基本情報

所属
東京大学 大学院・人文社会系研究科 教授

J-GLOBAL ID
201301012682806744
researchmap会員ID
B000229717

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青春の一冊:キルケゴール『キリスト教の修練』杉山好訳、白水社、1963年。
私が東大文1に入学したのは、昭和47(1972)年の4月で、まだ東大紛争の余燼が残り、構内には立て看板が並んでいたが、私の中ではすでに紛争の熱気は去っていた。高校在学時から「しらける」という言葉がはやった世代で、何のために学ぶのか、という問い、否それ以上に、何のために生きるのか、に直面していたように思う。そのせいか、私は宗教、特にキリスト教思想に関心が湧いていた。といっても、元来キリスト教とは無縁で、聖書も読んだことがなく、聖書という本を書店で買うことさえ引け目を感ずるほどに、信仰からは遠い存在であった。どちらかといえば、クラシック音楽を通して西欧キリスト教文化に対しての憧憬が強かった。モーツァルトのレクイエムを歌うという合唱団に入団したのもそのせいである。1年生のとき、これぞと選んだゼミナールのなかに、「バッハのヨハネ受難曲を聴く」という科目があった。レクラム文庫版でテキストを読み、かつ音楽鑑賞をするという、きわめて駒場らしいゼミである。内容はおおかた忘れた。残っているのは、ぼろぼろのテキストと、それが縁で、担当の杉山好先生が訳されたキルケゴール『キリスト教の修練』を買って読んだことである。これも内容は忘れてしまった。きわめてまじめな本であり、厳しい生き方が説かれていたことは強く印象に残ったようである。というのは、続いて『愛のわざ』(上下巻)も読んだからである。詩人の愛と隣人愛が絶対他の関係にあるということは、今でも時々、講義で話題にするほど、心に刻印された。けれど、自分にとって1冊を挙げるとすれば、どうも『愛のわざ』ではないように思えてならない。そこで、実に久しぶりに、学生時代の本が並ぶ書棚から『修練』を取り出して開いてみた。「矛盾はその人を選択の前に立たせる。そしてその人がいかに、またなにを選ぶかによって、その人の実体が顕わされるのである」という箇所に、たった一ヶ所傍線が引いてあった。杉山先生の解説を見た。「・・・自分自身の生の現実のなかから、いわば汗と涙とそしてまた血を流しつつくみとってきた実存的弁証法をもって、キルケゴールはいまや本書において、聖書に伝えられたイエス・キリストその人の姿を凝視するのである」と。そうだったのか。私がおぼろげながらも、この本にある種の強い愛着を持ち続けていた理由がわかったような気もする。私は法学部を卒業してから、聖書研究に転じ、今はユダヤ教を専門にする研究者となった。はたして、この本は自分のそれ以後の生き方にどれほどの影響を及ぼしているのだろうか。こじつける必要はないが、この本は、自分がこれまで考えてきた以上に、深いところで人生への取り組みを方向づけたのかもしれない。こんなことを書くと、私をよく知る昔の仲間たちは、あっけにとられるにちがいない。人は見かけによらないものなのであるから。(40字x30行、改行なし)

論文

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MISC

  13

書籍等出版物

  10

共同研究・競争的資金等の研究課題

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