【付記】
 ある原稿に頭を悩ませている今日この頃、知己の篤学からMAILをいただいて、脈絡なく上のエピソードを思い出した。佐藤氏の御人柄に、ひときわ床しさを感じずにはいられない。このあたりは、川添昭二先生にも通じるところがある。
 それに関わって、川添先生や高木氏の日蓮研究(日蓮が対峙した権力の性格把握)に、佐藤氏が与えられた学問的影響を少し考え、さらに高木氏についても思いを馳せた。やっぱりこの方は気骨のある学者である。学問を相手に討ち死にするも可、という気概がことに嬉しい。家に帰ったら、『いのちぞおしきのちのはるまで』を読み返したくなってきた。読み返したら、少しは元気が出るだろうか。
    
                     (原稿の論理展開に悩みながら、橋本へと下る南海急行の車中にて記す)
18:56
2019/09/21

川添昭二先生「文献カードの整理」より

| by 慈鎮和尚
史料集や文書・文献目録等は作った者の名が云々されることはあまりないが、存外に利用されているものである。
15:23
2019/06/09

太田晶二郎氏「「出雲国風土記の研究」を読む」より

| by 慈鎮和尚
 本書は殆ど全篇に、多かれ少かれ、藪田嘉一郎氏の「出雲風土記剥偽」に対する反駁意識が含まれてゐる。氏の論は既に刊行され、又、駁者はほゞ其の要旨を提示してはゐるけれども、もしも本書自体の中に藪田氏にも一席を与へて主張を説かしめたならば、読者は対比の便を得、本書は一段と活気を呈し、且又編者の寛容もうかがはれたことであらう。 
 と云つても、余は別に藪田氏を是(ルビ:よ)しとするのではない。本書の中にも、「剥偽の逆縁が、却つて顕真の好機を生んだものであつて、此の点我ゝは藪田氏の勇気に感謝しなければならない」(概説、一〇頁)(〇引用者
注、平泉澄博士執筆)といふやうな語も有るが、それは雅量の言である。譬へぱ、火災によつて都市が区画・建築面目を一新することが有つても、それによつて放火の罪を消すべきではない。藪田氏が顕真の機を生んだとしても、剥偽の或る論点には深く考へざるものが確かに存したと思ふのであつて、これについては氏は学問上に恥を知るべきである。敢て氏に限らず、今後も這種軽忽の浮説の出づるを虞れて言ひ置くのである。

【付記】
自分が直面している原稿で、ちょっとした着想が浮かび、「これで先に進める」と喜んだのもつかのま、
数日後に文献を再読して、深く考へざるもの」があることを悟り、その部分を消すに至った。もう少しで、「軽忽の浮説」になるところだった。しかし、自らの歩みの遅くかつ鈍いこと、呆れる外ない。

08:09
2019/06/02

太田晶二郎氏「「群書治要」の残簡」より

| by 慈鎮和尚
一般ニ、「イ」校有ルヲ以テ直チニ、其ノ書ノ異本ガ存セシ証卜為ス者往々有レドモ、古人ノ「イ」ハ寛ク他ノ書、別ノ伝ナドノ異文異説ヲ示スニモ用ヰタリト見ユ。

【付記】
かつて『愚管抄』島原本巻第2(日本古典文学大系本の底本)に付せられた、「異ニ云」という注記の意味を考える際に、深い学恩を被った一文である。

ところで、「異本」という用語の古例が存在しないという、ライオンみたいに乱暴な見解が飛び出たが、とんでもない。異本の用例は、古く平安・鎌倉時代の文献にあまた見出せる。手元の本より二例を示す(句読点は、私に付す)。

竹内理三博士編『平安遺文』題跋編 第1242号

「蘇摩呼童子請問経伴侶分」二帖  ○京都高山寺蔵
(帖一)(奥)
承安三年〈癸巳〉十二月始、自一日至三日、於月上院僧房、奉伝受了。同聞衆三人、玄証読合四本、示異本也。

憲深口、親快記『幸心鈔』巻第4(大正新脩大蔵経、続諸宗部、No.2498
  秘宗雑談事
問、玄秘、有異本乎。答、有異本也。就中、請雨経事、被注巻、多分無之乎。別紙書タルモ有之。

さらに、遡って漢土の『新唐書』『南史』『隋書』異本」の用例あること、つとに近藤正斎『右文故事余録』巻之4(国書刊行会叢書)に指摘されている。さすがは正斎先生、一代の碩学というべし。

なお、念のために付け加えると、「他本」という語が確認できるからと言って、それが「異本」の語が古く存在しなかったということに結び付くはずがない。当たり前の話だが。

次に、
後に用いられるようになる「異本」も、読み方は「ことほん」であったはずという説だが、室町時代において異本」を「いほん」と訓じたこと、『時代別国語大辞典 室町時代編1』「いほん 異本」の項が、古辞書(『節用集』『運歩色葉集』『日葡辞書』)の用例を明確に挙げている。

新説を喧伝されるのは勝手だが、書誌学・文献学はもとより、語・史・文などの諸学にまたがる重大な問題なのだから、中古文学に属する作品の写本だけではなく、多様な文献を調べてから発言していただきたいものである★。例えば、SATのデータベースで仏典や聖教を検索するくらい、簡単ではないか。検索機能が格段に発達したにも関わらず、調査不十分な見解が横行するのを見るのは、いかなるわけであろうか。雷同する方があまりにも多いだけに、わたくしは、心から悲しみを覚える。近時学界の弊風、ここに極まれり、というべきか。胡乱な根拠に立つ説をろくに検証もせず鵜呑みにし、最初に述べ立てた人が、学問上に負うべき責任、きわめて重大である。まことに沙汰の限りだ。

★【追記】本居宣長
『玉勝間』1の巻「あらたなる説を出す事」
なべての学者、いまだよくもとゝのはぬほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひ也。其中には、ずゐぶむによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき学者の、心はやりていひ出ることは、たゞ人にまさらむ勝むの心にて、かろがろしく、まへしりへをもよくも考へ合さず、思ひよれるまゝにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがことのみ也。すべて新なる説を出すは、いと大事也。いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとほりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずは、たやすくは出すまじきわざ也

それはともかく、わたくしは、古く武田祐吉博士、また荻野三七彦博士が、典籍中の「イ本」の注記について、次のような柔軟な考えを示されていることを紹介したい。

「又古写本には、屡々他の伝本に依つて校合が加へられる事がある。この場合は、その文字の傍に校合を記入して、その記入した文字の下に、片仮字のイを書くのが常である。此のイは、異本の意味のイか、他本の他の略号であらう」(武田博士『日本文学大系1 日本文学研究法』78頁

「「一本」は他本のこと、それを「イ本」と通例は略記するのであり、異本にも通じている」(荻野博士『『大乗院文書』の解題的研究と目録』(下)382頁

これは、「イ」=「異本」or「
他本」、あるいは「一本」=「他本」=「イ本」=「異本」というもので、いずれも融通無碍な考え方である。それで連想したのが、次に挙げる坂本太郎博士太田晶二郎氏の見解であった。

しかし、私は近ごろの人々が、世上の事物を、あまりにも性急に、一か二か、左か右かに、割りきらねばならぬとする態度をあきたりなく思う」(坂本博士名まえの読み方」、中公文庫版『菅公と酒』55頁

人文現象は、ともすれば、いはゆる《一を以て律し難い》ことが少くないのであつて、きびしい論法も、自然現象に向けてのやうに簡単に通用はせぬのである。個人の云為も矛盾撞著あり、殊さら多勢(原ルビ:タゼイ)の集合である社会は愈々しかりである。《或る一面あれば又まったく相背く反面も有る》といふ普通のことを忘れると、大きな誤謬に陥る太田氏「「四の数を忌むこと」は平安時代に遡る」、『太田晶二郎著作集』第3冊、174頁

この坂本博士と太田氏の考え方をも踏まえるならば、つまるところ、古人の「イ本」とは、武田博士が端的に指摘されたように、「異本」を指す場合もあり、また「他本」
を指す場合もあった。そう考えられるのではあるまいか★。少なくとも「異本(いほん)」と「他本」の用例が厳然と並列するにおいては(なお、すでに「異本注記」という術語が学界に定着している以上、わたくしは今後も基本的にこの術語を使用する)。
浅学の私は、自ら文献上の用例を再確認し、かつは碩学たちの文章を再読しつつ、このような見解に至ったのである。

それにしても、武田博士の『日本文学大系1 日本文学研究法』は、1938年に発表された著作である。80年以上前の業績が、早く「イ」を「他」の略号と指摘しているのに、これについて言及がなされないことにも驚かされる。武田博士ほどの学者の指摘が、国文学界に無視(あるいは忘却?)されている事実に、わたくしは遺憾の意を禁じえない。

★【追記】兄事する国文学者とメールでやり取りしていて、「前近代の人が、現代の学者のように使い分けをしているという発想自体がアナクロニズムではないか」という趣旨の高見を頂戴した。これももっともである。わたしも、古人が「他本」と「異本」について、明確な意味の区別を定めていたか、疑いを持つ。

(仕事の憂さ晴らしに、「歴史家と妻たち」シリーズを続稿しようと考えたが、大きく逸れてしまった。さて、明日は高校訪問である)

【2019.6.10補記】
兄事する国文学者からご教示頂いた「異本」の用例をうっかり書き洩したので、補記しておく。
この方のご教示では、六条家の歌学書には「他本」の用例も見えるとのこと。本文比較の学風が、歌の世界に根付きはじめた画期が六条家であるのは示唆的であり、わたくしも興味深く感じた。せっかく文学系統の作品における重要な用例をお教えいただいていたのに、忘却してたいへん失礼しました。

顕昭『袖中抄』第12(日本歌学大系別巻2、189頁)
古今異本に恋第五云、あめのみかどのあふみのうねべにたまひける
  いぬがみの床の山なるいさら川いさとこたへよわが名もらすな
うねべ御返し
  山科のおとはの山のおとにだに人のしるべくわがこひめやは
然而両証本無之。

それから、ある人より「貴殿の出した「異本」の用例には、一つも図版が挙っていないから信じない」(要約)という叱責を頂戴した。そうですね、称名寺聖教の『異本大事』(第346函第21号、南北朝時代書写)の表紙と冒頭の図版が、神奈川県立金沢文庫編『金沢文庫の中世神道資料』(神奈川県立金沢文庫、1996年)17頁に載っているので、機会がありましたら御覧ください。

【2019.6.13補記】
御宇婦屋以下の次第』(京都大学附属図書館蔵平松文庫本、〔請求記号〕 4/オ/1)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/iiif/RB00006006/RB00006006_00008_0.ptif/full/2000,/0/default.jpg
  宗直(〇高橋)云、以異本奥書考之、
後水尾帝製作無疑者歟。尤世上類本無之也。
 九条殿より度々被仰下ゆへ、献上候処、則うつし留シメ
 られ了。其外ハ何方へもいたし不申候。すい
ふん秘
 蔵すへし。
イ本奥書
 右此御次第は、 法皇様(〇傍書、後水尾院)勅筆にて遊され、
 上様(〇後西上皇カ)へ進られ候御秘書也。(〇中略)
   延宝つちのとのひつしの年正月初七  永盛(〇)謹写

故実家として著名な高橋宗直が、「異本」=「イ本」と認識していた明徴である。
なお、
皇室制度調査室「『後水尾院当時年中行事』・『御うぶや以下の次第』翻刻 付解題」(『書陵部紀要』第66号、2015年)を参照されたい。

21:13
2019/05/17

辻善之助博士とキク子夫人―歴史家と妻たち(1)―

| by 慈鎮和尚
辻キク子夫人「日々小感」(『菊芳遺草』)より

 昭和三十六年四月九日
かねて達也(○辻)にたのみたる佐々(○佐)木信綱氏の『明治・大正・昭和の人々』といふ本とどく。この中には必ず亡き夫(○善之助)の思ひ出あらんとさつそくひもとくに、何も見あたらずがつかりす。
  亡き人の思ひ出もやとひもとけば
   それぞと思ふかげもなくして

 昭和三十六年五月七日記
人のいのちのはかなさは、あしたに紅顔あって夕に白骨となる。老少不定である。何事も思召しにあることゆゑ、凡夫の案んずるところにあらず、いつおむかへが来てもまんぞくなり。ただ願はくは、秋の法事を無事にすませ、来年の達也の学位論文の及第をゑて、亡き人へのみやげにしたし。それまでにいのちあらせたまへ。 

【追記】
長い夫婦生活の中には、悲しいこと、つらいことも多かったはずであるが、夫の原稿を黙々と清書し続けたキク子夫人は偉いものだと思う。この伴侶がいなければ、辻博士の研究も、だいぶ違う形になったかもしれない。穏やかな文章から、亡夫を慕う夫人の気持ちがひしひしと伝わってくる。「何も見あたらずがつかりす」というくだり、いいですね。(知己のN氏より、ご指摘いただいた変換ミスを訂正。2019.6.8)

22:18
2019/01/14

小宮山楓軒『楓軒紀談』巻第十五より

| by 慈鎮和尚
 日本書紀ハ、舎人親王ノ淮南子ナドヨリ取集メテ書タルモノナレド、ソレヲ知ラヌフリニテ、一ハイ喰ツテ、日本ノ古ハカヽルモノト思イタルガヨキナリ。淮南子ニ出タルノ、何ノ書ニアルナドヽ穿鑿スルハアシキナリ〈柴野彦助(〇栗山)旧話〉。

【付記】
 さすがは「寛政の三博士」の筆頭格。神代巻の文献学的研究を突き詰めると、国体論にいかなる波紋をもたらすか、栗山先生はよくご存知である。たぶん、伊勢貞丈の天地剖判に関する議論を聞いたか、読んだかして、上記の感想を抱いたのであろう(年代的に、『書紀集解』の可能性は薄いと思う)。
 「ソレヲ知ラヌフリニテ、一ハイ喰ツテ」とは、例の寛政八年の神武陵の詩を考える上でも、面白い表現である。これを筆録した楓軒が、いかなる感想を抱いたのかも知りたい。ひょっとすると、「神代ハ怪異之事斗ニ候間、神武ノ口へも難載候間、……」という『御意覚書』の一節を想起したかもしれないが、それはわからない。
 栗山の墓所は、東京文京区の大塚先儒墓地にある。こんど上京する機会があれば、墓参して、墓前に『上代日本文学と中国文学』でも供えようかしらん。(抱えている校務を忘れて、しばし息抜き)
01:11
2018/12/05

坂本太郎博士『古代史の道』より

| by 慈鎮和尚
 この頃は日曜、祭日というと、各地の古本屋あさりや、郊外散歩に出たりした。相棒は東洋史の植村清二君、選科生の圭室諦成君であった。植村君の博学にはいつも恐れいるばかりであった。さすがに大学という所には、えらい人が来るものだと、感嘆した。史学会の学生委員で時々健筆をふるっていたが、その文章にも頗る魅力があった。私はこの人から鴎外のえらさを教えられ、それは私の精神的な糧となった。また、私の下宿にある書物を見て、「君の所には史料はあるが、歴史の本はないなあ」とからかった。これは全く適切な批評で、一言もなかった。
00:56
2018/12/03

植村清二『楠木正成』より

| by 慈鎮和尚
 しかし「春日神主祐賢記」によると、建武年間に楠木正成が井水を違乱する悪行があったために、興福寺の衆徒が憤慨して、春日の神木を木津まで動座させて、朝廷に嗷訴したという。恐らく楠木氏の所領と興福寺領との間に、灌漑水の争いがあったためであろう。細かい事情は不明であるが、楠木氏が朝恩に誇って、その勢威の強かったさまが想像される。世には正成が中興の元勲であるにも拘わらず、その恩賞が薄く、しかも正成は赤松円心のように、それを怨むこともなかったとして、その志操を賞賛するものもある。しかしこれは正成の人物を強いて悲壮化しようとするものであって、必ずしも事実ではない。正成は功臣として優遇され、その顕栄を誇ったのである。

【付記】
 最近、南朝研究が盛んになってきたが、わたくしの見るところ、研究史の把握が不十分な論攷もある。戦前の研究への目配りが不足していたり、戦後でも植村著書のごとき名著について言及がなされるべきであるにも関わらず、それが行われていないのは如何なるわけであろうか。一抹の寂しさを感じざるをえない。
 それはともかく、昨日、河内長野市で南朝関係の講演をしたので、植村氏の正成伝を久しぶりに読み返してみたが、やはり見事な著作だと思う。史的観察は抑制がきいており、それでいて描かれる正成の人物像は躍動感がある。文章もまことに心地よく、さすが直木三十五の実弟だけある。刊行後、半世紀を経たが、その魅力はいささかも衰えていない。中公文庫版に丸谷才一氏が寄せられた「解説」が看破したように、植村氏の反骨精神が、ところどころ垣間見えるのも面白く感じる。
 ところで、今年に入って、大阪府下のいくつかの地域で、正成・正行の顕彰の動きが活発になっており、楠木父子を大河ドラマにしようという声も強まっている※。わたくしも、中河内に生まれ育ち、南北朝の古戦場が多い南河内の中学・高校に通学したため、少年時代には楠木氏に対する郷土愛のようなものがあった。そこから、後醍醐天皇の研究に進んだ面があるのは否定できない。
 しかし、学問的批判に耐えられない「伝承」を史実とし、これを青少年に対する郷土史教育の素材とするのは反対である。史料批判や考証抜きの教材・オブジェの製造と利用など、沙汰の限りであろう。ましてや「公」を忘れた現代日本人への警鐘として過重な意味づけを与える一部のメディアの動向・意図には、率直に言って反対せざるをえない。客観性を欠くイメージが先行し、「青葉茂れる桜井の♪」のメロディーのもと、中世の実態から乖離した虚像の楠木父子が再び立ち現れることを、わたくしは一学徒として危惧を感じる。その意味で、植村氏の正成伝の視角を、いま一度振り返っておくのは無益ではない。
 司馬遼太郎氏は、水戸学が正成をセイントとして位置付けたとして批判し、『大日本史』を今日読むべき史書ではないと、痛烈な評価を加えた。わたくしは司馬氏の『大日本史』観に同調せず、むしろその史学史上の意義を重視するものであり、マイナス面に比重を置いた氏の論評は平衡を欠くと考えるが、近世・近代の南朝正統論が地域社会に与えた「負の遺産」は、厳しく吟味されねばならない。
 昨日、講演を終えたのち、
脳裡に以上のことどもを思い浮かべつつ、会場から河内長野駅までの夜道を歩いたことであった。泉下の正成は、「悪党」「朝敵」「忠臣」といった、わが身の毀誉褒貶の変化を、どのように見ているのであろうか。

ここに正儀が含まれないのは相変わらずで、嘆息せざるをえない。作家・鷲尾雨工が名作『吉野朝太平記』で目指した正儀の復権は、戦後70年を経た今でも果たされていないのではあるまいか。率直に申せば、わたくしは、正成・正行よりも、南北両朝の和平実現に寄与した正儀を主人公にした方が、遥かに有意義な大河ドラマだと考える。正成・正行を主人公にして町おこし、というのは発想として平凡であろう。正儀には、近世・近代の偏向した人物像がない分、自由で新鮮な造型ができるのである。

13:47
2018/10/29

考証学者 太田晶二郎(4)

| by 慈鎮和尚
小西四郎「昭和期の維新史研究(上)」より

小西 (◯前略)平泉先生(◯澄)の講義は、その当時まではそんなにひどくない。大体、学生の右翼団体の「朱光会」が発足したぐらいの時でね。我々のクラスでも朱光会に入っているという人は一人か二人ぐらいでしてね。でも二年生の時かな、『神皇正統記』の演習みたいなことをやらされたことがありまして、一番始めに「大日本国(◯ママ)は神国なり」という言葉が出てくるわけですよ。「この神国という言葉はどういう時代から、いつから使われ始めましたか」なんて聞かれるわけです。そんなこと、こっちは知ったこっちゃないんですがね。ところが、「はいっ」と手を挙げた人がいるんですよ。誰かと思ったら、太田晶二郎君。太田晶二郎君というのは、何でも知っている男でしてね。まったくびっくりしちゃってね。あぁ、こんな人もいるのか、と。

【付記】
太田氏がどのように答えられたかは知るよしもないが、上記の試問に対する模範解答の一つは、

「『
神国といふ字が出てゐるのは、史料の上では、日本書紀の神功皇后の条に、新羅王の言葉としてあります。時代が下って、平安後期には、白河上皇、鎌倉初期には、御(◯ママ)鳥羽上皇の御告文にも見えます。さらに吾妻鏡には、源頼朝、源義経の言葉として出てをりますし、日蓮上人の書状にも見えます。』」(佐々木望「ぬかづくといふこと」

というものである。

22:35
2018/08/28

『御意覚書』より

| by 慈鎮和尚
楠正儀参議ニ任シタルコト、観心寺ノ文書ニ在、伝ニ可入事。
  右中村新八・鵜飼金平・佐々介三郎奉之。

【付記】
 『観心寺文書』を熟読していた「黄門さま」は、(弘和3年)12月24日付「楠木正儀国宣」(注1)を見るに及んで、正儀の官歴の好史料と判断。正儀伝への補入を、「助さん」たちに指示したのである。この「国宣」の日下には花押しかないが、これを正儀のものと判断できたあたり、「黄門さま」の南朝関係文書の読み込みの深さをよく示している(注2)。やっぱり勉強家で、史臣たちが敬服したのも当然だと感服する。
 過日、中世史サマーセミナーで、N氏の一生懸命な報告を拝聴しながら、《タイムマシンがあったら、『花押かがみ』の第5巻~第8巻を、延宝年間の「黄門さま」や「助さん」、そして
丸山可澄にプレゼントして、三人の喜ぶ顔を見たいな》などと、他愛もないことを考えていた。(注3)

(注1)『大日本古文書 観心寺文書』第42号。

(注2)ちなみに、『花押籔』では、巻之4「五位」に正儀の花押を収載している。丸山可澄も、《やっ、これは参りましたな》なんて言って、頭を搔いていたかも知れない。多分、「黄門さま」は、正儀と河野辺駿河守との関係なども、しっかりとチェックした上で、判断を下したのだろう。
【再度考察した結果、上引の逸話は『花押籔』の成立以前のことで、「黄門様」の考証が丸山可澄に伝わっていなかったということに気づいた。2018年11月29日、追記】

(注3)この話は、近く河内長野市の「くろまろ塾」で行なう講演「河内長野に来た助さん」でも、他の未刊史料も用いながら、来聴者の皆さんにお話する予定。
00:45
2018/08/25

直木孝次郎、 (聞き手)狩野久・和田萃「古代史研究と文学の世界(下)」より

| by 慈鎮和尚
直木 井上さん(◯光貞)と岸さん(◯俊男)とはそれぞれ性格が違うので面白い。井上さんは、聞き上手で、人の意見を聞くと「なるほどそういえばそうだ」なんて言うのです。それにつられて自分の未発表の意見を言ってしまうと、井上さんがうまく取り入れて次の自分の論文にしてしまう。それは僕だけではなくて、同じようなことを言っている人は、他にもいます。井上さんと喋る時は気を付けているのだけれども、聞き上手だからつい本音を言ってしまうとね。(◯中略)一方岸君は少々のことを言ってもちっとも興味を示さず、フンフンと聞きおくだけで冷淡なのです。その代り、こっちの腹を探られるということはないのです。

【付記】
畏敬する古代史家に相談事をすると、即座に井上氏の挿話を示され、十分な注意を幾度も促された。鈍感なわたくしは、ようやく背筋に慄然たるものを覚えた。
18:16
2018/08/21

上横手雅敬先生「岡森福彦君をお悼みして」より

| by 慈鎮和尚
 体力的には決して恵まれていたとはいえない岡森君を支えていたのは、気力と不屈の闘志、意欲といったものであろう。講義中に倒れたとうかがったが、いかにも彼らしいと思った。ここで私が彼を称えた責任感とか、闘志とかが、その建康をますます蝕んだように思われる。 
 若い研究者たちの研究条件はいつも苦しいが、昨今の情況は度を過ぎて残酷である。その中で、岡森君は恵まれた才能を十分に開花させるに至らず、人生の豊かさ、楽しさをも経験されないまま、逝ってしまわれた。むごさに言葉を知らないが、ご冥福をお祈りすると申上げるしかないのが悲しい。

【付記】
 先輩の岡森さんが他界されてちょうど十年になる。いつの間にか、自分が岡森さんの年齢に近づいたことに、時の流れの速さを感じる。
 たしか、ご逝去は8月20日で、その二日後の晩に、南方熊楠研究会でご一緒していた松居龍五先生・
郁子夫人からメールでお知らせをいただいのであった。伊賀上野で闘病生活を送られていたことは存じ上げていたが、まさか亡くなられるとは夢にも思わず、驚愕したことを覚えている。
 御葬儀は、24日の11時30分から、伊賀市やすらぎセンター虹のホール無量庵で行なわれ、わたくしは芳澤元君とともに参列した。柩の岡森さんを見ると、何とも言えない表情をされていた。本意なく命を閉じられた先輩の無念を思うと、涙が止まらなかった。古代史研究でやり残されたことは一杯あったはずである。私の関心でいうと、妻木直良論が遂に発表されなかったのは、痛恨の極みである。あれほど詳細な年譜を作られていたのに。そして、近代史学史研究だ。岡森さんは2002・3年くらいに、周到に各時代の後輩の院生をまとめて、『国史眼』の研究会を行なわれていた。史学史ブームが到来している昨今、もし、岡森さんがいたら、あの研究会で得た知見をひっさげて、縦横無尽に重野・久米あたりを論じておられたと思う。それにしても、当時、学部生のわたくしは、あの会には入れてもらえなかったのは、まったく残念だった。二三度、史学史について、深くお話したことはあったのだが。
 2009年の暮、京都駅前の居酒屋で、横澤大典さんと岡森さんを偲ぶ会を開いた。口が悪くシニカルだけど、実は人懐っこい岡森さんの人柄を偲び、二人で様々な思い出をまさぐった。《論文を読む時は、筆者が書けなかったことは何なのか、何が足りないのかを考えながら読まなあかん》とか、《バイトをすると、お金は貯まるんだが、勉強する時間は無くなる。ふと歴史の神様に逃げられるような気になって、バイトをやめたよ》とか、あのユーモアたっぷりの口調を思い出すと、ちょっぴり愉快になる。
 どんな時代、いかなる分野についても、しっかりと議論できる学識と勉強量には、畏敬の念を禁じえなかった。映画や音楽にも造詣が深く、ビートルズ論を拝聴したこともあったが、こちらの不勉強で、
「縁無き衆生」にはちんぷんかんぷんだった。久しぶりに岡森さんのブログ「思考の嗜好」(https://blogs.yahoo.co.jp/fukuhiko)を見ると、その洒脱さと人間観察眼の鋭さをしみじみと感じる。わたくしのブログを見られたら、《堅くて一本調子だねぇ。チミはもっと肩の力を抜かんと》と笑われるに違いない。
 《太郎くん、史料や論文を読むだけではなく、自分の考えを書いてみたまえ。蓄積するのはほどほどにせんとあかんよ。論文にしないと》、これは学部二、三回生の頃、岡森さんから合研でかけられた言葉である。筆無精な自分の悪癖を鋭く見抜かれていたのであろう。岡森さんの言葉を思い起こして、学問の道をしっかりと歩んでいきたい。
 なお、岡森さんの研究は、『八色の姓と古代氏族』(岡森福彦君を遺稿集刊行委員会、2009年)という一書にまとまっている。岡森さんらしい瀟洒な装訂である。もし、古代史研究を志す学生や院生で、この記事を御覧になった方は、機会があれば、ぜひお読み下さい。

                               (軍記・語り物研究会のハンドアウトを印刷しつつ)

02:29
2018/06/25

高取正男氏「幻想としての宗教」より

| by 慈鎮和尚
 史上、民衆の宗教運動とされるものをみると、そこには仏教とかキリスト教などの世界宗教の土着問題が、はじめにのべたような形で存在するのは事実である。世界宗教は民族信仰と習合し、祖先崇拝など共同体の宗教になることで、はじめて社会の底辺部に定着するてがかりを獲得した。人人はそのような宗教々団の組織に参加することで、彼らの属するこの世の共同体の強化をはかった。けれども、ことがこれに終わるならば、表面は宗教運動でも内実は政治・社会の運動にすぎず、宗教史としてみれば、世界宗教の土俗化と頽落の歴史でしかない。逆に、自分にとってかけがえのない共同体の歴史を眼前にした人たちが、たとえ低次元のものであっても魂の王国をもとめ、失われた過去の復活を願って宗教運動に参加した過程を追うならば、その運動は厳密な意味で政治的、社会的運動から離れ、宗教そのものの世界に飛翔する。
 最初に記したキリシタンやかくれ念仏だけではなく、中世の一向一揆や古代の行基たちの運動にしても、それらは政治的、社会的に計量できるような、この世での果実をどれほど生みだしたかという観点からの追究だけにとどめてはならないと思う。もちろん、それはそれで大切な作業であるけれど、これらを宗教史、思想史上の問題としてとりあげるとき、それぞれ歴史の大きな転換期にあたり、深刻な崩壊感覚を抱かされた人たちが、どれほど途方もない夢をもとめて運動に参加したかという過程、この世の果実を重視すればそうとしか表現できないような負の現象の分析も、あわせて重要となってくる。

【付記】
 これを見返すたびに、自分の研究は所詮「仏教史の皮をかぶった政治史であるという認識を反芻せざるをえない。権力者と宗教の関係を考えることは、はたして宗教史として根本的課題であるかどうか、絶えず悩む。率直に言って、高取氏の言われる「宗教そのものの世界」への眼差しを欠くことは、一面で否定しがたいのではないか。政治史あるいは国家史に、宗教史の要素を取り込むことを欠かしてはいけないが、だからといって宗教史の本来性・独立性まで忘却してはならない(ついでに申すならば、寺院史と仏教史も似て非なるもので、両者を混同してはいけないだろう)。
 そういえば、以前、平雅行氏がある大著に対して、〈顕密仏教が民衆に与えた絶望感について論じていない〉という鋭い批判を放ち、仏名会における地獄絵などの重要性を、家永三郎・和歌森太郎といった方々の研究を踏まえて、指摘されたことがあった。一読して、宗教政策論に跼蹐していては出てこない視角だと感服したが、いま考えてみると、高取氏の問題意識と重なり合うかもしれない。

 これと少し似たような問題として連想するのが、政治史と文化史の関係についてである。両者を接続させることは必要であるが、政治を主軸に置く研究者が、無意識下に文化史(あるいは文化史史料)を政治史研究の「婢」や「部品」程度に見なし、政治的側面のみをもって一時代の文化全般を論断する傾きはありはすまいか。そうなると、文化そのもののリズミカルな発展・変容、あるいは文化が政治・社会にもたらす影響は、勢い後景に追いやられてしまう。
 政治と文化をバランスよく配置することはとても難しい。直木孝次郎・目崎徳衛といった方々が偉いのは、『万葉集』や『古今集』、あるいは『山家集』そのものの世界の豊かさを知り尽くした上で、歴史研究と接続させている点である(単に『万葉』の左注や、勅撰集・私家集などの詞書を「史料」として用いられただけではない)。だから、わたくしも『玉葉集』や『風雅集』、あるいは『続千載集』や『新葉集』を、もっと読み込まなければならない。
 歴史の捉え方、描き方は様々あってよいが、研究ジャンルそれぞれの本来性・独立性を忘却せず尊重すること、「個」の豊かさを十分に活かして「全」を描くこと、昨日は、某氏の発言に接して、いろいろと考えるところがあり、以上の事柄の大切さを認識させられた点で貴重な一日であった。
12:07
2018/05/14

太田晶二郎氏「歴史と私」より

| by 慈鎮和尚
 夢の中 社の床に 師のきみは 端然として茶を 喫したまふ

【付記】
明日、この社に参拝することになった。胸に涌く感慨は無限にして、とても言葉に表わすことができない。
23:51
2018/05/11

村田正志博士『増補 南北朝史論』「史料文献解説」より

| by 慈鎮和尚
太平記 小島法師 軍書として戦記物語として有名である。著者が小島法師なることは洞院公定の日記に見えてゐるが、果して四十巻全篇が同一人なりや否や種々異説が存してゐる。古写本として神田本及び西源院本に価値があり、神田本は早く出版せられたが、欠巻が多い。これに比すると西源院本は欠巻がなく、(但し或る事情により第二十二巻は欠巻)かつ伝来系統が最も正しいのである。そこで先年鷲尾先生(○順敬)の主宰で我々数人が協力してこれを出版したが、その際解説を私が草し、鷲尾博士の修訂を経て巻頭に載せておいたから就いて見られたい。これによつて判る如く同本は系統正しい本ではあるが、誤字脱字が甚だ多い。太平記の如き書は一般には先づ流布本に拠つておくのが宜しく、特殊なる問題に至つて各種の古写本との比較をすればよい。徒らにその性質をも考へず、古写本たることにのみ信を置くのは感心できない。なほ諸本の異同を見るには、水戸徳川家で編した参考太平記がある。(○二つめの太字は引用者)

【付記】
 連休中に某所で調査していると、ある大学院生が声をかけてくれた。見れば、旧知の人で、思いかけず四年ぶりに顔を合せたのであった。この人、かつてわたくしがオーバードクターの頃、北畠親房に関するシンポジウムで報告した際に、高校生でありながら参加してくれた奇特な人である。大学・および大学院において、随分と研学に励んだようで、お昼御飯を食べながら交わした会話がとても楽しく、勉強になったことである。
 調査終了後、近鉄電車の特急に乗って一緒に帰ったが、その折にこんな話をうかがった。先日、ある中世史料(○以下、『T記』と仮称する。ただし、『太平記』ではない)の撰者に情報を提供した人物について研究報告をしたら、その場に出席していた一人から、「『T記』は、草稿本や清書本など複数の古写本があるのだから、諸本間の系統を厳密に見定めるべきである。活字本を用いて論を立てるのはよくない」という批判を受けたという。くだんの『T記』、すでに精巧な影印本が出ており、報告をした大学院生は当然それを活字本と突き合わせ、自分の論旨に影響のある異同がないことを確認し、その上で報告を行なったらしいが、何分若いため、年配の人から批判を加えられて少し落ち込んだようである。
 わたくしは、善本・古本を尊重すること人後に落ちないが、話を聞いて大学院生に同情した。諸本間で異同が無いことが確認できるのなら、別に活字本に依拠してもよいではないか。しかも、『T記』は、成立過程が複雑であるだけに、通行本を用いざるをえない事情を含んでいるのである。その大学院生の研究報告の趣旨は、《『T記』の情報源を探ること》なのだから、諸本で異同が無い以上、ことさらに煩雑な作業を行なうべきとは思わない。諸本間の系統を見定めなければ史料を利用できないというのなら、『尊卑分脈』や『拾芥抄』などはどうなるか。失礼ながら、おそらく古代・中世史の研究者の大半が利用権を喪うことになろう(注1)。
 思うに、研究目的や研究対象に即して、史料の利用法もおのずと異なるのが当然なのである。善本・古本への目配りも事によりけりで、原本(○著者・編者の自筆本の意)でない以上、場合によっては相対化してよい時もあろう(注2)。また、活字本(「通行本」「流布本」といっても良い)に全幅の信頼を置くのもよくないが、さりとて活字本が無用とは決して思わない。だから、上に引いた村田博士の「徒らにその性質をも考へず、古写本たることにのみ信を置くのは感心できない」という提言には、心から同意するものである注3
 
善本・古本の尊重が過ぎると、玩物喪志に陥りはすまいか。ヒストリアンにとってもっとも重要な史的観察が疎かになりはすまいか。わたくしは、校訂を行なうたびに、これらのことが幾度も頭をよぎる。宇治にお住まいの恩師のお顔を思い浮かべながら。


(1)近代史学草創期の昔、次のような挿話があったことを思い出したので、付記する。「国文学二篇一〇号で松本生なる者は、星野博士(○恒)が、類聚符宣抄、拾芥抄にある太政官符をわざわざ前田侯爵家所蔵の守長本を用いた点を批判し「博士達は古文書古写本をこよなきものとおもひとり」て用いる行き過ぎをつき、さらにかれらを「故に反故いぢりの博士達とは申すなり」といっている」(門脇禎二博士「官学アカデミズムの成立」)。

(2)これは乱暴な言い方に聞こえようが、いずれわたくし自身、著名な鎌倉末期の史料について、この立場から考察を試み、ある二大家の学説の両断を試みたいと、不遜なことを考えている。
 ところで、近時『平家物語』の研究者で、史学の分野に対して延慶本の過大評価を誡める人がいる。延慶本だけによりかかるのが良くないのは御説ごもっとも。しかし、政治史研究において、延慶本が重要な意味を持つのも確かだから、史学と文学で研究目的を異にする以上、史家が『平家物語』の諸本調査に神経質になりすぎるのもよくない(史学で『平家物語』の成立を究明すべく、諸本論を展開された方にA先生『平家物語の研究』とH博士『平家物語の批判的研究』がある。ただし、前者は結論ありきの性急な論が目立つし、後者も資料集としては便利だが、必ずしも所期の目的を達成されていない。わたくしは、高校2年生の頃、『平家物語』の成立に強い関心を抱き、慈円や大懺法院との関係をあれこれ調べたが、よほど決定的な新史料でも見つからない限り、筑土鈴寛の想像を裏付けることはできないことに気付いて、大学入学後半年ほどで諦めた。初対面の恩師に、自分の考えを臆面も無く開陳したのも向こう見ずで恥ずかしい話だが、かえって懐かしく思い出される。ただ、この延長線上に『愚管抄』への関心が芽生えた一面はあるかもしれない)。

3)ちなみに、村田博士が『大日本史料』第6編の編纂に多年従事されたことは言うまでもない。上引の提言は、『太平記』西源院本の翻刻に関係し、かつ『大日本史料』の編纂経験に基づくものであるから、短文ながら、千鈞の重みを持つ。近時、『太平記』の西源院本は、岩波文庫の底本に用いられたためか、中世史の研究で利用する人が多くなった。これから研究を始めようとする大学院生や学部生におかれては、『太平記』を利用する際、最近の動向に盲従せず、ぜひ村田博士の提言も踏まえていただきたいものである。その際、やはり水府の『参考太平記』が、かけがえのないたづきとなろう。
09:29
2018/03/24

川添昭二先生『歴史に生きる日蓮』「まえがき」より

| by 慈鎮和尚
 末尾に書名『歴史に生きる日蓮』についての思いを記しておこう。十三世紀、日本史上空前の外寇状況のなかで、日蓮は法華経徹信の純信仰の次元でのみ生き、後世のさかしらの歴史的客観化を衝き破る信仰を以て現在に生き、さらに宗教的永生を続けて行くであろう、と。

【付記】
 博士後期課程からオーバー・ドクターの頃、自分の研究に自信が持てず、先行きに不安を感じることが多かった。それでも、手まさぐりに研究を進める中で、いくつかの蕪稿を発表することができた。あのころ、蕪稿の抜刷を花園天皇日記研究会の注釈の抜刷と併せて献呈することが多かったが、そのたびに、いちはやく懇篤なお返事をくださった方がお三方いらっしゃった。おひとりは国文学の故井上宗雄先生、おひとりは森茂暁先生、そして最後のおひとりが川添先生だった。川添先生からいただいた達筆のお手紙には、必ず若輩に対する優しい励ましがあった。ここで多くは記さないが、つらいときにあのお手紙にどれだけ励まされたことか。思い出すたびに、感謝の気持ちがこみ上げる。
 川添先生の研究領域はとても広く、九州地域史・対外関係史・中世仏教史・中世文化史・武家政権史など多岐にわたる。あの重厚篤実な研究は、先行研究と関係史料の周到な渉猟・整理に基づくもので、強靱な学的生命力を宿している。これからも、ながく学界の道標であり続けるだろう。
 川添先生に関わって思い出されるのが、高校1年生の頃に読んだ『アエラムック10 歴史学がわかる』のインタビューである。「好きな歴史上の人物」として日蓮を挙げられ、かつて或る人から、「君は人に即して歴史を見ようとしているね」ということを言われ、それ以来、意識的にそうしていると述べられていた。ちょうどその頃、後に師事することになる上横手先生の『平家物語の虚構と真実』を読んでいたこともあって、「人に即して歴史を見る」というのがとても印象に残り、強く影響を受けた。そのためか、わたくしの拙い研究論文も、人物中心のものばかりである。
 川添先生の人物研究は、今川了俊・菊地武光・北条時宗など武将が多いが、やはり日蓮宗の寺院にお生まれになっただけに、日蓮研究こそ本領に位置するものと拝察する。日蓮に対する内在的理解は深く、同時に日蓮の生きた鎌倉時代の政治史・文化史との接続も見失ってはいない。『日蓮とその時代』、『歴史に生きる日蓮』、『日蓮と鎌倉文化』の三冊は、いずれも抜群の名著と言わねばならず、わたくしはこれらを読み返すたびに、「時代を以て人を論じ、人を以て時代を論ず」という山路愛山の名文句を想起する。
 川添先生の日蓮に対する史的評価はすぐれて客観的で、日蓮遺文に対する史料批判も鋭利であるが、上引の文章を見ると、その奥底にはやはり日蓮に対する篤い信仰がおありであったように思われる。わたくしは、川添先生の訃報に接して、次に引く日蓮の「大白牛車御消息」の一節を想起した。

 故に法性の空に自在にとびゆく車をこそ、大白牛車とは申すなれ。我より後に来たり給はん人々は、此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎ひにまかり向かふべく候。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 この遺文にあるように、川添先生は、大白牛車に乗って日蓮の待つ霊山浄土に向かわれたのであろう。最後に、謹んでご冥福をお祈り申し上げるとともに、今後の精進を誓って記事の結びとする。
21:34
2018/02/16

「石田幹之助博士追悼記事」より

| by 慈鎮和尚
鈴木義雄「恩師・石田幹之助先生のこと」より

また、“
先生は何のために学問を、歴史を学ばれているか”と問うや、必ず「何よりもそれが好きだからで、ためを思ってやってきたおぼえはない」と言われた。何らかの利を思って行動する今の世にあって、まず己れ自身を終始深めていこうとする態度には常に頭の下る思いであった。

岡島千幸「亡き石田先生を想いて」より

ところで話が少々横道にそれるが、三年ほど前この
『長安の春』のことが話に出た折に、先生は戦争になる時にあえてこの本を出したという趣旨のことをおっしゃった時、私は何か深いものを感じたのを覚えている。

【付記】
 過日、某所で、ある方の講釈(学問論と大学論)を拝聴し、いろいろとお説教とご叱責も頂戴した。一応、神妙な面持ちをしたものの、心中まことに馬鹿らしく感ぜられ、ウェーバーの著書の一節を何度も思い出していた。帰宅後、“清涼剤”が欲しくなり、近くの書棚に置いていた石田博士の『長安の春』と、『凝然大徳事蹟梗概』を拾い読みした。ふと、石田博士の学問観は何だったのだろうか、と気に掛かり、以前に複写したコピーを見ていると、上記の引文が目にとまった。

01:26
2018/02/03

西田直二郎博士・村山修一氏「日本史卒業論文審査のあとをかえりみて」より

| by 慈鎮和尚
 とにかく、今回の卒論は、研究室にも本が乏しかっただけに、皆んな不自由せられたであろうが、それにも拘らずよく諸方面に探索して資料を蒐められた。私共は論文の出来ばえだけでなく、資料探索の努力如何も採点に加味したのであった。歴史のよい論文は要領なんかで出来るものでない。不断の努力の集積こそ貴い。最後に一たんきめた論題を矢鱈に変更すること、之はさけてほしい。どんな研究にも自分の先入見とちがった結果が出たり、又は、はたと困るような関所にぶつつ(○衍カ)かったりし勝ちなもので、そのたびに退却していては、何時になっても進歩は生れぬ。その際はすすんで先輩・先生方にも相談しなさい。一生の思い出になる大切な論文が悩なしにするすると出来たらそれこそ不可思議という他はない。(○下線は引用者)

【付記】
京都東山にある某女子大といささか御縁があるが、この一文は、その大学の草創期に書かれたものである。時あたかも卒論口述試問の季節、教員の方もけれんみのない真摯な態度が望まれよう。学生に適切な指導をすることはもちろんだが、一方的で押しつけがましい「教育」に陥るのは避けたいものである。一昨日、基礎ゼミの補講で2回生にレポートの指導をしつつ、ふとそう思った。

01:32
2018/01/08

座談会「“伝記”をめぐって」より

| by 慈鎮和尚
児玉幸多 多賀君が慈円に初めて興味を持たれたのは愚管抄からですか。

多賀宗隼 歌の方から。

児玉 歌は大分興味を持っておるの……。

多賀 そういうことですね。

児玉 特に慈円の歌で興味を持たれたのはどういう……。

多賀 要するに、訳が分からないから何とか分りたいという気持。(笑声)

児玉 それで一生慈円に取り組むというのは大変ですね。

多賀 一生を棒にふってしまう。(笑声)

児玉 その伝記を補うものが、将来出て来る可能性はありますか。伝記の史料としてほかに新しく出て来る可能性は……。

多賀 まだあると思いますね。

児玉 それはどんなところが予想されますか。

多賀 やはりまだあると思います。公開されれば、叡山にはあると思います。

児玉 叡山のは叡山文庫にあるだけではないのですか。

多賀 叡山の方々に散らばっておるらしいですね。手をつけなければならんのじゃないかと思います。

(○中略)

児玉 しかし人間を理解するのにはいろいろむずかしいことがあるかもしれないけれども、一応大きな、愚管抄とか歌とかがとにかくそれだけあるということは、ある点からいうと、人間の一面かしらないけれども、理解できる。

多賀 そうですね。どうせ史料はいくらあってもきりがない。

児玉 普通の伝記を書く対象からいえば、そんなに少ない方じゃないですね。

多賀 そうでしょうね。

児玉 ただそれを集める苦心は大変かもしれない、まとまっているわけではないから。それから、史料がまだある可能性があるというのはありがたくない。(笑声)

和歌森太郎 慈円の場合はとにかく理解するということがむずかしい。

多賀 いろいろなお経とか何とか伝わったものを、いろいろ先生から受取って弟子にやっておりますね。そういうことが多いですね。それだけのことならばよいけれども、その内容が分らないことには、なかなか。それが一番……。

【付記】
どちらかというと寡黙な多賀氏が、慈円研究について楽しく語られているのが、とても微笑ましい。「どうせ史料はいくらあってもきりがない」と諦め気味に述べられる一方、天台関係の寺院にまだまだ慈円の史料があることも予測しておられる。その見立ては誤りではなく、方々から出現しており、これからもまだ出て来るだろう。しかも、その内容が政治史にも関係するし、台密にも関係するから、広い視野と知識が求められる。まったく、「その内容が分らないことには、なかなか。それが一番……」である。これから、多賀氏に絶賛を受けた、当代随一の政治史家にお目にかかり、わたくしの慈円と『愚管抄』観について、ご意見をうかがう予定である。(龍大大宮図書館一階にて、種々の調べ物をしながら)
13:11
2018/01/08

坂本太郎博士・吉川圭三社長「国史大系のことなど」より

| by 慈鎮和尚
吉川圭三 さて、話題を少し変えますが、私は近頃、自分の人生に空しさを感じて困っています。坂本先生には五十何年お世話に、ご指導いただいたわけですけれども、私は意気地のない、能力のない、長生きもできないと思っていたのに、不思議に七十過ぎまで生きてしまいました。超人的な生き方をなさった黒板先生や、丸山先生の亡くなった歳をこえて、私はいま七十四才です。それで自分が才能のない無学なのに、かなり高度の出版を続けているというのは、これはやっぱりどう考えても他力本願ですよ。

坂本太郎
 それはあなたが熱心で人柄がいいか
ら、これならば信頼できるとみんな思う。

吉川
 結局、自分に才能も学問もないから、愚直一点張りでいくところに同情が集まるのでしょうか。(笑)

坂本
 それはなまじっか才能なんか必要じゃない。(笑)

【付記】
 吉川社長はとても謙遜しているが、この「
愚直一点張り」の出版人がいなければ、『国史大辞典』は無かったであろうし、「人物叢書」や「日本歴史叢書」という二大シリーズを企画・出版したのも立派なものである。わたくしの場合、中学生時代に「人物叢書」を読みふけって歴史学に関心を持っただけに、多大な恩恵を蒙っている。いつも座右に置いて参照している『太田晶二郎著作集』も、吉川社長が刊行に心を配られたようなので(第1冊「そでがき」、第5冊「『あとがき』に代えて」参照)、この点も本当に有難いと言わねばならない。
 かつて明治の田口鼎軒は、日本人の歴史好きに寄せて、「史癖は佳癖」という興味深いフレーズをひねり出したが、吉川社長と吉川弘文館が戦後日本人の「史癖」を養った功績は認めなければならない。これに限らず、出版社と編集者、そして、印刷所は学者を支えてくれる縁の下の力持ちである。ここまで書いてきて、学生時代に、ある偉い考古学の先生が、講義中に「学者が一人で本を出せると思ったら、大間違いだ」と仰ったことを思い出した。史学史の研究も、今後は出版・印刷の面にも光を当てる必要があろう。

00:31
2018/01/07

水原一「石母田正先生」より(承前)

| by 慈鎮和尚
私の学位論文『延慶本平家物語論考』は法政大学での因縁の時から二十年後の事だったと前に書いたが、その論考の「あとがき」の一部に私は次の様に書いた。
  二十年前に、私が延慶本の古態を口にした時は失笑をかつたものであった――。
  尊敬する某氏・某氏のその冷笑の表情は私の脳裏から離れない。いわばその屈
  辱の年月の苦しみを知っているのは、
私自身と、そして痛んだ一冊の延慶本自身
  であろうと思う。
 それは石母田先生の事だな――と言い当ててくれる人も若干ある。いわば一過性の石母田先生の苦笑が、どうも終生私の記憶から離れない。月報にはそれでも幾分柔げて書いたつもりである。といっても私の石母田先生を尊敬する気持は変っていない。「漏宣」の一語に表わされた詳細を尽した考証などは、国文学研究の中では経験した事のない歴史学の厳密さを痛感させてくれたものであった。(○中略)
 学
問とか研究とかいう一般の人々からは縁遠い場において、関わるもの同士の間には火花が炸裂する壮絶な劇的展開、いわば修羅場ともいうべき、私も何度も経験した場面があるものだという事をこの機会に知って貰いたいと思う。そしてそういう際どい遭遇が、学問の機微に触れる所に、勝ち負けではない”学恩”という千載一遇の輝きが有り得るものだという事も、しみじみと感じているのである。(○太字は引用者)

【付記】
“孤独”に耐えきった学者の産み出した研究は、やはり美しく、かつ強靱である。そして、“学恩”という言葉の響き、そこには万感の思いが籠められている。
年の始まりにあたり、学問の壮絶さを物語る一篇を思い出し、緩んだ気分を引き締めることができた。本年は、学問に対して、
真摯に向き合う年にしたいものである。

23:59
2018/01/04

水原一「石母田正先生」より(承前)

| by 慈鎮和尚
 石母田正先生は戦後歴史学の巨星として数々の業績を残され、昭和六十一年、七十三才で逝去された。国文学の道を歩む私との接点といえば、上に述べた範囲であった。私はその学問に触発され、敬服していた。そして私の生涯を貫く延慶本平家物語研究が、未熟ながら少しずつ学界に影を落とし始め、同時にそれが旧説・常識によって冷遇されているという頃に、石母田先生の前述した二問題は、繰返し言うが私にとっては、この先生こそはわかって頂けると――踊り上がらんばかりの教示だったのである。だが、平家物語の常識――延慶本は後期の増補本で、研究価値の乏しいものだ、という評定は余りにも凝固した岩盤となり切っており、私の舌足らずの発言が受け入れられぬとしても無理はなかった。ただ「この先生こそ」と力にした私の失望は大きかった。研究とは結局孤独の業だ――という覚悟がそれで固まった。(○太字は引用者)

23:59
2018/01/02

水原一「石母田正先生」より(承前)

| by 慈鎮和尚
しかし先生はあくまでも慎重で、その後の質疑応答の時間に、勢いづいた私が延慶本古態論に言及したのに対しては、「延慶本が古い?それは面白い」と一笑に付されただけで、当時としては奇説というべき私の見解に軽々に乗っては頂けなかった。その日のお話はいずれ公にされるであろうと心待ちしていたが、寡聞にして活字になったものを知らず、随って私が学位論文として一応延慶本研究にまとまりをつけた『延慶本平家物語論考』(昭五四刊)の中にも、絶好の材料と思いながら触れ得なかった。

00:37
2018/01/01

水原一「石母田正先生」より

| by 慈鎮和尚
 同様な石母田先生の問題提起になお一度接したことがあった。昭和三十六年頃から、当時新進のかつ未熟な軍記研究者たちが呼びかけ合って“軍記物談話会"という勉強会を作ったが、月例の研究発表会の他に、たまに先学の先生のお話を承るということもした。その早い時期(手近の記録を見ると、三十七年六月十六日、法政大学会議室、とある)、石母田先生を講師にお願いした。
 快く応じて下さった先生は、延慶本・長門本・盛衰記といったいわゆる後期増補本群にのみ見える、左少弁行隆署名の二つの院宣(共に以仁王謀叛の時、公の立場から延暦寺に向けて、園城寺加担を制止する趣旨)に、一般の語り物系に優る史実性を認め得ると説かれ、しかもそれが清盛の為にした行隆の策謀であったと推論された。これに、やはり増補系三本のみが載せる、源行家から伊勢神宮に納めた願書の中に、前記院宣を非難して、
  以左少弁行隆恣構漏宣或放天台山制与力……(○引用者注―返り点・送り仮名は略す)
と難じていることを照合させ、漏宣”の語義についても詳しく考証され、結局延慶本に最も史実にかなうものがあるという論旨であった。これも、延慶本古態を主張し始めていた私には、感動に身の震えるほどの御意見であった。

17:50
2017/08/22

古橋信孝「宮本さんの晩年」より

| by 慈鎮和尚
 私の考え方の基本は、自分が最もたいせつにしている、いわば自分が存在する根拠として選んだ研究や、学、批評の視点から考えることである。学部改組も、企業と違って、学を中心になり立っている大学のはずだし、教授会は研究者の集まりなのだから、まず自分の研究や学にとってどういう意味があるかということから考え始めるべきだと思う。そうでなければ情熱もわかず、無駄な時間を費やしている想いが先に立ってしまう。

【付記】
 つい最近、兄事する国文学者の方から、おたよりを頂いた。その中に「大学の危機が近づきつつあるなかで最後に大学を守るのは学問への敬意だろうと思います。その点でひけ目を持つ大学は最後まで戦えなくなるのではないでしょうか」(下線部は、原文では圏点)とあり、はっとさせられた。そのこころは、上引の一文に見事に重なる。「自分が存在する根拠」としての「学」、これにしか己の支えはない。企業のような論理に馴らされてたまるか。
 そういえば、畏敬する有職故実の篤学や、大学院時代の恩師から、前後して新著の御恵与を受けた。多くの研究者が敬遠しがちな儀式書の読解に正面から取り組んだ注解、あるいは史上に著名ながらも史料の乏しい武将の全貌を鮮やかに解明した伝記、いずれも円熟味を感じさせる藝術品のようである。私も、この一夏を無駄にせず、秋の大会報告に向けて精進を重ねる知友に負けないように、何かしらの成果を生み出したい。
(奥の院付近のとんかつ屋にて密教学の篤学と学を語らい、校務出張のため徳島に赴かんとする直前に記す)
00:21
2017/02/13

喜田貞吉博士宛某書簡(喜田博士『六十年の回顧』所引)

| by 慈鎮和尚
 汝等は幸徳の一味ならん。其の事業の失敗の報復をなす為に、尊氏の二の舞を世人にすゝめ、千歳の後邦家を覆さしめんことを企てたり。其の罪逆賊に譲らず、其の誅戮を免るゝは一に皇恩によれり。汝等若し此の事を非認せば、自殺して誤説世を迷はせし罪を至尊と国人とに謝すべし。然らざれば、汝等は実に幸徳等の一味なり。天誅豈に踵を回らさんや。

【付記】
 南北朝正閏論争の際に、喜田博士に届いた脅迫状である。今日、はからずもこの書簡の実物に出会った★。たった一片の葉書であり、内容は他愛もないが、それはまさしく天皇制国家に雁字搦めにされた、「国史」研究が受けた傷痕であった。
 論争時、喜田博士に届いた書簡は、激励文・脅迫状さまざまであり、総数は四十通を超える。中には未開封のものもある。わたくしは、この書簡群を目にして、思わず息を呑んだ。そして、終生この問題に煩悶し続けた、ひとりの碩学の苦悩に思いを馳せずにはいられなかった。
 正閏論争については、近年研究が着々と進展しているが、その論の中には、まだ何かしっくりとこないものがある。南北朝史そのものに関心を寄せる一学徒として、この史学史上の重大問題について、自分なりに考えていきたいと思う。

★原文の表記は片仮名書きで、上の引用文には若干誤りが見られるが、所蔵者の許可を得られていないので、いまは著作集版『六十年の回顧』のままとする。いずれ機会に恵まれるならば、紹介したい。

20:17
2016/11/25

上寿の碩学

| by 慈鎮和尚
笠松宏至「この書と過ごせた幸せ」より

佐藤氏に師事して六〇年近く、私は古文書解読の三要素ともいうべき、くずし文字の解読、中世語彙の智識、そして文体の持つ論理性、それぞれに於ける氏の恐るべき能力に長く接してきた。数字ではかることはできないが、氏と私の距離はほとんど無限大といっても、少しも誇張ではない。その氏が何故ここまで謙虚でなければならないのか、それは私にはわからない。ただ想像できるのは、絶対的無謬のテキストという目標に向かって実践されようとした冷たく厳しい姿勢である。

【付記】
日本中世史の領域において、「碩学」という呼称がもっともあてはまる学者は、佐藤進一氏を措いて他にはあるまい。その佐藤氏は、本日つつがなく上寿を迎えられた。これを記念し、佐藤氏の論著より莫大な学恩を被ったひとりとして、僭越ながら氏の業績目録を作成した。これを江湖に示し、氏の学績を讃えたい。ただし、遺漏も少なからずあろう。また、目録中には若干未見の文献も含まれている。お気づきの方は、ご叱正を賜わりたい。

【追記 
2016年12月4日
本日、史学史に深い造詣をお持ちの木下龍馬氏より、脱漏分4点をご教示いただきました。
早速追加するとともに、木下氏の御厚意に対して、心よりお礼申し上げます。


【追記 2016年12月5日
最近、室町幕府の研究に精力的に取り組まれている川口成人氏より、脱漏分1点をご教示いただきました。
早速追加するとともに、川口氏の御厚意に対して、心よりお礼申し上げます。

【追記 2017年10月16日
最近、森茂暁先生より脱漏分1点を、木下龍馬氏より脱漏分3点を、それぞれご教示いただきました。早速追加するとともに、おふたりの御厚意に対して、心よりお礼申し上げます。
また、坂口自身も、脱漏を3点ほど気付いたので、この機会に補いました。

【追記 2018年12月5日
最近、森茂暁先生より脱漏分1点をご教示いただきました。
早速追加するとともに、森先生の御厚意に対して、心よりお礼申し上げます。


佐藤進一氏業績目録(稿) ※目録中の敬称は省略した。

【論著】
1941年10月
「光明寺残篇小考」(『史学雑誌』第52編10号→『増訂 鎌倉幕府守護制度の研究―諸国守護沿革考証篇―』東京大学出版会、1971年6月)
1943年4月
『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(畝傍書房→増訂版、岩波書店、1993年2月)
1947年7月
「石母田氏の「中世的世界の形成」」(『日本歴史』第7号→石母田正『中世的世界の形成』岩波文庫、1985年9月)
1948年2月
「人文科学委員会第2回大会・歴史学研究報告 鎌倉幕府の守護(要旨)」(『人文』第2巻第1号)
1948年9月
『鎌倉幕府守護制度の研究―諸国守護沿革考証篇―』(要書房→増訂版、東京大学出版会、1971年6月)
1949年10月
「新日本史講座第7回 封建時代前期 幕府論」(中央公論社→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
「律逸拾遺」(『史学雑誌』第58編第4号)
1949年11月
「石井良助著「日本法制史概説」」(『史学雑誌』第58編第5号)
1950年6月
「安田元久著「初期封建制の構成」」(『史学雑誌』第59編第6号)
1950年9月
『日本史の完成8週間―大学入試―』(完成8週間叢書No.8、山海堂→新訂増補版、1951年6月→三訂増補版、1952年5月 ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
※寳月圭吾との共著。
1951年5月
「日本史〔二〕中世」(『史学雑誌』第60編第5号 1950年の歴史学界―回顧と展望―)
1951年12月
「北条義時」(『日本歴史講座』第3巻 中世1、河出書房)
1952年3月
「執権政治」(『世界歴史事典』第8巻、平凡社)
1952年7月
「石母田正「中世的土地所有権の成立について」―平安時代の百姓名の成立の意義―(歴史学研究一四七号)」(『法制史研究』第1号)
「法制史学会第一回東京部会発表要旨 関東御分国考」(『法制史研究』第1号)
『古文書学』1(法政大学通信教育部)
1952年8月
「古文化財散佚の問題によせて」(『歴史学月報』第23号)
1952年9月
「吾妻鏡の原資料の一つ」(『史学雑誌』第61編第9号)
1953年2月
「大分県史料(宇佐永弘文書1)・金沢文庫古文書第1輯・第2輯」(『史学雑誌』第62編第2号)
1953年3月
『古文書学』2(法政大学通信教育部)
1953年11月
「虎尾俊哉「「貞観式の体裁」―附「式逸々」―(史学雑誌六○編一二号)」(『法制史研究』第3号)
1954年1月
「初期封建社会の形成」「守護領国制の展開」(豊田武編『新日本史大系』第3巻 中世社会、朝倉書店)
1954年8月
『越後文書宝翰集―新潟県文化財調査報告書、文書編1』(新潟県教育委員会)
1954年11月
『日本史研究入門』(遠山茂樹との共編、東京大学出版会)
※「研究法」「封建社会・前期 2 鎌倉時代 封建制度・政治過程・思想文化」を執筆。
1955年2月
「鎌倉幕府政治の専制化について」(竹内理三編『日本封建制成立の研究』吉川弘文館)
1955年8月
「外交文書」「記録」「公文書」「古文書」「古文書学」「上表文」「書状」「筆蹟」「文書」「誄」(国語学会編『国語学辞典』東京堂出版)
1955年10月
『中世法制史料集』第1巻 鎌倉幕府法(牧健二の監修、池内義資との共編、岩波書店)
1956年4月
「明るい研究室を」(『国史研究室』第4号) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
1957年5月
『岩波小辞典 日本史』(家永三郎・古島敏雄との共編、岩波書店)
1957年6月
『中世法制史料集』第2巻 室町幕府法(牧健二の監修、池内義資との共編、岩波書店)
1958年2月
「歴史認識の方法についての覚え書」(『思想』第404号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月/網野善彦編『日本の名随筆』別巻99 歴史、作品社、1999年5月)
1958年3月
「牧英正「鎌倉時代の人身売買法制に関する若干の考察」(大阪市立大学法学雑誌三巻一号)」(『法制史研究』第8号)
「大饗亮「日本封建制初期における主従関係の性質(一)(二)」(岡山大学法経学会雑誌一三号、一七号)」(『法制史研究』第8号)
1959年2月
「幽霊部隊」(『国史研究室』第7号) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
1959年5月
『日本の歴史』第4巻 鎌倉武士(赤松俊秀・石母田正らとの共編、読売新聞社)
1959年7月
「寿永二年十月の宣旨について」(『歴史評論』第107号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
1959年8月
「政治史 鎌倉・室町時代」(国際歴史学会議日本国内委員会編『日本における歴史学の発達と現状〔日本史・東洋史・西洋史〕』東京大学出版会)
1959年9月
「時代と人物・中世」(大隅和雄との共稿、『日本人物史大系』第2巻 中世、朝倉書店)
1960年2月
「吾妻鏡」「花営三代記」(『世界名著大事典』第1巻 ア~カン、平凡社)
1960年3月
「室町幕府開創期の官制体系」(石母田正・佐藤進一編『中世の法と国家―日本封建制研究1―』東京大学出版会→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
「井ケ田良治著「庄園制の崩壊過程―室町時代の東寺領太良庄―」(同志社法学四十五号)」(『法制史研究』第10号)
1960年8月
「歴史を作るものの力を信じよう」(『歴史評論』第120号) ※森茂暁先生のご教示により、追加。
1960年10月
「憶い出と追悼のことば」(樺光子編『人しれず微笑まん―樺美智子遺稿集―』三一書房→復刻版、新泉社、2011年9月)
「共同討議「惣領制をめぐって」の記録から」(新田英治・藤木久志らとの共稿、『中世の窓』第6号)
1960年11月
「日本の古文書」(『世界名著大事典』第5巻 ニ~マヨ、平凡社)
1961年5月
「日本史 総説」(『史学雑誌』第70編第5号 1960年の歴史学界―回顧と展望―)
1962年3月
「笠松宏至「室町幕府訴訟制度『意見』の考察」(史学雑誌六九編四号)」(『法制史研究』第12号)
1962年12月
「戦国大名の法律」(『群像』第17巻第12号)
1963年5月
「室町幕府論」(戦後第1次『岩波講座 日本歴史』第7巻 中世3、岩波書店)
1964年11月
「相田二郎先生の思い出」(『新訂増補 国史大系月報』9、吉川弘文館)
※『新訂増補 国史大系』第29巻上 朝野群載の付録。
1965年2月
「御成敗式目の原形について」(『新訂増補 国史大系月報』15、吉川弘文館→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
※『新訂増補 国史大系』第33巻上 吾妻鏡後篇の付録。
1965年8月
『中世法制史料集』第3巻 武家家法Ⅰ(牧健二の監修、池内義資・百瀬今朝雄との共編、岩波書店)
1965年10月
『日本の歴史』第9巻 南北朝の動乱(中央公論社→中公文庫、1974年2月→新装改版、2005年1月)
1966年5月
「法史料としての沙石集」(『日本古典文学大系』月報 第2期第25回配本 沙石集)
1967年9月
『室町幕府守護制度の研究―南北朝期諸国守護沿革考証編―』上(東京大学出版会)
1968年3月
「足利義教嗣立期の幕府政治」(『法政史学』第20号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
1968年10月
『古文書学』3(法政大学通信教育部)
「守護制度史上の信濃」(『信濃』第20巻第10号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
「『勘仲記』の紙背文書」(林屋辰三郎・森暢編『日本文化の歴史』第7巻 鎌倉時代 武門の道理 月報、学習研究社)
1971年9月
『古文書学入門』(法政大学出版局)
1972年3月
「関東裁許状の紙継目裏判」(『鎌倉遺文月報』2)
1972年12月
『日本思想大系』第21巻 中世政治社会思想・上(石井進・石母田正・笠松宏至・勝俣鎮夫との共編、岩波書店)
※「結城氏法度」を担当。
1975年7月
「日本花押史の一節―十六世紀の武家の花押―」(名古屋大学文学部国史研究室編『名古屋大学日本史論集』下巻、吉川弘文館→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1975年9月
「日本の古語と現代中国語」(『日本文化季報』Ⅰ―1)
1975年12月
『影印北越中世文書』(藤木久志・桑山浩然・阿部洋輔・金子達・中野豈任との共編、柏書房)
「武士団と神道(日本歴史文庫) 奥田真啓」「南北朝 林屋辰三郎」「日本封建制成立の諸前提 安田元久編」「初期封建制の研究 安田元久編」「守護と地頭 安田元久」、「和与の研究  鎌倉幕府司法制度の一節 平山行三」「惣領制(日本歴史新書)  羽下徳彦」「日本社会経済史研究  古代中世編 宝月圭吾先生還暦記念会編」「日本社会経済史研究  中世編 宝月圭吾先生還暦記念会編」「中世の荘園と社会 水上一久」「日本中世政治史研究 上横手雅敬」「中世の権力と民衆 日本史研究会史料研究部会編」(遠藤元男編『日本史研究書総覧』名著出版
1976年3月
「古文書入門、序説」(『書の日本史』第9巻 古文書入門/花押・印章総覧/総索引、平凡社)
「花押小史―類型の変遷を中心に―」(『書の日本史』第9巻 古文書入門/花押・印章総覧/総索引、平凡社→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
「武家政権について」(『弘前大学国史研究』第64・65合併号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
「名古屋大学文学部所蔵 滝川文書」(三鬼清一郎との共稿、『名古屋大学文学部研究論集』史学23)
1976年5月
「浄蓮華院文書」(『年報中世史研究』創刊号)
1976年9月
「将軍と幕府官制についての覚書」(豊田武、ジョン・ホール編『室町時代―その社会と文化―』吉川弘文館)
「中世史料論」(戦後第2次『岩波講座 日本歴史』第25巻 別巻2 日本史研究の方法、岩波書店→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
1977年1月以前
「『武家手鑑』の公刊を喜ぶ」(前田育徳会尊経閣文庫編刊『
武家手鑑』内容見本、臨川書店)
1977年5月
「大乗院の評定制」(『年報中世史研究』第2号)
1978年7月
「相田先生の思い出」(『相田二郎著作集』第3巻 古文書と郷土史研究 付録、名著出版)
1978年3月
「川崎市の文化財に指定された古文書について」(『川崎市文化財調査集録 第13集』、川崎市教育委員会) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
1979年3月
「凝然自筆仏書の紙背文書(抄)」(『中央史学』第2号)
「足利時代史」「阿野実廉」(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻 あ~い、吉川弘文館)
1979年7月
「ある新聞人の日記とその草稿」(『日記・記録による日本歴史叢書』月報1)
※『日記・記録による日本歴史叢書』古代中世編第5巻 戸田芳実『中右記―躍動する院政時代の群像―』(そしえて)の付録。
1979年9月
「花押を読む試み① 裏返し文字の花押」(『月刊百科』第204号→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1979年11月
「花押を読む試み② 一字の花押」(『月刊百科』第206号→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1980年2月
『日本を創った人びと』第11巻 足利義満―国家の統一に賭けた生涯―(平凡社)→『足利義満―中世王権への挑戦―』(平凡社ライブラリー、1994年6月)
1980年4月
「花押を読む試み③ 一字の花押(続)」(『月刊百科』第211号→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1980年11月
「執権北条氏の花押について―花押を読む試みの一節―」(『金沢文庫研究』第264号→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1980年12月
「若い学究たちの論集」(川添昭二編『九州中世史研究』第2輯、文献出版)
1981年2月
『日本思想大系』第22巻 中世政治社会思想・下(笠松宏至・百瀬今朝雄との共編、岩波書店)
※「明法条々勘録」ほかを担当。「解説 公家法の特質とその背景」を執筆。
1981年5月以前
「古事類苑との出あい」(『古事類苑』普及版 第2次予約募集内容見本、吉川弘文館)
1981年6月
「学界風俗」(『中央史学会会報』第4号)
1983年2月
「関城書裏書」「願文」(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第3巻 か、吉川弘文館)
1983年3月
「鎌倉幕府職員表復原の試み(其一)」(『中央大学文学部紀要』史学科 第28号→『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店、1993年2月)
1983年4月
『日本の中世国家』(岩波書店→岩波現代文庫、2007年3月)
「学に忠なる史家」(『豊田武著作集』第4巻 封建都市 付録、吉川弘文館)
1984年2月
「公家様文書」(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第4巻 き~く、吉川弘文館)
1984年3月
「鎌倉幕府職員表復原の試み(其二)」(『中央大学文学部紀要』史学科 第29号→『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店、1993年2月)
1984年7月
「荻野三七彦著『古文書研究―方法と課題―』」(『日本歴史』第434号)
1985年3月
「鎌倉幕府職員表復原の試み(其三)」(『中央大学文学部紀要』史学科 第30号→『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店、1993年2月)
1985年6月
「東大闘争時代の藤堂先生」(『中国語』第305号)
1985年12月
「よいテキストへの願い」(『早稲田大学蔵資料影印叢書月報』8)
※『早稲田大学蔵資料影印叢書』第14巻 古文書集1(早稲田大学出版部)の付録。
1986年3月
「壬午事変に参加した有地品之允の日記」(『中央大学文学部紀要』第120号)
1986年5月
「「時宜」論のための予備的検証」(『年報中世史研究』第11号)→「時宜(一)」(網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤進一編『ことばの文化史』中世1、平凡社)
1986年8月
「花押を読む試み④ 二合の花押」(『月刊百科』第286号→『花押を読む』平凡社、1988年10月)
1987年3月
「鎌倉幕府職員表復原の試み(其四)」(『中央大学文学部紀要』史学科 第32号→『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店、1993年2月)
「佐藤進一自歴略譜」(『中央史学』第10号)
1988年2月
「合議と専制」(『駒沢大学史学論集』第18号→『日本中世史論集』岩波書店、1990年12月)
1988年3月
「弔辞」(『信濃』第40巻第3号) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
※1987年9月16日に行われた寶月圭吾の告別式で、葬儀委員長として読み上げたもの。
1988年10月
『花押を読む』(平凡社→平凡社ライブラリー増補版、2000年10月)
1988年11月
『室町幕府守護制度の研究―南北朝期諸国守護沿革考証編―』下(東京大学出版会)
1989年1月
『週刊朝日百科 日本の歴史』別冊「歴史の読み方」5 文献史料を読む・中世(朝日新聞社→合冊版、朝日新聞社、1992年1月)
※責任編集および「武家文書の成立と展開」、「中世の人は文書をどう読んだか」を執筆。
1989年2月
「古記録研究の生涯」(『齊木一馬著作集』内容見本、吉川弘文館)
1989年3月
「花押を読む」(網野善彦編『週刊朝日百科 日本の歴史』別冊「歴史の読み方」8 名前と系図・花押と印章、朝日新聞社→合冊版、朝日新聞社、1992年1月)
1989年5月
「花押を読む試み⑤ 近現代の花押」(『月刊百科』第319号→『増補 花押を読む』平凡社ライブラリー、2000年10月)
1989年7月
「花押を読む試み⑥ 近現代の花押(続)」(『月刊百科』第321号→『増補 花押を読む』平凡社ライブラリー、2000年10月)
1989年11月
「石母田さんから教わったこと」(『石母田正著作集月報』11)
※『石母田正著作集』第7巻 古代末期政治史論(岩波書店)の付録。
1990年11月
「思い出」(『信濃教育』第1248号)
1990年12月
『日本中世史論集』(岩波書店)
1991年2月
「〔無題)」(『歴史書通信』第75号 「特集Ⅰ 100人が語る、私の“昭和天皇独白録“」)※森茂暁先生のご教示により、追加。
1991年7月
「新聞人の日記と社史」(『文学』第2巻第3号)
1992年3月
「ひとつの思い出」(『中央史学』第15号)
1992年11月
「青砥藤綱」「越度」(『日本史大事典』第1巻 あ~お、平凡社)
1993年3月
「『大乗院寺社雑事記』紙背文書抄(一)」(『北の丸』第25号、笠松宏至・永村眞との共稿)
「思い出」(『中央史学』第16号) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
1993年7月以前
「広汎な国書の収載」(『補訂版 国書総目録』再刊内容見本、岩波書店)
1993年8月
「平政連諫草」(『日本史大事典』第4巻 す~て、平凡社)
1994年2月
『日本中世史を見直す』(網野善彦・笠松宏至との共著、悠思社→平凡社ライブラリー増訂版、1999年2月)
※参考史料の「はじめに」「平政連諌草」「花園上皇「誡太子書」」「吉田定房奏状」を執筆。
「髻切」(『日本史大事典』第6巻 へ~わ、平凡社)
1994年3月
「『大乗院寺社雑事記』紙背文書抄(二)」(『北の丸』第26号、笠松宏至・永村眞との共稿)
1994年4月
「日記の分類」(『日本「日記」総覧』、歴史読本特別増刊・事典シリーズ第21号、新人物往来社)
1995年3月
「『大乗院寺社雑事記』紙背文書抄(三)」(『北の丸』第27号、笠松宏至・永村眞との共稿)
1996年3月
「『大乗院寺社雑事記』紙背文書抄(四)」(『北の丸』第28号、笠松宏至・永村眞との共稿)
1997年3月
「『大乗院寺社雑事記』紙背文書抄(五)」(『北の丸』第29号、笠松宏至・永村眞との共稿)
1997年4月
『新版 古文書学入門』(法政大学出版局→新装版、2003年3月)
1998年3月
「竹内先生の思い出」(「竹内理三 人と学問」編集委員会編『竹内理三 人と学問』東京堂出版)
1998年5月
『中世法制史料集』第4巻 武家家法Ⅱ(百瀬今朝雄との共編、岩波書店)
2001年2月
『中世法制史料集』第5巻 武家家法Ⅲ(百瀬今朝雄との共編、岩波書店)
2001年5月
「比較中世史料研究会12年の軌跡」(『歴史学研究』第749号)
2002年11月
『国立公文書館所蔵 大乗院寺社雑事記紙背文書』第1巻(笠松宏至・永村眞との共編、勉誠出版)
2003年12月
「『鎌倉幕府訴訟制度の研究』」「『鎌倉幕府守護制度の研究』」「『南北朝の動乱』」「『日本の中世国家』」「『日本中世史論集』」「『新版古文書学入門』」(黒田日出男ほか編『日本史文献事典』弘文堂)
2004年10月
「河音さんの思い出」(『能平のアゴラ―河音能平追悼文集―』河音能平追悼文集刊行委員会)
2005年3月
「愛知県内に史料を訪ねて」
『愛知県史のしおり』資料編9 中世2 ※川口成人氏のご教示により、追加。
2005年9月
『中世法制史料集』第6巻 公家法・公家家法・寺社法(百瀬今朝雄・笠松宏至との共編、岩波書店)
2006年3月
『国立公文書館所蔵 大乗院寺社雑事記紙背文書』第2巻(笠松宏至・永村眞との共編、勉誠出版)
2009年2月
「網野さんの思い出」(『網野善彦著作集』月報16→岩波書店編集部編『回想の網野善彦―『網野善彦著作集』月報集成―』岩波書店、2015年3月)
※『網野善彦著作集』第18巻 歴史としての戦後史学(岩波書店)の付録。

【対談録・座談録】
1960年1月
「関東関西 史学会の動向(上)―古代・中世―」(『日本歴史』第139号)
※青木和夫・赤松俊秀・阿部真琴・有坂隆道・井上薫・井上光貞(司会)・上田正昭・上横手雅敬・岡田章雄(司会)・笠原一男・北島正元・小西四郎・小林茂・塩野芳夫・豊田武・尾藤正英・森杉夫との座談会。
1960年7月
「“南北朝動乱”をめぐって」(『真説日本歴史』第5巻 南北朝の動乱、雄山閣出版)
※遠藤元男・池永二郎・斎藤巌夫・島田次郎・成田瑞穂・芳賀登との座談会。
1960年12月
「(懇話会)学問研究の自由のために」(『国史研究室』9号) ※木下龍馬氏のご教示により、追加。
※東京大学文学部国史研究室所属の教員・学生との座談会。
1965年10月
「動乱期の人間」(『日本の歴史』第9巻 南北朝の動乱、中央公論社付録→『日本の歴史』別巻 対談・総索引、中央公論新社、2007年1月)
※杉本苑子との対談。
1967年6月
「「日本の歴史」(七)“鎌倉幕府”について」(『日本歴史』第229号)
※石井進・貫達人・安田元久・豊田武(司会)との座談会。
1968年2月
「「日本の歴史」(十三)“南北朝時代”について」(『日本歴史』第237号)
※赤松俊秀・黒田俊雄・永原慶二・豊田武(司会)との座談会。
1974年8月
「武士政権の特質」(『日本の歴史 月報』9 鎌倉幕府、小学館)
※大山喬平との対談。
1974年9月
『シンポジウム日本歴史』8 南北朝の内乱(学生社)
※網野善彦・大隅和雄・笠松宏至・永原慶二との座談会。「建武政権・室町幕府の評価―建武式目をめぐって―」「荘園制の転換と領国制の形成―所領政策をめぐって―」「社会構造の転換をめぐって」「南北朝内乱期の思想史的位置付け」。
1994年2月
「日本中世史を見直す―鎌倉期から南北朝期へ―」(佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』悠思社→平凡社ライブラリー増訂版、1999年2月)
※網野善彦・笠松宏至との座談会。

00:03
2016/10/17

太田晶二郎氏とその恩師

| by 慈鎮和尚

太田晶二郎氏「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」あとがきより

 旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説証注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから。
 時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立つて明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながらまだ大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ。
 稿成って、これを憶えば、先生の慈顔は現世のものならず、夢に夢みる心ちする。



「禅宗史研究六十年」より


玉村竹二 
(前略)太田君の歴史観と言うのは「考証学」ということで、「法則樹立の学問じゃない」と言って、記述の学問だという。「考証学」と自分で言って、論文は細かい論文だけ。大きな法則樹立のためのような論文は一切書かない。歴史というのはそういうものだ、とこう言うんです。

瀬野精一郎 それは学生時代からおっしゃっていたんですか。

玉村 そう。「武蔵」で教わった原田亨一さんなんかに言われたのか、自分でそう思ったのか、よく言いましたね。



三浦一郎氏「原田亨一先生のこと」より

 先生によって、日本の美を教えられた人、 歴史に興味を持った人は、日本建築史の太田博太郎、日本史の太田晶二郎その他、それを専門の仕事にしてしまった人も多く、私などは実際はその数には入らない。(中略)
 私は根がぐうたらだから、先生の影響をうけて、ちょうどよい位になったので、もともと勤勉な太田晶二郎氏のような場合には、少し極端な影響をうけてしまったようにも思える。



【付記】
 大学以前に、こんな専門的な教育を行えた時代があったとは。やはり旧制高校とは恐ろしいものである。
 太田晶二郎氏の考証学には、単なる考証にとどまらず、美を愛でる要素がある。それは、美術史・芸能史に造詣の深かった師の原田亨一氏から受けた影響が大きいと、わたくしは考えている。太田氏が目指した、「fantasy を伴ふ考証学」とは、ここに土壌があるのだ。
 太田氏と原田氏との師弟関係については、『〔武蔵高等学校〕校友会誌』故原田教授追悼号(1938年)に収録された、太田氏の弔辞(『太田晶二郎著作集』には惜しくも脱漏)がとても興味深い。原田氏の長逝を悼むのは、他の人と同じであるが、次の一文がいかにも太田氏らしいと感じた。

 「なほ少しく添へたいことがあります。先生大学の業を卒へられるや、夙に「近世日本演劇の源流」といふ労作を以て学界に問はれたのでありますが、その後御研究を発表されること必ずしも多くなかつたのは、亦先生が全く身を本校に委ねられて、自分一身を忘れられた故に外ならないので、固より先生御自身は毫も悔いられない所でありませうが、同じ学に携ることゝなつた自分より見れば、矢張り残念お気の毒に堪へない情が有るのであります。」

 やはり学者の第一の本務とは、自らの学問に邁進することにある。わたくしも、学生や院生に「指導」や「教育」を施す以前に、怠惰な自分を奮起させ、意味のある研究を残すことを忘れてはいけない。こんな未熟な自分に、満足している場合ではない。
23:08
2016/09/15

考証学者 太田晶二郎(3)

| by 慈鎮和尚
「禅宗史研究六十年」より

瀬野精一郎
 史学会で、毎年誰かをやりだまにあげてひどくやっつけられるのを二回くらい見ました。いっぺんは秋山謙蔵さん。坂本先生が司会をしておられた。秋山先生が「平安京の造営と辛酉革命の論」という題で発表され、その中で『南留別志』という本があるが、歴史というのはそのなるべしというようなことでやらなくてはいけない」というんですね。

玉村竹二 それは荻生徂徠の随筆でしょ。『南留別志』っていうのは。

瀬野 そうなんです。それで古代にも天皇の両統迭立の時代があったのではなかろうかというようなことを推定を交えて発表された。坂本先生が「秋山さんも若い頃は非常に新進気鋭の学者だったけれども、だいぶ老境に入られたようだ。特にご質問もないでしょう」と言われたら、「はい」と太田先生が手を挙げられ、「なるべしの美名に隠れて荒唐無稽の説をなすことは厳に慎まなければならない……」。史学会は恐ろしいところだなあと思いましたよ。秋山さんは何も言わずにそのまま降壇されました。

玉村 相手が悪いからね。黙っているにしくはないと思ったんでしよう。利口だね。

瀬野 昭和三十三年のことです。太田先生はまだ四十四、五歳だったでしょう。

【付記】
「なるべし」とは、「仮説」に言い換えてもよかろう。仮説を提示することは結構だが、考証の浅い仮説は、ついに真理たりえまい。仮説の提示に終始する限り、それは空理空論の域に止まる。野放図な憶測は、所詮、無秩序な乱舞に過ぎぬのである。

03:23
2016/09/13

小島幸枝『圏外の精神―ユマニスト亀井孝の物語―』より

| by 慈鎮和尚
「短い人生で、あせることはあるかもしれないが、――ボクもあせるときはあるけれど、――だからといって、雑なものをたくさん作ることはないんだよ。T君だって、いろいろ仕事をしているが、雑なものも多いからね。しかし、人それぞれの人生だから……。結局はたましいの問題だよ。自分の問題だから……」

「理系の人の仕事は、人より少しでも早い日付で発表することを競うが、文系の仕事は、五年や十年遅れても、びくともしないんだよ……。要は手堅い、いい仕事をすればいいんだ。橋本先生(○進吉)は、遅くても、やり直さなくてもいい仕事を、とよく言っておられた」

「「共同」というのは、二人の人が同資格、同条件で仕事をすること。「協同」というのは、二人の人間が人格的に独立している」

【付記】
 ひとくちに「学問」といっても、ひと様々か。時間が限られていても、やりようによっては、「
手堅い、いい仕事」をなしえたはずなのに、できないこともある。「同資格、同条件で仕事をすること」は、畢竟学問観を共有できなければ、実現不可能なのである。
 さきほど、「共著」を『新明解』の第5版で調べて見たら、「二人以上の共同の著述。〔大家が名前を貸して新進に著述をさせる場合にも言う〕」とあった。あいかわらず諷刺のきいた語釈であること。
13:10
2016/07/16

「南北朝時代史の研究と懐旧談 下」より

| by 慈鎮和尚
瀬野精一郎 先生は、歴史は真か真でないかを論ずるものであって、正とか不正とか、また善とか悪を判定することではないということを『南北朝史論』に書いておられますが、確かに私もそうだと思います。平泉先生もそうですが、自分にまず信念があって、それを歴史の中から自分の信念に合致するものを探してきて称揚する。逆に自分の信念に都合の悪い史料が出てくると、これを無視さらには抹殺しようとする傾向が左右両方にあると思うんですよね。ですから平泉先生の場合も、最初に天皇親政という理想の政治形態があって、それに合致したのが後鳥羽上皇と後醍醐天皇だというような、そういう面がありますね。最後に今後の研究者に対する何か要望がありましたら、最後にお話いただけたらと思います。

村田正志 いや、学問研究者はあんまり売れっ子にならんことですよ。(笑)

山本信吉 (笑)含蓄の深い言葉だな。

村田 売れっ子になると、とかく身を誤り、世を惑わすおそれがある。右も左もね。

瀬野 時流に迎合して発言することになりやすいということですね。

村田 そうそう、これを言っては悪いけれどもね。平泉さんなんかには、私も憧れた一人ですが、若い時分からいい本を書いていますよ。だけれど、あんまり図にのると、ああいう結果になる。あんまり売れっ子になって有名になると、引くに引かれなくなってしまうんですよ。だから、途中で引き上げるということができなくなる。だからあんまり時の人になるのは、望むところだろうけれども、やはりそこは自制しないといけないと思うんですね。

01:13
2016/07/07

校訂・校正苦労話

| by 慈鎮和尚

太田晶二郎「本朝世紀校勘」より

コレラノヤウニ、多少トモ漢文学的ノトコロニナルトイフト、読ミ得テヰナイモノガ目ニツクノハ、笑止デアル。日本ノ古文献ヲ読ムニ漢籍・漢文学ノ知識ヲイロヽ持タネバナラヌコトハ、更メテ言フマデモナイ。且又ソレハ、 必ズシモ所謂日本漢文学ノ作品ノ如キモノニツイテダケデハナクテ、ホンノチヨツトシタ記文ノ端二至ツテモナホ屡々サウデアル。



太田晶二郎「『法曹類林巻第二百廿六』弁」より


和田博士等が此の巻を考ふるにこれを援用せられず、又、国史大系本は(改定)集覧本を対校に使用しながら、此の重要なる題名のことについて、一言の校語すら無いのは、不可解である。此くの如くなるときは、新しい校訂本が出ても、旧印必ずしも無用に帰せぬ

【付記】
 昨年より、大阪狭山市より依頼を受けて、『行基史料集』なるものを同僚のS氏とともに、編纂している。わたくしの専門は中世史だが、執筆者としての責任を全う必要から、
六国史やら三代格を始めとする古代史料にも、念のため全頁にわたって目を通している(このようなとき、坂元義種先生から頂いた学恩を、返す返す有り難く感じる)。
 収載史料の筆頭に位置するのは、井上光貞氏の「行基年譜、特に天平十三年記の研究」(『日本古代思想史の研究』岩波書店、1975年。初出1969年)によって著名になった『行基年譜』であるが、これが難物中の難物である。誤写が多い謄写本(史料編纂所架蔵)しか残っていない上、親本の彰考館本は戦災で焼失しているので、『行基菩薩伝』(続群書類従伝部)などで対校しながら、読みやすい本文を市民に提供しなければならない。
 これまでにも、『行基年譜』には、翻刻が数多く発表されている。近年のものとしては、『大阪狭山市史』第2巻 古代・中世史料編や『同』第5巻 狭山池編、そして新川登亀男「行基年譜校註」(同氏研究代表社会的結合としての行基集団に関する基礎的研究』科研報告書)などが、重要な業績であるこれらはいずれも最新の研究成果に基づいた秀逸な翻刻であるが、今回の行基史料集では、大阪狭山市史』第5巻 狭山池編の本文を底本として、校訂・校正を進めた。その中でひっかかったのが、末尾の次の一文であった。

 抑朝養千駟、耻顕死後、首陽食紫蕨仁伝後代者也、

 この部分、
『市史』第2巻 古代・中世史料編や、新川氏の翻刻もほぼ同様の翻字を行なうが、三者いずれも、文意を正確に理解できていないように思われた。わたくしも、当初は戸惑ったが、ややあって判然とした。まず、句読を正しく打ち直すと、

 
朝養千駟、耻顕死後。首陽食紫蕨、仁伝後代者也。

とするのが良いと考えられる。その上で意味を取ると、前者は、
斉の景公が馬4000匹(駟は馬4匹。すなわち千駟」は4000匹である)を養うほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人その徳をたたえるものがなかったという、『論語』季氏第16の記事を踏まえた文辞と考えられる(故に「」は、「」に改訂すべきである)。また、後者は、伯夷・叔斉の兄弟が、周の粟を食むことをよしとせず、首陽山に隠遁して、蕨の根を食しながら、志を貫徹して餓死したという、『史記』伯夷列伝の記事を踏まえた文辞であろう。すなわち、いずれも漢土の故事を意識した表現なのである。
 さて、そこで念のために『行基年譜』の古い翻刻を確認したところ、続々群書類従史伝部(国書刊行会叢書)の翻刻では、」を「」とするだけではなく、文章全体を、私案と同様に区切っていた(ただし、続々類従は読点のみを使用)。つまり明治時代の翻刻の方が、21世紀の研究者の翻刻よりも、よほど正確に文意を把握していたのである。漢籍に明るい人が多かった明治期の学者による翻刻は、古いけれども侮りがたい(例えば、『玉葉』でも、近年の「図書寮叢刊」は善本を底本に用いる分、誤脱は少ないが、「国書刊行会叢書」の方が、文章の区切り方が適切な場合もある)。太田氏の言う、「漢籍・漢文学ノ知識ヲイロヽ持タネバナラヌ」「旧印必ずしも無用に帰せぬ」ということを、まざまざと思い知らされた瞬間であった。
 古代史料の主担当ではないので、私案が採用されるかどうかはわからないが、覚書きとして記しておく。

 それにしても、史料集を製作することは、『橋本市史』の時もそうだったが、とても骨が折れる。今回の場合、市史編さん所の収集した史料を土台としたが、底本として選定されていた刊本に問題を感じるものが多々あったので、わたくしが初校時に一からやり直さないといけない箇所も多かった。このため、収載したい未刊史料の一部(西大寺流律宗関係の史料)を十分に検討できず、心ならずも収載を断然せざるをえなかったのは、遺憾である。自らの非力を反省したい。
 また、市民に分かりやすい史料本文を提供すべく、句読点を区別して加点したが、意外なことに、その啓発的意義をくみ取れないない向きもあったので、初校・再校が非常に難航した。わたくしとしては、かつて監修のS先生が『粉河町史』第2巻を編纂された際、収載史料について、句読点を区別して加点された前例(亡き小山靖憲氏が高く評価された、善例でもある[小山氏『中世史雑抄』所収書評])に倣ったまでだが、「読点だけの史料集でなければ、研究者に嗤われる」という、奇妙な先入観を持つ人がどうもいるらしい。しかし、多額の税金を掛けた公的事業なのだから、市民への配慮を第一義に考えるのは当然で、研究者だけに目が行く方が、むしろどうかしている。歴史知識の普及を目的とする、自治体史編纂に携わる以上、それなりの見識を身に付けることを望みたい。
 ただし、わたくしも浅学非才の身、どこまで正確に史料の文意を把握し、適切な加点をできるかどうか、心許ないところもある。作業はいましばらく続くが、本年8月の公刊に向けて精進を重ねたい
                             (K印刷のY氏に深甚の謝意を込めつつ)

09:47
2016/06/30

佐藤進一「相田先生の思い出」

| by 慈鎮和尚
 相田先生は大層親切で、何でもよく教えて下さる、というのが、研究室の先輩や友人たちの一致した評判であった。卒業論文に鎌倉時代を選んで、そのことでいく度か御宅へ参上して種々お教えいただいた私の経験に照らすと、先生の対応なさり方は、ただ親切というのとはちがうものがあった。例えば、私が何か具体的な問題について伺うと、それにはこれこれの史料があるから、こう考えるべきではないだろうか、という風に、御存知の史料を次々と出して下さって、それに先生の御見解を加えられる。それには、とても半人前にも足りない学生を相手に偉い先生のとられる態度ではなかった。問題の表面だけをなぞって、おこがましくも“質問”などと伺った自分が恥ずかしく、恐縮してしまうのだった。相手が学生だから、若造だから、教えてやる、という考えの微塵すら、先生にはなかった、と私は思うのである。
14:11
2016/06/29

転機を求めんとす

| by 慈鎮和尚
山路愛山『書斎独語』より

 職人根性とは何ぞや。自分の専業とする仕事に掛けては自分のみ賢しとし、同じ年期を入れ同じ法被を着たるものならでは我事業に容喙すべき権利なしと信ずる極めて偏執なる心を云ふなり。



幸田露伴「突貫紀行」より

 身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐ども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出いでむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別れをつげて忽然出発す。
 
【付記】
 最近、折に触れて心を悩まし、怒りを覚えることが立て続けてあった。愛山のいう「職人根性」の顕著な人、それだけならばまだよいが、自分の自尊心を満足させるために放言し、他人の心を傷つけても何とも思わない無神経な人がいる。
 悲しいことに、今の自分には、露伴のいう「未来に楽しき到着点」が見定めようにも見定めにくい。このような状況の中で、自分の存在意義を証明するには、学問と教育に全力を振り絞るしかない。その二つにしか、この現状を突き抜ける道はないのである。
 先日、大阪歴史学会の大会に出席した。予想していた以上に、旧知の学者達と久闊を叙することができた。報告の合間の休憩時間に言葉を交わして抜刷りをやり取りする、あるいは大会後の居酒屋で思い出話や情報交換をする、こんなちょっとしたことが、今の自分に刺激を与えてくれる。そして、自分よりも随分年下の大学院生が研究に対する抱負を熱く語るのを聞くと、自分も奮起せねばならないと、強く思った。転機を求めねばならない。
 それにしても、愛山・露伴の文章は、いつ読んでも力強い。この力のみなぎった文章にどれだけ励まされることか。
01:11
2015/09/07

福山敏男博士「古代建築史 修行五十年」(NHKわたしの自叙伝)より

| by 慈鎮和尚
 それから発見の歓びといいますか、こういうのが生きがいといえるというわけですが、まぁ学問の研究というものは、わたくしに言わせれば、こう坂道をだんだん登るような、この程度わかり、この程度わかり、「あぁ、やっとこれで頂上にいったな」と頂上を極めたら、また次に坂道があり、頂上がはるか向こうに見えたら、また次の解決すべき問題が残っている。こういうふうに、だんだんだんだん頂上に達したつもりが、「まだ下の方じゃないか、まだこれからが大変だな」というふうにですね、峠を越え、また峠を越え、まぁいつまで経っても頂上には達しないと。
 こういうふうに、わたくしに言わせれば、学問の研究というのは、無限まで続くんだと。ですから、ごく我々は入口の部分だけしか、研究できないで終るだろうと。まぁそれでも、わたくしとしては歓びとしているわけでございます。
 
【付記】
 いろいろなことで疲れて帰宅したら、待望のCDが届いていた。福山博士の肉声を聴けるとは夢にも思っていなかった。小泉八雲の詩への感銘、若年のころの生活苦に苦しみながらも楽しい研究生活、大江新太郎・宮地直一・後藤守一から受けた応援と学問上の示唆、正倉院文書(造営文書)・法隆寺・古代金石文にかかわる発見の歓び、日々の勉強(とくに書き写すこと)と調査の積み重ねの大切さなど、淡々とした語り口で語られていたが、とても感銘を受けた。上に文字起ししたのは、その最後の部分である。

11:57
2015/09/05

青木和夫「研究者とアルバイト」より

| by 慈鎮和尚
 ほぼ以上のような日々を送っている私に対し、中央公論社から編集部のW氏が来宅され、『日本の歴史』の奈良時代の分を担当しないかとの話があったのは、一昨年正月の四日であった。私は出版社や新聞社から直接話があったときは断わることにしていた。だが「御相談したいことがあるのでちょっとお邪魔したい」という最初の電話のときに、「こちらとしては別に御相談したいことはない」と断わらなかったのは、やはり『中央公論』を尊敬していたためらしい。
 具体的に企画をうかがってみると、まず六人の企画委員は、学生時代に単位こそ頂戴しなかったけれども、みな私の先輩というよりも先生に近い人々である。すでに執筆を承諾されたという方々も、W氏から二、三うかがった範囲では、学界で尊敬されている人々ばかりであった。私は光栄だと思った。
 これは後にW氏が話してくれたことだが、結局執筆を承諾されたS教授は、はじめ誰といっしょにやる仕事か聞こうとはされなかったという。「いっしょになさる方々のお名前をうかがってから引きうけるのも主体性がないことだけれど、お断わりするばあいにはすでに引きうけられた方々に失礼にあたるから」という理由だったそうである。私は恥じ入った。

【付記】
 率先して「執筆を承諾されたS教授」とは、だれであろうか。わたくしは、ひそかに第9巻の南北朝時代を担当された、法制史と古文書学の大家ではないかと、想像をめぐらしている。
 当初、青木氏が答えようとされた「こちらとしては別に御相談したいことはない」という返答の仕方は、なかなか面白い。そういえば最近、ある「研究者」が、わたくしの研究上の種々の発見(いまだ公表せず)をどこぞより聞きつけ、人を介して、わたくしから電話を自宅にかけるよう、連絡をしてきた。普通、学問上の問題について、教えを請うなら、自分から相手に電話をするのが礼儀というものだが、興奮されていたのか、その程度のマナーもお忘れになったようである。一応、年配の人だから敬意を表して、実家の用事などで多忙であるにも関わらず、時間を作り、電話をかけた。いろいろ話をしたが、むこうがこちらの情報を尋ねるばかりで、当方にとって全く有益ではなかっただいたい、わたくしがその人に教えを請う必要が、これっぽっちもないのである(むこうには、わたくしの知見のごくごく一部だけ示しておいた。ただし書陵部の写本以外にも目を配るべき写本は、全国各地に数本あるのだ。一本だけ見ても、何が重要かつ問題なのかは絶対にわからない)。わたくしと卒業した大学が同じであるとかで、「あなた、私の後輩にあたるんだ」と高圧的に言われたのも不愉快きわまりなかった(それが何だというのだ)。また、「あなた、私の論文をどれだけ読んだんだ」としつこく尋ねられたのも意図を量りかねた。このように、発言の一つひとつがデリカシーに欠け、粗野な印象を受けた。今後、御縁のあることは決してない。電話代も時間も全く無駄で、最初から青木氏のような返答を仲介者にしておけば良かったと思っている
 そもそも、学者にとって、己の精魂を傾け、数多の史料・先行研究との格闘の末、手にしえた知見は、まことにかけがえのないものである。また、本文校訂の場合、所蔵機関への申請を含む諸本調査に費やす時間、写真の撮影費・焼付費、旅費など、莫大なものである。それを本人から電話をかけさせて聞き出そうとする精神構造も不可解で、わたくしの理解の範疇を超えている(わたくしは図書館のレファレンス掛りではない)。その人は古典を数十年研究しているというのだから、ご自分の腕で探し出せばよいではないか。まさか『国書総目録』を御存知ないわけではなかろうに。それこそ、学者の才・学・識の見せ所ではあるまいか(もっとも、今になって校訂を始められるそうだから、能否は存じ上げないが)。
 いやはや学問の世界に入って十数年、こんなことは始めてである。昨日、この話をある会議が終った後で、信頼する歴史学の研究者数名に語ったところ、いずれも唖然としていた。ある人などは、大笑していた。たしかに『学界笑話集』の劈頭にでも配したい笑い話なのだが、当事者のわたくしにとっては、時がたつにつれて、そして周囲の反応を見るにつれて、不快感と怒りが
胸中にふつふつとわき出るのを止められない(土足で部屋に入られたような気分になり、やるせなくなる。ひょっとすると、わたくしから得た情報を勝手に使うこともあるかもしれないが、あの情報を他の伝本で検証せず、中途半端な校訂を進めると、逆にみっともない代物ができるはずだ)。
 最近、このブログを見てくれているという学生の某君よ、君は学問を志すとのことだが、くれぐれもこんな安直かつ廉恥を欠く態度で、研究論文を書く準備をしてはいけないよ。ともに自戒しよう。

                                        (種々の用務の合間に記す)

00:14
2015/05/31

『太田晶二郎著作集』例言より

| by 慈鎮和尚
本著作集の公刊は、飯田瑞穂 亀井孝 両名の協議に俟って以て編纂にその方策と定めるところを貫く。
 一Ⅰ 学術の論作に属さぬ零墨の類といえども、かつてそれ自体において上梓印行をみたそのかぎりについては悉くこれを採って洩らさぬをむねとする。
 (○下略)

【付記】
 1993年に完結した『太田晶二郎著作集』全5冊(吉川弘文館。以下、『著作集』と略する)は、太田氏に親炙した亀井孝・飯田瑞穂両氏が中心となって編纂された。ことに博覧強記で知られる飯田氏が作成された「年譜および著作目録」(『著作集』第5冊所収)は詳密というほかなく、飯田氏の尽力によって、『著作集』は一代の碩学たる太田氏の学風をよく後代に伝えるとともに、考証学を志す学徒のたずきとして不朽の価値を有する書物に仕上がった。
 ただ、惜しくも『著作集』には太田氏が生前に発表された小文のうち若干を逸するようである。さらに、太田氏の没後に、その知友やその後の研究者が紹介した史料解説・書簡なども僅かながら見出される。太田氏の学問を追慕するひとは、わたくしだけではないと思うので、備忘も兼ねてここに紹介しておく(戦後まもなく飛び出た『大日本史料』編纂廃止案を痛烈に批判した意見書については、今回は省いた)。

『太田晶二郎著作集』拾遺

 ●生前発表の小文のうち、『著作集』に漏れたもの
 ①「[新刊紹介]山田忠雄氏著『当用漢字の 新字体―制定の 基盤を たづねる―』」(『国語学』第36集、1959年3月)
 ②「捕物控と武鑑」(『日本古書通信』第28巻第2号、1963年2月)

 ●太田氏の知人やその後の研究者が、太田氏の没後に紹介したもの
 ③「明月記 自筆本 断簡」(土田直鎮「私蔵「明月記断簡」の由来」[『日本歴史』第500号、1990年1月。のちに土田氏『平安京への道しるべ―奈良平安時代史入門―』吉川弘文館、1994年2月に所収])
 ④「(仮題)亀井孝あて太田晶二郎書簡」2通(亀井孝「少年 太田晶二郎の手紙から」[『吉川弘文館の新刊』35、1990年10月。のちに亀井氏『ことばの森』吉川弘文館、1995年7月に所収])
 ⑤「(仮題)連々令稽古双紙以下之事解題」(高橋秀城「東京大学史料編纂所蔵『連々令稽古双紙以下之事』をめぐって―室町末期真言僧侶の素養を探る―」[『仏教文学』第31号、2007年3月])

 なお、太田氏と親交のあった碩学が、その論文に太田氏の書簡を引用したものもある。管見では、以下の二例を知る。
 
 ⑥石田幹之助博士「日曜に「蜜」字を標記した具注暦」(『国学院雑誌』第53巻第2号、1952年6月。のちに石田博士『東亜文化史叢考』東洋文庫、1973年3月に所収)
 ⑦倉野憲司博士「再び「皇典文彙と櫛田駿」について」(『香椎潟』第3号、1957年12月)

 ⑥で取り上げられた書簡は、『三僧記類聚』所見の「密」字を石田博士に知らせたものだが、太田氏が『三僧記類聚』を熟読されていたのは、流石と言わざるをえない(ちなみに、史料編纂所架蔵の謄写本『三僧記類聚』には、太田氏の書き入れが随所にある)。太田氏が仁和寺の歴史(ことに守覚法親王とその周辺)に深い造詣を持たれたことは、「『桑華書志』所載『古蹟歌書目録』(『著作集』第2冊所収)の一篇からもうかがえる。『三僧記類聚』は、最近でこそ歴史学や日本文学でちらほら利用されるようになったが、早くもこれに注目されたのは慧眼というべきであろう。
 ⑦に引用された太田氏の書簡は、その学問に対する徹底ぶりを物語ってあますところなく、太田氏の恩師にあたる倉野博士もたじたじの様子である。太田氏は恩師であっても「学問ニ私ナシ」で一向に容赦せず、倉野博士著『古事記序文註釈』の書評(『史学雑誌』第60編第8号、1951年。『著作集』第2冊所収)でも相当手厳しいことを書かれている。一方、弟子の太田氏から受けた指摘を認め、孫引きを率直に反省される倉野博士の態度も偉いものだと思う。やはり学問上の問題は、師弟であっても遠慮無く自由闊逹に意見を述べるのが一番よい。わたくし自身、大学の専任教員として、多くの院生や学生諸君と交わることになっただけに、強くそう思うのである。
 
                        (久しぶりに高野より帰宅し、種々の仕事の合間に記す)

04:12
2015/02/05

滝川政次郎博士『日本法制史』より

| by 慈鎮和尚
されば、史料を蒐集するということは、実に歴史家の重大なる任務であって、この任務につくことを厭う者は、歴史家と呼ばれる資格がないのである。世の中には往々自ら史料を蒐集せずして、他人の蒐集せる史料を巧みに配合して別個の史論を組み立てることをもって、史家の能事終れりと考えている人があるようであるが、かくのごときは、史学の性質を誤解し、史家の本分を忘れたものである。(○下線は引用者)



歴史事実の認識は、純然たる科学であるが、その表現すなわち史論の演述は、明らかに一つの芸術である。故に歴史家たるものは、巧みに章節を分ち、材料を排列し、字句を選択して、自己の認識するところを、他人をして如実に、目前に見るがごとくに認識せしめるためには、創作家と同じだけの手腕をもっていなければならないのである。
03:41
2014/10/06

大野晋『日本語と私』より

| by 慈鎮和尚
 私が大学に入ったとき、大学院生としていろいろ教えてくれた石垣謙二さんは、東京の下町、浅草の育ちだった。(〇中略)
 石垣さんは向島の府立七中から一高に入り、古典文学に深い関心を寄せていた。東京大学に進んで、国文学科に学び、はじめて橋本進吉先生の国語学演習に出席した。そこで橋本先生の一字一句、一点一画をゆるがせにしない厳格細密な学問、広く深い学殖にふれた。すでに石垣さんは山田孝雄の『日本文法論』を読んでその文法体系の堅実壮大なことに感動し、日本文法としてこれを越えることは困難だろうと思っていた。ところが橋本先生の国文法体系論の講義を伺うと、全く別個の観点から日本語を把握し説明するものだった。石垣さんはその創造性に感動し、橋本先生に尊敬を寄せ、深く傾倒していった。(〇中略)
 昭和二十二年早春、敗戦の混乱のさ中で開始された国語学会の連続講演会で石垣さんは、「助詞の歴史的研究」という発表をした。着想は新鮮で論証は明快だった。聴衆は明快だった。聴衆は深い感銘を受けた。しかしその日、講演の始まる前、控室で石垣さんは私に言った。
 「俺は享年三十四で終りそうだよ」。私は聞き返した。「三十四って何時ですか」「今年だよ。何時もは寝ていれば熱が下がるんだが、今度はちっとも下がらないんだ」(〇中略)
 私は石垣さんの言葉を打消して「あまりつめて仕事をなさらない方がいいですよ」と言った。しかし石垣さんはその四月、不帰の人となった。すでに二年前、橋本先生も世を去ってしまわれていた。
 石垣さんの学問は、助詞の用法が奈良から平安へ、鎌倉へ、室町へ時代的に移り変わって行くさまを、はじめて精緻に明らかにした。それは助詞全部にわたるには至らなかったが、『助詞の歴史的研究』として結実し、岩波書店から刊行された。
 石垣さんはいい人だった。研究にそれこそ全力を尽した。石垣さんの橋本先生畏敬は、多くの学生たちの中にあってその純粋さにおいて人後におちるものではなかった。その成果も人後におちるものではなかったと思う。しかし私には忘れられないことがある。
 大学の国語研究室の副手の席が空いたとき、橋本先生は代わりの人を求めて語学とは別の筋の国文学の人をそれに当てようとなさったという。石垣さんはその話をして、ひと言、「俺という人間がいるのに」と言った。

【付記】
嗚呼、弟子の思い、遂に師に届かざるか。


02:15
2014/09/22

太田晶二郎「辻英子著『日本感霊録の研究』はしがき」より

| by 慈鎮和尚
 《古逸の六朝撰述『観世音応験記』が青蓮院で発見されたさうだ》と告げたれば、次の週に辻英子さんが見せたのが其の応験記の手写であったのには、驚いた。直ちに京都に走つて、発見者塚本善隆博士に請ひ、其の書写本を借りて、転写を許されたのださうである。博士も、辻さんの熱意と人がらに感ぜられたのであらう。
 辻さん(もと、中林さんと云つた)が私を訪ふやうになったのは、随分ふるく、自分が東京大学の史料編纂所に勤務してゐた頃からで、禅宗史の権威・同僚玉村竹二君が、《僕では分らないから》とて、辻さんの質問を私に廻して来たのに始まつたやうに、記憶する。 (○中略)
 辻さんは、初め『日本霊異記』を中心に研究を進めてゐたが、私の示唆にもよつて、あらたに『日本感霊録』に興味を向けるやうになった。しばゝゝ訪れて、同書を読み合ひ、時にはシムビヂュームなどを持って来てくれて高く香つたから、けげんに思ふ人も無いでは無かつた。
 ところがやがて、辻さんは良縁を得、ついで、夫君の赴任に随つて、長いこと、オーストリアに去つてしまつた。それで、感霊録は中断のやうであつたけれども、辻さんは、彼の国で、 Károly Gaál 教授の民俗学を主にして、国立ウィーン大学博士課程に学び、多数の Zeugnis を得、又、随時、見学旅行などにも参加したので、例へば、 Steiermark 州の Wallfahrtsbasilika Mariazell の Votivtafel の如きは、感霊録の「霊験の簿」に思ひ合せて、直接に巨益となつたことであり、固より又、一般に、辻さんが学問上の識見を大いに高めたことは言ふまでもない。
 辻さんが帰国すると、私の勤務は尊経閣文庫に移つてゐたが、ウィーン帰りの美しいひとは、以前の如くまた、頻繁に、感霊録の質疑に来訪した。同書の音義の反切が何に拠つてゐるか、こくめいに『十韻彙編』や『篆隷万象名義』に照し合せたりもした。本書の一特色として、字書史研究などにも貢献することと思ふ。
 とかくして、辻さんは日本女子大学の桜楓会奨学金を授けられ、本書の原稿は笠間書院に渡るに至つたのである。 (○中略)
 最後に、一こと苦言を呈して置く。辻さんは詩人でもあって、詩集の方が早くに活字になってゐる。詩想は学問に必ずしも害毒とは思はない。私自身、 fantasy を伴ふ考証学を以て理想としてゐるのである。けれども、いくら詩想だからといつて、論理・修辞わけの分らぬ論文を書いてはいけない。(○下線は引用者)

【付記】
 2014年9月20日の夕方、奇縁にも東京にて、七十路を越えられた「ウィーン帰りの美しいひと」にお目にかかった。渋谷へと向う地下鉄の車中で、穩やかな微笑を浮かべつつ、『日本感霊録』の本奥書の件や、太田晶二郎・玉村竹二・亀井孝・松浦貞俊・塚本善隆・久松潜一といった碩学たちのこと、『観世音応験記』探求の際のエピソードなどを、記憶をまさぐりつつ話してくださった。とくに、わたくしが畏敬してやまない太田氏のご最期のことをつぶさに伺えたのは、まことに幸運であった。
 渋谷駅の半蔵門線のホームでお別れする際、とても立ち去りがたかった。あるいは「一期一会」になるかもしれない。この日のことは、わたくしの生涯でもとくに忘れがたい思い出となるだろう。それにしても、一つひとつのお話に、才学一世に卓絶した碩学たちの横顔を垣間見る思いだった。
 さて、掲出した太田氏の文章のうち、下線を付した末尾の一文は、その学風の特色を鮮やかに物語る。かつて小島憲之博士は、これを捉えて「重大な寸言」と評された。そして、小島博士は大きな共感を示されつつ、こう述べられる。
 「この洋語は、手持ちの辞書にはまず「幻想」と訳されているが、我流から云えば、むしろ “imagination” とでもいえよう。日ごろ愛用するロングマンの『現代英英辞典』(Longman:D.of C.E)を試みに披いてみたところ、偶同したのであった。太田氏のこの発言は、昭和五十六年に遡る。八十歳をすでに過ぎた我が身を顧みると、おくればせながらこの発言が漸くわかりかけたように思う。氏の尻馬に乗って、こうした脱線を春秋に富む「もの学び」の諸子に述べることは、婆心であろうか、如何」(「『太田晶二郎著作集』にこと寄せて」)
 余人は知らず、わたくしはこの碩学たちの境地に一歩でも近づくことを、己が学問の目標とするのである。

 
01:45
2014/09/16

榎一雄博士「白鳥博士自筆原稿四種」より

| by 慈鎮和尚
 ある時、どうしたことか白鳥先生と私だけが食堂に残ってしまった。これは先生がわざわざ二人だけになるために残っていて下さったのだということが直ぐ判ったが、二人だけになると、先生は「君、どうした」と問われた。それは私が首の後に癰を出していたからである。そして、「早く医者に行って来たまえ。金はあるか」といって、ポケットから財布を出され、その口を開けようとせられた。その財布は小さい濃い茶色の革製の巾着で、口のところを細い革の紐で縛るようになっていた。先生はその紐を緩めようとされたのである。「有難うございます。金はもっております。すぐ医者に参ります」。私は先生の後について食堂を出て、東洋文庫の筋向いにあった医者の所に行って治療を受けた。「早く来てよかった、切開しないで治るだろう」と、沃度チンキか何かを塗り、今日、後でもう一度来いと言った。幸に三、四回の通院で癒ったが、私はこの先生の温い心遣いを想い出すたびに、眼頭の熱くなるのを禁じ得ない。そして、あの薄暗い食堂で、巾着から金を出して下さろうとした先生の御姿は、何にもまして私には尊く有難く感ぜられるのである。(○中略)
 先生の著作は十巻の「白鳥庫吉全集」として世に送られているが、それは僅かに先生の学殖の一端を示しているにすぎない。そして、人間としての先生は、学者としての先生より遙かに私には懐しい、そして尊敬すべき存在なのである。「自分の持っている書物で東洋文庫にないものは、すべて東洋文庫に寄贈しよう。」目黒の自宅に静養していられる時、御見舞に上った岩井大慧氏と私とに向って先生はこう言われた。その時、先生の枕頭には二冊の大型の朝鮮本が置かれていた。その一つは「類合」で、もう一つは「蒙語類解」か「蒙語老乞大」であったと記憶している。先生はそれを指して、「これも」と言われた。しかし、その席には家族の方は一人も居られなかったから、先生の御厚意は単に御言葉として二人の耳に止ったにすぎない。(その岩井氏も昭和四十六年十一月六日長逝せられた。)そこで、先生の歿後、東洋文庫は特に遺族に請うて研究室にあった右の四種の原稿を頂戴し、念入りに製本して書庫に収めた。今これを拝見しながら書いている私の脳裡には、研究室の先生、講壇の先生、やや前かがみになって歩いておられる先生(○注記略)、病床の先生の面影が、スナップ=ショットのように去来するが、想うて先生の温情に至ると、この短い人の世に先生のような温い偉大な学者にめぐり会うことの出来た幸運を感謝せずにはいられない。先生は何よりもまず人間として尊敬すべき人であったのである。(○下略)

23:34
2014/09/11

「学問の思い出―中村元博士を圍んで―」より

| by 慈鎮和尚
中村元 生きるための指針を求めようとして学問をしたら、あるいは邪道になるかもしれません。けれども、どんな研究でもどこかの点で人間の生きることに結びついているものだと思います。そういう意味で、人間のためになることということがいえると思っております。(○中略)

髙崎直道
 先生が東大を定年でおやめになった後、どこの大学にも正式にお勤めにならないでご自分で今の東方研究会を始められた。今おっしゃったこととまさに結びついているのだろうと思うのですけれども、ああいうことを発想なさったのはもう大分古いことなんでございますか。

中村 何となく感じていましたね。特に若い研究者の諸君のそれこそ生きるための手段を考えてあげなくてはいけないということは、自分自身の若い頃を振りかえってみても痛切に感じますね。僕の学生時代、これはもう名前を出してもいいと思うな、自殺した人がいるんです。遠藤二平さん。この人は『広百論』の注釈を国訳した人なんです。立派な学者ですよ。それは僕の学生のころにショックだった。

髙崎 先輩でそういう方がいらっしゃったことと、国訳の仕事とは結びついていませんでした。

中村 『広百論』の護法の釈論――あれを国訳した人ですよ。だから学界ではもう立派に認められた人です。ところが自殺したのはどうしてだろうというんで、我々集まれば当然話題になりました。そのとき僕が、「遠藤さんが自殺された。どうしてですか」と言ったら、向こう側に座っている人が、「うん、それは食えんからでしょう」と、一言で片付けてしまった。そして僕の顔を見ながら「この次はお前の番だぞ」と言わんばかりでした。その後でやはり別の人が言ったことも記憶に残っています。「ああ、気の毒なことをしたな。あれは先生たちがもう少し面倒を見て下さったらよかったがな」、ということも聴きました。そういうことがあり、僕は東大をやめてからどこかへ勤めるというよりも、それこそ浪人学者救済所、保育園をつくった方がいいと思ったわけです。
 僕が東大へ勤めるようになってから、印哲出身者では自殺した人はいない。だから、その点では救われた思いがします。
 
前田専學 東方研究会は奨学金の免除なども得られるような制度もできておりますね。

中村 こっちが貧乏で食うや食わずでやって来たからよけい同情があるわけで、救済施設ですよ。

奈良康明 しかし、本当に若い人たちが今研究者としてのポストを得るというのが非常に難しい時代であるだけに、先生のところの東方研究会の方でお世話になりながら、生活の方はそれぞれにやっていかなければいけないのだけれども、奨学金の返済は勘弁してもらえる。それから何よりも研究者としてのキャリアがおかげさまで続けさせていただける。それが大きゅうございますね。

中村 そういう意味では。僕は若い人には同情があるつもりですよ。我が身につまされるという言葉があるけれどもね。ご承知のように、研究員は非常に増えてきたわけです。ただ、それがいいことか悪いことかは…。
 本当は研究員は少ない方がいいんだ。だって、経済的に見込みがあったらみんなほかへ行くでしょう。僕はそれを大いに勧めているんだけれども、なかなかそうはいかない。ただ、生活の方はみんな何とかなっているようですな、それぞれ道を見つけてね。だから、研究者としての場が要ると思うんです。それぞれ皆さんのお世話になっているわけです。

【付記】
この座談録を見て、わたくしは、あるひとりの先輩を想起した。自殺でこそないけれど、宿痾と闘いながら、教壇で倒れられ、やがて郷里の伊賀上野で若い生涯を終えられた岡森福彦さん。博識で好奇心旺盛だった岡森さんとの会話は、とても楽しかった。あのシニカルで、しかしどことなくユーモラスな語り口が、いまさらながら偲ばれる。

22:09
2014/09/08

薄田泣菫「寒山の忰」より

| by 慈鎮和尚
 京都大学の構内は博士も通れば土方も通る。博士は右のポケツトには葉巻を、左のポケツトには「真理」を入れてゐる。だが、いつの時代でも大学は葉巻の製造所で無いと同じやうに、「真理」の工場でも無いから、ポケツトの葉巻も、「真理」も博士達の手製でない事だけは争へない。土方はそんな物の代りに弁当を提げてゐる。弁当は言ふ迄もなく手製である。
 その博士や土方に交つて毎朝大学の構内を通る十歳許ばかりの子供がある。子供に似気なくいつも歩きながらも書物を読んでゐるので、よくそれを見掛ける男が、
「ちやんとした身装をしてゐて、可憫さうに貧乏人の二宮金次郎の真似でもあるまい。」
と心配した事があつた。
 その子供が先日学校で貰つた賞品を抱へて、例のやうに大学の構内を通りかゝつた。すると、擦違つた大学生の一人が、
「やあ褒美を貰つたな。一寸僕にも見せろ。」
とそれを覗きにかゝつた。その大学生は幼稚園この方まだ褒美といふものを貰つた事が無かつたので、甚くそれが珍しかつたのだ。
 子供は一寸小脇にそれを隠した。
「無代ぢや見せないや、こゝに書いてある僕の名を読んだら見せる。」
「生意気な小僧だな、どれどれ。」
と言つて大学生は名前を見た。名前には「尋常科二年生内藤戊申」と書いてあつた。
「内藤ボシンぢやないか、さあさあ褒美を見せろ。」
「ボシンぢや無いや。」
「ぢやイヌサルか。」
「馬鹿やなあ、シゲノブと読むんや。」と子供は一散に走り出した。「えゝ齢してよう読みをらん、あほんだらめ。」
 大学生は悔しがつて、何家の子供か知らと訊ねてみると、文科大学の内藤湖南博士が秘蔵児だつたさうだ。
「道理で、寒山拾得のやうな顔をしてたつけ。それにしても変てこな名をつけたものだなあ」
と、無学な大学生はその後も頻とそれを気にしてゐる。

【付記】
のちに戊申氏は、湖南博士の薫陶よろしく、兄の乾吉氏とともに東洋史家として活躍されることになる。

23:28
2014/09/08

マックス・ウェーバー『職業としての学問』より

| by 慈鎮和尚
 学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。それゆえ、いわばみずから目隠しを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。近頃は学問上の「体験」ということがよく口にされるが、このような人々は、おそらくついに学問を身をもって「体験」することは不可能であろう。

【付記】
 さきごろ、ある人の「つぶやき」に接した。いわく、「研究は多様性が必要であるから、水準の低い研究もまた存在意義がある。これを批判する人は排外主義的で、レイシズムと同様の問題点が認められる」云々。
 僭越ながら、〈多様性〉をはき違えておられるような気がしてならない。カップラーメンを作るような、お手軽な感覚で執筆した論文が、ウェーバーのいう「のちのちまで残るような仕事」に当たるのだろうか。〈厳しさ〉を失った学問など、学問とは言えないのではないか。
――少壮に努力せずば、老大徒に傷悲せん。
 先哲もいうように、努力を惜しむ学徒は、年老いてから後悔するのである。やはり、少しでも中身のある学問をしたいと願うばかりだ。
22:43
2014/08/30

池内直「羽田さんの思い出」より

| by 慈鎮和尚
 私が池内に嫁いで来て初めて羽田さんにお目にかかったのは明治四十五年だったかと思う。もし左様だったら、今年で四十四年の御交際だ。然しほんとにお親しくなったのは大正八年頃からだと思う。池内はいつも羽田君は仕事師、俺は紙屑屋、濱田君はその両方と言って笑っていた程、それぞれの性格は違っていたようだ。しかもほんとに仲がよく、何事でもよく相談しあって居られたようだった。満洲国が出来、日満文化協会が設立されてからは、三人で御一緒に満洲方面に出かける機会も多かったが、或る時の旅行ではこんなこともあったそうだ。朝、船室で服を着かけた池内が、常々身の廻りの事は人まかせの例のずぼらから、カラーが見つからず、一生懸命捜していると、同室の羽田さんが、それを捜し出して下すった。池内は「有ったかい有難う。どうりでゆうべ君が僕のカラーのサイズを聞いたと思ったよ。」と云ったとかで、其の後御上京の折、「奥さん、池内はひどい奴ですよ。僕を泥棒にしよった。」と申されて大笑いしたことだった。とに角羽田さんと濱田さんと三人寄ると、よくもあゝ当為即妙な悪口が口を突いて出るものだと感心したものだった。殊にベランメー調の池内の悪口は、時に人をハッとさせるような折も有ったが羽田さんはいつもにこにこしながら「ひどいことを言いよる」と笑って居られた。

【付記】
学問に生きるものにとって、すぐれた知友を持つことは、ほんとうに幸福なことである。わたくし自身、同期の友人たちとこのような関係を持ち続けたいと心より願う。
21:17
2014/08/30

吉川幸次郎博士「常識への反抗」より

| by 慈鎮和尚
 想像を語るのはさしひかえるとして、よりはっきりとらえ得ることをいうならば、司馬遷が、「伯夷列伝」の結論としていうことは、次のように読める。
 すなわち歴史家は常識の暴力に屈してはならないということである。常識の暴力によって不幸であった人物、その異時代の友人でこそ、歴史家はあらねばならない。あるいは凡庸な歴史家、それも暴力的な常識の一つの現われであるが、それによって従来の歴史の上から消し去られ軽んじられた人物、常識が正しい評価を与えていない人物、それらを再評価し、発掘しなければならない。げんに伯夷と叔斉とは、まず孔子の表章があったればこそ、その名を人人が知るのである。顔回の篤学も、孔子の「驥尾に付して」こそ、一そう有名なのである。「巌穴」にひそみ、「閭巷」に沈む不遇な人たち、それらも、
――青雲の士に附するに非ざれば、悪んぞ能く後世に施きんや。
「伯夷列伝」は、この二句をもって終っている。それらの人物を、後世に施きのびさせ、再び生命を与えるのが、以下の七十篇の列伝、ないしは百三十巻五十二万六千五百字に及ぶこの書物全体の使命なのだと、司馬遷は宣言したいのである。
 ただいまの日本は、歴史ブームといわれる。歴史家たちは、もう一度、われわれの歴史の祖先を思い出してよいであろう。

【付記】
かつて少年のころ、『史記』の子供向けの本を読み、春秋戦国の英傑、あるいは前漢の名将たちの波乱に富んだ生涯に、胸を躍らせた。時は流れ、自らの「歴史」への認識は相当変わったが、それでもなお司馬遷と『史記』は、特別な存在としてあり続けているように思う。
そういえば、さる6月、「新釈漢文大系」(明治書院)の『史記』全14巻がようやく完結した。まことに喜ばしいことである。日本中世史の史料や論文などほったらかして、すぐれた注を頼りに『史記』を耽読する時間を持ちたいものだが、そうも言っていられないのが恨めしい。
ちなみに伝記といえば、吉川幸次郎博士の『漢の武帝』は見事な著作だといつも思う。先日、高野山の宿坊で一息に読了した。
02:50
2014/07/19

佐藤進一「学界風俗」より(承前)

| by 慈鎮和尚
 くどくどと小言を並べてみたが、考えてみれば学界の風俗も、ファッションのようなもので、時とともに移ろいゆくものと観ずべきかもしれない。私がよしとするものも、実は戦前の一時期に通用したにすぎぬものかもしれない。現に東京大学が出来たころ、国文学の某教授は、講義を途中で打ちきって、それ以上聴きたい学生には、別に束脩をとって伝授したというではないか。つまり、それがその当時の流儀であり、風俗だったわけだ。そう割りきれば、むしろ今の風俗がこれからどう変っていくか、その方が楽しみである。

【付記】
佐藤氏がこの一文を発表されたのは、1981年6月のこと。さて、それより三十有余年経って、学界は如何に変わったか?
01:22
2014/07/17

佐藤進一「学界風俗」より(承前)

| by 慈鎮和尚
 書評、紹介に、なあなあ式のほめ合いが多いことは、谷沢永一の鋭く指摘するところだが、古文書その他史料の翻字出版については、とくにその感が強い。幼稚な誤読満載の史料集を「精緻な校訂」などとほめ上げるのはどんなものだろう。また、この種の史料活字化の場合、一にも二にも正確な判読をと私は願うのだが、誤読や誤植よりも、句読点の方が大事だなどという評者がいる(史学雑誌八九ノ一〇号一〇三頁)。翻字さえ正確なら、句読点など読者(利用者)に任せてよいではないか。

01:19
2014/07/16

佐藤進一「学界風俗」より(承前)

| by 慈鎮和尚
 論文の中で、まだ発表していない自分の論文を挙げて、「……参照」などと記しているのも珍現象である。予定の誌名、予定発行期日を示しているのはいい方で、それすら書いてない場合が往々見受けられる。これでは読者は、何とも批判のし様がないわけだ。批判を封ずるのが狙いなのか、論文の売りこみをもくろんでいるのかなどと勘ぐられても仕方あるまい。

01:01
2014/07/15

佐藤進一「学界風俗」より(承前)

| by 慈鎮和尚
 近ごろは、何でもかんでも集めて本に仕立てるのがハヤリのようである。もう十年ほど前、今は中世史の中堅どころの著者の、封建制何とかと銘うった本が出たことがある。この本には、著者がそれまでに発表した論文、文章の全部(と思われる)が収められていて、中には書名からやや遠いものもあり、それだけに著者の編別構成には、並々ならぬ苦心の跡がうかがわれた。昔から、こういう本の作り方を、「カマドの灰まで集めて本にする」といったものだが、或る人は、この本の批評を求められて、ただひと言、「あー、何某全集か」と言ったとか。この方が寸鉄の評言である。しかし、この本などはまだ論文集といってもそれ程おかしくないのだが、いわゆる論文から随想風の断章までかき集めた式の本が次つぎと出ているのが現状である(数年前に出た、あの凝った装丁で評判になった「論文集」を見よ)。

01:57
2014/07/14

佐藤進一「学界風俗」より

| by 慈鎮和尚
 このごろの学問世界には、けげんなことが多い。映画の題名をもじったような「軍忠状の彼方に」とか、公開講演の題名かと見まがう「中世と近世の間」とかの論文名では、いったい何が論ぜられているのか、何が論ぜられようとしているのか、論文の内容も論者の意図するところもさっぱり推測がつかない。まさか中味の濃度を題名でカバーしようという魂胆でもあるまい。人に読ませようと思ったら剴切、平明な題がよい、と私はいいたい。

01:11
2014/06/10

土田直鎮「回顧と展望 一九七七年の歴史学界 総説」より

| by 慈鎮和尚
 その一方では、今日の世間が一般に歴史づいている為に、研究者のもとへは種々雑多な問合わせの類が見さかいもなく持込まれるし、出版界からはさまざまな企画に基いて、多様な要求が出されて来る。これらには種々の義理もからんで、なかなか断り切れるものではないし、極端な揚合には、知る権利と称する得体の知れない論をもとに、高圧的な態度に出る無作法者もあらわれかねない。これらの諸要求に、一々最新の知見に基づく正確な対応をすることは到底出来ない相談であって、その結果は、せいぜいで未消化、不徹底な知識を以てお茶を濁すに止まることになる。しかもこのような場合には、一見新鮮に見える各種の新見解を安易に利用することが多いから、世人は往々にしてこれらを学界に於て既に承認された事と思い込み、その為に逆に学界の常識として定着してしまう場合も起り得るであろう。しかも周知の如く世人及び学界の問題関心には明らかに一種の流行があり、その時流に乗って研究者にその種の関心を無責任に要求する輩はいつの世にも多いのであるから、これに振り廻される方こそ良い迷惑である。知らぬことは知らぬと言い、つまらぬと思うことをつまらぬと片付けることも、時によっては必要であろう。但し、すべては程度の問題であるが、己れを顧みること少なく、人を責めることのみ多い近頃の世相に於ては、特にこのことが痛感される。
 学問の進歩という言葉はいついかなる方面でも濫用されるものであるが、日本史に関しては殊にその度合が烈しいように思われる。たしかにある面では進歩と称すべきものは数多いけれども、その反面、我々が多くのものを失ない、ある部分で退歩しつつあることも覚悟すべきであろう。先日も某大新聞の日本古代史に関する学芸記事の中で、二回にわたって藤原足と誤記してあるのを目にした。もちろん、後で小さな訂正記事は出たし、またどの段階で生じた誤であるかはわからないが、以前ならば、この名の芸能人が活躍していた当時に於ても、殆ど考えられないことである。そして、この種の誤記・誤読、ひいては誤解が、新聞・テレビの字面や高校・大学に於てますます甚しいものがあることは多くの人が認める所であろう。歴史ブームの声が高く、何かと言えば歴史学の目的とか必要とかが叫ばれる今日に在って、研究者を取巻く環境は意外に低劣・卑俗である。やがては時の流れが一切を解決することであろうが、今日がこのような一面を持つ世の中であることは、これを記しておきたい。(○下線は引用者)

18:56
2014/06/09

「日本歴史全集 第4巻 平安王朝《著者寸評》目崎徳衛氏の巻」より

| by 慈鎮和尚
 日本史の空白を埋めたい

 四高時代から俳句などに親しんだ氏が、文学に心を引かれながら日本史を選び、東大国史学科へ進んだのは、文学や芸術を産んだ根底にあるものがつかみたいからだった。しかし、東大に入学直後、昭和十六年からすべての事態が急激に悪化していく。病気休学、戦争の激化、さらに学徒動員へ、動乱の五年間、ある時には坂本太郎博士(第二巻の著者、当時東大助教授)のゼミを一対一で受けるようなこともあり、まさに氏のいう「大学の留守番」だった。
 二十年の終戦、卒論なしの卒業。しかし、力つきた敗戦日本と同じように、病気が再発。それから十年間は、雪深い郷里新潟県小千谷で、療養と読書の日々をすごすことになる。
 人間は、おしなべて歴史の大きな流れに動かされていく。けれども、ひとりひとりはおのおの個性に従ってけんめいに生きている。――死に対面した病床で感じとった、歴史の流れと人間の生き方の複雑微妙なふれ合いについて、なにか一つでもはっきりした形でまとめたい。そうしなければ死ぬこともできない、そんな思いが氏の命を守りきった。
 働けるようになったのは三十年ごろからで、郷里の高校や高専・短大の教壇に立ち、その間、昨年「平安文化史論」としてまとめた多くの論文を発表していた。三年前「勉強しなおすつもりで上京した」氏は、静かに謙虚に自分にいいきかせている。
 「平安時代四百年、この日本史の四分の一がまだほとんど空白状態だ。地道に基礎的な研究をしながら、自分なりの歴史像を描きだしたい。」

【付記】
この温良恭謙な人柄と、すぐれた実証性・芸術性を兼ね備えた学風。まさに「学徳兼備」の一語に尽きる。また、目崎氏に関しては、文体の流麗さに憧憬の念を抱かずにはおれない。「歴史学者にとって文章力は第一義ではない」という意見を持つ人は多く、これはこれで一理あるが、わたくしは文章にも史家の力量の一端が現われることを固く信じてやまない、とても古くさい人間なので、目崎氏や多賀宗隼氏などの論文を模範とするところ少なくない。目崎氏の「円融上皇と宇多源氏」や「鎌倉幕府草創期の吏僚について」、多賀氏の「秋田城介安達泰盛」などは、好きな論文である。とくに、「円融上皇と宇多源氏」は、『史学雑誌』の拙稿を執筆する際に深い学恩を蒙った。
このところブログを更新する暇が無かったが、目崎氏のご命日(6月13日)が近づいたので、書きたくなった。いつの日か、新潟の小千谷市立図書館を訪れ、「目崎徳衛資料」を利用したいものだ。
03:19
2014/05/26

明石一紀撰「竹犂庵先生遺語」より

| by 慈鎮和尚
☆人生の成功の秘訣は運・鈍・根である。

☆縁の下の力持ちになれ。

☆自分には厳しく、他人には寛容に。

☆人間は粗くてかまわない。粗くなければ人間でない。

☆偉ぶるな。

☆苦しいときはじっと我慢せよ。

☆研究者は金を儲けようと思うな。

☆短所を矯正するよりも長所を伸ばせ。

☆学生を怖れよ。学生は何も知らないが。

☆院生も対等の研究者である。

☆学には窮まり無し(学無窮)

☆研究は好きなテーマだけをやればよい。

☆人の真似をするな。

☆研究は就職のためにするものではない。

☆印税目当ての本を書くな。

☆自分の意見は絶対的なものではありえない。

☆自分が思うほど他人は評価してくれないものだ。

☆つまらない論文を書くな。

☆あまりにも頭が良すぎると歴史家には向かない。

☆若いときに勉強せよ。それが後々までの蓄積となる。

☆注目を集めるすごい論文を書こうと思うな。

☆数代にわたって継承されるものでなければ真の学問ではない。

☆研究の成果は机の前に坐っている時間に比例する。

☆陽の目ばかりを求めた樹はついに倒れて朽ち果てる。研究もまた同じである。

【付記】
竹犂庵先生とは、竹内理三博士のことである。
ともすれば首をもたげる自分の慢心を誡めたいものだ。
01:26
2014/05/10

澤瀉久敬博士「桑田義備先生」より

| by 慈鎮和尚
 それよりも問題は、先生が仕事を長寿の秘訣とされたことだ。事実、先生は寝ても覚めても、ただ細胞核分裂のことのみを考えられ、晩年には生命の起源へまで思索を深め、九十歳を遥かに越えるまで論文を書き続けられたのである。いわば思惟を本職とする文化系の学者でも、そのような高齢まで強靱に思索する学者は少ないと思う。が、仕事への熱情と専念が先生に白寿を齎したのである。
 健康な人とは、朝、眼が覚めたとき、身体に違和感がなく、気分が爽快であるというだけではなく、その日の仕事への熱情に燃えて、眼が覚めるや否や、床を飛び起きる人である、と私は思っている。仕事が健康を齎すのである。その仕事は何でもいい。仕事はひとそれぞれのものである。が、ともかく、ひとは仕事をもっている。もたねばならぬ。そこに生きるということがある。
 命とは何だろうか。私たちは生きるように運命づけられている。生物は生命を与えられている。しかし人間はただ生命をもつだけではなく、使命をもっている。人間は使命をもって生きねばならぬ。そこに長生きが必要となる。天才は若くして偉大な仕事をする。が、一般人は自分の使命を完遂するのに時間を必要とする。とするなら、「長く生きたい」ではいけない。長く生きねばならぬ。長寿のため精一杯の努力と工夫をすることこそ、人間として生きるということではなかろうか。(原文の圏点の付けられた箇所は、太字を以て示した。)

【付記】
わたくしの心に強く響いた一文。
「使命」と「長生き」。まずは、宵っ張りをやめて早寝早起きをするよう、心がけたい。
ちなみに、澤瀉久敬博士は、哲学を専門とされ、大阪帝国大学医学部において、日本最初の「医学概論」の講義を始めた碩学である。万葉学の大家 澤瀉久孝博士の令弟にあたられる。
19:22
2014/05/01

佐藤喜代治「山田孝雄先生を追慕して」より

| by 慈鎮和尚
 先生の学問はただ博いといふだけでなく、観察が徹底してゐる所に特色がある。文字通り底に徹するまで物の道理を究めつくさなければ満足のできない人であった。その気魄と精力とが多数の著書・論文となって現れたので、それらの業績をうかがへば、このことが至極明白である。道理を明らかにするためにはあらゆる資料を尋ねられた。しかも早急に結論を出さず、長い間問題をあたためて居られたやうである。各種の文献をあさることはもとより、実地に調査を試み、時として市井田野の人々からも学び取ることを怠らなかった。「七色唐辛子」の「七色」の意味がわからなくて唐辛子売に尋ねたことがあると、笑ひ話をしてをられたこともあった。事の実相を究め、その基礎に立って断定されるので、誠に快刀乱麻を断つがごとく、その所論には強い自信を持ってをられた。真実の前には先輩も無ければ弟子も無かった。ある機会に「自分には師匠も無ければ門人も無い。」ともらされたこともあった。そこでは全く私情の介入することを許さなかった。「研究」の「研」は砥石にかけて研ぐという意味だから、苦しいのは当り前だとも言はれた。しかし、質問などに対する指導の懇切さは格別で、かゆい所に手が届くやうに説明され、所蔵の文献は快く貸して下さった。文献を独占秘蔵して自分一人の功名を立てるのを憎まれた。
 自分の調査・研究はすべてみづから納得のゆくまで行はれ、人手に委ねるといふことが無かった。著述でも人に名儀だけ貸すといふやうなことは無く、極めて潔癖であった。清濁併せ呑むといふ風が無く、常に理非曲直を弁へられた。先生の異常な能力によって多くの業績が残されたが、それにもかかはらず、恐らく一生を通じて念頭を去らなかったと思はれる国語辞書編集の事業がつひに完成を見なかったのは、やはりどこまでもその研究態度を堅く持してやまなかったためと思はれる。それにしても、先生の博学多識と、精力気魄とをもってして、なほかつ初志の実現を見なかったのは、諸種の障礙があったとはいひながら、そこに人間の力の限界を認めざるを得ないであらう。国語辞書の編集は国家的事業として行はるべきものである。それは多くの学者の協力によって始めて可能になる。ただし学問の過去ならびに現状を考へる時、人文科学における共同研究が実際にはいかに困難であるかを誰しもが身にしみて感じてゐる。ここにもむづかしい問題が残ってゐるのである。
 先生の学問は常に実証に裏付けられてゐる所に、その強みがあったが、それは単に事実のせんさくに終ったのではない。その事実が一体何を意味するか、その価値を大局から判断し、また大局から見て重要と認められる事実をどこまでも究明するといふ態度であった。事実の考証が徹底してゐたばかりでなく、事実に対する解釈判断が群を抜いてゐた。理で押しつめるだけ押しつめてみて理論上かくあるべしと考へた所をさらに事実の上で証拠立てるといふ風があった。実際に調べることなく、臆測・推論に止まるのは学問でないと言って嫌はれた。こんな風で、先生の話は事実に基づき道理にかなってゐたので、大して教養の無い人でもよくわかって感心することが多かった。先生は巧まずして妙を得た話し手でもあった。

00:18
2014/04/28

考証学者 太田晶二郎(2)

| by 慈鎮和尚
土田直鎮「中右記部類紙背の公卿補任」より

 そして、これらの中右記部類紙背の公卿補任がすべて流布本とは少々型が違い、歴運記逸文の形に似ていると思われることからなどから色々こね廻した末に、やはり歴運記と公卿補任とは深い関係がある。いや、更に進んで、歴運記こそは公卿補任の基になったものである、という結論になった。そこで、同年六月に史料編纂所の研究会で一応発表し、続いてこれを原稿にして太田氏に見ていただいたのであったが、二百字詰の半ペラ八十枚ばかりのものに、大は論旨の矛盾、用字・表現の誤から、小は私の文章の句読の不備に至るまで、一々克明に記入した長短さまざまの付箋が、実に百六十余枚も箒の如く垂れ下がり、しかもそれを丸二日間、一々説明付きで承った時には全く度肝を抜かれた。


太田晶二郎「本朝世紀校勘」より

 我があら探し性癖は、本『月報』(○注記略)で土田直鎮君が紹介してくれられた所である。(同君ハ其ノ原稿ニ私ガ施シタ附箋ヲ丹念ニ数ヘテ驚イテヰルガ、サスガハ土田君ダカラコソ其ノ程度デスンダノデアッテ、同時ニ閲シタ他ノ人々ノ原稿ニハ、モツト高イ率デ附箋ガツイタモノモ有ツタ。)なほ自賛も加へると、嘗て和田英松先生が或る出版物の合評会に御出になるについて、「きみ調べといてくれたまへ」とて本を私に渡して了はれた。信任に感激して、私は附箋を一ぱい、土田君のいはゆる「箒の如く垂れ下」がらせたものである。結果は普通なら一日ですむ合評会が二日に亘り、其のほかにも或る影響が有つたとかいふことだが、それは記すを憚る。
02:26
2014/04/28

考証学者 太田晶二郎(1)

| by 慈鎮和尚
「禅宗史研究六十年(上)」より

玉村竹二 太田君は僕に一年遅れて史料編纂所に入ったわけですが、まあ一騒動。そりゃあ偉い人だったけれども、編纂官の言うことを聞かないからね。

瀬野精一郎 和田英松先生が大変かわいがっておられたということですね。

玉村 太田君のほうも和田英松先生には大変畏敬の念を持っていた。黒板先生もかわいがっていたけれども、和田先生は大変かわいがってね。(中略)

瀬野 前に先生は、和田先生なんかが社会経済史みないな学問が若い人達の間に盛んになってきて、考証学みたいな学問はもう流行遅れになったのか、もう自分の学問には跡継ぎがいないのかと思っている時に太田先生が出てこられたので、非常に喜ばれ、かわいがられたんだということをおっしゃったことがあります。
 太田先生を理解された編纂官というのは、ほかにどなたですか。

玉村 編纂官の中で太田君のことを一番理解したのは岩橋小弥太さん。岩橋さんは太田君に割合評判良い。あとの人はみんなけちがついているけれども、岩橋さんのことはそんなに悪く言わないね。僕は岩橋先生の下だった頃、そりゃあもう岩橋さんは大変な太田支持で、やっぱり打てば響くで、太田君のほうも岩橋先生は一目おいている。その頃は、ああいう文化史みないな、あるいは考証学みたいなことをやる人というのは「史料」でも岩橋さんぐらい。まだ桃さんがそれほどじゃないから。

瀬野 「史料」の編纂物の検討会(合評会)も、大変だったんだと先生からお聞きしましたね。

玉村 合評会というものは昔からあった。だけど太田君がそのメンバーに入ってからが大変だった。

瀬野 勝野隆信先生が「かすり傷だ」と言われたら、「かすり傷もたくさんになれば、致命傷になる」と太田先生が言われたという話をお聞きしました。(笑)
 出版されると箒のように付箋を付けたといわれていますが、竹内理三先生がやられた『大日本史料』にも付けられたのですか。

玉村 全てですよ。誰のでも。見せれば、みんな箒になっちまう。
 森克己さんなどは、ずいぶん自分はやっつけられながらも、太田君を庇護したね。

瀬野 太田先生が傾倒しておられたのは、和田英松先生だけですか。

玉村 和田先生の悪口は言わなかった。あとは同輩では桃裕行さん。桃さんくらいの力がないとダメ。我々はもうだめ。でも聞けば親切に教えてくれたね。
02:03
2014/04/28

本居宣長『うひ山ぶみ』より

| by 慈鎮和尚
 詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずをるゝは、学問に大にきらふ事ぞかし。

【付記】
まことにいみじき金言として、欽慕敬仰する一文である。

01:49
2014/04/18

食いしん坊の黒板博士

| by 慈鎮和尚
①三成重敬・高柳光寿・桃裕行・吉川圭三「〔座談会〕黒板勝美博士を偲びながら」より

三成重敬 黒板先生は、何か仕事をするにはうまいものを食わなきゃきかん。うまいものを食っておればくたびれないという信仰のようなものを持っておった。前にも言ったが、博士論文を書いたときに向島の奥の植半へ行っているのだ。僕は十日ばかり引っぱっていかれた。植半から大学へ通った。ところが晩めしの御馳走をするというのだ。自分は酒はのまないのだけれども、御馳走はたべるといって、そうしてうまいものを食わせるのだ。うまいものを食っておれば大丈夫だ。そして徹夜でやろうと。しかし僕の方は迷惑な話だ。自分の論文を書くのでも何でもないのだ。先生が書いて、それを僕に読んでもらうというわけだ。(○中略)

桃裕行 ゴオッツォ食ってベェンキョウして、というのが先生の口ぐせでしたね。

高柳光寿 それはなるほどそうだね。僕は先生のうちには用がないからいくことはなかった。ところが一度高柳君用があるから来いという。行ったら何も用はないのだ。今日はお前めしをくわしてやるという。こっちへこいという。あそこに炬燵があるだろう。深いこたつが。何だか醍醐かどこかからもってきた、塗った框かなんか深いやつ、あそこに足を出せというのだ。そこで食べようじゃないかと、そこで一ぺん黒板先生に御馳走になったことがあった。何をたべたかおぼえがないけれども、何しろ珍しいものをたくさん出してくれた。これはどういうわけで僕に御馳走してくれたのか、未だにわからない。

三成 あれは若いときから殊にそうだったが、書生を愛するのだな。りっぱなうちに入るとか、女房や子供をきれいにしておくとか、うまいものを食わせるとかいうことじゃないのだ。書生を非常に愛する。


和田軍一・岩生成一・土田直鎮・尾藤正英「大震災前後 よもやま話」より

和田軍一
 予餞会とかそのほかで、「江知勝」とかなんかで牛肉鍋を突っいてた。そのときは三上先生も辻先生も、みんな出てきて、三上先生が一番上座に、それから黒板先生と。そうすると私は、三上先生によくそういうときに呼ばれる。「和田君、おれの前にすわれ」と。つまり「同じ鍋を黒板君と突っつくと、黒板君はみんな肉を食っちゃう」というのです。「お前こい」といって(笑)、これは困ってね。そういわれたらなかなか箸がでない(笑)。

岩生成一 黒板先生、ああいうとき先にどんどん食べられる。お供して海外旅行した時、各地の日本商社の支店で支那料理が出ると、どんどん食べられる。「支那料理はまだ後からたくさん出ますよ」、「いやうまいときにどんどん食ったほうがいい」というので、先生失礼だけれどもあまのじゃくで、そういうことをよく言われた。

和田 それから三上先生は、「黒板君は肉が煮えないうちに食っちゃう」と(笑)。「煮えるまで待っているといつまわってくるかわからん」と言って。(笑)

岩生 よく「江知勝」で牛肉を学生と一緒に。

土田直鎮 「江知勝」は安かったわけですか。

岩生 安かったでしょうね。それから先生方にはり込んでいただいたけれども、それ当然にいただくものと思っていました。(○下略)


③田山方南「黒板先生の憶い出」より

信楽の宿では肉を買わせて、すき焼が始まった。近江牛と取りたての茸だから、皆腹一杯食べた。なかんずく、先生の旺盛さはもの凄いものだった。スピードがあって半煮えでもどんどんあげるから、側のものは手をこまねいている。
 「早く食えよ半煮え位がうまいんだ。」
と先生の弁。先生が皆に松茸を取らせたのも中々思想遠大であるわいと感心した。
 「若いものはゴッソウを食って、うんと勉強せにゃ駄目だ。」
とよく仰っしゃった。今にしてその言葉の味がわかるような気がする。


④永井路子「続史愚抄雑感」より

 黒板勝美については、嫁いで来たあとで、時折り噂は聞かされました。が、それは学者としての黒板勝美についてではなく、ほとんどが、豪傑伯父サンとしての逸話ばかりです。
 「渋谷の伯父さまが……」
 家では勝美のことをこう呼ぶならわしになっております。
 やれ、渋谷の伯父さまは、たいへんな食いしんぼうでいらしたとか、猛烈な忙しがりやでいらしたとか……


⑤杉渕忠基「朝河貫一の日本留学時代―英文日記に綴った思い―」より

その黒板の隣に朝河が座ったのは史料編纂所の忘年会(12/20/17)の時であった。その日の日記に黒板は「狼のようにムシャムシャ食べる」eats like a wolf と朝河は記している。この表現は「日記目録」にもある。少しユーモラスで朝河の日記には珍しい箇所なのでここに挙げた。

【付記】
かかる旺盛なる食欲が、「国史大系」編纂の原動力であったか。
よく食べ、よく勉強して。見習いたいものである。
の朝河博士の日記の一節は、とても面白い。この少し前に、封建制に関する論戦を交えているが、さすがの朝河博士も、論敵 黒板博士の「狼のような」くいっぷりに圧倒されたようである。なお、黒板博士のロンドン滞在中の日記に、カフェに行くという記載が多かったと記憶するが、自宅に『黒板勝美先生遺文』のコピーが見当たらないので確認できなかった。
19:43
2014/04/07

中山信名「鎌倉祗候の武士」より

| by 慈鎮和尚
東鑑を按ずるに、鎌倉将軍の世に、幕府に祗候のものは、大かた関東八州及出羽・奥州・信濃辺の武士にて、近江・美濃より以西の武士は至て稀也。是は如何なる故にやと云に、是時の制度にて、西国・中国の武士は、大かた京都に祗候、洛中は勿論、畿内近国を警衛せし故也。佐々木抔も、元より鎌倉昵近の武士なれど、これも大かた京都の警固をうけたまはりし故に、時々京都と鎌倉とに往来せし事と見へたり。京都に在住して警衛をつとむる者は、鎌倉へ祗候せしよりも勤労たる由なども見る。在京人・篝屋武士なと云もの皆この類にて、大概美濃・近江より以西の武士の役たりしなり。さてこそ、鎌倉には東国の武士のみ多くありしなりけれ〈東鑑を熟覧すれば、この事分明なり〉(○句読点、濁点は、私に加えた)

【付記】
 中山信名は、塙検校の高弟で、わたくしの注目する篤学のひとりである。
 江戸時代の学者で『吾妻鏡』を熟読した人物は多いと思うが、前期では林鵞峰・山鹿素行・新井白石と、水府の史官たち、後期では伊勢貞丈・近藤正斎、そしてこの中山信名あたりが、重要な存在ではないだろうか。掲出したのは、現在の学界に全く知られていない信名のある著作(未公刊。ある事情により書名は記さず)の一節である。
 最近、中世前期の武士論では、近江源氏の佐々木氏に代表される在京武士に注目が集まり、京都を中心とした一族内部の分業形態などに研究の蓄積を見るが、すでに江戸時代の段階で、信名がこれと同様の着眼点を持っていたことは誠に驚かされる。わたくしは、最近の研究のみならず、かような知られざる篤学の業績にも光があたることを願ってやまない。
 信名の見識の鋭さについては、かつて飯田瑞穂氏が「郡評論争余談」にて、『新編常陸国誌』に関して指摘されたことがあった。昨日、久しぶりに飯田氏の論攷を拝読して、信名について書きたくなり、ある優秀な後輩の慫慂もあって記事を書いた次第である。
 そういえば、かの『武家名目抄』は、辞典類では塙検校の編纂とされ、現代の中世史家にはこれに従う人が非常に多いが、これは実は信名が中心となって編纂したものであった。塙検校は、幕府から下命された『名目抄』よりも、自分が着案した、いわゆる『塙史料』(『大日本史料』の母体)の編纂の方に関心があったのである。このこと、近世学芸史研究の領域では常識に属することと思うが、信名の功績を顕彰するついでに記しておく。
00:30
2014/04/04

青木和夫「『お茶の水史学』から」より

| by 慈鎮和尚
 歴史学者には結論派と手続派とがいるようです。結論派とは結論がおもしろくなくてはいけないと主張する人。だから結論派がひとの悪口をいうときは、そんなことやってなにになるんだ、といいます。手続派とは、学問である以上結論にいたる手続きの正確さこそ問題だと主張する人。だから手続派がひとの悪口をいうときは、粗雑だ、といいます。
 ほんとうは、結論派と手続派とを兼ねることが必要なのですけど、現実にはなかなかそうもゆきません。わたくしなど、先生や先輩をひそかにこの両派に分類してよろこんでいます。
 そのわたくしはどちらの派かというと、まだ後輩にたしかめていないのですが、じぶんでは手続派ではないかと思います。結論派のおもしろさなら、直感でひきだせるからで、学問はやはり論証のつみかさねに存在価値があると思うからです。

【付記】
 この一文を読んで、身近にいる研究者を一人ひとり分類したい誘惑にかられた。呵々、呵々。
 それはさておき、青木氏の周辺では、山田英雄、皆川完一、飯田瑞穂といった方々が手続派に分類されるであろうか。いずれもわたくしが深い畏敬の念を抱く篤学である。
 山田氏の時代区分観に関する三部作は史料の博捜に幾度も驚嘆したし、新訂増補国史大系の『尊卑分脈』を用いるたびに、校勘記に仄見える皆川氏の深い学殖に唸らされる。中世史籍の諸本研究を志す身として、飯田氏の周到緻密な学風にあやかりたいと切に願う。
 なお、青木氏はご自分を手続派と自認されるが、そうではなく結論派と手続派とを兼ねた学風をお持ちのように見えてならない。なぜなら、結論派の面がなければ、近江令を否定するような論文をサッと書かれるはずはないから。
22:33
2014/04/03

塙検校の生活

| by 慈鎮和尚
中山信名『温故堂塙先生伝』より

常に美服をかざらず、美食をこのまず、あるに従てことを弁ず。其外のこと皆かくのごとし。たゞ書籍を求むるにいたりては明日雑費有無をとはず、底をはらひて金銀ををしむことなし。
19:17
2014/04/03

よき師 よき弟子

| by 慈鎮和尚
中山信名『温故堂塙先生伝』より

今とし大人とし七十四、そのさかりなること常の人の五十余ほどの如し。猶このさきもいかばかりの栄かおはすらんと、いとたのもし。凡大人にしたがひをしえを受るなかに、術を得たる人すくなからず。屋代弘賢、松岡辰方、稲山行教、石原正明など、ことにその旨を得し人どもなり。信名等ほどのものは、数多かればいふにたらねど、この年比並ならずをしへを受しかば、いかでそのいつくしみをもむくいんと思ふほどに、この比大人の集られし群書類従の上木の功なりしまゝに、その思ひくはだゞれしはじめをはりをも、人にしらせたきよしなど、同じ学びの友なる人共に語りしに、おなじくは大人の行状をも、大様に筆とりものせととすゝめられしかば、おのれが術の拙なきをもしらで、文政二年といふとし、なが月もちばかりにしるし侍りぬ。
19:06
2014/03/20

川瀬一馬博士「学者に成れる人」より

| by 慈鎮和尚
学問は馬鹿では出来ないが、馬鹿になれる人でなければ学者としての成功は覚束ない。学問においては、常識ではたとい判りきった事柄でも、それを証明することが是非とも必要である。石橋を叩いて渡るという――それは普通には念には念を入れるという意であるが――普通の人は、石橋は安全であると信じてはいるものの、真に安全であるかどうかは、実は判らない。それを叩いて渡って見た人があったればこそ、安全性が証明されて、余人はそれに依り安心して通行出来るわけである。安全に違いないと思われるものを、今一度念を押して証明する努力は、実は馬鹿馬鹿しいような仕事である。所謂才人と言われる型の人が学者の中にも沢山あるけれども、そういう人は、とかく真に偉大な学業は成就し得ない。それは馬鹿になることが出来にくいからである。もしも才人が馬鹿になれれば、正に鬼に金棒であるけれども、それは雨夜の星というべきであろう。
 (○中略)
眼前にある地位を得たいために勉強する青年はある。しかしそれは、多くは望みを達成すれば勉強を止めてしまう。勉強は一種の方便に過ぎないからである。優れた研究を成就したからといって、必ずしも社会的に厚遇されるわけのものではないから、研究生活に撤しようと思えば、死後の知己を待つという覚悟でなければ、大いに失望する。けれども、若くてそこまで徹底するには、自分の学才に余程の自信がなければならぬ。年少より頭角を現した俊秀で、しかもその道が好きで好きでたまらぬというほどの者が、異常な勉強をするのでなければ、夙にそれだけの自恃の心境には達せられない。

【付記】
才・学・識の足りない自分の未熟を顧みるにつれ、如上の境致に至りたいと、切に願う。
18:45
2014/03/20

川瀬一馬博士「細く長く」より

| by 慈鎮和尚
学者が死して後に残るものは、学位でもなければ、大学教授の肩書きでもない。ただ学術的研究の業績のみである。生前には、その人間の社会的地位の威光に拠る好条件を得て世に行われているものでも、本人がいなくなってしまえば、全く条件なしの公正な批判が下されるから、真に学術的価値のないものが、誤ってその地位を占めるようなことは許されなくなってしまう。
18:41
2014/02/27

上横手雅敬先生「史料としての古典」より

| by 慈鎮和尚
 『国史大辞典』(吉川弘文館刊)はもっとも権威のある日本歴史辞典として、広く利用されている。平成八年(一九九六)以来、「索引」が刊行されたが、私が違和感を抱いたのは、「索引」に「史料」という項があり、『源氏物語』であれ、『教行信証』であれ、すべて「史料」に含まれ、これらの古典に対する特別の配慮がなされていない点であった。確かにすべての文化財は、それぞれの時代を知る史料になるが、これでは作品は歴史学研究のためにのみあることになり、それぞれが持つ思想性、芸術性などは見失われてしまうように思われる。歴史学研究の立場からすれば、それは当然で、正当だという見解もありうるだろうが、史学を諸学の王者と見るような、史学至上主義に私は疑問を抱いている。

【付記】
恩師のエッセーに接して思い出したことがひとつ。最近、中世史界ではやりの「『平家物語』史観」とかいう用語、あれはどうも好きになれない。
22:33
2014/02/27

上横手雅敬先生「史料としての古典」より

| by 慈鎮和尚
 『平家物語』を一種の歴史叙述とみなし、史料として利用する必要性を、かつて私自身もかなり熱心に説いたことがある。『愚管抄』や『平家物語』が『玉葉』や『吾妻鏡』と並んで、史実を知る史料としても用いられ、歴史研究の素材が豊かになるのは歓迎すべきことである。多様な史料の利用によってこそ、多面的な角度から対象を解明できるのである。ただ、私が憂慮するのは、思想書としての『愚管抄』、文学作品としての『平家物語』の全体が無視され、瑣末な考証に走る傾向が見られる点である。とくに検索機能の著しい発達に伴い、研究者が自己の関心を持つ事項のみの検索を競い、作品そのものを顧慮しないような現象が生じている。

【付記】
なかなか耳の痛いご指摘である。検索機能といえば、近時データベースの構築が進んでいるのは喜ばしいが、『玉葉』にしても『吾妻鏡』にしても、校訂本文のデータが入力されているに過ぎない。写本の校異に注意を払わず、安直に寄りかかると、思わぬところで火傷を負うことになろう。
全体性に背を向けず、それでいて個別の記事を厳密に考証する学問的態度を身に付けたいものである。
22:10
2014/02/12

竹内理三博士「“百世の後”を見据えつつ」より

| by 慈鎮和尚
 僕の一年先輩の森克己さんなんかはね。これは、今度は黒板先生に、こっぴどくやられちゃった。あの日宋貿易の研究は。森さんはしかし、鼻柱が強いからね。黒板先生のいうことはいちいち反論したら、黒板先生、最後に、おこっちゃってね。「それじゃわしは知らんぞ」といわれたそうだ。それから辻先生のところへいったら、これでええといわれたんで、それでまあ森さんは「日宋貿易の研究」というんで書いた。結局、卒論出した講評の時にね。森のはなかなかよかったよと、黒板先生はいわれたそうだ。「おれは知らんぞ」なんてつっぱねたこと忘れたのかどうか。これは森さんの直話ですがね。
 僕は早稲田の学生諸君にはよくいったんですが、僕もそういう経験があるし、森さんもそういう経験があるんだから、自分が一たんきめたテーマを先生がなんといおうとも、やっぱり大事に育てにゃいかんということだ。先生だってやっぱり知っている範囲に限界があるという証拠、例証にね。いつも話しとったんだが。(下線は引用者)
00:19
2014/01/29

福山敏男博士「建築史と私」より

| by 慈鎮和尚
建築史に限らず、美術史や考古学といった分野をも含めて、歴史的資料に取り組むときの私の態度は今でもこの通りである。机に坐って、長文の資料でも面倒くさがらずに何時間でもかかって筆写し、よく整理し、その上で比較検討し、何か結論をひき出せるかどうか考える。成功もあるが、むしろ失敗する場合の方が多い。失敗したら、また別な考え方をしてみればよい。一つの問題を解決し得れば一安心である。しかし次の難問がひかえている。いつまで経っても終点に達することができない。学問というのはそういうものであろう。牛歩ながら、一歩一歩問題を解きほぐして行くよりほかはない。
 十年一日というが、私の場合は五十年一日、このような勉強の日課が続いている。これも人生行路の修行であろう、と私は考えている。
23:51
2014/01/09

不世出の建築史家 福山敏男

| by 慈鎮和尚
家永三郎『一歴史学者の歩み』より

 また、当時、比較的恵まれぬ地位に勤務されながら、すばらしい論文を矢継ばやに発表されていた福山敏男博士の古代寺院の創立に関する諸論文からも、大きな影響を受けた。考証など哲学にもっとも遠い作業として背を向けてきた私に、考証もそれが精緻の極に達するときにどんなに新鮮ですばらしいものであるかを教えてくれたのが、福山博士の数多い論文であったのだ。

【付記】
今日、福山博士の学徳をとても偲びたくなった。『日本建築史の研究』をいまだに読破していないことを残念に思う。
00:34
2013/12/30

戦争と学問

| by 慈鎮和尚
小島憲之博士「書紀上巻の刊行を待つ」より

 上代古典のうちで、私にとって思い出の深い書物は書紀である。昭和十八年戦争もさなかのころ、一介の研究生として人けのない研究室で学に励んでいた。書紀があまりにも異国的な潤色に富むためにへこたれていたが、河村秀根の『書紀集解』を片手にしながらも、どこかにもっと便利な種本があったかも知れないと、絶えず思い続けて来た。偶然、唐代の類書『芸文類聚』をよんだところ、冒頭の天部が書紀の冒頭に似ていることを知った。心あせりながらも読んでゆくうちに、帝王部から人部に進むにつれて、書紀の類似文が益々多くみえ、やがて芋づる式に両書の類似がわかるようになった。『芸文類聚』は巻子本百巻の大部とはいえ、書紀編集委員はその秘府に自由に出入し利用できる地位にある。編者達は他の漢籍と同様にこれも大いに活用したであろう、若気のいたり、手をたたいて喜んだものである。しかしやがて運は我に味方せず、いまわしい戦場へと駆り出されることとなった。比島マバラカットの笹葉の兵舎、あるいはミンダナオ島山中のアバカの小屋、あるいはバゴボ族との仮寝の一夜にも、この種本のことが頭から離れなかった。もしかりに若いいのちを失うようなことがあるならば、世に発表することもなく、百年の後の知己にこれを委ねねばならない。暗然たる月日はむなしく流れてゆくばかり。しかし、今や世は無為、漸く『芸文類聚』の価値も国文学界では認められて来たようにも思われる。以上のようなことを端折りながら、一昨年五月十九日の宮中午餐会の席で先陣を承って述べたことである。この「戦争と学問」の話はそのまま平和と書紀との話にもつらなる。私は人前で声高く平和を叫ぶことを必ずしもよしとしない。しかし学問を中断させる恐ろしきものは何か、ともかくも青春を危難に捧げた学徒として、こころのうちを述べることができたのは、退歩的な自分にとって、一生の思い出となることであろう。

【付記】
2013年、時勢が危ぶまれているこの年の終わりを迎えるにあたって、畏敬する碩学の文章に、平和の尊さをかみしめた。
22:32
2013/12/30

家永三郎『歴史の危機に面して』より

| by 慈鎮和尚
自分の書いたものが活字になる、というのは、うれしいようで、一面恐しいことでもある。一度活字になったら最後、どんな恥しいまちがいがあつても、抹殺する方法がないからである。
17:02
2013/12/28

小島憲之博士「書評 『太田晶二郎著作集』にこと寄せて」より

| by 慈鎮和尚
このごろ、印刷された論文類をみると、知ってか知らずか、われこそ始めて発見せりと振舞う人たちが少なくない。やはり氏のこの真率な態度を学ぶべきではなかろうか。「学」とはいっても、その「人がら」と離脱したものであってはならない。
00:45
2013/12/27

「私の古文書蒐集と刊行」より

| by 慈鎮和尚
平野邦雄 黒板先生と辻先生というのは、どちらもよく学生の面倒を見られましたよね。どこが違われたのですか。面倒の見方が違う?

竹内理三
 両方とも、やり方が違うといえば違うかもしれない。黒板先生は、「おまえ、これを勉強しておけ」と言い付けた。それに対して奨学金とか奨励金を取ってくるということはなかった。だけど、そのかわり先になってから学生をしかるべき職場に。(中略)
 それを親達は理解できない。田舎者は、早く正規の月給取りになってほしいということを、親は考える。今でもそうだな。卒業するかせんかのうちにもう次に就職のことばっかり。そうすぐに右から左にうまくはねえ。
 僕の同級生に玉川治三というのがいた。これは少し年をとってはいた。(中略)当時は破格の、卒業すると旧制松本高校の先生に、辻先生は世話された。その時に玉川の曰く、「おれは月給百三十円、おまえはいくらか?」と。僕よりも家内が頭にきちゃってねえ(笑)。当時七十五円。一方は百三十円。旧制高校の先生というのは、奏任官。「史料」も編纂官は勅任官までなることは出来たが、編纂官補より
旧制高校教授のほうがずっと格は上だから、月給もいい。だけど人間の一生というのはそういうこととは関係ない、と僕は思う。食うだけあればええと思うんだけどねえ。だが親としては納得出来んらしいなあ。 (下線は引用者)

平野 今でも同じですね。

01:47
2013/12/27

「私の古文書蒐集と刊行」より

| by 慈鎮和尚
竹内理三 羽仁五郎さんの一派が『史学雑誌』の乗っ取りをね。それは僕も聞いている。政治的になっちゃいかん。そう思うね。政治的になったら、ろくなことない。

瀬野精一郎 史料編纂所以外の戦後の日本歴史学界の動向については、いかがでございますか。

竹内 そういう歴史学界は、もう、それは勿論急転回。まず、『史学雑誌』を、今の羽仁五郎一派が乗っ取ろうとした。これもしかし乗っ取れなかったねえ。

瀬野
 羽仁五郎さんのほか、研究者の中にも同調する人がおられたのですか。

竹内
 いたね。だけど、やっぱり政治的な動きというのは成功しない場合が多いな。下心が見えてしまう。

平野邦雄 だいたい分かります。(笑)

竹内
 僕がそう思うだけかもしれない。やっぱり学問というのは、もう少し長い目で考えなきゃいかんというような。今の学生は問題意識とか、現代意識とか、すぐそれを言う。問題意識なんて、時代が変っていくごとにそれに迎合して研究者がうろうろしていたら、自分の研究はいつになったら出来上がるかということだ。

01:33
2013/12/23

田中健夫「研究業績の評価」より

| by 慈鎮和尚
 すぐれた論文は、卓抜した着想を持ち、広範緻密な調査・蒐集に基づいて、深い史料の読みと堅実な実証によって前人未踏の境致を切り開いた研究でなくてはならぬ。論文の作成にあたって要求されることは、論文執筆の意図、論証の目的、問題に取り組む姿勢・方法、論文の構成を明示し、論点を整理したうえで、研究の現況と使用する史料について説明し、その分析・検討を行ない、論証の過程、理論の展開を通じて、新しい解釈や理論の提供に独創性を示すことである。このうち一つでも誤ったり、欠落していたりすれば、その論文の評価は低いものになる。

【付記】
如上の要件を備えた論文を書くことは実に難しい。しかし、仮普請のような論文など、厳しい批判にさらされた際、一瞬のうちに吹き飛んでしまう。右顧左眄し、業績をあげることを目的とする余り、焦燥感にかられて底の浅い論文を執筆するのは誠に慨嘆すべきである(また、そのような論文は、査読を通過することは極めて困難であろう)。学説の発表は、出来るかぎり慎重かつ周到に行ないたい。そして、学問の発展に寄与する論文を発表できるよう、深い学識を備えたい。
01:07
2013/12/17

伊東多三郎「史料・史料編纂・史料編纂者」より

| by 慈鎮和尚
今日の日本史学の隆盛の底には、多数の重要史料の公開・編纂・出版がある。それは明治期以来(更に遡れば和学講談所の群書類従編纂以来)の成果の蓄積が、歴史学の根幹を養い、花を咲かせたものだとも云い得よう。(○中略)昭和時代の学者は先人の豊富な遺産を飽食して居る、と云っても過言ではない。例えば国史大系・史籍集覧・国書刊行会叢書・大日本史籍協会叢書など、もしそのどれかが無かったとしたら、歴史学は足踏みせざるを得なかったであろう。(○中略)しかるに我々はややもすると、ただ先人の遺産を利用するだけで、先人の労苦と学績とを顧みないことが多い。史学史上に於ても、学者の史観や研究成果は説明するが、史料編纂の基礎的意義を正当に認識する者は少い。研究に教育に活動した学者の名は、世上に弘まり後世に伝えられるが、史料の採訪編纂に一生を献げた学者の名は、世上より隠れ、後世には消え去るものが多い。しかるに近代歴史学の発達は、史料編纂の進歩を無視しては全然考えられぬ実情である。従って我々は史料編纂事業について十分なる知識と理解とを持たねばならない。
22:32
2013/12/17

伊東多三郎「近世思想史研究に思う」より

| by 慈鎮和尚
歴史の研究は歴史家が自分の才智を尺度として歴史を審判するのではなく、歴史と対話しながら歴史から学び取って自己を教育するものでありたい。
21:59
2013/12/12

老大家の咆吼

| by 慈鎮和尚
瀧川政次郎博士「角田文衞氏の『史学雑誌』に対する提案に対する私見と感想」より

 ところがどうですか。最近の『史学雑誌』に掲載されている若い諸君の論考は、戦前の『歴史地理』に掲載されている論考よりもその取扱っている問題は小さいのであります。それを戦後学問が細分化せられ、精密化された結果であると観る人もあるようでありますが、私はそうは考えられないと思います。今の若い諸君が捉えている題目は、いずれも戦前の歴史家によって捉えられた大題目に属する小題目でありまして、史学界に新分野を拓いたものは、暁天の星よりも稀であります。それもその筈、学問に年紀の浅い大学院の学生が史学界に新分野を拓くような新機軸が出せるものではありません。

【付記】
瀧川博士の文章は、いつ読んでもその傍若無人ぶりがとても面白く感ぜられる。
角田博士とのコンビは、さぞや目を引いたことであろう。
それにしても、「学問に年紀の浅い大学院の学生」が、三年で博士論文を書くことを迫られつつある現在の学界状況を、この碩学達が見たならば何と言うだろうか。呵々、呵々。
00:26
2013/12/12

角田文衞博士「『史学雑誌』に対する提案」より

| by 慈鎮和尚
 しかし歴史学に生気を与えると言う点で、若い研究者の編輯参加は結構でありますが、学識や見識の狭さ、大所高所からする大局的判断の欠如、寛大さの乏しさ、研究の一時的な流行に眩惑されるなどの点で、やはり避けた方がよいと存じます。各国の一流の歴史学(無論考古学も含む)の雑誌が一流の教授級の学者をもって編輯員会を構成しているのは、そのためであります。(○中略)
 ここで私は、一つの告白を致します。私は、副手を勤めている時分、『史林』の編集員を二度手がけました、と申しますのは、私の後任者が召集されたからであります。私が今なお慚愧に堪えないのは、自分の学問の浅さ、驕慢さから立派な論文を二度ほど不採用にしたことでありまして、洵に申訳ないことをしたと心を苛んでいます。

【付記】
このような碩学の一文を読むと、若手研究者が学術雑誌の査読をするのは、問題が非常に大きいことを痛感させられる。
00:06
2013/11/29

高群逸枝「学問と花」より

| by 慈鎮和尚
学問はさびしい。
途中で一二ど世間の目にふれることもあるが
すぐ雲霧のなかに入る道
この道をこつこつゆけば
路傍の花が「わたしもそうですよ」という
春はなずなの花が
秋は尾花がそういう

【付記】
博士論文を提出して少し落ち着きを取り戻し、久しぶりにこの詩を思い出して口ずさんでみた。
学問は、結局のところ自己と研究対象との一対一の勝負だと思う。
世間の目にふれることを期待しないのはもちろん、流動する学界の変化にもまどわされず、ひたすらに自分なりの学問の道を「こつこつゆけば」、あるいは路傍に美しい花を見ることもあるだろうか。
20:41
2013/11/23

荻野三七彦「助教授平泉澄先生」より

| by 慈鎮和尚
 助教授時代の先生の学界の活躍は瞠目されていた。純然たる碩学として尊敬し、そこから多々学んで吸収することができたが、それから以後は次第に変遷があった。「建武義会」の講演会への出席を勧誘された頃、私は開会に先立って拍手をうつことにまず抵抗を感じて、次第に脚が遠くなって行った。
 大分以前のことであったが、何かの会合の席で大久保利謙氏に会った時に、雑談の笑い話で、大久保さんは「僕も君も、平泉先生からは破門されたね」といわれたこと、それだけのことを今も記憶している。しかし如何にそうであろうと、学恩だけはなにがどうあろうと変らず、また消滅するはずはないと深く思っている。


【追記】2013.11.29
平泉澄『寒林年譜』大正十四年条より

「九月三十日 自宅に於いて『園太暦』の講読を始む。参加者は大久保利謙、太田稔、小野均、市村其三郎、江木(秋山)謙三、小林健三、田山信郎、荻野三七彦等

【付記】
少壮史家平泉澄、ときに三十一歳。学界期待のホープとして活躍、翌大正十五年に『中世に於ける精神生活』『我が歴史観』『中世に於ける社寺と社会との関係』を立て続けに上梓する。
昭和期の平泉史学の変貌をどう考えるかは史学史の重要問題だが、実証史学と文化史を融合させた、大正期のユニークな学風が幾多の学徒を魅了し、中世史研究へと誘ったことは紛れもない事実である。
22:06
2013/11/17

先学の学恩

| by 慈鎮和尚
辻善之助博士「黒板勝美君」より
 明治三十年頃に、旧版国史大系の第一冊日本紀が出た時のうれしさ有りがたさ、今に忘られない。その頃までは、日本紀を見ようとするものは、図書館へいつて、江戸時代の旧木版本三十巻を借り出すか、又はいつ頃の板であつたか、唐紙の白紙刷の、これも三十巻であつたが、小形本で稍便利であつた。それを出さなければならなかつたが、国史大系本が出て、自分の手許にいつでもあるといふので、洵に昭代文運の隆昌を祝したい気分になつた。今ではあまり便利になつて居るから、そのやうな気分になる人もあるまい。(下線は引用者)

三成重敬「古文書の編纂」より

 明治三十四年七月「大日本古文書」の第一冊が出版された。編纂兼発行者は東京帝国大学で、印刷者は印刷局である。
 これは当時の史学界に於ては、天の一方に現はれた明星のようなものであつた。僅に六百頁余の一小冊子に過ぎないが、これが産まれるまでには、少くとも約三十年間の陣痛を経ねばならなかつたことに思ひ及ぶべきである。(下線は引用者)

                                             

【付記】
 二十一世紀の今日、活字化された古代・中世史料は山ほどあり、索引も出され、データベースという便利なものまである。しかし、わたくしどもの研究の基盤には、このような多くの先学達の血のにじむような努力があることを忘れてはいけないと思う。
 また、活字本に盲従せず、できるかぎり原本・写本に立ち帰る態度も必要だ。論文を執筆する際、過去の学説に厳しい態度を以て臨むように、使用する刊本史料についてもその翻印に過誤がないかどうか吟味を加える必要がある。これが真の意味で先学の学恩に報いるということではないだろうか。ゆめ怠らず、励みたい。
20:01
2013/11/14

山路愛山『足利尊氏』凡例より

| by 慈鎮和尚
 本書十冊を以て全巻とす。時代を以て人を論じ人を以て時代を論ず。併せ読めば以て日本の全史となすべく、分ち読めば以て一個の英雄伝とすべし。

【付記】
願わくは、愛山・三叉・蘇峰のごとき、透徹せる史眼、躍然たる筆力を得んことを。
03:00
2013/11/07

和田英松博士自詠

| by 慈鎮和尚
 たゆみなく 学びの道に いそしまん
  おのが命の あらんかぎりは

太田晶二郎「律逸文」より
「顧みるに、予、故和田英松先生の晩年にいさゝか眷顧を辱くしたのは生涯の光栄であるが、先生の蔵書、癸亥の震火に悉く滅んで、僅かに免れたものに「律逸」の一本が存した。(○中略)中に就いて(イ)を見出して補はれたるは、予も正さ目に知れる所であつて、学徳と年歯と積みて不足無き、炯眼白髯の碩学が、僅かに一遺文を獲て、歓喜の情を面てに漲らしたまひしさまは、今に尊く想ひ浮べらるゝ」

平田俊春「和田英松先生の想ひ出」より
「昭和十五年夏、和田先生の遺著『国書逸文』が刊行されると、編者の森博士は直ちに一本を私に恵与された。爾来、この書は『本朝書籍目録考証』とともに、私の座右から離れず、先生は御逝去後もありし日の如く私を御教導下さっているのである」

村田正志「和田英松博士のおもかげ」より
「先生には、数々の著書論文があり、また没後刊行された『国書逸文』のごとき他の追随を容さざる史料集がある。いずれも皆我々にとって有益な著書であるが、就中『官職要解』・『皇室御撰之研究』・『本朝書籍目録考証』の三書は、社会状勢や時代変化の如何にかかわらず、日本古文化の研究に携わる学徒のよき指南書である。わたくしは、常日頃若い学徒に、和田先生の右三書を座右に備えよ、しかる時は、必ず指導教授と助手を自らの許に召し抱え得たのと同然の効があろう、と云いつゞけている次第である」(下線は引用者)

【付記】
中学二年生か三年生のころだったか、父に『官職要解』(講談社学術文庫版)を買い与えられ、通学の電車の中で読みふけり、その行き届いた解説に幾度も驚嘆した記憶がある(もっとも当時、どれほど理解できたかは措く)。『国史国文之研究』『国史説苑』などの論文集は、未だに強靱な学的生命力を持つ論考が多い。「史、文、科を分たざる」学風に、畏敬の念を新たにする。
下線を引いた箇所の村田氏の比喩は、たいへん面白いと思う。


12:48
2013/10/18

青木和夫「説話文学と史学」より

| by 慈鎮和尚
だが自分の資質のほどを顧みて、少しでも世に役立ちたいと思えば、古代史研究者は国文学者を手伝って、校訂・注釈の仕残された古代文献そのものに取り組むべきであると思う。


【付記】
 この提言は、古代史研究者のみならず、中世史研究者についてもあてまはる。まだ古代史は、六国史、風土記を始めとする典籍の研究が進んでいる方で、中世史は、典籍の校訂・注釈について未開拓の面が非常に大きく、まさに寥寥たる印象が否めない。
 かつて太田晶二郎氏は、家永三郎氏の『上宮聖徳法王帝説の研究』に論評を加えた際、思想史を本領とする家永氏が文献学の研究に全力を投球し、精確無比の内容を持つ大著を発表したことを「学界に対する貴い教訓」と讃え、「近来とみに多き根無し草のともがら、こゝに三思反省せよ」と強く言い放たれた(『史学雑誌』62-6、1953年)。
 この太田氏の書評より六十年、わたくしもまた「根無し草」のひとりだが、微力ながら一臂の力をふるって斯学の発展に尽力したいと切に念願する。
01:10
2013/10/11

狩谷棭斎『扶桑略記校譌』より

| by 慈鎮和尚
凡古書ヲ校スルハ、ツトメテ撰者ノ旧ニ復スルニアルノミ。撰者誤タリトテ、ソレヲ改正スヘキコトカハ。(句読点は私に加えた)

【付記】
 たまたま別の書物を捜索中、棭斎の『扶桑略記校譌』を書架に見つけた。久しぶりに拾い読みしたが、教わるところが実に多いことを改めて痛感する。
 棭斎といえば、思い出すのが龍谷大学の修士課程のころ、坂元義種先生の「国史学特殊講義」で輪読した『箋注倭名類聚鈔』と『古京遺文』。「刀自」のくだりとか、則天文字とか、まったく歯が立たず難しかった(加えて、関連史料の写真版を満面に貼り付けた、A3の課題プリントが、まことに尋常ではなかった)。あれからおよそ十年が経つ。
 坂元先生の講読は、ハイレベルで馥郁たる学問の香気が漂っていたし、時折微笑を浮かべて示される柔軟な発想に驚きかつ学ぶべきことが少なくなかった。あの90分の講読は、他の講読にはない独特の雰囲気があった。関連史料として示された『類聚三代格』(新訂増補国史大系)の「太政官符」の句点・訓点がすべて消されている。無点の史料に点を付すことの難しさ、ごく短い一文の内容さえ、平素読むときの二倍にも、三倍にも深遠に感ぜられたことであった。
 安易に鉛印で済まさず、絶えず原本(複製・影印)にあたられる先生の学問的態度にも、大きな感銘を受けた。つとめて未翻刻史料に研究の素材を探るわたくしの志向は、一面では先生から受けた学問的影響(?)があるのかも知れない。講読の予習の中で、棭斎・宣長といった人々の著作の意義と価値を、身を以て体感したことも、忘れがたい。
 ひとつ残念なのは、自分の都合で、先生から『令集解』などを深く教わる機会を逸したこと。『集解』の読み癖は多少学んだが、独学では深く習得することなど不可能だから(今にして思えば、別の講義など受けなくともよかったのだ)。
 「実証史学」を標榜するひとは多いが、「実証」を真の意味で追究することは難しい。学窓に入って間もない時期に、坂元先生から一言一句を忽せにしない実証の学風―ことに史料批判の方法―を学んだことは、上横手雅敬先生から受けた中世史の学恩と並んで、自分一己にとって大きな宝である。
21:01
2013/10/08

笠松宏至「類い希な歴史家の軌跡」より

| by 慈鎮和尚
 その頃の思い出に、今も網膜に焼付いて忘れられない一シーンがある。初期室町幕府機構の分析が、その一つの焦点ともいうべき「引付」に及んだときのことであった。結城文書に遺る同じ康永三年の二種類の番文を紹介された先生は、まずリストに載る百数十人の人名の実名比定を果された。それはそれで大変な考証であったが、問題はその先にあった。「五番」と「三方」の二つの合議体を、どう関連づけるか。引付番文であることの明らかな前者と、一見正体不明の後者の並立を、どう理解したらいいのか。白皙の先生のお顔が、一瞬紅潮されたかのように私には見えた。少し口ごもられた後、「成案を得ないので、可能性の提示に止める」、そういわれた。毎週夜を徹しての御準備にも拘わらず、「成案を得ない」。学問の道の険しさに、私は身が震える思いを禁じ得なかった。出席している学生が誰であろうと、それは問題ではない。講義の場には一つのごまかしも許されない。それが大学教師としての先生の姿勢であった。
01:34
2013/10/05

青木和夫『日本律令国家論攷』補注より

| by 慈鎮和尚
だが関係史料を精読し、論文を書きはじめた当初の理解は深いのである。後に読返して自分なりの論旨を通さうとして当初の理解(直感といってもよい)を改めると、却つて過ちを犯す。

【付記】
学者の陷りやすい陥穽である。心せねばならない。
03:19
2013/09/29

「日本歴史全集 第5巻 貴族の世紀 《著者寸評》橋本義彦氏の巻」より

| by 慈鎮和尚
 東大では、終戦前までの権威ある日本史の先生で残っていたのが、坂本太郎教授くらいだった。時勢の変転とともに、その学説も転倒消滅していくはかなさ――それをまともに見せられた氏は、他人の説というものに信頼がもてなかった。帰するところは、生の史料から、自分でじかにさぐり出したものによって歴史を書く、ということだった。ある時代は、その当時の記録を検討することによって判断するしか道はない。だから氏は、宮内庁書陵部の質量ともに日本一を誇る記録類にかこまれた自分をたいへん幸福だという。
 この第五巻でも、そうした動かすことのできない記録を土台に新しい発見を書きこんだが、これからも読解困難な記録類を正確に読み取る努力をつづけたい。そうすることで、多くのあやふやな通説を除去し、より正しい日本史の完成に役だちたい、と氏はいう。
                                                      (下線は引用者)
14:44
2013/09/19

森末義彰「翁の大事」より

| by 慈鎮和尚
 しかし、それだけに、珍しい史料を見出したときの喜びは、その苦労をしたものでなければ味わえない大きなものがある。大したことはあるまいと思って出かけたところに、思いがけない大きな収穫があったときなどは、鬼の首をとったということわざが、そのままあてはまるような気がする。また当然こういうものがあるはずであると思うのに、どうしてもそれがみつからないことがある。そんなときの心のいらだちも、とうてい局外者の思いも及ばないところであるといえよう。しかし、それが果されたときの、心のわきたちは、なんといったらいいか、まことに筆にもことばにも現わせないものがある。

【付記】
深い実感と共感を以て読んだ一文。岩瀬文庫、大阪府立中之島図書館、金沢市図書館、金沢文庫、京大附属図書館、京都府立総合資料館、高野山大学図書館、国文学研究資料館、国立公文書館、三千院、聖護院、随心院、醍醐寺、東大史料編纂所、奈良国立博物館仏教美術資料研究センター、仁和寺、薬師寺、吉水神社、龍大大宮図書館などでの、十年間の調査における、さまざまな史料との出会いは、わたくしの学問を支えてくれる大きな力である。巻子本を広げるときの、あるいは冊子本・写真帳をめくるときの、あの胸の高鳴りを、お世話になった関係者の方々への感謝とともに、これからも忘れずにいたい。
22:37
2013/09/19

森末義彰「翁の大事」より

| by 慈鎮和尚
 こんな断片的な史料でも、歴史を研究し、歴史を考えるものにとっては、その発見に大きな意義を見出し、大きな喜びを感ずることができるのである。ここまで書いてきて、わたくしは、二十数年前にきいた高野博士の日本演劇史の講義を想い起こした。それは翁の成立についての講義であった。あの
 老翁面之白髪 羽十六之歌無滞
 冠者公之麁眉 齢廿許之顏有粧 (○傍訓省略)
という句のある鎌倉時代(永仁五年)の普通唱導集を発見せられた喜びを述べられたときの博士のお顔が、いつまでもわたくしのまぶたのうらにちらつくような気がする、あの博士の血色のいい童顔の中で、これだけは異様な鋭さを思わせる両のまなこを、度のきつい眼鏡の下でぎょろつかせながら、自信たっぷりに、いかにも心楽しそうに述べられたあのお声を、わたくしは、今でも、はっきり耳のなかによび起すことができる。そして、学問の道にたずさわるものの喜びを、いまさらのように新たにした次第である。

22:23
2013/09/18

目崎徳衛「あとがき」(『侍中群要』)より

| by 慈鎮和尚
 元来、このような基礎作業に携わることは、私自身にとっても長い年月の願望であった。多くの研究者が学力を培養する時期に多少なりとも経験することを、私は青年期の長い療養によって棒に振ったからである。先人の努力の結晶である刊本史料を用いて論文を作成することは、言ってみれば、莫大な借財を身に負うことに他ならない。折あらばその万分の一でも返済したい。これは年来心の一隅を領していた素志である。

【付記】
同じく、「莫大な借財を身に負う」学徒の一人として、微力ではあるが、先学の学恩に報いるよう励みたい。
21:24
2013/09/14

目崎徳衛『出家遁世』より

| by 慈鎮和尚
 そのすさまじい執念は、何よりも信西という遁世者の遁世の本質を象徴する。行い澄まして往生を願うかわりに、彼は進んで修羅を演出し、みずからその舞台の主役を勤めたのであった。土中で唱えた念仏は、とても彼を極楽浄土へ導いたとは思われない。
 『平治物語』は、「果てて後も手には日記を捧げ、口には筆をふくみ、琰魔の庁にても、第三の冥官に列りけるとぞ承る」と記している。物語の眼はまことに鋭い。『今鏡』はこれと対照的に、信西大徳は「行く方知らずなりにける」と記した。このほうはまことにやさしい思いやりである。

【付記】
『出家遁世』は、たしか大学入学前後に古本屋で購入した。むさぼるように読み、つよく魅了させられたことを覚えている。藤原通憲(信西)について論じたものは多いが、もっとも優れたものを挙げよと言われれば、わたくしはこの「入道信西とその子」を迷わず選ぶ。分量こそ短いものの、古今屈指の信西伝ではないかと思う。掲出したのは、とくに好きな一文である。

22:09
2013/09/14

遅塚忠躬『史学概論』より

| by 慈鎮和尚
 なお、これは私の狭い経験から言うのであるが、そういう歴史家の力量というものは、彼がなまの史料(いわゆる一次史料)をどれだけたくさん読んでいるかにかかっているように思われる。なぜなら多種多様ななまの史料においては、有名無名の個性的人物も躍動し、現在とは異質の文化の姿も浮び上がり、変化の兆しも垣間見られる、というように、歴史学の三つの様相の素材がすべて渾然一体となって現われているからである。歴史学研究にたずさわる者は、先人の業績たる文献に精通しているべきであるのは言うまでもないが、彼自身の力量は、こういう多種多様な一次史料を常に読み続けることによっておのずから養われると言ってよい。
22:00
2013/09/10

「学問を語る―青木和夫先生を圍んで―」より

| by 慈鎮和尚
大津透 お話も盡きないと思いますが、時間になりましたので、最後に、我々よりさらに若い世代の研究者を目指している人たちのために何か青木先生から一言いただければと。

青木和夫
 別にありませんよ。何もかも忘れて一所懸命勉強しましょうということだけで。

大津 青木先生がいつもおっしゃっているのは、役に立つ論文を書けというお話で、ずっと一貫しておっしゃっていると思います。青木先生の書かれたものを読めば、どういうものが役に立つ論文かというのはわかることだと思いますので。

青木 人の論文を読んで、人の論文からまた新しく自分の論文はつくるなと言いたいですね

                                                     (下線は引用者)

21:19
2013/09/07

上横手雅敬先生「『蒙古襲来』のころ」より

| by 慈鎮和尚
 『無縁・公界・楽』に引きかえ、『蒙古襲来』はずっと私には読みやすい。本書の潑剌とした網野さんが好きだし、自分の関心の深いテーマであるだけに、著者のすごさをしみじみと感じる。この書物は徐々に評価を高めていったが、刊行時の評判はまだ専門の研究者間に限られていたと思う。
 『蒙古襲来』は小学館の『日本の歴史』シリーズの一巻であり、鎌倉後期の歴史を叙述するのが、網野さんに課された仕事であり、網野さんは忠実にそれを果している。「未開と文明」だとか、「天皇と差別」だとか、お得意の議論は出ているし、それは鎌倉後期を捉える有力な武器になってはいるが、それは本書の特徴であるかのように考えるのは正しくない。「未開と文明へ」で鎌倉後期の具体的な歴史は書けないのである。
 北条時頼の時代が終わり、時宗の時代を迎えようととする文永三年(一二六六)をもって鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』の記述が終わり、それ以後は時代を通観したような史料はなくなる。それ以後の鎌倉時代史は、断片的な文書・記録を綴り合せ、時代像を構成する外ないのである。それは研究者にとって至難のしごとであり、今なお私は鎌倉後期史の叙述に躊躇を覚えるものがある。
 長い間、私がこの時代に関する指針としてきたのは、明治四十年(一九〇七)に三浦周行博士が著した『鎌倉時代史』であった。今から数えるとちょうど百年前の刊行だが、私は常にこの書物に導かれ、それを克服できない自己の無力を嘆いていた。網野さんの『蒙古襲来』は三浦博士以来の優れた鎌倉後期時代史である。「政治史」というよりも、政治を中心に法制、社会、経済、宗教、文学、それらを総合した「時代史」というべきであろう。

【付記】
一流の歴史家による一流の歴史家への、掛け値なしの批評。
恩師にとって、網野さんは「心おきなく会話できる友人」であったという。
だいぶ前に、網野さんの宮本常一に関するインタビューの映像を視た。
とても魅力的な声が印象に強く残っている。
23:16
2013/09/07

牧健二「「馬車馬」の説と弟子から見た三浦先生」より

| by 慈鎮和尚
 やゝあつて先生は、例のムッツリした口調で、学問でも何でも、事をなすには馬車馬の如くでなければならぬ。左顧右眄してゐては駄目ですよ、と言はれた。馬車馬といふ比喩が強く耳に響いた。それから又こんなことを聞いた。歴史の研究は史料が第一だ。沢山集めて多く事実を知つて置けばどの方面を書きたいと思つても、嚢中に物を探るが如くに、意のまヽになるものだ、といふ教へである。嚢中に物を探るが如くといふのが、亦耳底に刻印せらるゝことゝなつた。(下線は引用者)

【付記】
いつ読んでも、三浦周行博士の逸話は、怠惰な後学を鞭打つものがある。『大日本史料』第四編を、アッという間に編纂した博士の実力に感服(もっとも、和田英松・八代国治両博士の力も大きいことは言うまでもない)。史料収集の周到さという点で、三浦博士の『鎌倉時代史』は、いまも鎌倉時代に関心を寄せる学徒のよるべき道標である。
鎌倉後期の研究に携わるものとして、『大日本史料』を作るくらいの意気込みで、関連史料の収集に臨みたい。
01:49
2013/09/04

「先学を語る―池内宏博士―」より

| by 慈鎮和尚
窪徳忠 あんまりつまらないところに論文を書いてはいけないということを言われましたね。

三上次男 ぼくが最初に言われたのは、学校を出て十年間は、論文を書くな、その間は血みどろになってやれと。それほどきびしかった。いいかげんなものを書いて名を挙げようというのが、まったくいやだったんですね。

 東方文化学院にいたときに、三上さんから道教という題の本を書けって言われたんで、「三上さんからこういう話があるが、書いてもいいか」と言ったら、「だめだ」と一言のもとに断られた。

青山公亮 きびしかった。しかしほんとうは心がやさしかったんですね。一面、非常にやさしい。

三上 私がいろいろの世俗的問題で困っているようなことがあると、一番最初に来てくださるのが先生なんですよ。ほんとうに感激しましたね。

【付記】
折に触れて思い起こす座談録の一つ。専攻は異なるが、その学問に対する厳しい態度に、少しでもあやかりたいと願う。
16:16
2013/09/04

倉野憲司「あやまち二つ―古事記の校注について―」より

| by 慈鎮和尚
 従来発表した論文や著書を読み返してゐると、思はぬ過ちを犯してゐることに気づくことがしばしばある。それは学力の不足、疎漏、不注意、思ひ違ひ等々から犯した過ちであるが、それらを発見するたびに、そぞろに冷汗が流れる。中でも自分の不注意や疎漏から犯した研究上の過ちを見出した時には、ほんとにやりきれない思ひで一杯である。しかしさうした過ちを発見したならば、潔くこれを改めるに如くはない。

15:45
2013/09/04

山中裕「我が研究生活―平安朝研究四十五年 (三)―」より

| by 慈鎮和尚
 さて昭和四十一年は、公務に多忙であり、先述したように翌年が、龍福氏と共に、助教授になって初めての『小右記』を完成させなければならない年であった。原稿や校正を勤務時間中に史料編纂所で見るだけでは間に合わず、毎日・毎夜、我が家へ持ち帰って仕事を続けるというのが日常であった。これは史料編纂所に長年勤務中、出版の完成するときは必ずあることであって、何ケ月かの問、このように我が家にまで仕事を持込んで進めるのが常であった。これは私のみのことではなく、その頃は、かなり多くの人が、そのようにしていたことは事実であって、 いかに史料編纂所の仕事が大変であるかを物語る一面である。それほどまでする必要はないと言われれば、それまでなのだが、出版のよりよき完成を望む結果、このようにせざるを得なかったのである。

15:14
2013/09/02

太田晶二郎「「桑華書志」所載 「古蹟歌書目録」」より

| by 慈鎮和尚
余は本書中、今示そうとする所の歌書目録の如き、貴重なる佚書のかたみを留める記事、或いは又旧籍の出自伝来を徴するに足りる記載等の極めて多きを見て、其の抄録なりとも刊行せられんことを願望して已まない。

【付記】
史料編纂所に架蔵される『桑華書志』の写真帳が部外秘になったことは、かえすがえすも残念。
それにしても、加賀松雲公や水戸義公の蒐書の充実ぶりには驚かされる。尊経閣・彰考館の典籍を思う存分利用できれば、学者として欣快これに過ぎるものはなかろうが、夢のまた夢か。
                                               (雨天の八ヶ岳の旅宿にて)
12:00
2013/08/30

益田宗「桃裕行先生をしのぶ」より

| by 慈鎮和尚
お通夜の席で、長年苦労を倶にされた夫人がふと漏らされたことばは、いろいろな意味で私たちの胸に突き刺さるものがある。「主人は物を調べることが好きで好きで……。ひとさまから物を尋ねられると、自分がやっていた仕事は脇に置いて、ひとさまの事ばかり調べていて……。そのため、ひとさまの論文の中では屡々感謝されていることが多かったようですが、自分の仕事のほうはさっぱりで……。それでいて、満足しているような人でした。」
02:22
2013/08/29

三成重敬「相田君の思ひ出」より

| by 慈鎮和尚
 相田君は決して才人ではない。正直な人だ。それが相田君の力になつてゐる。純粋な正直さが学問をさせ、仕事をさせた。その点が外に類の無い独特の風格となつてゐる。
 頭がいいとか才人とかいふのは外にあるが、相田君ほどの純真さを持つてゐた人は類ひ稀であつたらう。相田君はまだこれから偉くなつてゆく人だつたと思ふ。

【付記】
このところ、相田二郎氏の学問的業績に畏敬の念を新たにする機会が多い。
『日本の古文書』や『中世の関所』『蒙古襲来の研究』はもとより、『新訂増補国史大系』の吾妻鏡、『石清水八幡宮史』などの編纂物に、その力量の高さがうかがえる。『長慶天皇側近者事蹟研究資料』などは、自分の専門分野であるだけに、その周到さがよくわかる。
それにしても、三成重敬氏の文章はいつ読んでも、やさしさが溢れている文章だと思う。
とくに、相田氏と萩野懐之氏への追悼文は、故人に対する深い理解がにじみ出ている。
01:44
2013/08/26

上横手雅敬先生「あとがき」(『権力と仏教の中世史』)より

| by 慈鎮和尚
 政治・法制史でスタートし、マルキシズムの傾向の強い社会経済史に影響されるなかでも、文化史に対する関心は続いていたし、いつのころからか強まってきた。歴史は総合であり、その中核となるのは政治史であると早くから考えていた。自分の専攻する平安・鎌倉期だけでも、せめて特殊史でなく、時代史として総合的に捉えたい。そのためには政治史の中に文化史を取り入れる必要があった。
 潜在的な要因がないわけではない。大学入学以前の私を取り巻いていたのは、むしろ文化史であった。その上、京都という、元来文化史的な傾向の強い学問的環境の中で育ってきた。恩師や先輩には、文化史に深い関心と造詣を持っておられる方が多かった。本格的に文化史に取り組んだことこそないが、門前の小僧として、いくらかの刺激は受けてきているのである。
 オーバーな言い方をすれば、ある時期から私は、歴史家として、人間として豊かになりたいと強く考えるようになったのである。ジレッタントであることは、私にとって批判されるべきものではなく、むしろ望ましいものであった。

【付記】
恩師の文章のなかでも、とくに好きな一文。
政治過程に対する緻密な分析だけではなく、政治史・法制史・文化史の織りなす「総合」へのあくなき希求に、あの魅力あふれる学問的業績の基盤がある。この点を取り違えてはいけない。自戒をこめて。
01:06
2013/08/25

川添昭二「玉泉県史のこと」より

| by 慈鎮和尚
とにかく玉泉県史の「校正」は福高定時制教諭のときから九大五十年史編纂時にかけての、三十歳前半の、あるかないかの中世史研究模索と形影する惨たんたる作業であった。身から出た錆ではあるが、そのころの自分を痛む気持ちは消えないだろう。
22:09
2013/08/25

羽下徳彦「後鑑」より

| by 慈鎮和尚
一体、中世を研究対象とする人々は、江戸時代の学者の業績に対して、必ずしも十分の敬意を表しているとは言い難いように思われる。だが、それにも拘らず先人は、多大の遺産を我々に残しているのである。
22:00
2013/08/25

青木和夫「序」(『飯田瑞穂著作集』)より

| by 慈鎮和尚
 およそ学問には、役に立つ学問と役に立たない学問とがある。歴史学のばあいならば、古今東西の時間空間のなかで自分の位置を自覚し、“歴史の必然”に則して行動できるのは人間だけだという誇りを持ちながら研究に専心する。しかし誰が先年のソビエトの崩壊を予測していたであろうか。“歴史の必然”の究明は自分自身が納得するだめの願望に過ぎないのではないか。これに対して残されている文献を厳密な手続きで処理して、歴史的事実を確認するためには誰しも使わざるを得ぬ基盤を築いてゆく仕事こそ、役に立つ学問であろう。(下線は引用者)

【付記】
1999年末、予約講読していた国史大系の一冊が自宅に届いた際、同封の『飯田瑞穂著作集』の内容見本に引かれていた一文。文中に紹介された飯田瑞穂氏のエピソードとともに、大きな感銘を受けた(太田晶二郎という畏敬すべき学者の存在を知ったのも、この一文が切っ掛けであった)。爾来、悩んだ折に思い起こすことが多い。
21:31
2013/08/25

大隅和雄「窓回顧」より

| by 慈鎮和尚
佐藤先生の演習の時間と、『中世の窓』の集まりの騒々しい愉しさとが、私達の中では大変幸福な均衡を保っていたように思う。雑誌を作る時に、先生の御意見や御助言をいただくことは一切しなかったし、先生も何もいわれなかったが、あの頃の雰囲気は、やはり佐藤先生の存在が大きかった。

【付記】
まがりなりにも大学の教壇に立つものとして、このような師弟関係を築ける教育者になりたい、努力したいと、切に願う。
01:10
2013/08/23

太田晶二郎「徳川実紀の活字本」より

| by 慈鎮和尚
一般に、新しい校訂本が出たからと云つて、それ以前の本が全然無用にもならぬのは、新校訂本としては恥づべきことであらう。校訂本を出すについては、以前の本は全く無用のものにしてしまふまでの慎重・精密な校訂をしてもらひたい。

【付記】
まことに畏るべき一文。願わくは、かような校訂をなしうる学殖を得んことを。
01:37
2013/08/23

土田直鎮「平安時代の記録」より

| by 慈鎮和尚
ある程度精読の練習をしたらば、一方では多読する事も必要である。英語を学ぶにしても、リーダー一つにしがみついているだけでは不十分なように、記録もやはり広く目を通して、各種各様の内容・表現・語句に慣れておかなければならない。往年の大家、山本信哉博士が、新しい記録を読むときにはまず一気に通読してその書き癖や大体の事件を頭に入れ、その後、立ち戻ってジックリ読め、と言われた由を伝え聞いたが、これなどはいかにももっともと思われる事柄である。

【付記】
ここのところ、以前に比べて古記録を読む時間・気力が無いことを改めて反省する。
01:18
2013/08/18

坂本太郎博士「相田二郎氏と「日本の古文書」」より

| by 慈鎮和尚
この見事な上下二巻の書物は突如として生れたものではない。氏のような醇乎として醇なる学舎の二十余年の不断の努力の成果としてこそ生れたものであることを理解して頂ければよいのである。そして近ごろの学問研究の風潮として、しばしば功にあせり、根底を培うよりも、はでな業績を発表することに心を労する傾きのあることに、反省を加える資ともなるならばよいのである。そしてさらに、この人とこの書物とに発奮して、第二第三の相田氏が輩出して、よりすぐれた学的業績が発表せられる機縁ともなるならば、幸いこれに過ぎるものはないのである。(下線は引用者)

【付記】
下線を付したくだりは、実に現今の学問状況にもあてはまる。
出でよ、二十一世紀の相田二郎、二十一世紀の坂本太郎。

【追記】2013.8.24
平田俊春「益田宗「日本古典の成立の研究を評す」を読む」より

「私は今日の学界の大きな弊の一は、余りにも華やかな表面的な作品解釈、結論の提出に急であって、その根底を立てることに欠けていることであることを痛感している。とくに若い人々においてそうである」(下線は引用者)
03:52
2013/08/18

目崎徳衛「貫之を書いたころ」より

| by 慈鎮和尚
 からくも復職した高校には、明治の創立当初に買った旧輯国史大系や続々に至るまでの群書類従、丹表紙の『尊卑分脈』などが、だれも読まないまま保存されていた。それは望外の幸いだったが、反面大日本史料さえも容易には見られず、当今のようにコピーが安直に出来るわけでもない。いろんな条件を慎重に考えたら引き受けられるものではなかったが、垂死の床でこの世に一つの足跡ものこさずに果てるのかと歯噛みした無念が、他のすべてに眼をつぶらせたのである。
03:35
2013/08/18

和辻照「わがひとり」(『和辻哲郎の思ひ出』)より

| by 慈鎮和尚
 ある日、哲郎が書斎で私を呼んだ。机のそばに行くと、
 「さあ出来たよ。これでおしまひ。あとは出版してくれる本屋をさがす仕事だけだ。それが少しむづかしいかも知れないがね」
と言った。
 「おめでとう」と私は頭を下げた。「永い間、よくなすつたわね」
さう、しみじみ言ふと、自分でも思ひがけず、ふつと胸が一ぱいになつて、なみだがあふれさうになつた。
 「ありがたう。照のおかげだよ」
哲郎はさう言ふと、改めてやさしく私を見つめてつけ加へた。
 「でもね、いまにね、もつともつと照が喜んでくれるやうな大きな仕事をするからね。一生をかけるやうな仕事をね。生命を質に置いても、きつとやりとげるからね」
 言葉の調子は静だつたが、頬が若々しく上気し、眼が瑞々しく輝いてゐた。二十四歳の初秋で、こんな事を言つたのは一生にこの時一度限りだつた。

【付記】
かの碩学にこの伴侶あり。
03:19
2013/08/18

上横手雅敬先生「あとがき」(『鎌倉時代の権力と制度』)より

| by 慈鎮和尚
 しかし鎌倉幕府史の研究の不振は関西特有の現象だろうかとも思う。鎌倉中期までは『吾妻鏡』という極めてすぐれた編纂史書が存在し、それを素材とする研究の蓄積は大きい。その反面、第一次史料である文書・記録が貧弱である。しかも『吾妻鏡』の後の時期になると、全体を通観する歴史叙述は存在せず、文書・記録の貧弱はあいかわらずである。このような状況が、鎌倉幕府研究を困難にしているように思われるが、幕府研究の重要性はやはり否定することが出来ない。似たような事情の奈良時代の研究はどうなっているのだろうか。

【付記】
鎌倉幕府政治史に関して取り組むべき研究課題は、門外漢が見ても多いと思う。
その一方、関係史料の残存状況は悲観的で、手掛かりが少ない。
この研究上の隘路をいかに突破すべきか。
02:55
2013/08/17

目崎徳衛「古い一読者の思い出」より

| by 慈鎮和尚
 また史籍は本来、古文書や古記録の持つ同時性に及ばぬだけではなく、時の権力による制約・隠蔽・歪曲など免れがたい欠点も持つ。かつて『日本書紀』が峻烈な批判にさらされたことは記憶から消えていないが、反面『吾妻鏡』への批判はむしろ八代国治氏に代表される戦前よりも大甘になった傾きがあり、実証的研究の成果があまねく史籍全体に及んでいない。こうした現状を克服し、古文書・古記録あるいは隣接の文学古典の盛況に互して史籍研究を復興するのは、歴史学の重要な一課題ではないだろうか。(下線は引用者)

【付記】
新訂増補国史大系 吾妻鏡』(校訂者:平泉澄・丸山二郎・相田二郎)を開くたびに、思い起こす一文。
 国史大系の吾妻鏡に安易によりかかるのではなく、その成果を批判的に継承しつつ、少しでも学問的前進を図りたい。また、無理に吾妻鏡の行間を読もうとし、憶測を重ねて「抹殺」「隠蔽」を強調する論者にも根本的な疑問を持つ。
それにしても、近時の中世史家に、真の意味で史籍に関心を抱く人の少なきことよ。これ一面において学問の停滞を示すものではあるまいか。


11:52
2013/07/01

太田晶二郎「「群書治要」の残簡」注(19)より

| by 慈鎮和尚
例ヘバ、甲書ガ、中ニ乙書ヲ引用シ、ソノ引用文内ノミノ断簡ガ存セリトセヨ、之ヲ乙書ソノモノノ断簡ト誤認スルハ容易ノコトニシテ、乙書ノ引文ニ非ザル部分ノ甲書ノ断簡ヲモ併セ得ルニ非ザレバ、甲・乙ノ別ハ弁ジ難シ。又、其他ノ原因ニヨリテモ、複数ノ書ガ一部ニ於テ、同一文章ヲ共通ニスルコト有ルベク、ソノ共通部分ノ断簡ハ、ソレノミニテハ、何書ナルカヲ断ズルコト難シ。或イハ又、某書ノ一小部分ノミノ書キ抜キノ断簡ヲ以テ、其ノ書(全体)ノ断簡ト為スモ、全ク正シトハ謂フ可カラズ。

【付記】
典籍研究において心すべき一文。
00:28