拙稿の公開と訂正
【訂正】『公武政権の競合と協調(京都の中世史3)』第6章~第8章
『公武政権の競合と協調(京都の中世史3)』(吉川弘文館、2022年)第6章~第8章の訂正
以下は訂正です。ご高覧のさいにお気にとめていただけますと幸甚です。
●171頁6行目 「花山院」→左側に「かさんのいん」のルビを付ける。
●199頁後ろから2行目 「わけである」→「のである」
●203頁後ろから4行目 「『東京古典会出陳文書』。」→「『東京古典会出陳文書』、」
●220頁後ろから4行目 「次のような話」→「ひときわ興味を引く話」
●220頁後ろから3行目 「これを示す」→「これを示そう」
●222頁後ろから5行目 「のちに」 ☆削除
●223頁3行目 「すでに」→「いまや」
●226頁6行目 「折しも」→「おりしも」
●229頁1行目 「花山院」→左側に「かさんのいん」のルビを付ける。
●296頁「略年表」1333年 正慶二・元弘三 1 「赤松則村」→「赤松円心」
※上記の大半は、文章の練度が不足していた箇所です。
【公開と訂正】「「吉田定房奏状」再考」
坂口太郎「「吉田定房奏状」再考」
(『立命館文学』第677号、2022年3月)の公開と訂正
立命館大学人文学会のウェブサイトにて、上記拙稿のpdfが公開されました。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/677.htm
以下は訂正です。ご高覧のさいにお気にとめていただけますと幸甚です。
●160頁上段6行「元徳二年(一三三〇)六月説」→「元徳二年(一三三〇)六月成立説」
●164頁上段後ろから3行「先帝」の傍注「(後醍醐天皇)」 ※一字分上にあげる。
●165頁上段9行小書「疵腹」の傍注「(浅原)」→「〔浅原〕」
●168頁下段12行「このような君臣関係」→「両者が織り成した君臣関係」
●172頁下段4行「柳原本 ・ 甲」→「柳原本・甲」 ※並列点の上下の空白を詰める。
●175頁上段注57 9行~10行「島津家本『太平記』についての報告」→「島津家本『太平記』の本文についての報告」 ※永山愛氏のご教示。
【訂正】「重要文化財『西南院文書』第一巻~第三巻」
坂口太郎・藤本孝一「重要文化財『西南院文書』第一巻~第三巻」
(『東京大学史料編纂所研究紀要』第30号、2020年3月)の訂正
●153頁下段最終行「仁和寺上乗院法印御房」
※傍注「(良恵)」を付ける(土谷恵先生のご教示による[2021.2.1付お手紙]。記して謝意を表する)。
【訂正】中世前期の保寿院流金玉方高野伝と高野山一心院―高野山西南院蔵『保寿院流血脈私』の紹介とあわせて―
拙稿「中世前期の保寿院流金玉方高野伝と高野山一心院―高野山西南院蔵『保寿院流血脈私』の紹介とあわせて―」(『藝林』第70巻第1号、2021年4月)の訂正
●109頁14行「$ アラビア数字 (1) $」※丸括弧を、縦書きから横書きに改める。
●112頁4行注記「$ { { ◯「宏教-範意」ノ}\atop{罫線墨書 } } $」→「$ { { ◯「宏教-範意」}\atop{ノ罫線墨書 } } $」
●122頁3行「$ 貞応二年(一二二三) $」→「$ 貞応元年(一二二二) $」
●130頁13行「$ 編者 $」→「$ 撰者 $」
●149頁、注14、6行「$ 中村荘 $」→「$ 仲村荘 $」
●156頁、注64、5行 ※外池昇氏の論文名の終わりかぎ括弧が抜けているので、これを補う。
●157頁、注69、1行「$ 藤井譲治 $」→「$ 藤井讓治 $」
〔付記〕四つ目から六つ目は、永山愛氏の御指摘による。記して謝意を表する。
【訂正】「『愚管抄』成立の歴史的前提―慈円『本尊釈問答』を素材として―」
拙稿「『愚管抄』成立の歴史的前提―慈円『本尊釈問答』を素材として―」
(元木泰雄編『日本中世の政治と制度』吉川弘文館、2020年11月)の訂正
●352頁5行「九条道家息」→「九条道家の息」
●358頁6行の傍注「二オ」→「二丁オ」
●358頁11行の傍注「二ウ」→「二丁ウ」
●358頁15行の傍注「三オ」→「三丁オ」
拙稿「私の講義のひとこま―新村出「南山訪書紀行」より―」
「『広辞苑』という辞典を知っているかな?」、ある講義で学生に尋ねると、ほとんどの諸君は、何をいまさらという顏をしました。あまり読書がお好きでない某君でも、同じ反応を示したくらいですから、『広辞苑』という辞典は、よほど有名なのでしょう。確かに、『広辞苑』の初版が発行されたのは一九五五年、それからおよそ六十余年を経た現在でも、第七版が刊行されています。「国民的辞典」と言っても言い過ぎではありません。
ところが、「『広辞苑』を最初に編集した人を知っているかな?」という質問をすると、答えられる学生はあまりいません。答えは、新村出。「しんむらいずる」とお読みします。
この新村先生は、明治時代から昭和の戦後まで、一生をかけて日本語の研究に取り組んだ優れた学者でした。こう書くと、堅苦しい印象を受けますが、先生は難しい論文ばかりではなく、興味あふれるエッセーもいろいろと執筆されました。そのウィットに富んだ文章はとても魅力的で、伸びやかな行文に心が惹かれます。
そのエッセーのひとつに、「南山訪書紀行」という作品があります(『新村出全集』第一四巻に所収)。これは、一九二九年八月の高野山旅行について書かれたものです。昭和に入った頃の高野山の有様を知る上でも、なかなか興味深い内容が見られます。
新村先生の学問は、言葉の変化を考えるものですから、古い日本語をしっかりと把握しなければなりません。ですから、古いお寺に伝わった書物を調べることが、先生の研究にとっては欠かせませんでした。先生は、高野山でも、あちこちのお寺や、高野山大学の図書館で古い書物を閲覧して、一生懸命メモしています。ここでは一つ、私が興味深く感じたくだりをお示ししましょう。金剛三昧院を訪ねた際の記事です。
略して金三とよびならはしてゐるのが耳につく。
これを目にして、私は虚をつかれた思いでした。いま我々は、金剛三昧院を「こんさん」と、当たり前のように略して呼びますが、言葉に敏感な新村先生がわざわざ記しているのは、実はこの呼び方が、なかなか注目に価するからです。そこで、いつからそう読んだのかを少し調べてみると、江戸時代の学僧懐英が、『高野伽藍院跡考』や『高野春秋編年輯録』に「金三院」と記すのを見つけました。少なくとも、「こんさん」という呼び方は、江戸時代の中頃までは遡れるようです。ただし、いまのところ中世の用例を見出せていません。
こんなふうに、ちょっとしたエッセーの端々にも、貴重な示唆がつまっているのが、昔の先生の偉いところです。私は遠く及びませんが、少しでもあやかりたい、そう思って日々勉強しています。
【付記】
職場に関係する某誌に寄稿しなければならないので、大急ぎで書いたが、締め切りを間違えて早く書いてしまったようである。掲載される前にここに挙げる。
(ある仕事に疲れはて、うんざりしながら曼荼羅荘に帰った晩に記す)
【公開】拙稿「後宇多院関係史料・研究文献目録稿」
(『高野山大学密教文化研究所紀要』25~26、2012年2月~2013年2月)の公開
高野山大学密教文化研究所のホームページからダウンロードできます。
遺漏もあるかと存じますが、ご活用いただければ幸いです。
https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/publications/bulletin/pdf/kiyo25/sakaguchi.pdf
https://www.koyasan-u.ac.jp/library/paper/pdf/2013/laboratorykiyo26_sakaguchi.pdf
【公開】拙稿「花園天皇関係史料・研究文献目録稿」
(『花園大学国際禅学研究所論叢』2、2007年3月)の公開
花園大学国際禅学研究所のホームページからダウンロードできます。
遺漏もあるかと存じますが、ご活用いただければ幸いです。
なお、本目録は芳澤元氏との共編です。
http://ga.hanazono.ac.jp/pdf/002.pdf#page=183&zoom=100
【訂正】拙稿「鎌倉後期・建武政権期の大覚寺統と大覚寺門跡」
(『史学雑誌』122-4、2013年4月) の訂正
9頁6行 前章→第一節