研究ブログ

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名詞「方言」の意味論

この記事は、「言語学な人々 Advent Calendar 2023」の12月21日の記事です。


「方言」の二つの意味
 

 日本語の名詞「方言(ほうげん)」には二つの意味がある。

 

(1) 富山の方言と石川の方言って、どう違うの?

(2) 「しょっからい」って、富山の方言?

 

 (1)の「方言」は、〈ある言語の地域的な言語変種〉である(以下、意味Ⅰとする)。ある言語(ここでは日本語)の下位類として位置づけられてはいるが、音韻・語彙・形態・統語のすべての面にわたる一つの言語体系を指す。

 (2)の「方言」はそうではない。この文は、「しょっからい」[1]という語について、標準語(全国共通語)の語形ではなく、富山という地域に用いられる語なのかどうかを尋ねている。この「方言」は〈標準語・全国共通語に含まれない、特定の地域でのみ用いられる言語特徴〉という意味である(意味Ⅱ)。この意味での「方言」は(3)のように用いられることもある。この場合、どの地域かということは問題にせず、非標準的かどうかが問われている。

 

(3) 「しょっからい」って、方言?

 

 現在出版されている多くの国語辞典にも、この二つの意味区分が設けられている。ここではいくつか見たなかでも周到な意味記述と評価できる『明鏡国語辞典』第3版(大修館書店、2021年)を引用しておこう。

 

①特定の地域社会で使われることば。一つの国語が地域によって異なる音韻・語彙・語法を持つとき、それぞれの地域の言語体系をいう。「九州[関西-]」 ②標準語・共通語に対して、特定の地域で使われる発音・用語・語法。なまり。俚言。⇔標準語・共通語

 

「富山の方言」と「富山方言」

 

 (2)の「富山の方言」のような属格名詞句「xの方言」と似た形式として、「富山方言」のような複合名詞「x方言」がある。

 

(4) a. 富山の方言と石川の方言って、どう違うの? =(1)

   b. 富山方言と石川方言って、どう違うの?

(5) a. 「しょっからい」って、富山の方言? =(2)

   b. 「しょっからい」って、富山方言?

 

 (4)(5)に示すように、属格名詞句と複合名詞は互いに置き換えうる。複合名詞「x方言」は日常のくだけた会話ではあまり用いられないので、その点で(4b)(5b)はやや不自然に感じられるかもしれないが、「富山方言と石川方言はかなり違う。」「『しょっからい』は富山方言である。」のように言い換えれば違和感が減る。

 しかし、次の(6)を(5b)と比べてほしい。

 

(6) この単語って、ドイツ語?

 

 (6)の「ドイツ語」は、もちろん言語変種を表す名詞であり、ここでは主題主語名詞句「この単語」の属性述語として機能している。属性述語である点では(2)「富山の方言」や(3)「方言」も同じなのだが、(6)では主語「この単語」は述語「ドイツ語」の構成要素の一つという関係にある。(7)の名詞述語文と同タイプとみてよいだろう。

 

(7) いずみは1年3組だ。 

 

 (5b)の「富山方言」も(6)と同じようにみなしうる。(5b)のような「言語形式yガ [x方言]ダ」文の複合名詞「x方言」では、「方言」の意味Ⅰと意味Ⅱの区別が中和されると言える。

 

意味変化のタイプ

 
 『日本国語大辞典』第2版(小学館 ;以下『日国』)によると、日本語における「方言」の初出例は「東大諷誦文」(8世紀末~9世紀初)である。小林真由美による該当箇所(140-144行)の読み下し文と訳を引用する(下線は小西による)[2]

 

各世界ニ於テ、正法ヲ講説スル者ハ、詞无碍解(シムゲゲ)ナリ。謂ク、大唐、新羅、日本、波斯、混崘、天竺ノ人集レバ、如来ハ一音ニ風俗ノ方言ニ随ヒテ聞カ令メタマフ。仮(タトヘ)バ(此当国ノ方言、毛人ノ方言、飛騨ノ方言、東国ノ方言、仮令バ飛騨国ノ人ニ対ヒテハ、飛騨国ノ詞ヲモチテ(聞カ令メテ)、説キタマフ云。訳語通事ノ如シ云。仮令ハ南州ニ八方四千国アリ、各方言別ナリ。東弗等ノ三州ハ之ニ准フ。六天) 大唐ノ人ニ対ヒテハ、大唐ノ詞ヲモチテ説キタマフ。他ハ之ニ准フ。

 

それぞれの世界で正法を講説する仏の能力は、詞无碍解である。大唐、新羅、日本、波斯、混崘、天竺の人々が集まる時は、如来は一度にそれぞれの言葉でお話をお聞かせになる。たとえば、(この国の方言、飛騨方言、東国方言である。飛騨の国の人にむかっては飛騨の国の方言で(お聞かせになる)お話をなさる。まるで通訳のようである。たとえば南瞻部洲には八方に四千の国があり、それぞれの言葉がある。東弗等などの三州は、これに準じて述べる。六天も同じ。)大唐の人にむかっては、大唐の言葉をもって説きたまう。他もこれに準ずる。

 

 ここでは、仏がさまざまな地域の「方言」で正法を説くことが述べられている。この「方言」は意味Ⅰである[3]

 『日国』が挙げる意味Ⅱの例は、はるかに時代が下り『毛詩抄』(17世紀前半)のものである。言語変化を論じるにはより厳密な調査が必要だが[4]、少なくとも意味Ⅰが原義であり、意味Ⅱは派生義だと考えてさしつかえないだろう。

 そして、意味Ⅰから意味Ⅱへの変化は、シネクドキー(提喩)にもとづくものと言えよう。シネクドキーは、「カテゴリーを示してそれに属する特定のメンバを意味したり、逆に特定のメンバを示してそれを包含するカテゴリを意味する比喩」[5]と定義され、代表的な例として「花見」の「花」、「人はパンのみにて生くるにあらず」の「パン」などがある。上述のように、意味Ⅱの「方言」には、意味Ⅰの「方言」(カテゴリー)の構成要素(メンバ)という側面がある。

 

方言研究者としての使用


 私は、少なくとも学術的な文脈においては、日本語の「方言」という名詞を意味Ⅰ〈ある言語の地域的な言語変種〉でのみ使用することとし、意味Ⅱ〈標準語・全国共通語に含まれない、特定の地域でのみ用いられる言語特徴〉で使用することは避けるべきだと思っている。学術用語としては一義のほうが誤解やあいまいさを避けられるということもあるが、それだけではなく、意味Ⅱでの使用は、各地域の方言(もちろんⅠの意)を言語体系として捉えず標準語・共通語の「なまった」もの、「俚言」と捉えるみかたにつながると思えるからである。

 こうした感覚は、方言研究者には共有されているのかと思ったら、案外そうではないようだ。日本の方言研究においては、「気づかれにくい方言」「気づかない方言」という表現をタイトルやキーワードに含む論文が1995年頃から2000年頃までに多く発表されており、2010年代後半においても複数見られる[6]。これは紛れもなく意味Ⅱ〈標準語・全国共通語に含まれない、特定の地域でのみ用いられる言語特徴〉の「方言」である。最近も意味Ⅱと解せる「方言」を用いる論考に接することがある。他の研究者はどのように思っているのだろう。

 

注.

[1] 「塩辛い」の意。

 

[2] 小林真由美2017「東大寺諷誦文稿注釈〔四〕:123行~167行」『成城國文學論集』39: 157-190. https://seijo.repo.nii.ac.jp/records/3952
( )は本文に付された「連絡線」の始点と終点に対応する。ここでは、小林が付した連絡線の番号は省略したが、連絡線が本文の構造にどのように関わるのか不明なため、( )は小林の翻刻どおりとした。

 

[3] 冒頭で規定した意味Ⅰの「方言」は、地域的差異を包含する上位変種があることを含意する。『日本国語大辞典』も意味Ⅰに相当する意味区分にこの例を位置づける。しかし、この例は、そのような上位変種の存在を含意せず〈それぞれの地域の言語〉という意味とも解せそうである。なお、次の注も参照。

 

[4] 『日国』では本稿の意味Ⅰを区分3, 意味Ⅱを区分1とし、ほかに区分2「特定の階級、仲間などの用いることば。隠語・俗語の類」、区分4「一般に、言語、特に、その国やその地域のことばをいう」とし、それぞれ江戸期以降の例をあげる。すなわち「方言」は〈社会的変種〉や〈(上位変種の存在を含意しない)地域言語〉あるいは〈言語〉の意でも用いられたと認定している。

 

[5] 多門靖容「比喩」『日本語学大辞典』(東京堂出版、2018年)

 

[6] 「国立国語研究所 日本語研究・日本語教育文献データベース」https://bibdb.ninjal.ac.jp/bunken/ja/ での検索結果による。

 

付記. 中国語・韓国語の「方言」、他言語の同義語ではどうかということも書く予定だったのだが果たせなかった。後日追記したい。

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