カウンタ

2212467(Since 21st May 2010)

研究ブログ

研究ブログ >> 記事詳細

2017/09/11

【映画評】『関ケ原』

Tweet ThisSend to Facebook | by suzumura

去る9月9日(土)、10時45分から12時15分までTOHOシネマズ渋谷スクリーン6において映画『関ケ原』(監督:原田眞人、2017年)を鑑賞しました。


寸評は以下の通りです。


**********************
原田眞人が司馬遼太郎の小説を基に映画化した『関ケ原』は、既視感の強い作品だ。


例えば、石田三成(岡田准一)が島左近(平岳大)とともに関ケ原へと向かう途中、追分で倒れた地蔵を土中から拾い上げる場面は、その後二度にわたって登場する地蔵の姿とともに、物語の始まりを印象深く彩る。


しかし、次の場面で三成が佐吉と名乗っていた幼少期に後の豊臣秀吉(滝藤賢一)と出会う様子を描き、そして関ケ原の戦いへと至る過程を辿る手法は、2000年のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』が第1話で関ケ原の合戦を詳述し、第2話から12回を費やして関ケ原開戦までの経緯を描出したのと類比的だ。


また、物語の終盤において島左近ら石田軍が東軍に四方を取り囲まれて身を寄せ合う様子はモスフィルム版の『戦争と平和』におけるロシア軍の砲兵隊の姿を彷彿とさせる。


あるいは、折々に挿入される目にも鮮やかな竹林や風に揺れる森の様子は、原田が2015年に監督した『駆け出し男と駆け込み女』の変奏ともいうべきものだ。


これに加えて、1966年に新潮社から上下巻の単行本として刊行された際のページ数がほとんど800ページに達する長編小説を2時間30分の映画にまとめ上げるために話に大きな緩急を与えなければならず、結果として司馬の原作の読者や関ケ原の戦いに興味を持つ者にとっては違和感がないとしても、歴史小説や日本の歴史に関心の薄い者には馴染みにくい展開となったことも疑い得ないところだ。


それでも、このような物足りなさを補って余りあるのが、原田の徹底した写実的な手法と様式性の高さ、視覚効果を巧みに取り入れた映像の美しさ、そして演者の顔立ちの明瞭さだ。


かつて黒澤明は、舞台や映画では当然のように用いられていた大きな髷を小ぶりで油で塗り固められていない、実際に江戸時代に人々が結っていたのと同じ様に改め、白黒映画の『七人の侍』(1954年)で雨の質感を出すために墨汁を用い、また『椿三十郎』(1962年)において赤色を赤色らしく見せるためにあえて椿の花に墨汁を塗るといった先駆的な試みを行った。


こうした試みは一面において物語の舞台となる時代の雰囲気を映像の中に蘇らせるとともに、他面において目の前の対象をそのまま撮影することが写実的なのではなく、見る者が対象に遡ってその像をありありと実感できることも写実性の追求であることをわれわれに教える。あるいは『蜘蛛の巣城』(1957年)で多用される抽象的な表現が能の所作を踏まえたものであることは広く知られる通りだ。


これに対して、原田も関ケ原の戦いに関わった人々の生きた姿に迫るため、尊貴な者の前での立ち居振る舞いや胡座の場合の両手の指の組み方から始まり、陣中食の作り方や合戦の様子など、随所に細やかな配慮を加えている。


戦いが終息した関ケ原の様子を映し出す場面において、そこかしこに血溜まりや血飛沫の跡を描くのは、合戦が一人ひとりの生きた人間によって行われていることをわれわれに雄弁に訴えかける。その一方で小早川秀秋(東出昌大)の軍勢が西軍から東軍に寝返って大谷刑部(大場泰正)の軍勢を襲撃する様子を見た徳川家康(役所広司)が口の中の昼食が噴き出るのも構わず歓喜の声を上げる姿は、転嫁を狙う者の非情さと一種の無邪気さを鋭く表現する。


これらの特徴的な映像を背景として、「大一大万大吉」を旗印に掲げ人々の幸福の実現を目指す理想主義の顔と、自らの信念の正しさに疑いを持たず、相手の意見になかなか耳を傾けようとしない狭量さ、そして自分が相手のことを好意的に考えているのだから相手も自分のことを好ましいと思っているだろうという楽観的な発想を持つ石田三成や、天下を手中に収めるために本来は格下であった豊臣秀吉に臣従し、石田三成の冷淡な態度にも胸中の怒りを決して表に現さない徳川家康を岡田准一や役所広司が好演することで、石田三成の敗北という動かし得ない結末が分かっている物語の求心力が維持され続けた。


それとともに、年を重ねるごとに腹部の肉付きがよくなる徳川家康や、武芸の腕前は並ぶ者がいないにもかかわらずしばしば奇声を発し、自らの名前も書けない無教養な福島正則(音尾琢真)の髪型がリーゼント風であることなど、いわば物語のえくぼといえる場面を挿入するのは、原田が慣れ親しんだアメリカ映画の話法に倣うものであり、自ずから深刻とならざるを得ない物語の緊張をほぐす効果を挙げている。


石田三成が関ケ原を決戦の場に選ぶ過程がやや駆け足であったり、伊賀者の初芽(有村架純)が中盤以降ほとんど印象を薄めて物語の本筋に関わらなくなるといった点にもどかしさを覚えつつも、いずれは正面から向き合わねばならなかった石田三成と徳川家康が戦場で雌雄を決するまでの様々な出来事をほぼ1時間30分かけて丹念に描く手腕は、監督と脚本を兼ねた原田の力量を如実に示していた。


北政所(キムラ緑子)の鄙びた尾張弁や往年の「槍の又左」という異名を連想させる前田利家(西岡徳馬)の槍捌きも含め、『関ケ原』はいくつかの見直されるべき点と、多くの見所を持つ作品といえるだろう。
**********************


<Executive Summary>
Cinema Review: "Sekigahara" (Yusuke Suzumura)


I watched a movie Sekigahara created in 2017 by Masato Harada at Shibuya TOHO Cinema on 9th September 2017. Today I publish my review of this movie.


トラックバックURLhttps://researchmap.jp/index.php?action=journal_action_main_trackback&post_id=63836
16:43 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸術批評