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2019/08/15

向「モンゴル帝国とユーラシア広域ネットワーク」

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
向正樹「モンゴル帝国とユーラシア広域ネットワーク」秋田茂 (編)『グローバル化の世界史』ミネルヴァ書房, 2019年, 19–70.

モンゴル帝国の概説として見事としかいうほかない大部(50頁超!)の章です。9世紀から13世紀にかけて「中世温暖期」と言われる温暖傾向が続き、ユーラシア各地で人口の増大や農業生産の拡大、商業網の発達が見られました。こうした多方面での拡大はやがて既存の社会秩序を再構成へと向かわせていきます。この再構成の基盤となったのは、ユーラシア規模の広域ネットワークでした。向さんはこれを、「システム」のような存在をアプリオリに想定することなく、具体的なヒト・モノ・情報・技術などあらゆる移動性(モビリティ)を有するものをアクターとして扱い、それらが地方・国家といった境界を超えて関係しあう「広域ネットワーク(ス)」として描くのです。

これまでも歴史にある種のサイクルを見る考え方は、手を変え品を変え提示されてきました。その1つが歴史を「長い世紀」の連続と見る考え方です。この議論において「長い世紀」は帝国の秩序のうえに成り立ちます。一方で向さんは「モンゴルの世紀」までの東方ユーラシア史を概観するなかで、帝国秩序と交易拡大のフェーズの逆転を見ます。曰く、帝国形成以前に国際商業の上昇局面があると。東アジアから東南アジア地域の海域エリアにおいては、「長い12世紀」の方が、「モンゴルの世紀」よりも恒常的な貿易が活発であった可能性があるのです。それでは、こうした長い助走期間を経た上に到来した「モンゴルの世紀」がいかにユーラシア規模にヒト・モノ・技術を繋いだのか、向さんが次に見るのはモンゴル帝国の構造です。

自らの立身出世とともにあった股肱の臣たちを部族の長とし、あらたな人的連関網を基盤とする「モンゴル帝国」をチンギス・ハンが現出させたのち、次代オゴデイ以降に農耕地帯をも支配するようになると、帝国の中央機構は収奪・再分配の中心としてのみならず、税制機能を効率化させた統治の中心たることを目指すことになります。そしてそれは駅伝制の整備による交通網の発達とも軌を一にしていました。こうした帝国統治を主導したのが、帝国の軸を東アジアにシフトさせて——大元ウルスの誕生——第5代大ハンに即位したクビライ(1215~1294年)だったのです。モンゴル帝国は「長い12世紀」においてすでに形成されていたユーラシア東方の陸海両域の交易ネットワークの結節点であった中国沿海部を拠点として、帝国の中心と周縁とを結びつけていました。そしてそれらを結びつける紐帯が帝国の構成員たちだったのです。彼ら自身も宗族や宗教によって個々に人的ネットワークを形成していました。そしてそれらの多元的なネットワークは大ハンに結び付いており、こうした大ハンを中心とする膨大なネットワークの集積を向さんは「ネットワーク=帝国」と表現するのです。

クビライの死後も1305年頃からはチンギス一門同士の対立が収まり、帝国全体に緩やかな連帯が復活します。この「パクス・モンゴリカ」のなかで再びユーラシア規模でヒト・モノ・技術が行き交うようになったことを、近年の海域アジア史の成果は伝えています。この時代、青花のような交易品や投石機のような武器/軍事技術に至るまで様々な事物がユーラシアの東西を往来していました。そして、この種の商品や技術の往来の重要な担い手となっていたのが、モンゴルの寛容な宗教政策の下で人的ネットワークを形成していた宗教教団だったのです。例えばモンゴル帝国の西方3ハン国を改宗させたイスラム教は、その地でチンギスの血と並んで支配原理の柱となりました。さらに中国沿海部においてもムスリムのディアスポラが知られ、彼らの積極的な商業活動が伺えるのです。宗教集団による広域移動の例はイスラム教徒に留まらず、東方教会のキリスト教徒もまた重要な役割を演じていました。1つの宗教や文化伝統が優位化するのではなく、様々な文化伝統が共存するのが「モンゴルの世紀」の特色であり、その残滓はポスト・モンゴルの時代になってもユーラシアの各地に垣間見ることができるのです。


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