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2019/11/12

Preiser-Kapeller, "New Rome in a Larger World."

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
Johannes Preiser-Kapeller (Austrian Academy of Sciences), "New Rome in a Larger World: Entanglements and Teleconnections between Byzantium and the Slavic-Eurasian World of the 14th Century CE.," Lecture Series "Global Middle Ages from the Environmental Perspective." Sapporo: Hokkaido University, 11 November 2019.

ヨハネスの第2講演「より広い世界のなかの新たなローマ——14世紀ビザンツとスラブ・ユーラシア世界の間の相互連環と遠隔相関——」成功裏に幕を閉じました。第1講演と同じく14世紀に焦点を当てながらも、環境史が中心だった前回とは異なり、ネットワーク考察が主題となりました。



〈ヨハネス講演〉
13~14世紀におけるモンゴルの拡大は、アフロ・ユーラシアの秩序を再編することになります。あらたな、そして強大な隣人と相対することになったビザンツ帝国(395~1453年)は、領土の縮小に苦しみながらも、この再編の中でバランスを取りながら存在感を発揮します。モンゴル帝国の分裂以降は、奴隷交易で関係を深めた金帳ハン国(1242~1502年)とマムルーク朝(1250~1517年)とに対しては両者の交易の中継地点にあたる黒海交易を保全して関係を良好に保ちます。一方で、この両国と敵対したイル・ハン朝(1256~1357年)に対してもビザンツは積極的な外交政策を取りました。皇女マリアを第2代イル・ハンであるアバガ(治世1265~82年)に嫁がせたのもそのような政策の一環です。こうした状況下において、ビザンツが戴くギリシア正教会は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」であるアンティオキア総主教庁——当時はコンスタンティノープルに❝亡命中❞——を中心に東方進出を図ります。彼らはカトリコスを遠くサマルカンドまで派遣しているのです。

一方でローマ教会もまた東方進出を図っていました。その先兵となっていたのがドミニコ会やフランシスコ会のような托鉢修道会です。彼らはギリシア正教会以上に異教徒の地における活動を正当化していました。後代イル・ハン朝の首都となったスルターニーヤに大司教座を置いたローマ教会は、遥かサマルカンドやインド亜大陸南端までの進出を企図しますが、1336年以降のイル・ハン朝の分裂から成る政治混乱がそれを許しませんでした。ただし、ローマ教会の教区ネットワークは結果としてギリシア正教会のそれを凌ぎ、東方においてよりプレゼンスを発揮することとなります。フランシスコ会の修道士であったプラノ・カルピニ(1182~1252年)は教皇の命を受け、教区を拡大すべくモンゴル帝国の首都カラコルムまで赴いています。

一方、北方のスラブ世界へと目を転じると、その地を支配していた金帳ハン国領域にもギリシア正教会の伸長を見ることができます。ビザンツ領域を北方から荒らしていたブルガールやセルビア勢力を抑えるため、こちらの勢力と結ぶ必要があったのです。特にクリミアにおいて金帳ハン国から半ば独立した勢力を築いたノガイ(1299年没)とは姻戚関係を結び関係を強固のものとしていきました。彼が金帳のハンに敗れると多くの亡命者がビザンツへと流れることになります。さらに、コーカサス地域において注目に値するのがアラン人です。キリスト教化していた彼らは、ウルゲンチ方面にも広がっていたことが知られ、モンゴル時代には遠くカラコルムまで至っていたことを、フランシスコ会のウィリアム・ルブルック(1220頃~1293年頃)は伝えています。さらに元朝(1271~1368年)の史料は「アス(阿速)」の名で彼らがキリスト教徒として、さらには皇帝の親衛隊として3万人規模の衛兵団を組織していたことを伝えるのです。

その後、14世紀の中葉になるとペストの大流行がヨーロッパを直撃します。すでに内憂外患に苛まれていたビザンツ帝国は此処にさらなる縮小を余儀なくされていきました。しかし、こうした局面においても少なくとも精神的な面においてコンスタンティノープル総主教庁は依然としてエキュメニカルな存在として自らを主張し続けていくのです。退位後に僧侶となった皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス(治世1347~54年)は、1367年には教皇に教会の大統合を呼び掛けてもいるます。今はウィーンの国立図書館に所蔵されている2写本はこの時代(1315~1402年)のコンスタンティノープル総主教庁が発給した800以上もの文書を収録しており、極めて貴重な史料群となっています。

その後、シメオンのアラニア(14世紀中葉活躍)や、コンスタンチノープルから東方を遍歴しローマに至ったタガリスの旅行(1363~94年)がネットワークモデルでトレースされていきます。しかし、この時代以降には宗派を問わず、キリスト教会のネットワークは縮小していきます。15世紀初頭にはティムールの使節として西洋に赴いたスルターニーヤ大司教のジョンの存在が知られますが、それはカトリックが東方から引いていく最後の局面にあたっていました。こうした波が引いた後にやってきたのがオスマン帝国(1299~1922年)です。1453年のコンスタンティノープル包囲、1402年の「ティムールの奇跡」はついに再来せず、この地は陥落します。以後はオスマン帝国スルターンが、東方のハンと西方の皇帝との双方を表象する新たな時代が訪れるのでした。



〈質疑応答〉
学生さんたちがいっぱい来てくれて、質疑も実に盛り上がりました。まずはみのるさんが、キリスト教共同体のなかで異なる宗派間——例えばローマ・カトリックとギリシア正教——や東方でのコミュニケーション言語とはどのようなものであったのか、という御質問。その点に関しては、やはり困難が常に伴ったとのお答え。例えばタブリーズでシャムス・アッディーンに天文学を学んだキオニアデスなどは明らかに東方言語に知悉しており、理想の人材と言えたが、必ずしもそういうケースばかりではなかったと。時には全くその地の言語に通じていない人物が派遣されることもあったとのことでした。

次に僕が確認したのは、「東方」においては最終的にはローマ・カトリックの方が、ギリシア正教よりも長くその地盤を保つことに成功したわけだが、その要因は何か、と。答えとしては——すでに記事本体で書きましたが——やはり托鉢修道会の存在は大きかったであろう、と。彼らの「宣教」は異教の地での活動をより正当化していたのです。

その後には長縄さんの質問が続きました。14世紀は「危機」の時代と言われるが、一方でオスマン帝国に象徴される新興勢力の伸長期でもあったと、この相関をどのように考えるのかというものでした——この点は先のワークショップでも宇山先生が指摘されていましたし、やはり非常に重要なポイントです。ヨハネスの今回の答えは、例えばイブン・ハルドゥーンの「アサビーヤ論」のようなサイクルを考えることもできるだろう、と。一方で例えばこの時代には依然として異教徒であったリトアニアはカトリックと正教会との間で立ち回り、この時期に勢力を伸長させます。オスマン帝国もそうですが、この時期に教義や理念に縛られていた旧勢力に対してより現実的な路線を進んだ勢力が拡大したという傾向は見られるのだ、と。

次には再び僕がサブタイトルにあった「遠隔相関(teleconnections)」の意味を聞きました。これはまずは環境史の用語で「エルニーニョ現象」のような遠隔地の相関を示すものなワケですが、ヨハネスの示したネットワークはそうした「遠隔相関」なのか、と。ヨハネスは「遠隔相関」も見られるのだ、と。例えば情報がそれであるとの答えでした。ヨーロッパには元朝中国の情報がもたらされ、それがローマ・カトリックの政策などにも影響を及ぼすことにもなるのです。

次には再びみのるさんが、アラン人のところで彼らを「ソグド」と呼ぶ西方史料が引かれていたが、これをどう理解すればよいのか、と。ソグドは11世紀には中央アジアにおいてほぼ姿を消しているからです。ヨハネスはその通りであると。ヨーロッパ史料においては時としてこの種のアナクロニスティックな記述が見られるが、それは例えばその地に長きに亘って居たアルメニア教徒などの記述を14世紀の時空に当てはめるようなケースであり、ビザンツ史料にはモンゴルを「トハラ人」と表現するような興味深い事例も見られるとも。

次は学生さん(ティムール朝史)が質問してくれました。今回の話はキリスト教会による西方から東方への進出についてのものであったが、東方から西方はどうか、と。例えばティムールの征服の話はすぐに西方に伝わっている、と。ヨハネスはその通りであると答えてくれました。東方から西方への事例は沢山あると。そのなかで興味深いのは「公的」チャンネル以外にも「私的」なものもかなりあり、時には相当胡散臭いものもあるのだと。例えば14世紀フィレンツェに突如として「エチオピア王からの使者」と名乗る輩が現れ、教皇から金をふんだくったものの、偽物とバレたであるとか。伝わり方にもかなりのヴァリエーションがあるとのことでした。

その後はもう一度僕が、改宗譚の扱いについて質問をば。モンゴル帝国の3ハン国はいずれもイスラム教へと君主が改宗していくわけですが、ムスリム系の史料はいずれもその意義を高く見積もりすぎる傾向にあり、この辺りに関して、東方のキリスト教会の動向から何か考えられないかと。ヨハネスの答えは、ビザンツはモンゴルに限らず、長きに亘ってイスラム教勢力と領域を接してきたのでその対応には歴史があるし慣れてもいると。しかし、モンゴルに関しては「イスラム教へ変わる」という経験であり、これに対してはいずれの教会も苦慮している様子が見られるとのことでした。

最後の質問も学生さん(ロシア史)がしてくれました。最終的には収縮していくとしても、14世紀において一度はユーラシア大にネットワークを拡張したキリスト教勢力、その経験は数世紀を経ての世界進出の際に活かされたのかという——素晴らしい!——質問でした。ヨハネスはまずローマ・カトリックに関してはそれは確実にあったと。極東においてイエズス会は当初、この時期の史料の記述からその地域の情報を探していました。さらに南中国において当時のキリスト教徒の墓石を探してもいるのです。この時代の経験はその後の教会の思考体系や心象地理を規定しているのだ、と。一方でギリシア正教にはあまりそうした経験を生かした痕跡は見られないと。もちろん正教も後代、ロシア帝国に乗って東方へと進んでいくわけですが、その時の論理は当時とは違うものであったと。この点については長縄さんが補足をされて、実は生かした例もあるのだと。それはコーカサス、オセチアであり、19世紀のこの地域においては、14世紀の経験が生かされていると言えるとのことでした。


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