研究ブログ

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Niewöhner, Zum Begriff ,,Monismus``

Friedrich Niewöhner, Zum Begriff ,,Monismus``: Ein Nachtrag zu Horst Hillermann: Zur Begriffsgeschichte von ,,Monismus`` (Archiv für Begriffsgeschichte XX, 1976, p.214-235), Archiv für Begriffsgeschichte 24 (1980): 123-126.

ヘッケル自身の一元論の起源についてHillermannは述べていない.そこで,ここで注意しておく.ヘッケルは,言語学者シュライヒャー(印欧語)から一元論概念を取ったように思われる.シュライヒャーは比較言語学にはじめてダーウィン的な手法を持ち込んだ人物であるが,ヘッケルによれば,それは二元論と一元論の対立を示しているという.そして,世界観として維持が可能であり,また化学方法論として適切なのは一元論だけだ,とも.そのようにして,一元論が「自然全体の批判的理解や,そのための批判的方法」として理解される.

Hillermann は「ヘッケルとオストヴァルトの一元論」と一括りにしているが,両者は区別すべきである.たとえば既にエルトマンは,1914年に,ヘッケルの一元論は唯物論的一元論あるいは進化論的一元論,オストヴァルトのそれはエネルギー論的一元論であることを指摘している.このことはオストヴァルトもヘッケルも認識していた.

マウトナーは1924年,ヘッケルの一元論がきわめて多義的であることを批判した.このことも注意すべきである.

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Hillermann, Begriffsgeschichte von Monismus

Horst Hillermann, Zur Begriffsgeschichte von ,,Monismus``, Archiv für Begriffsgeschichte 20 (1976): 214-235.


「一元論 Monismus」の概念の由来は,通常ヴォルフに帰せられ,ヴォルフ学派の哲学辞典では「唯一の種類の実体のみを許す」立場であると規定されている.ヴォルフはドイツ語でもラテン語でも一元論に言及している.ヴォルフの受容はドイツ語によるよりもラテン語によって進んだと考えるほうが適切であるが,ラテン語版の内容は常にドイツ語のものに沿っていることに注意すべきである.


一元論という概念は,常に二元論と対立する形で提示された.二元論という概念の起源は,18世紀の宗教史的な記述の中に見出せる.ペルシアの神統系譜学や宇宙生成論,あるいはツァラトゥストラの教えである.こうした意味での二元論は,キリスト教の教義に反すると考えられた.二元論が知名度を得たのはベイルとライプニッツが,それをマニ教(二重の原理を持つ)と同一視したことによる.ヴォルフの一元論は,ベイルの一元論と二元論のペアの前段階として位置づけられる.ベイルの重要性はハミルトンの記述(1839年)を見てもよくわかる.


ヘーゲル学派および,唯物論的・一元論的俗流哲学の登場とともに,一元論は知名度を得るようになった.例えばゲッシェルは,ヘーゲルの哲学と神学をキリスト教と調和させるために一元論を論じた.


また,19世紀後半からは,一元論は,自然科学に基礎を持つ,教会・国家・哲学からの解放運動のスローガンとなり,世界観的改革の旗印や,代替宗教としても機能するようになった.例えばダーウィンの進化論に基づくヘッケルの一元論は,宗教・哲学・政治の改革手段として唱えられ,反教会の路線を取ったためにプロイセンにおいては無視できない影響力を持った.


新しい倫理としての役割も担った.オストヴァルトは,エネルギーをできる限り有用に使うことが倫理的だとした.代替宗教として,キリスト教の刷新も主張した.しかし,第一次世界大戦の惨禍の中で,遅くとも20年代には一元論はドイツ語圏から消滅した.


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Tanaka, Die Ursprünge des Ostwaldschen Antiatomismus

Minoru Tanaka, Über die Ursprünge der antiatomistischen Anschauung von Wilhelm Ostwald,Wissenschaftliche Zeitschrift der Humboldt-Universität zu Berlin. Mathematisch-Naturwissenschaftliche Reihe16 (1967): 983-985.


ファン・ト・ホッフ,アレニウスらによる物理化学の誕生は,現代の化学への移行段階として極めて重要である.だから,彼らとともに物理化学に寄与したオストヴァルトが反原子論に与したことは注目に値する.オストヴァルトの立場を,化学的な研究において追跡してみよう.


最初,彼は自分が運動論の支持者だったと書いている.正確な時期は不明だが,学位論文(1877/78年)においては原子仮説を支持していたことが明らかだ.それから運動論への批判を開始するが,それでもアレニウスのイオン説に好意的だったことは注目に値する.


エネルギー論への言及は,1877年に既に見られるが,本格的には1890年春から展開される.1892年のLehrbuch der allgemeinen Chemieが代表的である.1895年のリューベックでの学会では,明らかにマッハの影響を受けた議論を行っている.その後,20世紀に入っても反原子論的な主張を続けた.


Lehrbuchには,「一般化学において,歴史的なアイディアの発展は,論理的なものと多くの点において一致する」という注目すべき記述がある.この歴史批判的な思考法は,経験的観念論にも,科学的唯物論にもなりえるものである.マッハの力学史の影響からか,それとは独立にオストヴァルトが自身で考え出したのか不明だが,いずれにしても,このようにしてオストヴァルトは経験的かつ反原子論的思考に至った.


当時は原子論に従って親和力を扱うことが困難だった.熱力学と分子論の組み合わせによって第一歩が踏み出されたが,この傾向に反対したのがオストヴァルトである.触媒の研究(1894年,1901年)において,オストヴァルトは原子仮説を使わないことで,いくつかの中間反応や,効率的で精密な決定方法を見出したのだった.


オストヴァルトは,気体運動論が不毛であると断じていた.しかし,この点に関してはオストヴァルトは自伝において,レントゲンによるX線の発見から物質が粒子状の構造を持つことが確立され,それによって原子論の不毛さが解消されたと書いている.

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Kox, Lorentz on quantum theory

A. J. Kox, Hendrik Antoon Lorentz's struggle with quantum theory, Archive for the History of Exact Sciences 67 (2013): 149-170.


電子論やローレンツ変換で知られるローレンツの量子論への貢献を調べた論文.ローレンツの黒体放射の問題に関する態度は,彼の物質観(電子論)に強く影響を受けている.ローマ講演では,レイリー・ジーンズの法則,特に等分配則の問題の明晰な分析を行った.等分配則の一般性を示すときに,ギブスの統計力学理論が重要な働きをしている.彼は新しい考えを検討するときに,きわめて注意深かったし,技術的な詳細を修得しようとしたが,それは,できるかぎり古典論を維持するという目標のために生かされた(新しい量子力学は,量子仮説を不可欠のものと見る新しく若い世代から登場した).ローレンツは古典物理学者であった.しかし,ローレンツは,新しい考えに対して完全に否定的だったわけではない.それは,光量子に対する態度の変化に見てとることができる.

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Gordin, The Pseudoscience Wars (2012)

Michael D. Gordin, The Pseudoscience Wars: Immanuel Velikovsky and the Birth of the Modern Fringe (Chicago and London: The University of Chicago Press, 2012).


ヴェリコフスキー事件に関する本を読んだ.以下,気になったところをまとめた.


Introduction 


著者は,「疑似科学」とされるものが何をしてきたのか,を調べる.「疑似科学」とは何か,という問題ではないことに注意せよ.「疑似科学」という言葉に確固たる境界も核もない.しばしば,目隠しされた人が象を触るような比喩が用いられることがある.ある人は長い鼻があるといい,ある人は足が太いといい,ある人は尻尾のようなものがある,といい…….しかし,疑似科学に関する限り,そこに象はいないのである.

"Pseudoscience Wars" と著者が呼ぶものは,科学者たちに,その弟子や大衆への影響を心配させたものである.その最中に,「周縁」へと置いやられた考えは,主流の科学が間違っていることや不完全であることのみならず(例えばRhineの1930年代の超心理学実験のように),科学者は新しい知識を抑圧する陰謀に加担しているのだと主張した.こうした動きが冷戦期のアメリカで生じたことは偶然ではない.

この本では,ヴェリコフスキー(Immanuel Velikovsky, 1895-1979)の本Worlds in Collision(『衝突する宇宙』;以下WiC)とそれをめぐる,1950年から1980年までの論争を扱う.彼は非常に有名であり,その著書は1970年代になっても本屋に並んでいた.

『衝突する宇宙』のなかでヴェリコフスキーは,さまざまな文化から取られた古代の神話・碑文・歴史的資料が,繰り返し生じた大災害を記述している(火の雨,巨大地震,津波,空を飛ぶ竜など)と論じた.ヴェリコフスキーによれば,これらの記述は実際に地球上に生じた激変を表しており,彼は二つの事例を示した.ひとつは出エジプト中に生じた出来事(紀元前1500年ごろ)で,もうひとつは紀元前8世紀の生じた出来事である.後者により,一年は360日から現在の365日と4分の1日になった.これは預言者イザヤを驚愕させ,ホメロスのイリアスにアテナとアレスの間の戦いとして描写されているという.

そのような激変の原因は何か?ヴェリコフスキーによれば,それは木星由来の彗星が地球の近傍を通過したことである.そしてその彗星は,現在の金星となった.したがって,金星が現在の軌道に落ち着いたのは歴史時代のことである.このような金星の運動は,今度は水星の運動を乱し,これが二番目の激変の原因となった.ヴェリコフスキーの議論は,古代史は言うに及ばす,地質学,古生物学,考古学,天体力学の再編成を要求していた.当然これは科学者の批判を招いた.

1960年代中盤に,再び批判が噴出する.これはヴェリコフスキーが活動を再開したからではなく,科学者サイドにおいて,学部生やカウンター・カルチャー,人文学者の間でヴェリコフスキーが好意的に受け容れられたからである.結局,20年にわたってヴェリコフスキーに関する論争がアメリカで続くことになった.ヴェリコフスキーは正しかったのか?宇宙の年齢が有限であることの発見は,ヴェリコフスキーの太陽系の歴史に関する見解を確証したのか,反証したのか?1974年のAAASでの会合もこれらの問題に決着をつけられなかった.しかしこのときは,1950年代とは違い,明確な戦線は存在せず,衝突はそれほど激しくはなかった.そして1980年代前半のどこかの時点で,ヴェリコフスキーの名前は話題にされなくなった.戦争は終わったというよりも,フェイドアウトしていったのである.

どのようにしてWiCはそれほど有名になったのか?なぜヴェリコフスキーがとりわけ科学者コミュニティから標的とされたのか?冷戦期におけるアメリカ文化のなかの科学について,ヴェリコフスキーの事例は何を教えてくれるのか?この本は何よりも,戦後のアメリカ文化における疑似科学概念の探求であり,そのためにヴェリコフスキーはたいへんによい事例を提供してくれる.科学に似ているがそうではないものを示している.

線引き問題との関係.ポパー,クーン,ラウダンらの研究が概観される.最近合意されているところでは,疑似科学なるものが存在するにせよしないにせよ,科学を疑似科学から分け隔てる明確な基準など存在しない,ということである.とはいえ注意しなくてはいけないのは,線引き問題が解決不可能な問題だからといって,そのことは必ずしも,線引き問題に取り組みべきではない,ということは意味しないということである.それは実際に論じることのできる(そして実際に論じられている)問題である.もちろん,何らかの基準を設定することは,実際には(厳しすぎたり緩すぎたりして)難しいのであるが,それでもこの問題には取り組む価値がある.ひとつの理由は,科学政策や科学リテラシーに貢献するため,というもの.もうひとつの理由は,線引きは日常的になされていることだから.何が科学で何が科学でないかを決めるのは単純にアカデミックな事柄ではなく,社会的な問題や政治的な問題とも関連させなければならない.そしてそれは高度に知的な問題でもある.それゆえ著者は,疑似科学の問題を歴史的文脈において検討し,どのようにして疑似科学が特定の時と場所において生まれ,どのような含意をそれが持っているのかを調べる.

何故ヴェリコフスキーなのか?彼は医師および精神分析家として訓練を受け,それゆえ決し科学者コミュニティの外側にいたわけではない.しかし,WiCの出版以来,彼は狂人との烙印を押された.その本について,科学者コミュニティの中では,特に注意深い考察がなされたことはない.ヴェリコフスキー主義は,いわば,生まれながらの疑似科学であった.このことは,ヴェリコフスキーの事例を特に興味深いものとする.というのは,科学者の立場は極めて明確であり,それにより暗黙の仮定が表に出てきたからだ.また,ヴェリコフスキーに関する資料の豊富さも指摘しておくべきだろう.これは今,プリンストン大学のFirestone Libraryに所蔵されている.


Chapter 1: The Grand Collisions of Spring 1950


1950年,ヴェリコフスキーのWiCは出版された.「事実を法則に合わせるのではなく,法則を事実に合わせて見出さなければならない」として,各地の神話や碑文や旧約聖書の記述をもとに,歴史時代に地球上において激変が生じたのだという説を展開した.科学者からは,批判的な書評が数多く寄せられた.しかしそれ以上に問題だったのは,この本が,Macmillanという権威ある出版社から出版されたことだった.これは,ヴェリコフスキーの個人的なコネの連続(おもにユダヤ人的な)を用いることによって可能になったのだった.ボイコット運動(それほど組織化されてはいなかった)にまで発展した.結局,Macmillanはこの本に関する権利を別の会社に移譲した.


Chapter 2: A Monolithic Oneness


ヴェリコフスキーの前半生について.医学を学び,フロイトから強い影響を受けて精神分析も修得した.真正なユダヤ教徒だったのかどうかは不明だが,それなりに信仰心は持っていたようだ.多くの宗教的な著作をものしている.

フロイトは『モーゼと一神教』で,モーゼがエジプト人だったという説を展開したが,これにヴェリコフスキーは反対した.その著作を準備するなかで,ヴェリコフスキーはWiCの着想を得たという.だから,WiCは歴史の本ではなく,精神分析の本である.彼はさまざまな神話の史料などを,精神分析の手法をもって読み解いたのだ.

Age in Chaos第1巻との関係.ヴェリコフスキーはこの本で,WiCとは逆の進み方をした.すなわち,まず年代を改訂し,改訂された年代に従って史料の解釈を変えていったのである.ユダヤ人の年代記を採用し,それに合わせてエジプト王朝の年代記の年代を変えた.しかし,第1巻は出版できたものの,第2巻はなかなか出版されず,続編は1977年以降にずれこんだ.

WiCで示されているような大災害が,なぜ聖書などのわずかな資料にしか記録されていないのか.これをヴェリコフスキーは「集団健忘」によって説明した.金星の接近によって引き起こされた災害により,当時の人々はトラウマを抱え,それを忘却しようとしたというのである.さらにヴェリコフスキーは,集団健忘を,自説に対する科学者たちの反応を説明するために再び持ち出した.科学者たちは,過去のトラウマを掘り起こされたくないから,ヴェリコフスキーの説を否定している,というのである.

歴史家はヴェリコフスキーと関わりあいになりたがらなかった.1950年には早くも,かかわりあいにならないという戦略が採用され,結果的にこれは,天文学者の反応よりも成功を収めた.科学史家の反応はより興味深い.彼らは論争を科学的な性質のものだとみなした.ノイゲバウアーはヴェリコフスキーの本を酷評し,まずもってドイツ語が読めておらず科学的におかしな記述があること,バビロニアにおける金星の運行の記録にヴェリコフスキーが批判を加えたことを嘲笑した.


Chapter 3: The Battle over Lysenkoism


ルイセンコ事件の衝撃がアメリカに残っているときに,ヴェリコフスキーはWiCを出版した.それゆえ,激しい批判を受けることになった.ソ連では,ルイセンコ学説に対抗すべく,ドブジャンスキーらが努力した.彼らはソ連の遺伝学を守るため,ルイセンコ以外の学説も同様に検討されていることをアピールしつつ,ルイセンコの本を翻訳してアメリカ人の目に晒すことで外部からの批判を呼び込もうとした.しかし,結局1948年8月のアカデミーでの会合から,問題は科学的な次元から政治的な次元へと移り,ソ連の科学史における悲しい一章が始まることになる.ルイセンコ事件が生じた頃,アメリカでは共産主義者に対する弾圧・赤狩りが行われていた.両者のヴェリコフスキー事件に対する影響は無視することができない.というのは,当の論争において,批判者も擁護者も,たがいに相手のことをルイセンコと同じ立場に置いていたからだ.つまり彼らは互いに,状況を,ルイセンコ事件と類比的に見ていたのである.とはいえ,ルイセンコ主義をヴェリコフスキーの本と同様に疑似科学と見てよいかどうか,には疑問が残る.というのは,それは疑似科学というにはあまりにも政治的で,弾圧的だったからだ.


Chapter 4: Experiments in Rehabilitation


ヴェリコフスキーは,1950年,徹底的な批判を浴びてからも,WiCを復活させようとさまざまな努力をした.その方法が,著名な科学者とのコネクションを作ることだった(一般の大衆に受け入れられていることを指摘するのではなく)ということは興味深い.例えば彼は,晩年のアインシュタインとかなり頻繁に会い,議論を行い,自説に好意的な発言を引き出そうと試みた.また,ヴェリコフスキーは,当時新しく確立された炭素14年代測定法に訴えて,新しい歴史的証拠を見つけようとした.さらに,WiCから導かれる新しい天文学的な予測(金星がきわめて高い温度を持っていること,木星から電波ノイズが発せられていること)が確証された,と強調した.どれも最終的には受け入れられることはなかった.

著者は優生学とのパラレルな関係に言及している.優生学はまた,戦後のアメリカにおけるひとつの疑似科学的なテーマとして論じられる.優生学は当時すでに,ナチの経験から,疑似科学であるとしばしば論じられていたのだが,戦後,それは非人種主義的な生物学あるいは医学の一部として復活を遂げる(医学的優生学).それは,アメリカ優生学会(これは1973年になって,ようやく社会生物学研究学会と名を変える)のオズボーン(Frederick Henry Osborn)の努力によって示される.結局学会の名前は変わってしまったのだが,復活は果たされたと言えよう.


Chapter 5: Skirmishes on the Edge of Creation


他の創造説との関係が論じられる.一例としてモリス(Henry Morris)の創造説(1961)を見てみよう.斉一説に対して,聖書の記述による(ノアの洪水などの)天変地異説を擁護したモリスの洪水説は,インテリジェント・デザインの登場までアメリカで強い影響力を持った.この動きはヴェリコフスキーにも関係した.まず,ヴェリコフスキーと,洪水説の考案者であり,モリスの手本とも言えるプライス(G. M. Price)の間には強い関係が存在した.しかし,ヴェリコフスキーは正統な科学者たちと戦っていたため,モリスら洪水論者にとって,ヴェリコフスキーは味方にするには危険な人物に映った.一方で,ヴェリコフスキーの側でも,モリスに支持を与えようとはしなかった.彼によれば,金星接近説には(ともかくも)歴史的・科学的な根拠があるのに対し,モリスらは単に宗教的に動機付けられているだけだからであるという.

ヴェリコフスキー陣営内部も一枚岩だったわけではない.例えば,Foundation for Studies of Modern Science (FOSMOS) なる組織がヴェリコフスキーの「弟子」たちによって設立されたが,これはやがてヴェリコフスキー個人のためというよりも,ヴェリコフスキー主義のための組織になり,その主張が先鋭化するにつれてヴェリコフスキーはFOSMOSから距離を取るようになった.


Chapter 6: Strangest Bedfellows


かなりの大学でヴェリコフスキー説に好意的な講義が行われ,WiCはほとんど必読の文献とされた.1970年代のアメリカの大学では,ヴェリコフスキーの名前を知らないで過ごすことは難しかった.学生と若い講師は,当時のカウンター・カルチャーの影響下にあり,既存のエスタブリッシュメントを打ち壊すことに強い関心を持っていた.ヴェリコフスキー説は,それが正しいからではなく,非エスタブリッシュメントであったがゆえに支持された(もちろん,その科学的な正しさを主張する人々も存在はしたが).ヴェリコフスキーの支持者たちは,ヴェリコフスキー説の応用のためにPénsee(1966-1972), さらにこれが編集方針をめぐる対立から休刊になると,Kronos(1975-1988)なる雑誌を発行した.これらの運動により,1974年にはアメリカ科学振興協会の年会において,ヴェリコフスキー説を検討するシンポジウムが開催された.ただしこれはヴェリコフスキー側が期待したような,天変地異説の正しさを認めるためのシンポジウムではなかった.ハイライトは,ヴェリコフスキーの講演と,当時アメリカでもっとも有名な天文学者カール・セーガン(Carl Sagan)の講演であるが,このシンポジウムで,ヴェリコフスキー説の正しさに決着がつくことはなかった.どちらの側も,自分の側に有利な結果が出たのだと判断した.ヴェリコフスキーは,1970年代後半には,カウンター・カルチャーとも,支持者たちとも関わりを持たなくなる.ヴェリコフスキーの天変地異説と,支持者たちの天変地異説とは異なるものであり,ヴェリコフスキーにはそれが耐えられなかった.彼は自説の正統性を最後まで保とうとした.1979年に死去した.


Conclusion: Pseudoscience in Our Time


1979年11月,ヴェリコフスキーは死去し,彼の影響力は弱まりはじめた.ヴェリコフスキー派も一枚岩ではなく,分裂が生じていた.例えば古代の年代について.あるいは,どのように古代の神話を太陽系の構造に結びつけるかについて,さまざまな見解が提出されており,ヴェリコフスキーの説に反するものも相当存在した.おそらくは不可避なことであったろうが,ヴェリコフスキーの議論は,ヴェリコフスキーを直接訪問することのできない人々によっても利用され,改訂された.ヴェリコフスキー派の分裂から,周縁において正統さを保つことがどれほど難しいかを知ることができる.彼らはもちろん分裂を避けようしたのだが,その結果,彼らのあいだでは激しい闘争が生じたのである.

疑似科学は,模倣に基礎を置いている.疑似科学は,科学ではないが,科学を模倣するものである.これが,単純な線引きの出来ない理由のひとつである.いったん線引きの基準が選ばれると,疑似科学はその新しい基準にフィットするように合わせてくるのである.疑似科学の主要な特徴のひとつはこのような模倣であり,主流の科学者コミュニティの主な活動のひとつは,線を引き直しつづけることである.

21世紀に入っても,ヴェリコフスキーの影響は完全に消え去ったわけではない.例えば2004年と2006年に,ヴェリコフスキーの路線に沿った本が出版されている.また,インターネット上にはヴェリコフスキー・アーカイヴ(varchive.org)やヴェリコフスキー百科事典(www.Velikovsky.info)がある.YouTubeにアップされている,1972年にカナダの放送局が制作したヴェリコフスキーのドキュメンタリーもかなりの人気を集めている.しかし,もはや文化において中心的な地位を占めているとは言えないだろう.

線引き問題に対して明確な答えは存在しない.基準を厳しくしたり緩くしたりするたびに,新しい問題が出るのである.社会的な機関を考慮に入れるのは,可能性としてはあるが,これも十分ではない.WiCは,権威ある出版社から,二度の査読を経て出版されたのである.査読は社会的な規約であるが,それがうまく機能するのは,コミュニティの中にすでに合意が形成されている場合のみである.

疑似科学は科学の影である.この影は科学そのものによって落とされる.科学が存在する限り,疑似科学は存在する.

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東京大学(駒場)で学振PD

日本学術振興会特別研究員PDとして採用された人が,東京大学総合文化研究科(駒場)を受け入れ先とした場合に,快適に研究生活を始めるためにはどうすればよいのでしょうか?具体的には,駒場図書館と,情報基盤センターの利用資格を得るにはどうすればよいのでしょうか?少し苦労したのでここでまとめておきたいと思います.まだ解決していないのですが.

前置きとして,学振PDの採用決定に至る過程を整理しておくと,

  • 前年度:採用内定
  • 3月上旬〜4月上旬:採用手続書類の送付
  • 4月下旬:採用決定と,その受け入れ研究機関への通知

となっています.学振PDは採用が決定されるまではあくまでも採用内定者である点がポイントです.この時点までは,学振からは「採用内定通知」(電子申請システムで見ることが出来るもの)か「採用見込証明書」(紙)しかもらえません.また,採用が決定されたと言っても,身分証がもらえるまでにはさらに時間がかかります.ついでながら個人的な事情ですが,現在僕はドイツで研究活動をしていて,一時帰国の際に図書館と情報基盤センターの利用手続をしようとしたのでした(5月21日と22日).

まず,大学院係に問い合わせたところ,基本的には学振の身分証を持って行って利用登録をすれば図書館もネットワークも利用可能だということでした.ではその身分証はいつ送付されるのかというと,「例年6月頃」とのことです.……2ヶ月も図書館・ネットワークなしで過ごすのはちょっと……(実際には各研究室単位では内部的にゴニョゴニョしてネットワークに接続できたりするんでしょうけど,それでも図書館が使えないのは痛い).

代替の手段はないものでしょうか?残念ながら,「採用内定通知」では申請を通すことは出来ませんでした.図書館の人曰く,「内定通知はあくまでも内定通知であって,実際に東大で受け入れたことを示すものではない」だからだそうです.しかしそうすると,学振PDが採用決定までに得ることの出来るもっとも強力な身分証明は,「採用見込証明書」となります.これで申請は通せるのでしょうか?残念ながらこの点はまだ試していません.図書館の人の言からすると,「見込」ではまずそうな気もします.

情報基盤センターに関しては,メールで問い合わせたところ「内定通知でも構わない」とのことだったので,内定通知で利用申請を出しました.……すると「やっぱり学振からの身分証明書が必要です」と言われて(がーん!),こちらもどうやら「採用証明書」が必要だったようです.図書館と同様,「採用見込証明書」で申請が通るかどうかはやはり不明確です.

いずれにしても,採用が決定してからであれば「採用証明書」を発行してもらうことが出来るので,確実に申請を通すことが出来ると思われますが,これでもやはり1ヶ月程度は図書館もネットワークも使えない,ということになります.結論としては,

  • 採用決定後(4月下旬)でもよければ,学振から「採用証明書」を2部発行してもらってそれぞれ図書館と情報基盤センターの利用申請に用いればよい
  • 採用内定中に利用申請をする場合,「採用見込証明書」を使うことになるが,これで利用申請が通るかどうかは不明確

ということになります.どなたか後者の経験をお持ちであればお知らせくださると幸いです.


補足


学振PDの待遇の悪さ(施設の利用資格など)については昔から話題になっていましたが,http://www.jsps.go.jp/j-pd/data/seido_kaizen.pdfにあるように,去年くらいからついに学振が大学・研究機関に対して待遇の改善を促すようになりました.なんとか早く実効的な成果が上がってほしいものです…….あとは雇用関係が明確になるともっといいのですが,学振が雇用するとなると健康診断やら保険やらで色々とクリアすべき問題が多いのかもしれません.

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Morrison, Unifying Scientific Theories (Introduction)

Margaret Morrison, Unifying Scientific Theories: Physical Concept and Mathematical Structures (Cambridge: Cambridge University Press), Introduction, 2000.


科学における「統一」を扱ったMorrisonの本の導入部分を読んだ.統一は存在しない,としばしば科学哲学では指摘されてきた.しかし,統一が科学理論の発達のなかで一定の役割を果たしてきたことは明らかな事実である.そして,これまでの研究で明らかになっているような,非統一を無視することも許されない.そこで,(1)どのように統一が生みだされ,(2)それがどのような形而上学的な意味を持っており,(3)それが理論の構築と確証においてどのような役割を果たしたのか,を問題として考えなければならない.
統一と説明は異なる.D-Nモデルで考えると,統一は説明の特殊事例であるように見えるかもしれない.しかし一方で説明は,ファインマンの言うように,メカニズムに対する言明を含む.だが,ニュートンによる統一や,マクスウェルによる統一は,結局のところ力や場に対するコミットを避け,数学的な関係によって統一を果たしたのだった.そこでは,どのように力が伝わるのか,どのように場を電磁波が伝播するのか,というメカニズムに関する発言は見られない.この本では,いかに統一と説明が異なるかということ,一方を他方によって表現することは出来ない,ということを示す.
統一には二種類ある.還元論的な統一(電磁気と光の例)と,二つの別個の現象を同じ理論のもとに統合する統一(電弱理論の例)だ.後者は存在論的な還元を意味しない.前者はそれを含みうるが,しかしその存在論的な含意は統一が達成された仕方に依存する.
Morrisonの主張は二つである.ひとつは,統一は説明力を持つようなものとして理解されるべきではない,ということ.現象の統一を可能にするような機構はしばしば,そうした現象の説明を可能にするような機構と同一ではない.二つ目は,統一は科学的活動において非常に重要だが,自然の還元主義的な見解や存在論的な統一に関してはあまり含意を持たない,ということだ.結局のところ,統一に関する「統一」的見解は存在しない.

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Turner, Maxwell on Physical Analogy

Joseph Turner, "Maxwell on the Method of Physical Analogy", British Journal for the Philosophy of Science 6 (1955): 226-238.

マクスウェルの物理的アナロジーを扱った古典的論文である.

マクスウェルは1870年に英国科学振興協会で行った講演で,物理的アナロジーは二つの物理理論の間の数学的な形式の類似性,あるいは科学的な例示,もしくは科学的メタファーであると規定し,物理的アナロジーに関して三つの特徴を指摘した.すなわち,(1) 物理的アナロジーは純粋な数学的形式と物理的仮説の中間的方法であること,(2) 科学の諸分野間の部分的な類似性には二つの意味があること,(3) さまざまな物理的アナロジーの正確だがもっと経済的な表現に適した新しい言語が存在する可能性があること,である.Turnerは,マクスウェルの1850年代から1870年代にかけての著作から,これらの特徴を再構成していく.

(1) 代表的な例は静電気と流体のアナロジー.電気現象を探究するにあたって,マクスウェルは流体を単なる物理的仮説として,あるいは数学的形式として採用したのではない.そこで導入された電気的流体は,より理解しやすい形で数学的定理を証明できるような仮想的流体であり,また数学的記号のみが適用されるよりももっと広範囲にわたる物理的問題に適用できる.そこからは,より具体的な数学的関係を与えることを可能である.
(2) アナロジーは,ある科学理論が他の理論に対してある一部の事例においてのみ類似するという意味で不完全である.アナロジーは,ある一群の現象を記述する量が「物理状態」(理論とは独立に別にこれを定義する条件がある)を表現する一方で,それに対応するもう一方の分野における量が「単なる科学的概念」(理論とは独立にこれを定義する条件がない)であることがあるという意味で不完全である.
(3) ベクトル解析の導入が新しい言語の例とされる.マクスウェルが電磁気学を作ったとき,彼はファラデーの方法とベクトル解析の中間にいた.しかし後には,マクスウェルはベクトル解析を電磁気学の自然な言語とみなすようになった.[しかし引用で示されているように,実際にはマクスウェルはベクトル解析ではなく四元数を電磁気学の数学的表現として用いていた]
物理的アナロジーは,理論から生み出されるだけでなく,理論を作り出すことのできる方法である.それはひとつには,物理のある分野における数学的問題に対する解を別の物理の分野に移すことによって,もうひとつには,新しい理論的・実験的探究の方針を与えることによる.アナロジーは研究の手段として有用であり,またアナロジーは読者に対して説明をするときにも役に立つ.
最後に,デュエム,マッハ,キャンベルらの見解が提示される.ほとんどマクスウェルのものと同じだが,デュエムやマッハはオストヴァルトなどの伝統に連なっているために仮説の役割を否定する一方,マクスウェルにとっては仮説は検証されれば問題のないものであることには注意しなければならない.

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Hon & Goldstein, Maxwell's Contrived Analogy

Giora Hon and Bernard R. Goldstein, "Maxwell's Contrived Analogy: An Early Version of the Methodology of Modeling", Studies in History and Philosophy of Modern Physics 43 (2012): 236-257.


マクスウェルの電磁気学関連の著作は,(1) 1858年の論文「ファラデーの力線について」,(2) 1861年から62年にかけての論文「物理的な力線について」,(3) 1865年の論文「電磁場の動力学的理論」,(4) 1873年の本『電気磁気論』の四つに分けられる.1858年,マクスウェルはトムソンから「物理的アナロジー」を継承し,それをファラデーの力線概念と結びつけて電磁気学を作った,というのはよく知られている.マクスウェルの方法を,現代の理論物理学におけるモデル概念から解釈する向きもある.この論文では,まずマクスウェルのアナロジーはトムソンの「物理的アナロジー」に変更を加えた「数学的アナロジー」であること,また当時モデルなる言葉がまさに作られる過程であったことから,モデルという方法論が出現する過程としてマクスウェルの論考を読む必要があることを指摘する.

マクスウェルの1858年論文では,ファラデーの力線を数学的形式に持ち込むことが目標とされた.そこでマクスウェルはトムソンの「物理的アナロジー」を参照しつつ,力線と非圧縮性流体の管とのアナロジーを考えるが,この非圧縮性流体とは完全に架空のもので,物理的な実在との対応は考えられていなかった.この架空の流体に対して数学的構造を付与していき,その結果を実験と対比させる,というのがマクスウェルの考えた新しい方法「数学的アナロジー」なのだった.これは,トムソンの「物理的アナロジー」(二つの物理的領域——例えば熱と電気——の間のアナロジー)とは異なることに注意しなければならない.トムソンの場合にはアナロジーは双方向であり得るが,マクスウェルの場合は実在しない非圧縮性流体から電磁気現象への一方向である.トムソンはまた,二つの物理的な領域の数学的な構造の同一性を指摘するためにアナロジーに訴えたのだが,そこから新しい物理的アイデアを得ることはしなかった.おそらくトムソンは,非仮説的な理論を作ることを好んだがために,マクスウェルの行った道を進まなかったのだろう.

マクスウェルの「数学的アナロジー」は,トムソンの「物理的アナロジー」とは著しく異なるものであり,その改変の故に新しい物理理論を作り出す力を持っていた.マクスウェルは,現代で言うモデルを考え出したのだと言える.

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有賀,ローレンツ『物理学』日本語版

有賀暢迪「ローレンツ『物理学』日本語版の成立とその背景:長岡・桑木と世紀転換期の電子論」『国立科学博物館研究報告.E類,理工学』第36巻(2013年),7-18頁.


ローレンツの『物理学』は1913年に長岡半太郎と桑木彧雄により邦訳され,プランクの『理論物理学汎論』が翻訳されるまで,理論物理学のもっとも権威ある教科書だったという.当時の広告でも「世界の学界が有せるローレンツ氏物理学の最新版」と謳われた.それはいかなる意味で最新版だったのであり,またどのような経緯で邦訳されるに至ったのだろうか?

有賀はまず電子論をめぐる欧州の状況を整理し,1908年にはローレンツの電子論に有利な実験的証拠がかなりの程度蓄積されていたことを確認する.当時,アインシュタインの相対性理論は,電子論の発展版とみなす見解が主流だった.電子論に興味を持った経緯は長岡と桑木とで異なっていた(長岡は物質観の問題から,桑木は絶対運動などの力学の基礎の問題から)が,いずれにせよ電子論には早い段階から接していた.桑木は1909年に,長岡は1910年にローレンツを訪問した.ローレンツは長岡に教科書を邦訳してみないか,との提案を持ちかけ,桑木が共訳者として適当だろうこと,そして増補改訂として数十頁にわたる「敷衍」を送ろうとの提案を行った.ローレンツ訪問の際に電子論から相対論へ至る革命が話題になっていたこと,ローレンツが電子論の中心人物だったこと,これらは長岡・桑木に教科書邦訳の十分な意義を与えた.

有賀は,ローレンツ『物理学』が他の教科書に比べて持っていた特色を確認する.Thomson & TaitやPoynting & J. J. といった教科書は当時邦訳されておらず,RieckeやWarburgの教科書は実験物理学の教科書だった.ローレンツ『物理学』は古典物理学ではあったが,理論物理学の教科書であり,また下巻(長岡担当)には「電子論に依て説明すべき現象」という一章を設けて陰極線・X線・ゼーマン効果・放射能などの新現象とその電子論との関係を論じていた.かなり先端的な話題をも収めた教科書だった.

日本語版の出版にあたっては,ローレンツから長岡への書簡(2通;1911年8月31日付,1912年3月22日付)を見ることで,増補改訂にあたっての事情を垣間見ることができる.それによると,下巻の増補内容はロシア語版と同一であろうことが分かる.また,実験に関わる数値に関する(おそらく長岡からの)改訂案にもローレンツは同意を与えている.出版された日本語版では,5節分が増補され,電子論の部分にもいくらかの改訂がなされている.こうした増補改訂がなされたという事実を踏まえれば,確かに,ロシア語版を別にすれば,「最新版」という宣伝文句は正当化できる.

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