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2019/08/13

宇野「中国元朝治下の華北における秋耕試論」

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
宇野伸浩「中国元朝治下の華北における秋耕試論」『人間環境学研究』12 (2014): 111–118.

来週いきなり、最近になって回し始めた環境史プロジェクトの進捗報告をすることになりましたので急ぎ準備をば。まずは宇野先生の論文を読み直し。この論文は元朝期の環境史を考えるうえで先駆的なものだと思います。

東ユーラシア史を考えるうえで鍵とされてきた農耕と遊牧の境界にあたるいわゆる「農牧接壌地帯」。この論文は、元朝期(1271~1368年)のこの地域を「秋耕」に着目して考察することで、環境史的視点をこの境界の研究に導入するものです。

「秋耕」とは、収穫が終わった後の農地に鍬を入れて表土を反転させ、蝗害の原因となる昆虫の卵を駆除するもので、地中の水分を春まで保持する効果もあるとされます。元朝期の史料によれば、クビライ(治世1260~1294年)は中央政府の直轄地において1291年に秋耕の禁を緩めさせたことが知られます。❝秋耕の禁を緩める❞とは具体的に何を意味するのか、それを宇野先生はカイシャン(治世1307~1311年)とアユルバルワダ(治世1311~1320年)の時代に出された聖旨から読み解いていきます。14世紀初頭に発行された聖旨からは、大都路を含む五路においては農地の半分のみ秋耕を許し、以南の華北平原においては全面的に秋耕を推進する方針が伺えます。

実は秋耕は遊牧とは相容れないものでした。元朝期においても、遊牧集団の多くは夏はモンゴル高原で過ごし、冬を華北平原で越す季節移動をしていたものと思われます。宇野先生は現在もアジアやアフリカ地域で行われている「刈り跡放牧」と呼ばれる慣習に着目し、おそらく元朝期にもこれが為されていたであろうと推測します。これは、収穫後の農地に家畜を放牧するもので、栄養価の高い落穂を餌にできる極めて❝能率的な❞放牧スタイルでした。しかし、秋耕して土を裏返してしまうと、こうした落穂が地中に埋もれてしまう可能性が高くなります。これが秋耕が遊牧の妨げとなる理由であり、遊牧地ともなっていた華北平原の北部においては半分のみ秋耕を許した理由でもあると宇野先生は結論付けます。

カイシャンが勧農政策に力を入れ蝗害対策の聖旨が発令された1310年の前年は、華北で蝗害が繰り返し発生した時期でもありました。遊牧を生業とするモンゴルが支配者層を形成していた元朝と雖も、災害や飢饉が発生していた時期においては、農耕優先の政策を取らざるを得なかったのです。そしてこの14世紀初頭という時期はまさに、寒冷化が進んだ時期であったとされています。こうした気候変動とそれに対する人間社会の対応、その具体相を垣間見ることのできる秋耕についての研究は、今後の学際研究への縁となることでしょう。


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