研究ブログ

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『武満徹のピアノ音楽』書評へのいくつかのリプライ①(『表象17』)

2022年3月にアルテスパブリッシングより『武満徹のピアノ音楽』を刊行し、先達の研究者の方々より幾つかの書評を頂戴した。いずれも今後発展させるべき課題を示してくださっており、多忙な研究活動のなか、執筆の労をお執りくださったことに心より感謝申し上げたい。このたび2023年8月刊行の『表象17』に新たな書評が掲載された。おそらくこれをもって本書に対する書評も一段落であろうと判断し、一連の頂戴した評に関して少しずつ時間をみて、リプライをおこなっていきたいと考えている。それが武満研究や音楽学・芸術学研究の発展に少しでも繋がれば幸いである。

ここでのリプライは、あくまでも学術的なテクスト上の往還であり、属人的な観点(つまり評者と筆者が知り合いである等の人間関係など)は排除されている。あくまでもテクストそのものに対する応答であり、書き手に対する感情は一切含まれていないし、攻撃的な意図は微塵もない。アカデミックな環境に身を置く人々にとっては自明の前提であろうが、無用なトラブルを避けるためにも、念のためその旨をここに明記しておく。

時系列に沿って2022年『美学』冬号に掲載された評(評者:西田紘子氏)からリプライを行うことも考えたが、まず直近で刊行される『表象17』に掲載の評(評者:長木誠司氏)に応答したい。この評では、本書の意義を「思考される武満」という言葉で端的に示し評価してくださった上で、主に以下の三つの批判が加えられている。

 

①概念同士の相同性について

まず、概念をめぐる批判である。大きく分けて二つある。(1) 本書ではいくつかの概念があまり議論されないまま、同一のものとみなされている箇所が多い。(2) 概念についての検討が足りないというものだ。いずれも漠然とした批判だが、いくつか例が挙げられているので応答したい。

(1)として具体的に挙げられている例は第1章の「愛」と「心の動き」の二つである。第一に、メシアンの「愛」と武満の「愛」(「恋愛」)は同一なのかという疑問が呈されている。本書のなかで、私はカトリック教徒であるメシアンの「愛」を「恋愛」という言葉で解釈する武満の身振りについて、何度も「敢えて」という語を使い、武満の作為性を強調している。一箇所だけ引いておけば十分だろう。以下は本書57頁からの引用である。「武満はメシアンにおける「愛」を敢えて「恋愛」と言い換えることで、「愛」という言葉が連想させるような宗教的な次元には回収しきれないものを名指そうとしているようである」。また61頁の註51では、武満によるメシアンの創作プロセスの説明があくまでも武満自身の解釈であり、それが実態に即しているかは括弧に入れておく旨も明記している(メシアンにおけるカトリシズムを詳述するとなるとそれだけで一つの博士論文が書かれねばならないだろう。それはここでは不可能と判断した)。つまるところ、武満の考える「愛」がメシアンのいう「愛」と同一だという主張は本書では全くなされていないのである。評者のしていることは、いわゆる藁人形論法であり、批判として成立していない。

もう一つの例は、武満がメシアン論のエピグラフにかかげる「一つの新事物の前にあると云う、驚嘆と喜悦」というフレーズ中の「驚嘆と喜悦」を、武満が同じくメシアンを論じるときに使う「心の動き」という言葉に言い換えて良いのか、という批判である。どちらの言葉も同じルヴェルディの詩論からとられた言葉であり、そもそも源泉を同じくしていることを置いておいても、驚嘆や喜悦は、一般的にみて心的な反応に他ならない。なぜこれが問題視されるのか、評者はその根拠をきちんと説明する必要がある。なお、この言い換え自体は全体の論旨のなかではかなり瑣末な記述であり、仮にこれが成立しないとしても議論に瑕疵は生じない。

(2)概念についての検討が足りないという批判で例に挙げられているのは、第5章に出てくるバシュラールの「物質」と「形式」という対についてである。私は武満の創作を考える上でマテリアルという語を「物質」と「素材」に分けて論じている。評者はここで、この筆者による対はバシュラールの「物質:形式」というオリジナルの対とはズレており、その齟齬の説明がないと批判し、それゆえバシュラールと「水」の美学をめぐる一連の論述全体の信憑性にまで疑義を呈している。

だが、私は290-292頁で金森修による先行研究を引いて、「形式的想像力」と「物質的想像力」の違いについて紙幅をとって解説した上で、これまでの武満研究では「形式的想像力」に該当する働きばかりが強調されてきたので、それだけでなく「物質的想像力」の観点からも、しっかり検証する必要がある、という論の運びをしている。つまり評者のいう「物質」と「形式」の違いを精査した上で、前者の内部でさらに区分を設けていることになる。また、この章の結論部でも、武満の創作では「形式的想像力」と「物質的想像力」の両者が働いていると確認している。仮にそれでもまだ説明が足りないというなら、そのように記し理由を明示すべきである。以上の一連の批判は全く実体がなく、本書に対する印象を不当に悪くしている。

 

②第3章「関係」について

評者は、武満がバリ島への旅行から帰国後に執筆したエッセイ「Mirror」に関する読解のなかで、筆者が「関係」という一語に作品から社会まで、複数の次元を包摂していることに疑義を呈している。

まず、武満は「Mirror」のなかで邦楽とインドネシアの芸能の差異について「関係」という言葉で論じている。かいつまんで述べれば、邦楽は一音によって「関係」を断つのに対し、インドネシアの音楽では一音の集まりとしての音階を通じて「関係」が示される、というものだ。したがって、ここで音楽の様式面における「関係」を考えることは何ら不自然ではない。また、武満は同じエッセイのなかで「人間関係、社会関係、自然との関係、(そして神との関係)」というフレーズに続いて「音楽がそこに形をあらわすような関係というものを待ち望んでいる」として、諸々の位相をはっきり接続している。したがって「関係」という一語で武満が、これら複数の次元を捉えているのは、自明である。

上記の疑問を呈した直後の文で評者は、本書223頁から「《フォー・アウェイ》にはたしかに複数の「鏡」の反射があり、それがピアノ曲という、やはり西洋近代音楽の伝統に連なる編成で書かれたところに、割れた西洋の鏡の断片を用いた再構成という武満の問題意識との繋がりが見出せる」という一文を引き、筆者があたかも上記の「関係」の美学の位相すべてをピアノ曲《フォー・アウェイ》のなかに還元しているかのような印象を読み手に与えた上で、これにより「武満の創作の全体像へと波及させるはずの糸を著者自らが断ち切ってしまっているのではないか」と述べている。

しかし、この223頁は私が「音楽的プラン」(つまり作曲技法の問題)に議論を限定することをわざわざ明記している箇所である(私は221頁で、この章では以後、技法と美学は分けたまま論じることを明記している。仮に両者を無理に接続すれば、評者が言うように強引な議論にならざるを得ないからだ。評者はこうした細かい手続きをすべて読み飛ばしている)。評者が引用した一文で、本来言われていることは、「一音」の反復とトータルな響きの共存、ガムランに想を得た「固定されたピッチ」や水平的な音階の展開といった、筆者が楽曲分析に即して明らかにした技法上の複数性のことである(これは前後を読めば明らかである)。したがって、評者が引いている一文で、私が《フォー・アウェイ》というピアノ独奏曲ただ一曲に武満がいう「関係」の複数の次元を還元しているわけでは全くない。この部分をめぐる評者の一連の記述は、本書の細かい手続きをなかったものにし、もともとの文脈を無視した切り取りに基づくものである。したがって、ピアノ曲を取り上げるなかで「武満の創作の全体像へと波及させるはずの糸を著者自らが断ち切ってしまっている」という批判には何の根拠もない。

 

③第4章「夢」と映画について

ここでの批判は、筆者が「夢」というキーワードを論じているにもかかわらず、1980年前後のポスト構造主義の知的環境の中で、フロイトやラカンが盛んに論じられていたというコンテクスト(あるいはクリスチャン・メッツらの精神分析を応用した映画の読解)に触れていないのが不自然だというものだ。たしかに、精神分析との接点については、その運動の影響力を考えれば、たとえ短いものでもどこかの章で言及があって良かったかもしれない。ただし、私が想起するのは評者のいうフロイトやラカンよりもユングである。武満は、ユング派の河合隼雄と対談しており、この文脈で何かしら議論を発展させることは可能だろう。河合による箱庭療法のことを考えれば「夢」と「庭」というテーマを繋げる糸口になり得るし、第5章で論じられている「新霊性運動」や、対立する二つのものの統合という「水」の美学のビジョンも河合やユングと関連づけられる(ユングは『易経』の序文を書いておりケージとも繋がる)。これらは執筆時にも漠然と構想していたことではあるが、本書では見送ったものだった。これを議論にうまく組み込むことができれば、もう一本糸を通すことができただろう。今後の課題としたい。

第4章で私が精神分析に触れなかったのは、武満の映画の見方として、ある一瞬の断片によって潜在していた記憶が想起され現働化するという「地殻変動」(これは武満の言葉)の方に焦点を当てたからである。武満が精神分析的な読解をおそらく知っていたにせよ、ストーリーやイメージを解釈してそこに隠されたものを暴くような態度は、暗闇のなかである特定の断片的瞬間にただ撃たれることの快を語る武満の映画の見方にはあまりそぐわないと判断し、言及しなかった。また、本章を読んでもらえれば明らかだが私は夢の解釈ではなく「かたち」の方にフォーカスしており、「内容」を読み解く解釈学としての精神分析が入り込む余地はない。なお、ここで私が考察の背景として着目しているのは、記録媒体が普及し映画をめぐる記憶が「外付け」される以前の「映画的記憶」の断片的なあり方や、 技師がフィルムのリールのかけ間違いをしてストーリーがバラバラになってしまうことが頻繁に起こっていた、という武満自身の映画体験である(ただしこれは註212、213に落とし込み十分に展開してはいないため、それがコンテクストをめぐる考察が不十分であるという評者のような批判を招く一因になっていることを認める)。第4章ではこれら一連の考察上の選択の帰結が、最終節の「シネマティック・ファラシー」(映画的という誤謬)をめぐる議論へと繋がる仕掛けになっている。つまり、映画をめぐる諸々の安易なメタファーで音楽作品を眺めるのではなく、個々の作曲家の私的な映画体験そのものをまず重視すべきだろうという議論である。

本章で議論されている内容に一切触れずして、ただ「夢」という語に目をつけて、明後日の方向から「精神分析に対する言及がない」などというのは書評としての体をなしていない。少なくとも私がユングを例にして上に記したように、なぜそれに着目する必要があるのかを具体的に示すべきである。

評者へのリプライからは逸れるが、理論ということで最後に追記するならば、本書は基本的にアンチ・セオリーの態度をとっている(バシュラールなど、武満が影響源としてはっきりと名指している場合を除く)。楽曲分析にも既成の理論体系は用いていない。武満と同時代の西洋の思想家たち、たとえば、デリダやドゥルーズの概念が、武満がしていることにうまくフィットし、議論を切り分ける上で有効な場面は少なくなかったが、そうした方法論は敢えてとらなかった。アペルギスの音楽を論じるのにガタリの哲学を参照するのであれば問題ないのだが、なぜ武満を論じるのにドゥルーズやデリダの理論を用いなければならないのか、その必然性に対して、最後まで疑問が残ったためである。これは一定の読者にとって、議論が閉じているような印象を与え、不満点になり得ることも認める。本書とは別の切り口で、西洋の理論を援用しながら武満の創作ないしは戦後の音楽について論じることは十分可能であり、いずれ機会があればそちらにも取り組みたい。

 

以上が、暫定的なものであるが『表象17』掲載の評に対する現時点での私のリプライとなる。(2023年8月8日)。(*9日加筆修正)

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