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2019/12/11

妹尾「北京の小さな橋」

Tweet ThisSend to Facebook | by yoichi.isahaya
妹尾達彦「北京の小さな橋——街角のグローバル・ヒストリー——」関根康正 (編)『ストリートの人類学』下巻, 2009年, 95~183頁.

「14世紀の危機」プロジェクトを動かす関係で、特に東アジア史の文脈で環境史を考える研究に注目しているのですが、この研究はそれを通時代的に、しかもグローバルな文脈に押し広げて考察する、我々のプロジェクトに打って付けのもの。実際に多くを学ぶところとなりました。

漢籍から中華王朝の都市史を捉える妹尾達彦氏がこの論文で主眼に据えるのが「橋」、具体的には現在も北京に架かる銀錠橋です。この論文は「この小さな橋の歴史の中に、アフロ・ユーラシアの交通史と世界認識の変遷が凝縮されていることを論じるもの」なのです。15世紀初頭明代北京に建築された銀錠橋は、ユーラシア大陸の交通幹線の転換の産物でした。その転換は、農業-遊牧境界地帯から沿海地帯へというアフロ・ユーラシアに共通の歴史構造を背景としています。

紀元前9世紀から前5世紀にかけて、ユーラシア大陸の草原地域とそれに接する農業地域に、それぞれ遊牧国家と農業国家が形成されていきます。遊牧国家と農業国家との形成は、農牧複合地帯の生成をも意味していました。この複合地帯——本稿の表現で言う「農業-遊牧境界地帯」——こそが、異なる生態環境と生業をもつ地域が生みだす種々の物産が交換される場であり、前近代のアフロ・ユーラシアの歴史の主要舞台でとなります。緯度を同じくして東西に延びるこの境界地帯は環境遷移が少なく、大陸間移動および長距離交易の幹線となるのです。一方で、異なる環境を渡る南北移動もまたそれゆえに物産交換の場でした。環境遷移は同じ動物での移動を妨げ、そのために荷を下ろす場所こそが市場となり、都市となったのです。

しかし、4世紀から7世紀にかけての遊牧民の農業国家への侵攻とそれに伴う人口移動を契機として、9世紀以降こうした構造には徐々に変化が訪れます。大規模な人間移動をうけて沿海部に都市が発達していき、沿海部の都市を水路と海路でむすぶ沿海都市網が形成されていくことになるのです。内陸の後背地と内陸水運によって連結する近代の交易の構造が、この時代以降に徐々に生まれていきます。その象徴が、8世紀半ばにおけるアッバース朝(750~1258年)による首都バグダードの建設です。この都市はペルシア湾につながるティグリス川の下流沿岸に在り、9世紀以後になると、この都市を核に内陸と海路を連結するアフロ・ユーラシア規模の交通網の形成が始まります。この、農業-遊牧境界地帯から沿海地帯の都市網への交易の主流の転換がアフロ・ユーラシア史の肝であるわけですが、その完成は18~19世紀にかけてのこと。それは「近代」という名の、千年紀を股にかける一大転換でした。近代のアフロ・ユーラシアの主要都市は,ほとんどが沿海部に立地しているのです。

興味深いことに、妹尾さんはこうした農業-遊牧境界地帯から沿海地帯への転換、アフロ・ユーラシア史の縮図を、西アフリカに見ます。アフリカ大陸におけるサハラ砂漠と農業地域の中間に広がるサヘル(Sahel)は、農業-遊牧境界地帯そのものでした。サヘルとは、北方の乾燥したサハラ砂漠と南方の湿潤な熱帯地域の中間地帯をさす名称であり、歴史的に重要な役割をはたしてきたのです。サハラ砂漠からの物産と農業・森林・沿海の物産が,このサヘルで交換されることにより、この地帯にアフリカにおける代表的な古典王朝が誕生し、19世紀にいたるまで、アフリカの歴史を左右する重要事件はこの地帯で繰り返し生じることになります。しかし、近代になると西アフリカは劇的に変貌することになります。ポルトガルが、サハラ砂漠の陸路ではなく、大西洋を通って直接に来航して以来、西アフリカの沿海部には、西欧近代国家による植民都市が次々と建築されていくことになります。結果として、今日の新しい都市と国家は、ほぼすべて沿海地帯の都市網を中核につくられ,西アフリカの繁栄の中心は,農業-遊牧境界地帯の都市と国家から沿海地帯の都市と国家へと移っていくのです。

一方で中国においては、その初期には、洛陽を中心とする中原が、密度の高い都市網を発展させることになります。それはこの地が黄河の南北を結ぶ交通の要衝に位置していたことに起因しており、やはり農業-遊牧境界地帯をはさむ交易が都市と国家の形成をうながしているのです。その後、隋王朝(581~618年)の中国再統一にともない、7世紀初に開削された中国南北をつなぐ大運河は中国の都市網を内陸型から沿海型に転換させる契機となりました。内陸水運である大運河が交通幹線になったために大運河沿線の都市が勃興し、9世紀以後には大運河南端の杭州などが中国の主要都市へと成長していきます。そして宋代(960~1279年)以後、内陸水運と海路が密接に連結する時代が到来するのです。このような内陸から沿海への主要貿易幹線路の転換に応じて、中国大陸の都の変遷パターンも、北宋の都城・開封を過渡期として長安・洛陽の東西両京制度から、北京・南京の南北両京制度へと転換していきます。両京制度の転換は、中国の物流をになう都市網が、長安を中核とする都市網から北京を中核とする都市網へ転換することを意味していました。これは、農業-遊牧境界地帯から沿海地帯への都市網の転換に対応した現象なのです。こうして歴史の表舞台に登場してくる北京は、草原地帯の陸路と大運河の内陸水運、東シナ海の海路をすべて利用できる立地条件をそなえていました。

「内陸の農業-遊牧境界地帯から沿海地帯への歴史の転換は,通行空間の機能を集約する橋の変遷に凝縮されている」妹尾さんはそのように主張します。「この点は、時代を象徴する橋が、前近代社会を象徴する内陸部の橋から、近代社会を象徴する沿海部の海岸道路を連結する橋へ転換することによくあらわれている」のだと。現在の北京の都市計画は元王朝(1271~1368年)の首都大都の建設にまで遡ります。遊牧帝国であった元は、この都市を冬営地と位置づけ、北側の湖沼地帯をユーラシア大陸東部の陸海の交通幹線の交差する物流の要として整備しました。その後に成立した明王朝(1368~1644年)は、この遊牧帝国の都を明初の首都であった南京をモデルにして中国伝統の都市へと改造していきます。この北京改造の過程で誕生した銀錠橋は「人間主義が高まり世俗的な王権が形成される時期の産物で」した。銀錠橋を造る目的は、北京城内に美しい景観を造ることであり、あくまで世俗的な欲望にもとづくものであったのです。そしてそれは同時に江南風の庭園を造るという中国伝統文化を主張する政治的行為でもあり、ここに世俗的欲求と政治的行為が無理なく合致する近代的社会の訪れを見る。つまりは、この世俗と政治のアーチこそ、銀錠橋とグローバル・ヒストリーとを繋ぐものなのです!


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