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2019/11/20

ランシエール『無知な教師』

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
ジャック・ランシエール, 梶田裕 & 堀容子 (訳)『無知な教師——知性の解放について——』法政大学出版局, 2011年.

こうした観察の結果を要約すると、「人間は知性を従えた意志である」と言うことができる。

同僚に「読んでみたら」と勧められた1冊——まさる君、ありがとう!どんな文脈で勧められたのかは忘れてしまいましたが、興味を持ったという❝熱❞だけは残っていたので読み進めました。先の学会では大御所の先生に「君はもう人を育てる立場なんだから」と言って頂きました。言われた内容には納得していませんが(冗談ですよ!)、そういう立場になってきたことは事実でありましょうし、そうした意味でもこの読書には良いタイミングでした。スリリングな1~2章と退屈なその後、これが逆でなくて本当に良かった。。

この本の内容は、1818年にルーヴェン大学でフランス文学の講師をしていたジョゼフ・ジャコトが経験した知的冒険に集約されます。革命の後、地元デジョンで名士となっていた彼はしかし、それ故に王政復古によって亡命を余儀なくされ、ルーヴェンの地にやってきました。この地でフランス文学の講師となった彼はオランダ語を解しませんでした。学生たちの方もフランス語を解さず、従って共通の言語が存在しなかったのです。最小限のつながりとしてジャコトがもたらしたのが『テレマック』の原文対訳版でした。彼は学生たちに対し、翻訳を頼りに原文を半分まで暗記することを課します。それはその場しのぎの解決策でした。しかし、その後のフランス語作文の試験でもってジャコトは生徒たちの驚くべき進歩を目の当たりにするのです。

このことは、ジャコトの精神に革命を引き起こしました。それ以前の彼は、教師の職務を自分の知識を伝授することだと信じていました。教師にとって本質的なことは❝説明❞すること、だと。しかし、ルーヴェンでの状況は彼に説明を禁じることになります。しかし、生徒たちは上手くやった。。子どもの言語習得を考えてみましょう。彼らは説明されることなく、親の使う言葉を理解し話せるようになるわけです。ジャゴトは❝事実❞を重視する人物でした。『テレマック』というテクストに先立つものとして、学生たちの前にあったものは❝意志❞のみでした。この場合のジャゴトの❝教育❞とは知識の伝授ではなく、学生たちを「自分たち自身の力で抜け出すことのできる円環の中に閉じ込めるようにした」ことなのです。「無知な教師による習得」が此処に完成しました。

生徒を解放すれば、つまり生徒自身に自らの知性を用いるように強いれば、教師は「自分の知らないことを教えられる」のです。ここに知性の解放と教育の平等性が宣言されます。大学の時にホッケー部の尊敬する先輩が——当時は最上級生となっていた——僕らの世代に「お前らがしっかりせなどうするんや!教えられる方は教える方を超えられん。チームを強くするには、お前ら自身がもっと上手くなるしかないやろ!」と檄を飛ばして下さいました。もしかすると、先輩は間違っていたのかもしれません。。

では、学ぶ者に自らの知性を用いるようにさせるのはどうすれば良いのでしょうか。ここでも、『テレマック』が大きな教訓となります。彼らはこのテクストを読み、暗記した。「能力は1つしかない、見たり言ったりする能力、見たり言ったりすることに注意を払う能力だ」。この能力は当然ながら性差や社会階級の別を問題としない平等な能力。それを踏まえれば、知性の解放は誰に対しても可能なのです。一段高みから行きましょう。❝教え導くこと❞、それを著者ランシエールは「愚純化」と表現します。この愚純化の帰結が知性の不平等(あるいは優劣)という観念を生むと。ジャゴトあるいはランシエールの言う「普遍的教育」とはまさにそうした観念から知性を解放する代物なのです。

その後の諸章はこの「人間は知性を従えた意志である」という命題に対する反論への反駁と、この命題の社会的応用に費やされ愚純な僕には退屈だったのですが、先の2章だけでも大いに刺激を受けました。僕の指導教官の指導教官であったモンゴル帝国史家の本田實信氏は——この北大でも長らく教鞭を取られていました——ペルシア語の講読授業で正答が出るまではただただ黙って学生たちの調べるに任せていたと言います。もしかすると、そういうことだったのかもしれません。メソッドの前に意志がある。さて、明日の講読、僕はどう致しましょうか。。


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