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2019/06/22

朝倉和『絶海中津研究』

Tweet ThisSend to Facebook | by 中村健史
 遅ればせながら、同書を読んだ。五山文学ははなはだ不案内ながら、絶海は同郷の人でもあり、前々から興味があったので楽しかった。伝記研究のくだりでは、一二これまで疑問であったことがらを明らかにする機会を得、鄂隠慧奯の文事について知ることができたのも大きな収穫であった。また絶海に直接かかわるものではないけれど、『翰林五鳳集』伝本の考証も、折々これを利用する身としてはありがたい。
 しかし、その作品研究については、いささか物足りなく思う箇所が少なくない。

    一七一 香厳撃竹
  南陽塔下颺塼時  南陽塔下に塼を颺(あ)ぐる時、
  一撃声前忘所知  一撃、声前、所知を忘ず。
  近代叢林無此作  近代の叢林、此の作無し。
  満山脩竹碧参差  満山の脩竹、碧参差たり。
 (上略)要するに、香厳が、文字や知識に依るのではなく、ある日、草木を取り除いていた時、偶々瓦礫を投げ飛ばすと、それが竹を直撃し、その響きに、忽然と悟ったという話である。絶海の偈頌は、この話を題材にして、自身の心境(禅境、悟境)を詠出したものである。起句や承句に、香厳が南陽(河南省の西南部)の武当山に入り、慧忠国師の遺跡に庵居して大悟に至ったことや、大悟の後に詠じた頌の一句を踏まえていることは明らかであるが、転句でいきなり最近の叢林を難じ、「満山の脩竹、碧参差たり」と結んでいる。「香厳撃」から「満山の脩」を連想したのであろうが、山全体に生える長い竹は、緑色が入り交じって見えるという状態は、いったい何を意味しているのだろうか(今のところ、典拠は見付からない)。香厳の真摯な修行態度に比べて、最近の禅僧のくつろいだ有様を、象徴的に表現したのかも知れないが、畢竟、絶海の真意を知ることはできまい。ただし、彼の観念裡に渺茫と広がる悟りの世界の存在だけは、気付くことができる。
 以上のことから、『蕉堅藁』四十二番詩の八句目は、一方で深遠なる悟境の世界を象徴化したものではないか、と考えている。

 私の考えは筆者とやや異なる。第四句「参差」がふぞろいなさまをいうことは、周知に属しよう。しかし、おそらく色彩のむらを指すのではあるまい。「満山脩竹碧」は「満山碧脩竹」というほどのことであって、みどりの竹が山いっぱいに生えている様子が「参差」なのである。案ずるに、高く低くまちまちに伸びた竹を、この場合は指すのではないか。
 唐のころ、香巌智閑という禅僧ははねとんだ瓦礫が竹にあたる音を聞いて大悟した。香巌にとってはめでたい話だが、迷惑なのは竹のほうである。だれかが大悟するたびにゴミをぶつけられては、体がいくつあっても足りない。それに比べると、近ごろ、竹林は無事平穏、まことにおめでたい。だって香巌のような人はもういないのだから。だれも礫をはねとばさず、だれも道を悟ることはない。竹にとってはおめでたく、禅者にとっては憂うべき、叢林の現状であることよ。――絶海は、そのようにしゃれてみただけなのではないか。
 第四句は、べつだん深遠なる悟境を描いたものではない。ごくありきたりな漢詩の、ごくありきたりな「落ち」である。たしかに多少の禅的教養によって修飾されてはいるが、常人の理解を絶するような内容の詩では決してない。これが分からないとすれば、読む側に問題があるのであって、作った側に問題があるのではないことは確かだ。
 ことは五山の詩にかぎらない。そもそも禅は分からないものなのか。常人の理解を絶した存在なのか。私はそうは考えない。禅は、日常を重んじ、具体性を重んじる中国人の思考から生み出された宗教である。抽象を排し、人心を直指する宗教である。これほど簡明で、合理的な信心はない。むろん難解ではないとは言わぬ。しかし決して不合理ではない。私は中国人の持つ合理性を、かなり信頼している。禅はその信頼に応えるものである。
 分からないから禅だ、という俗解は、入矢義高のもっとも忌むところであった。禅は分かるものである。合理的なものである。当然、それを受けつたえたわが国の禅もまた、本来は分かるものであった。禅境をあらわした文学がひとり不合理であるいわれはない。禅に「非論理性を糊塗するための超越性」がないように(それ以外の「超越性」はたしかにあるにしろ)、五山文学にもそのような夾雑物はない。少なくとも、それがすぐれた作品であるかぎりにおいて、ない。
 作品の解釈がつかないときに、それを「読者には理解できないほど深遠な思想的、宗教的な内容が表現されているから、仕方がない。そもそも作者が、みずからと同じ悟境に達した人だけに向けて書いた詩なのだから、われわれは所詮縁なき衆生である」と説明するのは、正しくないやり方である。解釈がつかないのは、解釈そのものの誤りではないかと、やはり考えてみるべきだ。その手続きを抜きにして禅を持ちだすのは、禅を尊ぶがごとくして、じつは禅をなみするものである。五山文学研究は、かかる「禅の深遠さ」に逃げてはならない。むしろ、禅の平明さ、合理性に向き合う必要がある。
 われわれにとって、たしかに五山文学は身近な存在ではない。しかし、その縁遠さがこうした「禅とは分からないもの。それを題材にした詩も、最後のところで分からなくて不思議はない」という、誤ったあきらめに基づくとすれば、研究の責任は重いといわねばならぬ。分からないものを分かるようにしてこそ研究ではないか。

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