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2018/10/07

坂本龍馬の上海渡航説

Tweet ThisSend to Facebook | by 下田 悠真

2017年10月に発表された拙稿「坂本龍馬の上海渡航説」(『近時新聞』第29号)、2018年3月3日に口頭発表させていただいた「坂本龍馬の上海渡航説―動向と史料から可能性を探る―」(<(第2回)西郷どんについて歴史をもっと学びもんそ>講演会)の内容、その後頂いたご指摘を全てまとめて、現時点での研究成果としてここに報告させていただきます。

 

この研究は、<坂本龍馬がある時期に海外(上海)渡航をしていたのではないか>という問題を追究しようというものです。

坂本龍馬は幕末期に活動した人物であり、司馬遼太郎『竜馬がゆく』やNHK大河ドラマ『龍馬伝』などの影響で多くの人々に周知されている人物と言えます。これらの作品には坂本が上海へ行ったという話は描かれておらず、私は未読なのですが、武田鉄矢氏が監修した『お~い!竜馬』ではフィクションとして坂本の上海渡航が描かれているようです。肝心の学問(歴史学)として実証的に坂本龍馬の生涯を描いた伝記や評伝を紐解いてみても、坂本が上海へ渡ったとする指摘・記述は管見の限り見受けられません。

しかし、史料に目を通すと、新しいことが沢山わかってきます。

まず、元長府藩士福原和勝の贈位内申書(国立公文書館所蔵)を見てみると、次のような記述があります。

 

「土州藩坂本良馬ト倶ニ清国上海ニ渡航シ外国ノ情勢ヲ視察復命ス」

 

日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)の「福原和勝」の項目では「(慶応)三年赤間関在番役兼内用掛を命ぜられ、のち内命により坂本竜馬と共に清国上海に渡航して外勢を視察した」と解説されており、この贈位内申書が典拠の一つと考えられます。実は、私が坂本の上海渡航説について関心を抱く以前に、この『明治維新人名辞典』の「福原和勝」の項目を読んで、「坂本龍馬が上海渡航?誤記なのではないか」と思っていました。その思いは、谷干城「慶応三年隈山詒謀録」(島内登志衛編『谷干城遺稿』上)を見ることで覆されました。

次の「慶応三年隈山詒謀録」は谷の回顧録です。次のような記述があります。

 

「長崎より上海に官遊せり此所にて後藤象次郎及阪本龍馬等の徒と面会」

 

慶応2年12月、谷は同じく土佐藩士の前野悦次郎と共に長崎へ派遣されます。長崎に到着した谷は後藤象二郎から勧められ、慶応3年1月26日に長崎から上海へ旅立つことになります。上記の一文は「長崎から上海に渡ってここで後藤・坂本などに面会した」と解釈できるのではないかと考えました。

しかし、上記2点の史料を見ても問題点があります。

第一に、福原和勝の動向が贈位内申書の内容からしかわからないことです。福原についてのまとまった研究はありません。そのため、贈位内申書の記述を本当に鵜呑みにしてよいのかわかりません。

第二に、同時代の谷干城の日記である「長崎及上海行日誌」の記述には、長崎で後藤と会談した様子は記録されていますが、上海での後藤との会談は記されていません。坂本との会談に至っては長崎・上海いずれも記されていません。また、回顧録の「此所」は上海ではなく、長崎の可能性もあるため、解釈間違いを起こしている可能性もあります。

 

ただ、ここで大きな疑問が出てきました。

谷干城は、回顧録で坂本と面会したと言っているにも拘わらず「長崎及上海行日誌」では坂本の名は一切出てこないのです。何故でしょうか。土佐藩にとって未だに罪人であった坂本の名を記すことは憚られたのではないか、というのが現時点での私の考えです。

 

坂本の上海渡航を裏付ける最も有力な史料が『木戸孝允日記』明治2年5月24日の条です。次のような記述があります。

 

「中島作太郎も来話作太郎の僕支那人曾て坂本龍馬上海より買得て帰るものと云」

 

元海援隊の中島が木戸を訪ねてきた際に、下僕の中国人を連れていましたが、その中国人は坂本龍馬が上海で買って連れ帰った人物だと言います。坂本龍馬が上海に渡航していた可能性を高める有力な史料だと言えます。

この中国人について、お龍の証言である「千里駒後日譚」に記録されています。

 

「支那人の子を一人抱へました。父親は上海辺の者で長崎へ商売に来て居て出来た子で

名は矢ツ張り支那流の六ツか敷い名でしたが、龍馬が支那から日本へまで遥〱来たのだからと春木和助と云ふ名をやりました。」

 

「春木和助」という日本名を坂本につけてもらったと言います。坂本が「支那から日本へまで遥〱来たのだから」と言っているように春木和助は上海生まれだと考えられます。

さらに、この春木和助について興味深いことを御指摘いただきました。Facebookで繋がらせていただいている皆川真理子氏からの御教示です。

明治2年8月、大江卓は中島信行(作太郎)と共に上海へ向かいました。その際に大江は「セリバ」というポルトガル人を、中島は「遥来和助」という日本人を通訳に雇ったと言います。『大江天也伝記』には次のようにあります。

「勿論支那語も英語も通ずる訳ではないから、大江はセリバといふ葡萄牙人を雇ひ、中島は遥来和助といふ日本人を通訳に雇った。此男は名前からして仔細がありさうであるし、結髪帯刀で租界を練り廻してゐるので、種々話を聞いて見ると、彼れは長髪賊乱の時に戦歿した一官吏の孤児で、其後長崎に流浪して土佐の海援隊のボーイをしてゐた。却々気概のある男で遥かに来つて日本を助けるのだといふ處から遥来和助と名乗ってゐるのだといふ話で、面白い男だといふので中島が雇って来たのであった。」

 

このように春木(遥来)和助という興味深い幕末維新期の人物も浮上し、坂本龍馬と上海のつながりも感じることができます。

坂本の周辺には上海に渡航していた人物は多いです。例えば、後藤象二郎は慶応2年8月25日に土佐藩士や通訳のジョン万次郎などを伴って上海に向かっています(『山内家史料 幕末維新 第五編』)。また、長岡謙吉は慶応3年4月27日付きの武藤広陵宛て書簡にて、「脱後より今日に到まで我三港及上海等に歴遊致候」と書いているように上海に滞在していたことを示唆しています(『坂本龍馬全集』)。さらに、山田一郎氏によると、溝淵広之丞や沢村惣之丞も上海へ渡航している話があるということを紹介しています(『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』)。

 

『木戸孝允日記』などから坂本龍馬の上海渡航は有力だとして、その時期はいつ頃に比定できるのでしょうか。坂本龍馬の動向を追うと、詳細不明の空白期があります。

慶応3年1月~2月の動向を見てみましょう。坂本は慶応3年の年頭を下関で迎えています。「1月17日付き伊藤助太夫宛て坂本龍馬書簡」から1月11日に長崎に到着したことがわかります。そして、1月20日に坂本春猪に宛てて書簡を発して以降、2月10日に下関に到着したことが判明する(「2月14日河田佐久馬宛て坂本龍馬書簡」より)まで、書簡・動向が追えない状態になります。

 

よって、坂本龍馬の動向が追えない時期(1月20日~2月10日下関到着)と谷干城が上海渡航した時期(1月26日長崎出発~2月3日上海出発)は一致します。坂本が谷干城らと渡航していたとすると、この時期に行っていたのではないかと私は比定します。

ただし、坂本龍馬自身が上海渡航について何も語っていないことや同行者の詳細が全く不明なので、これからも検討の余地が十分にある課題です。

 

以上が、坂本龍馬の上海渡航説の考証になります。

最後に、この研究の意義・展望について述べておきたいと思います。

慶応3年1月~3月頃までの歴史は不明な点や論じられていないことが多く、幕末維新史の「空白」を埋めて考察していくことが必要だと考えます。そういう意味でも、この時期の坂本龍馬の動向を検討することは「空白」を埋めることに他なりません。また、個人史の大切さも見えてくるのではないでしょうか。歴史は個人だけで成るものではありませんが、マクロな研究につなげるためにも、ミクロな研究をし、それを集積する必要があります。沢山の語られ方をする坂本龍馬ですが、まだまだ検討事項や論点は沢山あるように思います。今回の研究では、「浪士・坂本龍馬」から「土佐藩士・坂本龍馬」への過渡期において、土佐藩にとっての坂本の立場が如何なるものだったのかを考えるうえで重要なのではないかと私は考えています。土佐藩によって未だに脱藩した罪人であった坂本との接触は非公式のかたちでなされたものだったのではないか、そのため谷干城の日記では記録も避けられたのではないか、と考えています(坂本が脱藩罪を赦され、海援隊隊長になるのが慶応3年4月です)。そのような仮説を念頭に、幕末期土佐藩や海援隊、坂本龍馬と周辺人物の研究を入念にやっていければと思います。

 

今後も何か研究成果を見出せれば、原稿を仕上げて投稿し、発表後に広く知っていただけるようにこのブログに記していきたいと思います。ありがとうございました。

 

 

補注

※拙稿「坂本龍馬の上海渡航説」(『近時新聞』第29号)発表後、下関市立歴史博物館を見学させていただきました。同館の福原和勝に関する展示では「旧臣列伝」の記述から坂本龍馬の上海渡航を示唆する解説がなされています。


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