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2019/12/09

塩谷『転流』

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
我らが塩谷先輩の新著読ませていただきました。みのるさんの中世ユーラシア水域科研のメンバーに名を連ねさせてもらっている関係上、この科研の最後には遊牧民と川で何かまとめなければと思っており、その意味でも実に参考になるものでした。

本書の主題は、アム川のカスピ海への転流であり、この、ロシアによる――常に継続されてきたわけではないにせよ――500年の長きに亘る挑戦は、ロシアと中央アジアとの関係性を政治・経済・文化など多面から照らすものなのです。現在世界の各地で顕在化している環境問題の中でもとりわけ話題に上るものの1つがアラル海問題です。1960年代には世界第4位の湖面積を誇っていたこの湖は、現在その10分の1以下にまで縮小し、消滅の危機に晒されています。縮小の直接の原因はソ連期(1922~91年)の大規模灌漑事業にありました。中央アジアの二大河川で“この湖に流れ込んでいた”アム川・シル川はいずれもこの事業のなかで大量取水の対象となり、結果として両河川からのアラル海への流入量は激減したのでした。現在この問題は多分野から解決が取り組まれていますが、歴史学の視点からこの問題に取り組む研究は――通史的なものがないという点も含めて――多くの課題を有していると塩谷さんは述べます。この本は、16世紀中葉以降のロシアがその500年の歴史のなかで幾度と無くその実現に挑戦してきたアム川のカスピ海への転流構想の歴史を辿る、類書のない試みなのです。アム川転流の挑戦は20世紀後半に至り、アラル海問題の大きな要因となるのです。

転流構想を最初に具体化したのはロシア帝国(1613~1917年)の皇帝ピョートル1世(在位1682~1725年)でした。彼はこの問題に留まらず、西欧をモデルとして旧来のロシア国家・社会のあり方を根本的に変えた君主であり、それはロシアと中央アジアとの関係においても言えることでした。彼の南方政策はカスピ海において大きな成功を収めます。ヴォルガ下流域のアストラハンを攻略し、その地を軍事・商業の拠点としました。ピョートルはヒヴァに遠征軍を派遣し、ホラズムの堰の破壊を命じます。これは、アム川を“本来のように”カスピ海へと転流させることを目的としていました。ピョートルはヴォルガ川からカスピ海、アム川を遡り、遠くインドに至る通商路の開拓という大きな構想を抱いていたのです。結果としてヒヴァ遠征は失敗に終わり、ピョートルの夢が実現することはありませんでした。しかし、それは後代の歴代皇帝にも受け継がれ、彼らのカスピ海沿岸および中央アジア進出計画にたびたび顔を現すのです。そして、それは地理上の探索とも連動したものでした。こうした政策の下に行われた種々の探検によって、まずはカスピ海とアラル海が分離していること、そして“今は”アム川がカスピ海ではなくアラル海に流れ込んでいることが知られるようになりました。

そもそもピョートル以後約1世紀半に亘って、ロシアはカラクム砂漠――カスピ海とアム川、アラル海に挟まれた領域――へと進出することはできませんでした。その実現はようやく19世紀中庸のことになります。1865年にこの地方の商業拠点であるタシュケントを占領し、この都市に軍事機関であるトルキスタン総督府を創設、さらにはカスピ海東岸の都市クラスノヴォーツクにも軍事拠点を構えるに至り、この領域はロシアにとって未踏の地ではなくなっていったのです。クラスノヴォーツクの占領とともに、かつてアム川がカスピ海に注いでいたときの河床(通称ウズホイ)を探す調査が始まりました。この調査にはロシア東洋学を代表する存在であるバルトリド(1869~1930年)も関係していました。これまでの研究ではロシア帝政期には転流実現に向けた具体的な試みは行われなかったとされてきましたが、塩谷さんはこれをはっきりと否定。転流の即時実現を目指した代表的人物としてニコライ・コンスタノヴィチ大公の名を挙げます。ニコライ1世(在位1825~55年)の孫でもあった彼の、1879年と1890年の2度にわたるホラズムの堰の破壊はしかし、現地に被害のみをもたらし、すでに交通路の開拓が鉄道建設を軸に回っていた1880年代においては中央の支持も受けられませんでした。

その後20世紀に入ると、中央アジアはロシア人企業家主体の大規模灌漑事業計画と綿花農園設立ブームに沸き、総督府の資金援助もあって現地民のあいだに綿花栽培が急速に拡大していきます。ロシア帝国の中央政府はこうした企業家の動きと連動しつつトルキスタンへのスラヴ系移民の入植と同地の原綿供給地化を同時に推し進めます。そのなかにはアム川の転流計画も含まれていました。しかし、これは野心的ではあるものの実行手段に乏しい政策であり、実現を見ないままロシア帝国自体が解体していくことになるのです。帝政末期のトルキスタン開発計画は失敗には終わったものの、その水利調査はソ連期の開発に確実につながっていきます。少なくとも1950年代までのソ連期中央アジアにおける土地水利事業および大規模灌漑開発計画は、モスクワを頂点とした垂直型の統制経済のもとに実施されました。そのなかで政府はアム川を転流させることでその左岸の灌漑地の拡大を目論見ます。このときの計画には明確に帝政期との連続性が見て取れるのです。1991年にソ連は解体し、中央アジアには5つの共和国が誕生しました。アム川もそれに伴い国際河川となり、その管理はモスクワではなく、流域諸国の共同となります。ソ連期の灌漑事業により干上がったアラル海とは対照的に、アム川のウズホイだとされた地点には青々とした湖が点在し、カスピ海の方に伸びています。13~16世紀には一次的にせよ起きていたと史料が語るアム川のカスピ海への転流は、500年以上の時を経て、その多くを人為的要因に拠りながら、再び起こっているのです。


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