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2019/11/25

太田『ジハードの町タルスース』

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya

ちょっといま「辺境」というものについて考えなければならなくなっているので読みました。北大で長らく教鞭を取られた太田敬子先生の単著です。

7世紀の初頭、アラビア半島の交易都市メッカの商人であったムハンマドが神の啓示を受けて啓いた宗教は唯一神アッラーへの絶対的帰依(=イスラーム)を説き、急速にアラビア半島に広がっていきました。632年に預言者ムハンマドが死んだ後、その後継者(=カリフ)たちは半島の外に大征服を展開、当時西アジアの二大勢力であったサーサーン朝ペルシア帝国(226~651年)とビザンツ帝国(1453年滅亡)とに戦端を開きます。結果、7世紀の半ば頃までにはムスリム軍はサーサーン朝領のほぼ全域を併合し、同帝国を滅亡へと追いやるのです。一方のビザンツ帝国はシリア・エジプトという要地を失いながらもシリア地方の北辺にあたるタウロスおよびアマロスの両山脈地帯を防衛ラインとして持ち堪え、ムスリム軍のアナトリアへの侵攻を阻止しました。こうしてこの山麓地域一帯はイスラム教勢力とキリスト教勢力とがせめぎ合う「境界域/スグール(thuġūr)」、異教徒の領域に通じるイスラム教圏の「辺境」として史上重要な役割を担うこととなります。本書の主題であるタルスースは、アナトリア半島の南東の付け根に位置し、ビザンツ帝国との西部境界域の中心都市でした。8世紀末の再建から10世紀半ば過ぎまでの約200年に亘って、この都市は、「イスラームの拡大とその防衛のための戦い」を意味する「ジハード」の重要拠点となったのです。

使徒パウロの出身地としてキリスト教世界でもよく知られたタルスースがムスリム史料に初めて現れるのは、大征服によってシリアを占領して後、後にウマイヤ朝(661~750年)を開くシリア総督ムアーウィアがこの地に一次的に兵を逗留させた時です。しかし、ビザンツ帝国は撤退にあたってこの地域を破壊しており、この時期に本格的に入植は行われませんでした。タルスースがイスラム都市としての歴史を歩み始めるのは次代アッバース朝期(750~1258年)に入ってからのことです。その最盛期のカリフとして知られるラシード(在位786~809年)の再建事業のなかにタルスースも含まれていました。まずこの地に入植したのはラシードの廷臣(ハーディム)であったアブー・スライムであり入植した兵士の中核はアッバース朝革命を主導したホラーサーン軍団でした。788年秋のことです。その後、この都市の指揮権はアッバース家のアブドゥルマリクに移りますが、彼の派遣したヤズィードは旧ウマイヤ朝勢力であったということでホラーサーン軍団は彼を認めず、追い返してしまいます。ビザンツの攻勢もあり、初期のタルスースの情勢は極めて不安定であったと見られているのです。タルスースの重要性が増しその統治体制が整備されるのは、9世紀半ば頃のことでした。833年にカリフとなったムゥタスィム(在位833~842年)は従来の拡大路線から軌道修正し、タウロス山脈以西の領地を放棄、この方面における領土拡大を事実上断念します。結果、タルスースはキリキア門に通じるビザンツ境域最前線の都市となったのです。この都市は以降「ジハードの町」として声望を高めていきます。しかし、一方でこの時期はアッバース朝カリフの権勢が徐々に衰えていく時期でもありました。それと反比例する形で、史料には同市の住民の政治運動や中央政府への抵抗が記載されるようになります。エジプトで自立したトゥールーン朝(868~905年)はスグールに進出し、タルスースを影響下に置こうとしますが、この町の住民は最終的にはアッバース朝の支配を選択しました。しかしその後、カリフ政権もまたこの地に独立政権が樹立されることを警戒し、最終的にはカリフ・ムゥタディド(治世892~902年)がタルスースの軍事力を大きく削ぎました。それはもちろん内的のみならず外的にもタルスースの弱体を印象付けることになります。964年ビザンツ軍総司令官ニケフォロス(皇帝在位963~969年)はタルスースに猛攻を仕掛け、翌65年、この都市は開城を余儀なくされるのです。

200年に亘って「ジハードの町」として機能したタルスースは町全体がさながら軍事施設の様相を呈していました。建てられた無数の塔には投石器や弩が配備されており、それらは寄進財産(=ワクフ)として兵士に提供されていました。町にはジハードのためにイスラム教世界の各地から戦士が――そして学者や商人も――集い、彼らはダールと呼ばれる宿泊居住施設を利用することができました。政府の公的支援はすでに10世紀ごろには打ち切られており、その後は各地のムスリムからの寄付や寄進によってジハードを支える諸々のものが提供されていました。ダールには3つのタイプがあったと太田氏は述べます。1つ目は各地の富裕層が郷里の志願兵や学者・修道者たちのために設けたダール、2つ目はカリフ一族やバグダードの有力者が出資した彼らのグラーム(奴隷兵)の宿舎や訓練施設、3つ目は個人が信仰の証として設定したワクフによる小規模なもの。903年には34,000軒を数えたとされるダールを中心に、正規兵・志願兵・グラームをコアとしながらも、タルスースは住民全てが兵士である軍営都市でした。ラシード以後、イスラム教勢力の軍事的優勢が危うくなり、領土拡大政策が放棄された後にあたる9世紀半ば以降にこそ、最前線の都市となったタルスースのムスリム社会の全盛期があるのです。

同書の最後で太田氏はイスラム教世界の「辺境」をめぐる問題群に触れます。「イスラームの家」の境界域を意味するサグル(複数形スグール)は、地域的・行政的区分の境界を意味するハッド(複数形フドゥード/ḥudūd)とは、異教徒の領域に隣接する地域という意味をも含む点で異なる概念であると。異教徒の領域への通過領域であったサグルは、イスラム教圏における――アメリカ的な意味での――フロンティアの役割を強く持っていたのです。一方では「中央」と「辺境」という関係性においてタルスースの独自性が強調されます。この「辺境」には「中央」に対する後進性や従属性のニュアンスは明確には含まれないのだと。再建の当初からこの都市のコアは中央政府からの入植兵たちでした。さらにジハードのイデオロギーはこの「辺境」の地を「中央」に強く結びつける絆となり、「中央」との一体感を「辺境」の町に醸成することになります。この紐帯はしかし、カリフ政権という「中央」の解体によるタルスースの孤立をも導くこととなりました。「辺境」の町はこうして終焉を迎えます。陥落以後のタルスースは、「ジハードの町」としてむしろ、ムスリムの心性に深く作用する存在となっていくのでした。


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