研究ブログ

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2018/07/20new

長澤雅男先生

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2018年3月11日、長澤雅男先生が亡くなられた。

卒業論文と修士論文の指導教員は長澤先生だった(現東洋大学教授の戸田愼一さんが当時助手で、研究の手続などは戸田さんにもものすごく多くを教わった)。

1982年に先生が書かれた『情報と文献の探索』(丸善)という本がある。この本は、衝撃だった。もちろん最初からその(この「その」はあとの部分を受ける)ようなことを考えていたので図書館情報学という奇妙な研究室に行ったのだが、改めて世界の知識は有限であることをてらいなく素直にかつ具体的に示しているこの書物を見て、それでもやはり衝撃を受けたのである(あまり関係ないけれど私のパートナーは中学校でフランス語の辞書を手にしたとき「これ一冊でフランス語の世界が構成できる」と興奮したという)。

フーコーは次のように言う(アクサンはLaTeXのコードで示す)。

La question que pose l'analyse de la langue, \`a propos d'un fait de discours quelconque, est toujours: selon quelles r\`egles tel \'enonc\'e a-t-il \'et\'e construit, et par cons\'equent selon quelles r\`egles d'autres \'enonc\'es semblables pourraient-ils \^etre construits? La description du discours pose une toute autre question: comment se fait-il que tel \'enonc\'e soit apparu et nul autre \`a sa place?

英語だとまあ、こんな感じ(Kageura, 2012から):

The question that the analysis of {\it langue} raises, in the face of a certain fact of discourse, is always: from what kind of rules was this {\it \'enonc\'e} constructed, and, consequently, from what kind of rules can other {\it \'enonc\'es}, that resemble this one be constructed? The description of discourse raises a completely different question: how is it that this {\it \'enonc\'e}, and nothing else in its place, appeared?

で、まあこの差異は最も簡単には博物学的な列挙と「科学」的な規則による機序の説明というかたちで現れるのだけれど、ここで二つの決定的に重要な問題がある。

第一に、列挙は何を列挙するかがわかっていないとそれ自体重大な理論的問題を含んでいること(それがわかっている上での現実的な問題とは別に・もちろん現実的問題を軽視するわけではない)。
第二に、静的に列挙するだけではなくその様態をきちんと書こうとすると、適格性ではなく現実的存在可能性に沿ってダイナミズムを書かなくてはならないこと。

しばしば、第一番目の問題は、愚鈍な記述によってのみ突破口が開かれる。それができないと第二の問題には到達できない。

最近、図書館情報学関係の学会で、記述の発表に対し「それは何を目的としているのですか?」という質問が出ることがある。

根本的な無理解に基づく質問で、勘違いも甚だしい。それが目的なのである。もしそのような質問をする視点に自らの研究を置くのならば、そこで真面目に勝負すればよい。それは、普通には、言語処理や情報処理に足を置くことを意味する。

長澤先生の『情報と文献の探索』にはこの点をめぐり図書館情報学という奇妙な領域が担う、この世界において本質的な重要性が表出されている。

それが理解できない人と、長澤先生への気持ちを追悼の場として共有したくはない、という程度には、つまりとてもたくさん、長澤先生にはお世話になった。
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2018/06/02

「・・・について」と「・・・についてどうである」:権利の侵害について、少し

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いささか強引に言い切ってしまうと、言語表現の形式を日常生活の中で自動的にどこまで使い分け操作できるかは、単に自分を賢く見せたりするパフォーマンスとしてでなく、不当な状況に気づきそれを修正していくためにも大切です。

以下は、当たり前のことではありますが、それを侵害して平然としていたり、さらにその侵害に気づかぬままそれを流布させたりする状況があるので、改めて言葉にしておくことにしました(別に書いておこうと考えていることが二つあるのですが、それらの前に)。

* * *

竹山先生の『定理のつくりかた』を紹介した文章に書きましたが、かちっとした本を丁寧に「読む」ために、最低、以下の5層で手を動かしながら読むことを学生には勧めています。
  • 文字通り論理展開を追う(一文一文を論理式に落とすつもりで)
    • その際、各文の最初の数語をノートに書き出すとよい
    • 新情報・旧情報を意識する
    • 外延集合(疑似外延集合でもよい)を想像すること
  • キーワードを書き出す
    • 定義を言えるかどうか確認する
    • キーワード間の関係を統合的関係と系列的関係の双方から図式化する
    • キーワードを定義で置き換えて読んでみる
    • この際、索引を活用する
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について」という指示的要約を、句の形式で与える
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について何が言われているか」という報知的要約を文のかたちで与える
  • 項・節・章といったより大きなまとまりごとに構造を可視化する
    • 目次を段落単位まで詳細化してみる
    • 目次を手引きに、別の構成ができないか考える

このうち、3番目の「何について」と4番目の「何について何が言われているか」をきちんと区別することは、本を読むときだけでなく日常生活の中でもとても大切というお話し。

* * *

これを区別する習慣がないと、私たちは、3番目の評価を飛ばして4番目の「何が言われているか」の部分にのみ目が向いてしまいがちです(n=まあ二桁の大きくも小さくもないところくらい)。そのように読んでしまうと、数学の証明も教科書を追っている間はわかるように感じますが、教科書を置いて、証明を自分で再構成しようとするとよくわからなくなったりします。

数学の証明のような「むずかしい」ことだけではなく、日常生活の中でもこの区別はとても大切で、この部分を明確にすることで可視化できる権利侵害はかなり(トークンとして)あるように見受けられます。

例えば、婚約者の親に挨拶に行ったとき(一応男女の組で女性が男性の親に挨拶に行ったものとします)、婚約者の親が

結婚したあとも仕事は続けていいですよ。

と言ったとしましょう(変な例で申し訳ありません)。

この発言を「何について」の観点から評価しましょう。

パートナーの両親には、私の仕事について、結婚後だろうが結婚前だろうが口を出す権利など一切ない。

それにもかかわらずこのような発言をしてしまったのですから、この親は、他人の権利を尊重するという基本的な社会の概念を理解していないことになります。謝罪して撤回させないと、「悪意なく」、権利のないことに口を出す資格を得たと意識するともなく思い込み権利侵害を続ける恐れがあるでしょう。

ところで「何について」を飛ばして「何が言われたか」の評価をしてしまうと、もしかすると「仕事を続けてよい」という部分を取り上げて「理解のある親」と肯定的に評価してしまいかねません(このような典型的な例を改めて対象化してしかるべき文脈で出して論ずるならば「そんなことはない」と思うかもしれませんが、すぐ下で見るようにそう簡単ではありません)。

ここで重要なのは、「何について」が不適切なので、そのレベルで話を却下し撤回させ、「何が言われたか」をめぐる議論には入らないことです。

会社で上司が

Aさんは今日は暑苦しい格好をしているね。綺麗じゃないね。

と言ったとき、Aさんに味方する気持ちでAさんの同僚のBさんが

そんなことはないですよ。Aさんは涼やかですよね。

と言ってしまうならば、Bさんの「意図」(というのは言語表現の属性として検証可能な対象として扱われるものでない限り一刻も早くゴミ箱に捨てるべきものです)とは別に、上司がAさんについて言う権利のないことを口にしさらにBさんもその権利のない話題を継続することでAさんへの侵害を認めてしまうことになります。

この状況では

会社でそのようなことを話してはいけません。

というのが適切な対応になります。「何について」のレベルで評価し、不適切ですね、というので終わり。

つまらなくなる? 華やぎがなくなる? 生の充実感がなくなる? 

Aさんであれ誰であれ、別にあなたをつまらなくなくさせるために、周りを華やかにするために、あなたに生の充実感を持たせるために、仕事をしているわけではありません。とりわけ相対的に権力のある側が自分の感情の維持を部下に求めるのはモラハラです。

* * *

2018年5月10日に自民党の加藤寛治衆議院議員は、「(結婚する女性は)3人以上の子どもを産み育ててほしい。これが世のため人のためになる」と語ったことが、メディアで報じられました。

この発言に関して、あるべき対応は、単に「あなたにはそのように言う権利は何一つない」であって、それでおしまいです。

誰の発言であれ同じですが、政治家の発言である場合、権利侵害に加えて、本来政治家の任務がそれぞれの選択が楽しくできるような社会環境を整えることにあることを考えると、それをやらずに(という点の説明は省略します)権利のないことに口を出すような政治家は政治家としても失格ということになります。

ところで、東京新聞はこの発言を2018年5月11日朝刊で取り上げていますが、そこでは、発言の紹介に続いて、

子どもを産まない女性への配慮にかける発言。

と書かれています。配慮に欠ける以前にそもそもそのようなことを言う権利がないという視点は抜け落ちています(意図とか配慮とか社会においては本来どうでもいいものであるべきです。配慮がないと問題が起きるような制度は制度としては失敗です。すべて同時に赤になったり青になったりする信号のある交差点では運転者に配慮が求められますがそれは信号が信号としてまともに機能していないからです)。

加藤氏の発言に対して、そもそもそのような発言をする権利を加藤氏は有していないという確認がないがしろにされた結果、どのような状況になっているかは、長崎新聞が2018年6月1日に報じています。見出しは

加藤氏の「3人以上産み育てて」発言に肯定的意見 「人口減少を踏まえた」と自民県連女性局役員ら


というものです。

この長崎新聞の記事は、加藤氏の発言も、その話題ではなく主張に対して賛成等々意見を言うことも、そもそも不適切だという当たり前の確認はなされないまま、自民県連女性局役員らおよび関連する発言を紹介していることで、越権行為の容認を強化することに貢献してしまっています。

自民党県議の江真奈美県議が共産党の女性県議らと「結婚・出産は個人の自由。自民党の議員もいま一度考えて」と訴えたことは紹介されていますが、「結婚・出産は個人の自由。」であるからそもそも子どもを何人産むべきかといった議論そのものが妥当性に欠くという話に記事がなっていないのはとても大きな問題です。

肯定的意見であろうが否定的意見であろうが、そのような「意見」をそもそも言う権利はない、ということを確認しないと、ずるずるとこうした越権行為が看過される状態が続き、それに社会が麻痺してしまうと、モラハラを前提とした社会関係がそうと気づかれないまま蔓延してしまうことになります。

* * *

子どもを産まない女性への配慮にかける発言」という文言と権利がないこととの関係についてはもう一つ整理しておかなくてはならないことがあるのですが、長くなるのでやめます。大まかな方向性だけ、科学とのアナロジーで示しておきます。

科学は捏造によっては破壊されません。捏造がまっとうなものと同じものとされ区別されなくなると破壊されます。

直接関係ありませんが、教育は、この境界にどうしても関わってしまう微妙なものです。

* * *

ある話題について、そもそもそれが話題として提出されることの妥当性は、それに肯定的な述語を与えるか否定的な述語を与えるかとは独立に評価されなくてはならないこと、それをしないとどうなるか、どうなっているかを少し見てみました。

実は、話題の位置付けを独立して評価するときには、述語の性格を見ることが有効な場合がありますが、それについてはやはり長くなるのでここでは述べません。そのうち機会があったら扱いたいと思います。

* * *

最後に、冒頭で使った「自動的に」について一言(よりも長くなるけれど)。

あまり考えもせず何となく「1点刻みの入試の弊害」といった空疎な言葉を空疎に繰り返す人がいます。「情報リテラシー」についても「情報を主体的に読み解く」という空疎な言葉を繰り返すことで「情報リテラシー」の欠如を自ら行動で示しつつ「情報リテラシー」の重要性を主張していると思い込んでいる情報リテラシー研究者(?)が私のそう遠くない周りにも少なからずと言ってよい程度に見受けられますが(とはいえそうした人たちも一部の「現代思想」屋さんたちのように括弧付きの「哲学者」が括弧付きであることを喜んだりという絶望的な内輪の倒錯に自足するまで堕してはいないことを喜ぶべきなのではありましょう。レストランでどうにもならない料理が出てきたときにシェフが私は括弧付きの「シェフ」だからなどというのがもちろん完全に無効であって私たちのまっとうな生活はそれが無効であることに支えられているということに括弧付きの「哲学者」さんたちは思いをめぐらせるほうがよいでしょう。もちろん「ね、わかるでしょ」に自閉した仲間内のごっこ遊びを何かと勘違いしている人たちには難しいかもしれませんが)、冒頭の「自動的に」という言葉はこの「主体的に」と対立するものとして意識的に用いたものです。

「リテラシー」の原義である「読み書きの力」そしてもう少し広げて「言葉を扱う力」は、母語(と一応位置付けられる言葉)と第二言語以降の言語を対比してみればすぐさまわかるように、その到達状態においては自動的なものです(車内放送は「自動的に」わかってしまうのが「言葉を扱う力」を身につけている状態であって、「主体的に」聞き取らなくてはならないのはその欠如を意味しています)。一般に基盤を構成する力やスキルは「してしまう」ようになることが到達の状態であって、それらを「主体的に」やらなくてはならないならばそれはきちんと身についていないことの言い換えに過ぎません(主体的に歯を磨こうとか、排泄は主体的にトイレでしますとか、何に似ているかというと「週末男の料理」のようなものに似ていて、一刻も早くゴミ箱に捨てたい感じですね)。

* * *

お口直しにこちらもどうぞ。
09:34 | 投票する | 投票数(1) | コメント(0) | 社会情報リテラシー講義
2018/03/11

竹山美宏『定理のつくりかた』森北出版, 2018年3月, 2000円+税

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デカルトが疑いつつ存在する私は疑えないと言ったとき、その疑えなさは論理的に取り出されたものであって実体としての私が措定されたわけではないが、それだからこそ、その疑えなさを出発点に展開された思考の全てが今度は疑いつつある私の普遍性を論理的に支えることで、私たち一人一人の皮膚の内側とそこに維持された存在を反映した観念は相対的な権威の不当な押し付けを拒む存在であり相対的な権威の不当な押し付けを拒むべき存在であることを、完全に明らかにした。

そのはずだった。

記号における思考は、そのように展開されるはずだった。高度な科学に限らず、人間において、一般に。

人間にとってどうしても必要な存在への認識を開くために欠かせない記号における思考は、けれども、頻繁に悪用され、不当な言葉が多用され、そうした不当な言葉を用いた相対的な権威の押し付けは、しばしば個人の皮膚の内側にまで入り込み、その存在を蝕んできた。不幸にして、その状況は悪化さえしているように見受けられる。

* * *

本書『定理のつくりかた』の「まえがき」には、次のようにある。

この本の目的は、中学校程度の数学の知識を前提として
数学者はどんなふうに問題を立てたり、解いたりするのか?
という問いに対する私なりの答えをお話しして、読者のみなさんと数学の研究の疑似体験をすることです。

第一に、本書は数学の本である(版元のサイトには、「読み終えるころには、初めて見る問題でも、『数学者ならこう考える』と自然に思い浮かぶようになるでしょう」、「数学に興味のある高校生・大学生はもちろん、『数学者ってどんなふうに問題をとらえているのだろう?』と、知的な関心をもっている大人の方でも楽しめる内容になっています」とある)。第二に、本書は「体験をする」ための本である。

ここでは、第一の点を少し脇に置いておく。本書が扱っている主題は数学だが、本書は、その範囲を超えて、数学を題材として、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくための優れた、そして極めて稀な手引きとなっているからである。

「まえがき」の最後の方に、次のような一節がある。

数学が、大学入試のように人間を選別するためのものではなく、本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みであることを、改めて確認したいと思います。

少し進歩的な考えをもった人が感動しそうな一節である(なんだか偉そうだけど、私も感動しました)。けれども、ここでは感動を少し我慢しよう。本書は「数学が、大学入試のように人間を選別するためのものではなく、本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みである」という主張に感動するためにあるのではなく、それを「確認する」ためにある。それを疑似的に「体験」しつつ。

したがって、こうした素敵な部分を観念的にではなく(少し極端な例を出すとガロアが若くして決闘で倒れたことをロマンチックに捉えて数学に憧れる、といった感じで捉えるのではなく)、「考えること」に関する極めて具体的なプロセスに関するものであると捉えることが大切になる。

なので、本書を、「本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みであることを、改めて確認する」ことができるようなかたちで読むためには、少しだけ大切なことがある。
  • 読み飛ばさないこと。もちろん、何度も読むことを考えて最初は読み飛ばしたってよいかもしれない。細部を、一見したところ簡単なことでも、一つ一つ丁寧に確認していくこと。
  • 書かれている内容について理解するだけでなく、書かれている内容について理解するとはどういうことかを一つ一つ確認すること。
  • さらに、記号において考えるとはどういうことかという観点から本書を体験するために、記号や言葉を取り上げ、それを追ってみること。
さて、一般に、丁寧に「読む」ために、最低、以下の5層で手を動かしながら読むことを学生には勧めている。
  • 文字通り論理展開を追う(一文一文を論理式に落とすつもりで)
    • その際、各文の最初の数語をノートに書き出すとよい
    • 新情報・旧情報を意識する
    • 外延集合(疑似外延集合でもよい)を想像すること
  • キーワードを書き出す
    • 定義を言えるかどうか確認する
    • キーワード間の関係を統合的関係と系列的関係の双方から図式化する
    • キーワードを定義で置き換えて読んでみる
    • この際、索引を活用する
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について」という指示的要約を、句の形式で与える
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について何が言われているか」という報知的要約を文のかたちで与える
  • 項・節・章といったより大きなまとまりごとに構造を可視化する
    • 目次を段落単位まで詳細化してみる
    • 目次を手引きに、別の構成ができないか考える
さて、あとは読んでください、ぜひ、というのもあまりに無責任なので、以下では、まず目次を示して、それから、いくつかの部分や言葉を取り上げ、「体験」、それも理解するだけでなく理解するとはどういうことかを体感する体験をするための、ヒントを(というと偉そうですみません、私が楽しんだ読み方のいくつかです)示そう。

* * *

まず、目次。分量の関係で節見出しまで(読む際に目次と索引のコピーを取っておくとよいでしょう。版元が目次と索引のpdfを提供してくれるとありがたいです)。

第1部 定理をつくるための考えかた

第1章 問題の立てかた
1.1 問題をはっきりさせる
1.2 問題の読みかた
1.3 問題を書き下す
1.4 問題を立てるときの難しさ
第2章 問題を解くための考えかた
2.1 過去の経験を生かす
2.2 アイデアを得るための方法
2.3 議論の進めかた
第3章 答えの書きかた
3.1 答えを書く目的
3.2 どのように答えを書くのか
3.3 答えには何を書くのか
3.4 自分の答えを見直す
第4章 新しい問題のつくりかた
4.1 データを変える
4.2 一般化する・特殊化する
4.3 逆を考える
4.4 ほかの事項と関連づける

第2部 数学の技法

第5章 場合分け
5.1 どのようなときに使うのか
5.2 場合の分けかた
5.3 積み重ね型の場合分け
5.4 場合分けで注意すべきこと
第6章 数学的帰納法
6.1 どのようなときに使うのか
6.2 数学的帰納法の考えかた
6.3 累積帰納法
6.4 数学的帰納法を使うときの注意
第7章 対偶の利用と背理法
7.1 対偶の利用
7.2 背理法

第3部 ピックの定理をめぐって

第8章 問題を立てる
8.1 何が問題なのか
8.2 問題の主要部分を明確にする
第9章 問題を解く——公式を見つける
9.1 規則性を探る
9.2 公式を予想する
9.3 一般化する
第10章 問題を解く——証明する
10.1 簡単な場合に証明してみる
10.2 格子三角形についての証明
10.3 一般の格子三角形についての証明
第11章 答えを書く
11.1 証明を振り返る
11.2 当たり前に思えることもきちんと考え直す
11.3 議論を簡潔にする

* * *

次に、いくつかのポイントを取り上げて。


冒頭。「1.1 問題をはっきりさせる」(p. 2)の「三角形の面積について考えよう」。次のような、興味深い記述がある(引用はいずれもp. 3)。

はっきりした問題とは、ほかの人が内容を正しく理解できるように文章として書き下された問題のことである。

自分の問題を文章として紙などに書き出してみると、それが自分の問題意識をきちんと表現しているかどうか、客観的に検討できます。そして、この検討を通して、自分が何を問題としているのかを、さらにはっきりさせられるのです。

その上で、「正しい読みかたで読めるように問題を書き下せれば」、「きちんと伝わるはず」なので、というかたちで、「問題の正しい『読みかた』」に移っていく。ここで、「正しい」という言葉が使われていることに注意しよう。「主体的に情報を読み解く」という「情報リテラシー」の主張が「読み解く」とは何かを自明のものとし、それも極めて緩いレベルで自明のものとしている中、「正しい」という言葉に賭けられているものは大きい。

読み方の第一は「言葉を理解する」(pp. 4-5)。

ここで与えられている、「整数」の定義(p. 4)を、「これは知ってた」とか「改めてなるほど」と読むだけではなく、この、小さな段落に書き込まれている100文字程度の文字の列が、どのように「定義」になっているのか(これが「定義」と言えるのはどうしてで、そうすると「定義」とは何で)、私たちはそれを読んだとき何を前提としているから何が理解できるのか、それを通して定義を「きちんと理解すること」とはどのようなことかを確認しよう。


記号について。例題1.1(p. 4)には「素数p, q」というかたちでpとqが出てくる。そして、「式の意味を理解する」(pp. 5-6)には、

文字式を扱うときには、その文字が何を表しているのかを押さえておかなくてはなりません。

とある(脚注で「付録 文字式の扱いかた」への参照が出ているので、ここで息抜きに、付録を読むのもよい)。

それに従って、次々と(そんなに多くはないけれど)現れる、文字が何を表しているかに留意しつつ読んでみよう。p、q、n、a、b、α、A、B、C、β、γ。第1章の終わりまでに出てくるこれらの文字がそれぞれ何を表しているかに留意することに加え、次のことを考えてみよう。
  • それらが果たしている役割はすべて同じか、役割タイプがあるか
  • 記号ではなく単語で同様のことはできるか

第2章(別に全章を扱うわけではありません)。例題2.2あるいは例題2.6について、概念と、名付ける対象となるポイントを列挙してみよう。

ちなみに、この辺では「具体(例)」という言葉が目につく。具体例、だけでなく「具体的」という言葉が使われているところで、「具体的」ってどういうことだろうという疑問を頭において指差し確認していくのはとても楽しい。


第3章。3.1と3.2には進歩的な人なら感動せずにはいられない記述がある(私も感動しました。進歩的じゃないけど)。例えば、3.2(p. 45)。

 自分の答えが正しいかどうか、その判断を他者にゆだねるのは少し怖いことです。「あなたの答えは間違っている」と指摘されるかもしれないからです。他者の思考を予測することは誰にもできないので、どうしても不安になってしまいます。
 この不安から逃れるためなら、暴力や権威を持ち出して強制的に自分の正しさを認めさせたくなるかもしれません。しかし、そうやって他者に「あなたは正しい」と言わせても、それは口先だけではないかという疑いが残ります。意識的であれ無意識的であれ、自分が強制しているという事実からは逃れられないからです。
 よって、「自分の答えが他者によって正しいと認められた」という実感を得るためには、他者が自分の頭で検討できる自由を確保しておく必要があります。そのゆな自由がなくなったとき、数学は喜びのない形だけのものになってしまうでしょう。

ここでもまた、観念的に感動するのを少しだけ我慢しよう。以下のような言葉がこれに続く。

 他者が自分の頭で検討できる自由を守り抜くためには、他者が正しさを検討できるように答えを書くことを心掛けなければなりません。この配慮が失われてしまうと、正しさの根拠が、それぞれの個人の納得ではなく、その場の権威や大勢にすり替わっていきます。

感動すべきなのは、感動的な記述そのものではなく、本書全体を通して書かれている淡々とした具体的な手続きが、それを介して世界への理解を開いてくれる体験なのである。

もう一つ、「自分の頭」「自由」「配慮」「納得」がすべて、普遍的な「正しさ」に向かうものであることに注意しよう。「他者が正しさを検討できるように答えを書くこと」を具体的に追わなくてはならない理由はそこにある。

笑い話にもならないが「他者が自分の頭で検討できる自由を守り抜くためには、他者が正しさを検討できるように答えを書くことを心掛けなければない」と怒鳴りつけて何も感じない権威主義者はそう少なくない。明晰さは意志と自分が思い込んでいるところにではなく思考する技術の解像度に支えられる。そして意志と意志と自分が思い込んでいるものを分けるのは思考する技術の解像度を身につけ使えるかどうかである(ちょっと極端だけど)。

さらに、正しさを検討されて崩壊した主張を「アイロニー」と誤魔化すことが何か知的であるかのような風潮も、安手の「思想」の中には残っているではないか。


ざっくり飛ばす。6.3の「累積帰納法」。累積帰納法を導入する際の記述は次のようなものである。

現代数学で数学的帰納法とよばれる論法には、前節で説明したものよりも強力なバージョンがあります。

さて、ここで「強力」とはどのような意味だろう。それを確認するために、6章を最初から読み直してみよう。ついでに、「以上の議論の流れは」(p. 93)の「以上」の範囲と、それからここで「議論」と呼ばれているものが、どのような範囲の何をどのレベルで指すのかを、そうでないものとともに書き下してみよう。


第8章、図8.28(p. 127)。ページをめくる前に、この図を丁寧に見てみよう。じっくり見よう。そして色々な三角形を作って見よう。それは自然に第9章を先取りした思考を展開することになる。その上で、ページの右上を見ると「第8章 問題を立てる」とある。

私たちは「問題を立てている」のだった。

そこで、自分に(穴子を最後に注文するみたいな少し倒錯したかたちの)ご褒美をあげることにして、先を読み進めるのではなく第8章を最初から読み直してみよう。そうすると「格子点上の図形の面積について考える」という問題に「認識を広げるために言葉を使って考える」ステップが重なってくる。

それを通して、前向きに「できる」ことが、一体、足元でどのようなものに支えられているか、嬉しい驚きとともに「わかる」。「自分の言葉で」「具体的に」語ることは、共通の言葉が世界を捉える様を体験することに支えられる、ということが腑に落ちる(かもしれない)。

howを丁寧に追っていくときに触れることができ、そしてそれ以外の経路では民主的なかたちでは触れることができないwhatの体験とはどのようなものか、そのようなものが存在することとともに、気づくきっかけを提供してくれる。

* * *

総論に戻ろう。

本書を読むためには、まず、人間という存在の一番底で、記号が世界との関係を「正しく」拘束しうるという理念に、私たちが賭けることが必要となる。とはいえ、意識はしなくてもよい。時間を取って、丁寧に、書かれている内容について理解すると同時に書かれている内容について理解するとはどういうことかを一つ一つ確認しながら本書を読めば、要所要所で確認や息抜きのために立ち止まったとき、そして本書を読み終えて振り返ったときに、自分が記号が世界との関係を正しく拘束しうるという理念に当たり前に賭けていたことに気づくだろう。

何よりも幸せな体験である。

本書が扱っている主題は数学だが、本書は、その範囲を超えて、数学を題材として、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくための優れた手引きとなっている。

私は大学に所属しているし新入学の季節でもあるので、特に大学の新入生に、文理を問わず読んで欲しいとまず思うが(最初に読むべき本の1冊として推薦する)、高校のグループ読書の教材としても、企業の社員教育にも----モデレータが必要かもしれないが----使えると思う。

と、ここで能天気に話を閉じることができればいいのだけれど、悲しいことにそうはいかない。ここではあえていささか変則的に、本書がテーマとしている数学の部分はあまり表に出さないように書いてきた。けれども、冒頭で述べたように本書はあくまで数学の本であり、まず第一に数学ができるようになるために必要な考え方を提供するものであり、したがって、本来、数学を考えるための一つのステップとして読まれるべきものである。

それにもかかわらず、ここでは、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくためのなかなか得難い良質の手引きとして、そのような役割を担うことを標榜した、あるいはタイトルに『勉強の・・・』とか『情報リテラシーと・・・』とか『論理的・・・』とか『批判的・・・』といったそれらしいキーワードを含む、数学を題材としない図書がそれなりにあるにも拘らず(困ったことにそれらの多くは読み捨て型の消費本で再読に値しないのだけれど基盤習得のための再読型っぽい装丁だったりする)、本書を取り上げた。それは、それなりに目をとおしたこれらの本のほとんどが、とりわけ2011年の東京電力福島第一原発後、そして振り返って見ればその遥か前から、存在を認識するための基盤として記号が維持しなくてはならない条件がかなりの程度維持されていなかったことが明確になっていたにも拘らず、依然としてそれに対する危機感などほとんどもたずに、あたかもその条件が成立しているかのような幻想のもとで「ね、わかるでしょ」というもたれあいに依拠しつつ条件の崩壊に拍車をかけることにしか貢献していないためである。

真実は勝利しない。真実は、すべてが消滅した後に残るものなのである。
(チェコスロバキア「プラハの春」の1968年6月28日『二千語宣言』から)

この、冷たく硬い言葉は、圧倒的に正しい。それにも拘らず、というよりもそれだからこそ、私たちは、社会を可能な限り真実と齟齬のないものにしようと努め、存在に触れる認識を得ようとする。そして、冷静に認めなくてはならないが、その中で、記号においてのみ可能になる領域は極めて大きい。

その記号が、意図的なあるいは「言葉の意味は使用によって変わる」といった(現象の領域においては正しくなくもない)発言を含む意図しない悪用により、存在に触れる認識を可能にする機能を失いつつあるときに、私たちは、本書で真実に向かうためのステップとして硬く用いられる、意図や理解を先取りしてわかられるものではなくそれによって理解が可能となるようなものとして与えられた、pやq、aやbやαといった硬い記号、定義を与えることができるとともに記号によって操作可能な概念を明示してくれる記号表現が、数学の領域においてだけではなく記号において考えること一般について、その条件がどのようなものであるかを示してくれていることに、心から感謝しなくてはならない(この文章を読んで下さった方々が、ここで使った「ならない」を相対的なものと受け取らないことを願います)。

すべてが消滅する前に、人類が数学という認識の手法を有していたことに、そして数学を介して竹山氏が本書で記号における普遍的思考を救済する道筋を提示してくれていることに、私は心から感謝する。


2018年3月11日
東京電力福島第一原発事故が8年目に入る日に
公文書改竄をめぐる状況に注意を奪われつつ
影浦 峡


19:57 | 投票する | 投票数(2) | コメント(1) | 社会情報リテラシー講義
2018/02/04

新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社, 2018年.

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教育に従事する人、教育政策や教育研究に従事する人、AI研究、言語処理研究に従事する人、政策を決める役割を担う人、小中学生の子どもを持つ親、民主的な社会で社会的・政治的・経済的な活動に参加する人、つまりすべての人に。

本書は、対象化されたテーマをめぐる明示的な議論を前向きに追うというかたちで読み、暫定的に自分を世界の外において、その議論を理解することを「読むこと」と規定するならば、読みやすい。けれども、本書には、そのような読み方をするだけでは読み落としてしまう、大切なことが含まれている。非常に大雑把に言うと、それは私たちが私たちについてわかっていないことに謙虚になったときに初めて見えてくるわかっていること(あるいはわかっていなさ)をめぐるもので、「意識さえせずにwhatは分かっているという前提でhowを論ずるときに事態はどのようになるか」をめぐるものと言える。この部分は、「意識さえせずにwhatは分かっているという前提でhowを論ずる」ように読まれると、読み落されがちになる。

もう一つ、もしかすると本書を読むことを難しくしているいささか外的な要因があるかもしれない。ある分野の研究に関係する人に向けてではなく広い範囲の読者に向けて、一応のところ制度的に研究に従事するとされている人が書いた本は、大きく2種類にわけられる。一つは、夢とロマンの本。もう一つは、勇気の本[1]。関連して、基盤の存在を自明としてその上で前向きのパフォーマンスを展開するものと、基盤の理解と共有を試みるもの。本書はいずれの分類でも後者に属するけれど、前者と後者の区別、そしてそれと相関の高い、非科学的・非論理的な概念の曖昧さや緩さと論理的な解像度の操作との区別は、しばしばつけにくい。特に、緩さを抽象性と深さであるかのように装った思想系や社会科学系の著作が「ね、わかるでしょ」という内輪のコミュニティに支えられ跋扈している状況では。

さて、それを「読める」かどうかは、テーマとの近さやテーマに関する専門性とは必ずしも相関がなさそうである。むしろ、教育に従事する人の中で積極的に発言してきた人、教育政策や教育研究に従事する人、AI研究、言語処理研究に従事する人の中には、それが故にその部分を読み落としてしまうこともあるかもしれないので(杞憂かもしれないけど)[2]、そのことを意識して二つの点について簡単に書いておく(そうした人たちのやっていることを貶める意図はまったくない)。内容紹介ではないし、断片的・変則的になる。


まず、「いかにして」と「何を」の境界と関係について。次のところ(これは多分特に教育学者や社会科学系の人たちが注意した方がよいのではと勝手に思っている)。

この本に書かれていることは、画像にも動画にもできません。キーワードを拾ってもわかりません。速読もできません。・・・一文一文を読んで、意味を受け止め、今私がお伝えしたいことをご理解していただく以外に方法はありません。(p. 138)

何を「読む」のか、「意味」はどうするのか、何を「理解」するのか。第2章に書かれたこの部分は、第3章で展開されるテーマを運用として先取りしている。

第3章から、関連するところ(他にもあるけれど)。

 私が最近、最も憂慮しているのは、ドリルをデジタル化して、項目反応理論を用いることで「それぞれの子どもにあったドリルをAIが提供します!」と宣伝する塾が登場していることです。こんな能力を子どもたちに重点的に身につけさせるほど無意味なことはありません。問題を読まずにドリルをこなす能力が、最もAIに代替えされやすいからです。
 小学生のうちからデジタルドリルに励んで、「勉強した気分」になり、テストでいい点数を取ってしまうと、それが成功体験となってしまって、読解力が不足していることに気づきにくくなります。・・・(p. 230)

 ・・・教えてもらうだけではなくて、自分でテーマを決めたり自分で調べたりして学習したり、グループで話しあったり議論したり、ボランティアや職業体験に参加したりというのがアクティブ・ラーニングだということです。(p. 235)

勉強することと勉強した気分になること、わかることとわかった気分になること、考えることと考えた気分になること、読むことと読んだ気分になること・・・(空疎な「主体性」信仰と自己責任論は、親和性が高い)。「求められるのは意味を理解する人材」(p. 232--)といったところを「読む」ためにも。


次に、「何を」をめぐる無知について。本書には「科学の限界に謙虚であること」というタイトルの節がある。別のところを、いくつか断片的になるけれど、紹介する。これは教育学関係者だけでなくAIや言語処理関係者にも。その中には、ちょっと「意地悪」で民主的な観点からはそのままでは辛いところもある。それに正直になってそれと向き合わないと考える力は民主的に共有できない、というのが「勇気」と関係するところなので、それを夢やロマンを語りつつ無意識にマウンティングの振舞いをするものと同じように「読んで」しまわないことが大切になる。

そもそも、「人間の能力を超える」ということがどういうことなのか、よくわかりません。(p. 17)

けれども、AIに「いい感じに政治をしてくれ」と頼むなら、最低限、何が「いい感じ」なのかを数理モデルにして伝える必要があります。(p. 36-7)(「数理モデルにして」以上に大切なのは「何が『いい感じ』なのかを」)

自然言語処理では、そもそも何を計算すればよいのかわからないような問題が山積みです。(p. 83)([3]、また注[2]も参照)

あなたの会社にとって有用なのは成功の情報だけでしょうか。どれだけ投資してもディープラーニングはうまくいかない、という情報こそが今まさに喉から手が出るほど必要なのではありませんか。(p. 105)(レベルは違うけれど)

単に、超越数を発見するための数学の言葉が圧倒的に足りてないのだと思われます。(p. 118)[4]

言語化し数値化し測定し数理モデル化するということは、つまり「無理にかたづける」ことなのです。かたづける腕力を持つのと同時に、そこで豊かさが失われることの痛みを知っている人だけが、一流の科学者や、技術者たりうるのだと思います。(p. 157)[5]


みすずから出ていて5000円なら精読する価値があるとか、東洋経済新報社から出ていて1500円なら気軽に読み捨てとか、三島由紀夫っぽいことは言えない(もちろん経済的には後者の方が気楽だけど)。きちんと読もう、というとハードルが高くなるけれど、「一文一文を読んで、意味を受け止め」るとはどういうことかを意識し実践しながら読もう。そのように読むなら、その上で本書で述べられていることに同意したり反論したりする行為は、自分がその中にいる世界について、自分だけは外に出ることができるという無意識の傲慢さを排除した上で、けれども世界の存在に触れつつ普遍に向けた議論をするという理念に則ったものになる。そのとき、本書に示されている勇気を、(もしこれまでそうでなければ)少しだけ、自分も共有できる、かもしれない[6]。

誠実でないものは中身を誠実に受け止めることはできないので、誠実に誠実でないと評価するしかない。誠実であるものを誠実に受け止めることができるわけでは必ずしもないけれど、誠実に受け止めれば誠実であるものの中にある貴重なものに触れることができる。とはいえ、ここでも誠実であることは誠実な気分になることと区別されなくてはならない。

というわけで、読みましょう。



[1] もう一つ、ここでは扱わないけれど、例えば物理学の研究をしその成果を発表することと、研究について語ることは異なる。後者で、純粋に研究について語ることは難しいしそれを意識してしまいその技術があるならばそれをするためには勇気がいる。さらにその上で、純粋に研究についてだけではなくその位置付けについて、社会的な機能について語るためにはそれに対応した誠実さが必要となる。それを意識しないならば(その場合ほとんど純粋に研究について語る技術は持ち得ない)夢とロマンになりがちである。湯川秀樹さんも朝永振一郎さんも、そうしたことをよくわかていたのだろうと思う。本書から:「なぜ、数十年前に卒業した中学校の記憶と、自分の半径5メートル以内にいる優秀な人たちの印象に基づいて、こんな『餅』の絵を描いてしまったのでしょうか」(p. 239)。まったく関係ないけど、私のパートナーは最初「絵に描いた餅」を「like ... in a painting」のように理解していて、なんだか素晴らしい餅みたいに思っていたので、今でもまず自動的にそう思い、その上で意識的に変換するという。そういうことは色々なレベルで結構あって、私は"intriguing"と聞くとまずネガティヴな印象を持ってしまうし、「便宜」「叢書」はそれぞれまず「べんせん」「ぎょうしょ」と頭の中で読む。「山田美妙」はまず「やまだびしょう」と読む。考えすぎるとだんだんどっちがどっちかわからなくなってくる。

[2] 丁寧で誠実にNLの研究をしている人が東ロボについて「場当たり的な手法をいくら積んでも読解力がつかないのは最初から自明だし、かと言って地道に基礎研究の積み重ねをしているようには見えない」と述べたことがあるので、杞憂ではない気もする。

[3] これは「認知言語学」等、人間の言語に「おける」思考を扱うと称する領域が抱える問題である。問題は、気づかれていて解かれていない、のではなくむしろ、気づかれていないこと。あるいは問題は、ここには論理的な困難が含まれているにもかかわらず、論理的な困難が含まれていることに気づくことも論理的に困難であるために(実はこの部分は厳密ではないけれど)そこに気づかれないこと。

[4] 思考に対して数学基礎論のようなことを行なったのが数学においてだけだということ(あるいはそう理解されるほどに数学基礎論に対応する他の領域のものが見落とされていること)は、不幸なことだと思う。

[5] この部分は、困難が多い。めげずに、例えば「現場の先生たちの危機感」(p. 240--)と関連づけて読んでみよう。

[6] 自分の「業界」との関係で。「情報リテラシー」と言っている大学の関係者の方々、図書館の「調べ学習」と言っている方々には、ぜひ、本書を丁寧に読んでほしいと思います。「情報リテラシー」や「調べ学習」が「B29に竹槍」と同じことになる危機を回避するためにはどのようなことが必要か、対象化された知識をめぐる空疎な議論ではなくそのような議論をする自分も含めて診断のきっかけに、うまくすると、なるでしょう。


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2017/06/20

低強度災害と原発事故・原発を扱ったいくつかの作品

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東京電力福島第一原発事故は7年目に入った(最初の年を1年目とする)。妥当な表現はこのようになるのであって、「東京電力福島第一原発事故から6年以上が経った」とはならない。

原発事故そして原発災害は今も続いている。

言葉を当てはめたとき、それが存在に対応しているものであっても、その言葉に接する側が持っている解釈の体系に吸収され「わかられる」ことで、存在が失われることがある。とても頻繁にある。

それにもかかわらず、ここで6年以上続いている東京電力福島第一原発事故と放射能汚染災害に「低強度災害」という言葉を与えよう。

この言葉のもとにあった低強度紛争(low-intensity warfare)と同様、「低強度」であることは、事故と災害の規模が小さいことを意味はしない(ニカラグアをはじめ中米でアメリカ合衆国が加えた低強度攻撃は膨大な人権侵害を引き起こし犠牲を生んだ)。

低強度災害のもとで生きるためには、一方で、日常的な生活を維持し送りつつ、他方で災害を日常化し忘却しないことが必要になる。日常的な生活を送れないと被害はさらに拡大するし、災害を忘却すると被害を強いられる状況は恒常化される。

ここで、いくつかの作品を紹介しよう。

壷井明さんの『連作 祭壇画 無主物』
http://dennou.velvet.jp/index.html

丹下紘希さんの『トーキョーミラクルラブストーリー
(同じサイトで丹下さんのビデオ作品を他にもいくつか見ることができます。)

ハッピーアイランドネットワークの『U235の少年たち』
Trailer 1
Trailer 2

少し捉えにくいけれど、おしどりマコ・ケンさんが連綿と続けている取材と報道


低強度災害という言葉で表される事態は「わかられる」ものではなく、それを前に私たちが立ち止まることを強いられるものとして、すぐここにある。

ここで紹介した作品は、そのために(も)ある。作品そのものに表現されているのだから改めて「わかられる」ことを促す危険を犯して低強度災害などという言葉を導入する必要はない、かもしれない(実は、ずっとそう考えていた)。

昨日、知り合いと二人でこれらの作品をPC上で見直していて(とはいえ、本来のスケールでではない)、これらの作品は見かけ上の肌触りが異なるために(また、別途、ここでは述べない背景もあって)、わかられ、略奪される危険を犯しても、言葉をあてたほうがよいのではないかという結論に至ったため、書いておく。

低強度災害は、「ゆでがえる」という言葉で表されているものと同じではないか、という指摘はありうるだろう。まさにそのようなかたちで「わかられる」ものとしてではなく、低強度災害という言葉が表している存在を前に立ち止まってしまいそれに触れてしまう可能性を開くために、上で引いた作品はある。重要なのは低強度災害という事態で現在の状況をわかることではない。それが表している事態に、その中に私たちがいるものとして、触れること。忘れるのではなく、忘れないと言うことにより忘れるのでもなく。




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2017/03/11

「あれから5年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」

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昨年3月の『現代思想』に掲載された記事です。長さの関係から2つに分けます。『現代思想』への寄稿時に、ネット上で公開する可能性があることは、編集者に伝え、了解を得ています。

1年経って、事故の状況は基本的に変わっていないものの、安倍晋三氏が「節目越えた」と述べ会見をやめ、住宅支援打ち切りと帰還が進められるなど、現実をごまかしながらの「平常化」は一層進んでいますが、基本的な状況は変わっていないので(とはいえ避難者や悪性疑いの方の数のようにある程度具体的なことがらには変化があります)、このまま公開します。


1. 2016年 東電福島第一原発事故

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故から、2016年3月で5年が経とうとしている。

 メディアなどでしばしば見られるこのような表現は、東京電力福島第一原発事故は今まさにこの瞬間も進行中なのだから、通常の日本語の解釈では誤りである[1]。2011年3月に放出された放射性物質の量は大気への放出だけで推定90万テラベクレルにおよび[2]、現在も平時とは比較にならない量の放射性物質が放出され続け[3]、事故初期に大量にばら撒かれた放射性物質の除染は十分には進まないまま[4]、広い範囲に拡散した放射性物質は放射線を出し続けている。

 避難者は依然として10万人近くおり[5]、福島県に限定された「県民健康調査」が2015年11月30日に出した甲状腺検査の結果は先行検査ベースで推定される悪性率の2.8倍となっていながら[6]、対応は進んでいない。また、福島県以外では汚染の激しい地域についてさえ体系的な健康調査はなされないまま現在に至っている。被曝量の評価そして健康対策の観点から極めて重要な初期被曝については曖昧にされたままである[7]。

 国会事故調が「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と指摘し、「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られ ないまま 3.11を迎えたことで発生したものであった」と述べているにもかかわらず[8]、事故そのものの責任はほとんど問われないまま[9]、全電源喪失の危険を指摘されながら対策を取る必要はないとして東京電力福島第一原発事故を引き起こすことにつながる安全対策の欠如を支えた人物が[10]再び首相の座に戻って以前と変わらぬ無策を放置したまま原発の再稼働を推進している。

 そしてそうした責任を問わないまま、また事故の解明もしないまま、事故が引き起こした膨大な損失を無視して「原発停止は国の損失」といった発言が政財界からなされ[11]、原発を称揚したり放射線の健康影響を矮小化する一部「専門家」の発言やメディアの報道も続いている[12]。

 したがって、2016年3月を「事故から5年」として「事故」を振り返り、振り返る振舞い自体によって「事故」を過去のものとする「年に一度のイベント」[13]に同調するわけにはいかないが、いずれにせよ多くの人が「事故から5年」を語ることが想定されるのであれば、それを契機に、現在進行中の事態を5年前の出発点に立ち戻りつつ捉え直すことで明確になるものもあろう。ここでは、この5年間、とりわけ2014年から政府が大規模に展開し現在も続けている「リスクコミュニケーション」を改めて追い直し[14]、現在私たちが置かれている状況を確認することとしたい。


2. 「専門家」と東電福島第一原発事故・汚染・被曝

 原発事故後、原子力や放射性物質に関係する「専門家」の反応は大きく三つに分かれた。すなわち、発言しないで距離を置く、自分が有している(と考えた)「科学的」知識を持ち出して事故およびその影響を解釈しようとする、科学的知識と専門的技術を活用して事故の状態と事故が引き起こした状況を把握しようとする、である。メディア等を通して最も目立ったのは二番目の反応であった[15]。

 二番目の反応に属する「専門家」の発言は、発言者の誠実さいかんに拘らず、かなりの程度、事故と事故が引き起こした状況を見誤った。典型的なものをいくつか挙げておこう。

・東電福島第一原発・原子炉の状況について

【1】「爆破弁というものがあるんですが、そのようなものを作動させて一気に圧力を抜いた、そのようなことともありうるのかと」(2011年3月12日、東京大学教授関村直人氏のNHKでの発言)

【2】「メルトダウンじゃないだす」(2011年3月12日、大阪大学教授菊池誠氏のtwitter上の発言)[16]

・環境・食品等の汚染状況について

【3】「測定点近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっている所があります」(2011年5月21日時点での「東京大学環境放射線情報 環境放射線情報に関するQ&A」。東京大学柏キャンパスの線量が高いことへの回答の第一行)[17]

【4】「海の魚っていうのはもともと海草なんかを食べて、いわゆるヨウ素がたっぷりあるんです。体の中に。ですから、新たにですね、放射性ヨウ素が出てきても、それをですね、体の中に取り込みにくいですね。基本的にはですね、安心して食べていただいて問題ありません。」(2011年3月28日、東京大学病院准教授中川恵一氏の日本テレビNEWS24での発言)

 爆発は水素爆発であり、メルトダウンは起きており、柏キャンパスの線量が高いのは圧倒的に福島第一原発事故に起因する放射性物質の影響であり、コウナゴから基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、これらの発言が誤っていたことは既に事実に照らして明らかになっている。ところで、原発事故後現在まで「専門家」と称する人たちがかなり頻繁に誤った発言をしてきたとしても、また、「爆破弁」という存在しないものを専門家が誤って持ち出すことは考えにくいにせよ、専門家や研究者が誤ること自体はさほど希なことでもない。

 重要なのは、むしろ誤り方である。これらの誤りは、既往の一般化された「科学的」知識(であるとその「専門家」が考えたもの)をほとんどアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は「このようにあるべき」であるというかたちで状況を解釈しようとしたことから来ている[18]。この形式の思考は、仮に持ち出された知見が科学的に妥当なものだったとしても[19]、事故を前にほぼ必然的に誤る。というのも、事故が事故として認識され問題化されるのは、まさにそれが定常的な状況から逸脱した出来事であるからであり、そこで科学や専門性に要請されるのは「まさにその事故」の状況を明らかにすることだからである[20]。さらに、この形式の誤り方は、事故の現実を前に補正されるかわりに、事故を「まさにその事故」として問題とする人々、すなわち事故に対して妥当な認識力を有する人々への批判に向かった。

 自ら「科学者」を称する人による次の発言(【5】としよう)はこれを典型的に示している。

 放射能については、怖がるだけじゃなく、もっと「知る」ことが重要です。もちろん放射能は怖いものではありますが、そもそも我々は自然放射線をかなり浴びながら暮らしているわけで、皆さんが日々暮らしている地面からも放射線は出ています。さまざまな食品にも放射性物質はごくわずかですが含まれています。太陽光からはもっと強力な宇宙線がやってきています。人類は太古の昔から、さまざまな放射線とともに生きてきたのです。
 今の一部の人たちは放射能を極度に怖がりながらも、レントゲンや飛行機など通常の生活より多量の放射線を浴びる行為は平気でしています。放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります。
 なぜ、そうなってしまうのか? それは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ということがちゃんと教育されてこなかった、ということが背後にあるのではないでしょうか?
 原子力や放射能についての過度な恐怖はその典型です。科学や技術に対する信頼のみならず、論理的に考えるという姿勢が欠けている。
 ・・・・・・
 科学者の1人として、私もその一助となる活動をしていきたいと思っています。[21]

 【5】の筋は、次のように(多少の補間もしつつ)要約できる。

(1) 放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない。
(2) 人は(原発事故がもたらした)放射線を恐がりながら自然放射線は気にせずまたレントゲンも平気で受ける。
(3) (1)に鑑みると(2)の行動は一貫していない。
(4) このような一貫しない行動は、人が恐怖のあまり「考える」ことを放棄することからくる。
(5) 「考える」ことを放棄するのは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ことが教育されてこなかったからである。
(6) 従って科学的な教育を人に施す必要がある。
(7) 科学者の一人として、自分も(6)に貢献したい。

 まず誤り方を確認しよう。

(a) 原発事故後の問題を把握できていない。

 【5】の議論は、人々が問題にしているのは「放射線そのもの」であると決めつけない限り成立しない[22]。しかしながら、人々が問題にしているのは「まさにその事故」であり、絶対安全だと言われていた原発が爆発し大量に放出された放射性物質がどこにどのくらいあるのかも十分には明らかにされず管理もされないまま存在し被曝を強いていることであり、さらにそれに対して責任を負う東電や行政が十分な対応をせずに(あるいはできずに)いる状況である。その状況に対して「XXXそのもの」に「科学的」に差異がない、という議論が有効であると考えるのは、道路脇のビルの五階の窓から撒かれた水で濡れて怒っている通行人に水の専門家が「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません」と言うことが有効だと考えるのと同じで、単に問題を把握できていないだけである。

(b) 被曝の影響に関する科学的知見を前提とした論理的な議論ができていない。

 現在、放射線被曝の影響に関して最も有力な科学的知見は、放射線による健康への影響(発がん)に閾値はなく、線量に比例して発症の確率は増え、かつ発症した場合に重篤度の違いはない、というものである[23]。この知見は、社会的な基準を定めるための前提ともなっている。原発事故後、しばしば100 mSv以下では影響がないかのような発言を専門家が行い、そうした報道もなされたが、それらは科学的に不適切なのである[24]。

 標準的な科学的知見を前提とし、健康を害するリスクは可能な範囲で最小限に抑えるという当然の基準に従うならば、(i) いずれにせよ避けられない自然放射線による被曝及び(ii) 生活上必要と自ら判断して行う行動で受ける追加的な被曝を人々がしているから、それ以上の被曝は避けた方がよい、とりわけ他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝は受け入れない、というのが妥当な判断であり、(i)と(ii)が避けられないなら他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとするのは非論理的である。ビールを十分飲んだから支払いをして帰ろうとしていたAさんの前に現れたBさんがAさんにさらに無理矢理ビールを飲ませようとしてAさんが拒否している状況に対しAさんは既に十分ビールを飲んでいるのだからBさんが強制するビールを拒否するのはおかしいと言うならば、その発言は論理的でも科学的でもない。仮に強制がなかったとしても、こうした主張は論理的ではない。仮にそうした議論が(自称)「科学者」によりなされるとしてもこの点は変わらない(話者の属性に依存して変わるならばそもそも論理性や科学性ではない)。

(c) 事故の問題を事故を問題視する人の問題にすり替える。

 問題を把握し損ねた上で、こうした議論は人の批判へと向かう。【5】のまとめ(1)-(6)は、【5】の主題が「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない」という枠組み以外で状況を認識する人たちであり、内容がそうした人々への批判であることを示している[25]。このような発言がいかなる機能を持つかを確認するために、【5】における「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります」という記述について、喩えをさらに展開してみよう。

「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません。この点、怒りのあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

「ビールそのものに、Aさんの自己判断由来かBさんの押し付け由来かの差異はありません。この点、酔ったあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

 いわゆる「二次的加害」と呼ばれる行為にとても近いことがわかるだろう[26]。

 紙幅の都合からこれ以上紹介できないが、原発事故後から現在まで、次のパターン、すなわち、(1) 科学的と称しながら「これまでの科学的知見に基づけば」という規範的な観点から状況を解釈しようとして、本来ならば科学的な知識を活用できる点においても誤り、(2) しかもしばしばその「科学的知見」自体が当該主題に関する科学的知見の現状からは不適切で、(3) そうした誤りと問題点把握の失敗を補正することなしに、自分の考えを共有しない人を問題化する[27]、というパターンに従った発言は「専門家」「科学者」を称する人々により数多くなされてきた[28]。

 さらにこうした「専門家」「科学者」の発言は(当然のことながら)、(4) 自分が批判の対象とした人々の発言内容そのものは検討の対象とせず(だからこそ「人」を批判する)、(6) 議論の内容においてではなく自分が「専門家」「科学者」であることに訴えることで議論の正当性を支えようとする[29]、というかたちを取ることになる。



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2017/01/14

個人・名前・人・「普通の人」

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どこから始めるか少し迷いましたが、日本国憲法と自民党改憲草案から。自民党改憲草案が立憲主義を破壊するものであることは、色々なところで(正しく)言われていますが、とりあえず、以下もご覧下さい。
ここでは、このうち「立憲主義と『改憲』(4)」の「D. 『個人』と『人』」で述べたことから話しを始めます。

日本国憲法第13条は、日本国憲法第13条は、

「すべて国民は、個人として尊重される。」

となっています。これに対して、自民党「改憲」草案では、対応する条文は次のようになっています。

「全て国民は、人として尊重される。」

日本国憲法の「個人」が自民党「改憲」草案では「人」になっているのです。この違いは極めて重大です。この記事では、改めてその点を確認し、それに関連する事例をいくつか見てみることにします。


A. 個人と人

「個人」という言葉は、存在の単位を「一人一人それぞれの人」と指定するもので、その一人一人それぞれの人がどのような属性を持っているかには関係しません。

「個人」が指すのは、それぞれの人がまさにこの私、自分であって、他の誰でもない、ということだけであって、現実にその人が持っている属性とは、原理的に関係しません。

例えば、この文章を書いている「この私」は、この文章を書いていなかったら別の「この私」になっていたわけではありません。また、私の身長が仮に190センチだったり160センチだったりしても、「この私」であることに変わりありません。

この文章を後から見直して「こんな稚拙な文章を書くなんて、このときの私は本当の、まさにこの私じゃない」と思ったとしても、そのように思っている私は、稚拙な文章を書いた私とその後にそれを後悔する私を貫く「この私」として存在しています。

とてもいい人である「この私」が(実際にはさほどいい人ではないですが)誰かに酷いことをして悪人になったとしてもやはり「この私」であることには変わりありません。

「東京大学大学院教育学研究科の教員で2014年度から情報学環の流動教員になっている人物」は現実世界では確かに私(影浦)ですが、仮に私がそうでなかったとしてこの私である私(影浦)が私でなくなることはありません。

このように見てくると、「私が私であること」には「中身」が無いように思えます。実際その通りで、「個人」という言葉の重要性は、まさにこの、「私がまさにこの私である」というだけで、実体的な中身がないというところにあります。ここにない「中身」というものは、個々人が実際には持っている色々な属性のことです。そして、「個人」という言葉が指し示す「一人一人それぞれの人」がそれぞれに「まさにこの私」であることは、そうした属性には原理的に関係しないのです。

そのことは、日本国憲法が、日本の社会を、

どのような属性をそれぞれの人が有していようと、そんなことはどうでもよくて、それとはまったく無関係に、それぞれの人が「この私」として権利を十全に有する

社会として規程している、ということです[1][2]。

ちなみに、ここで尊重される「この私」は、記号のレベルでは「固有名」(名前)で示されます。固有名には意味(中身)はありません。例えば「影浦」という名前は影とも海辺とも無関係で、ただ、たまたまこの文章を書いた「この私」を指すラベルとして(そして書いてなくても「この私」であるような「この私」を指すラベルとして)あります。

属性とは無関係に「この私がこの私であること」をそれぞれの人において成り立たせ、その上で他の人と「この私」同士として関係を保つためには呼び名が無いと不便なので、属性については何も述べていない「名前」を付けているのです。

「中身」の無い「名前」を持っていることの大切さは、次のような例を考えると、実感としてわかりやすいと思います[3]。Aさん(Aは名前)という人がいて、B高校の校長先生(校長先生は一人だけ)をしているとしましょう。Aさんのことを、

「Aさん」

と呼んでも、

「(B高校の)校長先生」

と呼んでも、現実の世界で同じ人を曖昧性なく指し示すという役割は果たせます。

でも、友人にAさんが「校長先生」と呼ばれ続けたら違和感を持つでしょう。一方、生徒や生徒の親から「校長先生」と呼ばれることはもちろん、そのような「属性」を通した関係なのだから、それはそれで当然です。「友人」にそう呼ばれると嫌なのは、友人というのは「この私」が持つほかの個人との関係で、仮に私が校長先生でなかったとしてもやはり友人であるという、そういう関係だからです(現実にはそうもいきませんが)。

大切なことは、日本国憲法では、多様な仕事や属性それぞれを持っているそれぞれの人がその属性それぞれを通して知り合う他の人々とその属性それぞれを通した付き合いにおいて互いに尊重することを述べているのではまったくなくそうしたこととはまったく関係なしに、ただ「この私」としてあることが尊重されると述べているという点です[4]。

「人」は、これとはまったく違います。「人」は「まさにこの私」ではなく、ある属性(を有するグループ)を示す概念です。では、この「人」は何か。

仮に、自然科学的に「人」の概念が確固としてあって共有されていて動かないものだとしましょう[5]。

そうだとすると、「人」以外が「国民」になることはありませんから[6]、「全て国民は人として尊重される」という言葉の「人として」は何も意味しないことになります。

ここで大切なのは、
  • それにもかかわらず、この文言が自民党の「改憲」草案に入っているという事実、そして
  • そして「人として」という言葉が何も意味しなくはないという事実です。
実際、「すべて国民は尊重される」という表現よりも「すべて国民は人として尊重される」という表現の方が、「何か制限されている」と感じる方は多いのではないかと思います。

このととは、「人」という言葉が、「仮に」で言った自然科学的な意味で使われるよりもはるかに柔軟に運用されていることと関係しています。例えば、次のような感じです。
  • 風呂に3週間入ってないなんて、人であることを捨ててるな。
  • オリンピックに反対する奴らは人じゃない。
  • あいつ、30になって結婚してないなんて、人じゃないね。
などなど。

こうした言葉は、相手の「この私」を尊重して接するのではなく、あくまで属性の集まりとして相手を見なした上でなされる発言なので[7]、「この私」の尊重と真っ向から衝突することに注意しましょう。

日本国憲法と自民党「改憲」草案の文脈では、「個人」と「人」は、対立する、衝突する概念になっているのです。

自民党「改憲」草案が、わざわさ「全て国民は、人として尊重される」という文言を入れていることで目指しているのは、日本国憲法のもとの、「私たち一人一人がそれぞれ」「この私」として尊重される(「この私」であるところについては干渉されない)社会を完全にひっくり返して、人か人じゃないかの属性に基づき評価される社会を作ることです。

では、誰が評価するのか。

次のような自民党の政治家の発言は、一部の人々(現在の自民党政治家とその周囲を想像するのが一番具体的な「誰が」に近いでしょう)が評価することが想定されていることが伺えます。

「そもそも国民に主権があることがおかしい」(西田昌司自民党議員・2012年11月)

また、自民党「改憲」草案の「緊急事態条項」は、その評価を、政府が行うことを可能にするメカニズムになっています。

とはいえ、実際には、第二次世界大戦前の日本の状況から伺えるように、その一番大元の一部の人による評価は、どんどん引き継がれて、権力的意味も含めた「多数派」が少数派に対して、そのような社会的配置の中で相対的に優位な存在だと自分で思っているものが劣位にあると決めつけた相手に対して、人であるかどうかを評価する、というかたちで現れるでしょう。

実際、前からそういうことはあったし、また、現在、それは色々なところでかなりあからさまに目に付くようになっています。いくつか、最近の例を見てみましょう。


B. ベビーカー

昨年末に、車内のベビーカーを「迷惑」とする人が2割にのぼることが国土交通省の調査でわかった、と報じられ「話題」になりました。社会的配置の中で相対的に優位な存在だと自分で思っているものが劣位にあると決めつけた相手に対して人であるかどうかを評価する、という配置の一つの現れです。

そもそも、すべて国民が個人として尊重される社会では、ベビーカーが迷惑かどうか、などという調査を、憲法遵守義務を有する公務員からなる国土交通省がやってはいけません。迷惑と感じている人がいようがいまいが、公共交通機関をしかるべき料金を払って利用することは当然のことだからです。迷惑を感じる人がいたとして、それは感じる人の側の問題であり、具体的な場で調整すべき課題が発生したら調整すればよいだけです(ベビーカーのためにできるだけ場所を譲りましょう)。

そうでない問題として扱うなら、それは本来、個々人が当たり前に利用するときにしょっちゅう調整が必要となってしまうようなシステムの問題なので、公共交通機関の利便性を具体的に高めるために、「迷惑かどうか」という、相手への評価につながる「気持ち」を聞くのではなく、主に中年男性の集団が毎日同じような時間に列車にぎっしり詰まっている構造的な原因を分析することに資する調査をすればよいのですし、ベビーカーについても置き場を確保したり、色々な人の調整を今よりもまともに可能にする具体的な配置を設計するために必要な調査をすればよいだけです。

にもかかわらずこのような調査がなされてしまい、その結果が「ベビーカー」を話題の中心とするかたちで報道されてしまったことは、第一に個人を尊重することではなく人の属性を評価する態度が社会に広まっている状況を反映しており、第二に、特定時間にスーツを着た中年以上の人が電車にぎっしりつまっている、その中年以上の男性を迷惑と思うかどうかという質問ではなくベビーカーが問題にされることが端的に示しているように、人の属性を評価する際に、多数派・強者(と自分が思っている人たち)が少数派・弱者(だと見なしている相手)を評価する態度がやはり広まっていることを反映しています。


C. 長谷川豊氏の発言

2016年9月19日、長谷川豊氏は、次のようにブログ上で述べています[8]。

医者の言うことを何年も無視し続けて
自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?
今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!

人工透析の経緯も内訳も根拠のない(さらにコピペの疑いもある)記事のようですが、この投稿が「炎上」したことは割と広く知られました。

長谷川豊氏がこのように言い、そのレベルでの発言が何か公共的な議論になりうるということを認めたとたん、「そのように言うあなたの方がはるかに社会の害悪」(実際そうであったことは過去のドイツや日本の例が示しているのではありますが)という、相手の属性を取り上げて批判をし合うという泥沼に入ります(テレビなどでは蔓延していることではありますが)。いずれにせよ、この発言は、個人ではなく、透析患者であるという人の属性を対象として取り立ててそれを批判しているという点で「人として尊重される」という言葉が何をもたらすかを示す事例になっています。

ちなみに、この長谷川氏の発言に対する批判は「炎上」ではなく、それをめぐる「意見」や「議論」は特に意見や議論といったものではありません。こんな発言をしてはいけないというのは、公共の場で議論をすることの条件であって、その条件が満たされなければそもそも議論は成り立たない、そのようなものだからです。

もう一つ、この言葉が(長谷川氏思うところの、そして社会的に広く思われている)少数派・弱者と見なした人たちに向けらていることも、いったん属性を評価するかたちになったとたんに誰が評価するかが多数派・力・強者によって決められることを示しています。重要なことは、長谷川氏が、「批判」の矛先を、権威を引き継ぐかたちで決めていることが極めてはっきりしていることです。

第一に、透析医療の比率が高いことには、制度上の問題も寄与していますが、長谷川氏の制度への言及は個人の攻撃と結びついており、制度上の問題をそのものとして検討するかたちにはなっていません。

第二に、国家予算の問題を語るならば、他にも色々な話題はありえたはずです。

透析の医療費の国庫負担額は年間2兆円と推定されています[9]。まったく何一つ役に立っていない「もんじゅ」の研究開発費は1980年の開始以来総額で1兆円、東電福島第一原発の廃炉費用が8兆円(これからまた上方修正される可能性が高いものです)、賠償費用を合わせると21兆円(しかも賠償費用は被害者と被害の範囲を大幅に切り捨てたものです)、相当分は国が負担・電気消費者に上乗せされるものです。

まっとうな専門家の言うことを何年も無視し続けて
自業自得で事故を起こした東電の廃炉費用まで国民が負担しなくてはいけないのか!
今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!

という発言を、寡聞にして、長谷川豊氏が述べたという情報を私は知りません[10]。権威やら力を引き継いで弱者を評価するだけの人たちは、このような問題については、関連する人たちの不作為が引き起こしたものであることを無視して、電力を使っていたことと事故を起したことは別でであるにもかかわらず、「国民が電力を使っていたのだから国民が負担するのが当然」と言いがちです。(ここ少し端折ります・両方向に向けて「弱い」議論になってます。)透析を受けている患者さんの費用を国民が負担するのは当然と言うことは、「個人として尊重される」という点を抜きにしても、東電の事故を負担するのは当然というよりも論理的に正当なことです(電力は認可制なので誰もが事故の責任者になる可能性はありませんが、透析を受ける患者になる可能性は誰にでもあります)。

このような相対的な話しとは別に、「個人として尊重される」という、憲法が定める社会の基本を踏まえるならば、費用がかかるからとして透析を受けているという属性を持つ人々をその属性が故に切り捨てる発言を公にすることは、個人が尊重される社会であるという日本の原則を破壊することで、それこそ言葉の真の意味で社会を滅ぼす行為でありましょう。

他人を「個人」としてではなく属性として見て、「弱い」属性のものはいらないという態度が、病気を抱えている人やベビーカーの攻撃に向かうのはほぼ必然的で、というのも、病気の人や赤ちゃん・子どもは普通の意味では「弱い」からです[11]。


D. 共謀罪

今国会に提出と言われている共謀罪は、Aで述べたことを政府が実際に運用できるよう道筋を付けるものです。内容には深入りしませんが(ぜひ日弁連のサイトをご覧下さい。過去の経緯から把握できます。新しいところは主にページの下の方に情報があります)、現在提出されようとしている共謀罪は、犯罪への着手が要件として必要とされず、話しただけで対象となりうるという点だけ確認しておきます。

あからさまにこの記事のテーマとの関係が示されているのは、共謀罪をめぐって、菅義偉官房長官が、2017年1月6日の記者会見で、「一般の方々が対象になることはあり得ない」と述べたことです。では、誰が一般の人かを決めるのかというと、それは政府になります。実際には、「一般の人」の属性など定義されていないので、共謀罪を適用したい相手は「一般の人」ではないと恣意的に決めつけることが十分にあり得ます。

戦前に、治安維持法が導入された際にも、同様の言い訳が最初はなされていました。そして、恣意的に拘束して、拘束したのは(拘束したからには)一般人ではない、という転倒した話しになりました。

気に入らない「個人」を「一般の人」ではないから抑圧することに対する歯止めがない共謀罪をめぐって菅官房長官が「一般の方々(人)」が対象となることはないと述べたことは、自民党「改憲」草案が「個人」ではなく「人」という言葉をわざわざ使ったことにちょうど対応し、それを先取りしたものいなっています。

個人を尊重しない、それぞれの「この私」はもう尊重しない。お前たちが人であるかどうかは我々が判断し、我々政府が認定する「人」(「一般の方々」)の要件を満たすものだけ、存在を認めよう、というわけです。


* * *

最後に固有名と個人の話しに少し戻ります。

夫婦別姓に反対する人たちは----ほとんどの場合に結婚後姓を変えるのは女性であるという実情をふまえるならば----女性を個人として尊重する気がないと表明していることになります。

ちなみに、注[3]で述べたように、本質的に大切なのは今持っている名前ではなく名前を持っていることだとするならば、姓が変わったって名前はあるのだから個人として尊重しないわけではないという理屈が成り立つかというと、成り立ちません。ある個人が既に今持っている名前を変更しようと強いるときは、「今持っている名前」をその人から剥奪しようとしているだけでなく、同時に「名前を持っている」ことで成り立つ「まさにこの自分」であることも剥奪しようとしています。というのも、例えばAさんが、誰か別の人の名前を剥奪することができると見なしたとたん、Aさんは、その人の名前を、個人としての「まさにその人」を表すものとしてではなく、取り替え可能な属性として扱うことになるからです。

少しだけ時間ができたときに慌てて書いたので、この文章は少し雑になりました。時間ができたら整理するかもしれませんが、今はこのまま公開しておきます。


注など

[1] 大雑把に言うと、そのような「この私」の間で(あくまでそれぞれの「この私」の間で)衝突が生じたときに仕方ないから調整するのが「公共の福祉」という概念です。

[2] これは「みんな違ってみんないい」というのとレベルが違うことに注意してください。個人として尊重される、というのは、例えばAさんが「みんな違ってみんないい」と言ったときに、私が「一体あなたはどのような資格で私を『みんな』に含め『いい』などと言うのでしょうか、私はみんなと違ってませんし、いくもないし、いくなりたくもないし、あなたに不用意に『いい』などと解釈され、『いい』と言われる『みんな』の一人などとして扱われたくなどまったくないので今すぐその発言を撤回してください」と(まあ普通の意味では少なからぬ人にいささか不快に受け取られるような)反応をしたときに、Aさんがその私を前にしてただ立ち止まらなくてはならないことを意味しています。どうしてか、というと「いい」というのは属性をめぐっての評価であって、「個人として尊重される」というのは、そんな評価など人から受けるいわれも何もない存在として「この私」がただあることが尊重されるということだからです。「どうでもよくて」という表現を用いたのは、そのためです。ここで述べた意味/方向での「どうでもよくて」がないと属性のない「この私」は「この私」であることを失ってずるずる他人から決めつけられることに抵抗できなくなります。

[3] 「今持っている自分の名前」の大切さではなく、「名前を持っていること」の大切さであることに注意してください。ただし、このように言うことには注意が必要です。最後にこの話には戻ってきます。

[4] 「この私」には属性に関わるような「中身」はないのですから、ここで「尊重される」というのは、「この私」であることには誰も手をつけてはいけない、ということです。その尊重が権利の大元にあって、それを確保するために属性に関わる様々な側面で具体的なことが保障され制度となると考えると一応よいでしょう。

[5] これは本当ではありません。あくまで「仮に」です。


[7] その意味では「25歳で結婚して家族を支えてるの。人として偉いね」という「褒める」言葉にも注意が必要です。普通に言って、大きなお世話ですね。なお、属性に関する中身のある言葉を使って人と接することは、「この私」「個人」が尊重されるという前提の上で、具体的な社会の中での役割とか属性に関わってなされる限り妥当なことですが(例えば「首相」として不適任、とか)、「人」はそのような具体性を持っていません。

[8] 元ブログは削除されているようですので、「長谷川豊の人工透析のブログ全文と原文。内容はコピペで訂正も炎上。しかし、賛同の声も挙がる」という記事から再引用しています。

医療費ほぼ全額を国庫が負担しているとの仮定のもとで出された数値なので過剰推定になっていると思われます。

[10] グーグルで検索してみました。ちなみに、この文は不適切なところがあります。共産党の吉井英勝議員が2006年12月13日に提出した「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」に対し、安倍晋三内閣総理大臣は同年12月22日、「衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書」で、基本的に対策の必要はないと答えていることにはっきり示され、また、国会事故調の報告書が示しているように、この事故には政府・規制当局も責任を負っているからです。ですから東電だけでなく安倍首相や規制当局関係者、経産省の担当を含め、責任を追及しなくてはならないはずです。

[11] ちなみに長谷川豊氏は、次のように述べています。

キリギリスは餓死しなければいけないのです。でなければ、アリさんはやる気を失うのです。
やる気を失ったアリさんがキリギリスに変身してしまうのです。それは当然の流れなのです。
だって、人間の脳は「出来るだけ怠ける方向に」働くおうに出来ているからです。

自分のやる気も、相対的に他人との比較でしか成り立たないご自身のあり方、すなわちどうであれ「この私」は「この私」という「この私」がないあり方をよく反映した言葉になっています。安冨歩さんが言う「立場主義」はこのようなあり方と対応するのでしょう。


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2016/11/18

「誰もが毎日果物を食べている」を英訳してみる

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
1. はじめに

唐突ですが、

J-1. 誰もが毎日果物を食べている。

この文を英語にしてみましょう。普通に訳すと(バリエーションはありえますが)、次のようになります。

E-1. Everyone eats some fruit everyday.

では、次の日本語はどうでしょう。

J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている。

これの訳もE-1でよいでしょうか。それを検討するために、何を考えなくてはならないでしょうか、というお話しを少しだけ整理してみます。

見かけ上、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域があって、それは実は学校で学んで、そして学校で学ぶ「言語」はそういうもので、そしてそれは母語以外についても同様で、そしてそれは存在に触れるために大切だということを、非常に簡単な例を通して確認することが狙いですが、少しこのところ言葉への虐待を目にし過ぎたので、わずかばかりであれ気持ちのよい言葉の相貌を救済したいというのがこの記事を書く個人的な動機です。

並行して、「外国語を学ぶ」というときの議論で忘れ去られがちな、日常言語ではない言語の領域(多くの場合それが「学ぶ」という点からは大切なのですが)のうち日常言語の平板な理解に一番近い日常言語でないところを少しだけ意識化する手がかりを示す作業でもあります。そして翻訳者が翻訳について語るときについ忘れがちな領域を示唆する作業でもあります。

論理学で言う量化子を扱いますし、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域の一部分は論理的なものと言えますがそれは一部に過ぎず、そしてここで扱う例として量化子を取り上げたのは論理的な言語操作そのものを示すためではなく、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域一般に意識を向けるための一つの素材としてであることをお断りしておきます[1]。


2. 二つの日本語文(J-1とJ-2)

二つの日本語文を再掲します。「ある」があるかないかの違いです。

J-1. 誰もが毎日果物を食べている。
J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている。

これらの文の可能な解釈の範囲はどのようになるでしょうか。いずれも、すべての人がそれぞれ一人のこらず、すべての日に日々欠かさず、何らかの果物を、という表現が入っています(「すべて」「何らかの」「ある」などを量化子と言います)。

ここで、人と、日と、果物の種類の関係はどうなっているでしょう。

先取りして、これらの組み合わせについて可能な関係(J-1とJ-2の表現が普通に意味することができる、と言う意味ではなく)をあげてしまいます。以下の4つになります。
  1. すべての人が、それぞれなりに、すべての日に、それぞれの日ごとに、とにかく果物を食べている(Aさんは日1にパパイヤ、日2にマンゴー、・・・、Bさんは日1にマンゴスチン、日2にりんご、・・・)
  2. すべての人が、それぞれなりに決まったある果物を、毎日食べている(Aさんはマンゴーを毎日、Bさんは王林を毎日・・・)
  3. すべての日にそれぞれの日毎に決まったある果物を、すべての人が食べている(日1には全員がマンゴーを、日2には全員がパパイヤを・・・)
  4. ある果物を、全員が毎日食べ続けている(ドリアンを誰もが毎日ずっと・・・)
他の可能性はありません。「すべて」「すべて」「ある」を並べ替える並べ替え方は6通りで、そのうち「すべて」「すべて」が続くときは順番を入れ替えても同じ意味なので、解釈の可能性は4通りに絞られます。

次に、J-1とJ-2に対しては、この1から4の解釈のうち、どれが成り立つかを考えてみます。皆さんも考えてみて下さい。ここは、日本語の話者として多少の曖昧性があるかもしれません。私の感覚では、次のようになります。

J-1. 普通に捉えると、成り立つのは解釈1のみ。
J-2. 1から4まですべての解釈が成り立つ。ほとんど優先順位なし。

皆さんはどう判断しましたか? 


3. 英訳

さて、以上を踏まえて、J-1とJ-2の英訳を考えます。一応、上で私が与えた解釈が普通に妥当なものと考えて話を進めます。ここでは、日本語においてもともと曖昧であるものを曖昧さを同じかたちで残して英訳するといったことには特にこだわらずに(翻訳において、もともと著者が曖昧さを意図したときにのみこれは必要で、そうでなければ、まず曖昧性を解消した上で妥当な解釈に対応する表現を使えばよい、というのが、乱暴ですが普通のやり方でしょう。"bank"をどう訳すかというのとその点では一緒です)。

まずは、J-1の普通の翻訳としてあげたE-1。

E-1. Everyone eats some fruit everyday.

とりあえず、J-1は私の感覚では解釈1だけ。では、E-1はどうでしょうか。これは実は、J-1にとても近いです。やはり、ほぼ解釈1。

では、J-2の翻訳はどうでしょう。第一に、1-4の解釈を同時にほぼ同程度に可能にする英語表現を作ることは可能か(すぐ上でこだわらないと言ったので、別に可能でなくてもいいし、こだわる必要もないのですが)。第二に、1-4それぞれの解釈にさほど曖昧性なく(というのは普通の解釈だとこれだよね、と大体の人が合意するという程度の意味)対応する、一番、日常っぽい表現は何か。

というわけで、皆さんもよろしければ少し考えてみて下さい。

まず最初の質問。解釈1-4を可能にする英文。これはかなり難しいっぽいです。基本的に、「ない」と言っていいでしょう。英語母語話者で論文を日常的に英語で書いている人4人に聞きましたが、「なさそう」という答えでした。

ちなみに、everyoneとevery dayと、everyの等価な拘束力に順序を導入するのはeveryを使い続ける限りかなりむずかしいと言うのがひとつの理由っぽいです(これについては関連することをあとで整理します)。つまり、英語の場合、everyが二つあるとsomeに対していずれも同じ側に来る(主題化の操作などで変えることもできるかもしれませんが)。そのため、案外工夫が必要なのは、2と3の解釈に対応する英文、ということになります[2]。

さて、2番めの問題。E-1だけじゃなくて、

E-1' Every day, everyone eats some fruit.

これも基本的に解釈1になります。

E-2. Some fruit is eaten by everyone every day.

これはかなり4で行けそうです。ただし、"Some fruit is eaten by everyone every day, but not some meat"のようなかたちで、fruitとmeatが強調される場合を想定すると、1の解釈も「ありうる」ことになりそうです。でも、2と3は難しい[3]。

every, every, someの組み合わせではだんだん苦しくなってきたので、そろそろ別の言葉を考える必要が出てきました。everyの系列としては、each, all、someの系列としては、a certain set ofとか、そんな表現が思い浮かびます。

1-4に対応する英文は、能動態を保ちできるだけ「普通」なものとしようとすると、大体、次のようになるでしょう。ここからE-Xの"X"は、解釈の番号に対応しています。1については、既に見ましたが、それも含めてすべて列挙してみます。

E-1. Everyone eats some fruit every day.
E-2. Each person eats a certain set of fruit every day.
E-3. Each day, everyone eats a certain set of fruit.
E-4. Everyone eats a certain set of fruit every day.

大体これでよいのですが、残念ながら異論の余地はあります(これらについては、大体これでよいという点と、曖昧さが残るところがあるという点の双方について、英語の母語話者である計算機科学と法学の専門家と議論し確認しました)。

これらは、上で述べたeveryの作用をなかなか良く示していて、かつ、比較的多くの人の解釈として「説明されればああ、確かに」という程度には一致し[4]、かつ、日常的な英語の範囲の操作であるという条件では、大体このくらいになりそうという感じのものです。興味深いのは、E-4が優先的な解釈としては4になる、というところ。4に明確に対応させるにはやはり受動態にするのがよさそうですが、ここでは強引に、能動態のまま無理をしてみました。

これらは、この範囲では、結構、規則的です。すなわち、外側から順に量化子の位置取りの順序を示すと、あくまで暫定的にですが、

Each = a certain set of > every > some

となりそうです。Eachとa certain set ofを=にしたのは、E-3で"each day"を冒頭に置かなくては3の解釈を優先的にしにくいこと、一方で、4の解釈を取るためにはeachは使えないことからです。暫定的にこのようにしていますが、もう少しいろいろ考えてみる必要がありそうです。


4. では今度は英日翻訳

さて、今度は英日翻訳です。つまり、E-1からE-4の、したがって、何もなければ基本的に優先的にそれぞれ1-4で解釈される英文を、日本語に訳してみよう、というお話しです。たぶんこのブログを読んでいる方は、仮にいるとすると、日本語の母語話者がほとんどでしょうから、それぞれお試し下さい。

ちなみに、Google翻訳は次のようになります。

JG-1. 誰もが毎日果物を食べる。
JG-2. 各人は毎日特定の果物を食べる。
JG-3. 毎日誰もが果物を食べる。
JG-4. 誰もが毎日一定の果物を食べる。

皆さんは、どう思いますか? 

JG-1はOK、JG-2もそこそこ(「特定の果物」と「毎日」の順序が逆だともっとよかったですね)、JG-3はダメ、JG-4は可能だけれど、優先的ではない、という感じでしょうか。でも、表現として何を使えばよさそうかは、少し参考になります。

GoogleはNMTで、こうした論理的な表現の差異はルールベースの方が・・・ということでExcite翻訳も使ってみました(ExciteはRBMTでしたっけ?)。

JE-1. 誰もが毎日いくらかの果実を食べる。
JE-2. 個々の人は毎日果実の一定のセットを食べる。
JE-3. 個々の日、誰もが、果実の一定のセットを食べる。
JE-4. 誰もが毎日果実の一定のセットを食べる。

それほど得意、とも言えなさそうです。

ちなみに、この例の場合、人間なら翻訳者でなくても、4つの英語の共通性と差異をできるだけ反映させながら日本語を作るということをすると思います。それを大雑把に「意味」と呼ぶことは可能ですが、ここで挙げた例はむしろ記号の表面的同一性が保つ作用として捉える方が妥当なもので、その点ではGoogle翻訳ができないのは意味が取れていないからだ」と、もちろん妥当でなくはないけれどもでは「意味」とは何かと言われた時にそこは了解されていると見なす以外今のところそれほど適切な答え方もない「意味」という代わりに、記号の作用域の問題としてより表層に近いところで、課題を見えるようにしてみたという、これは意識的な例でもあります。ここでの列挙は、意味との関係においても翻訳との関係においても本質的です。それはもちろんある文章の中である用語の訳を一貫して用いるというかたちで当たり前に目に見えていることの展開ではありますが、その展開の射程は体系化できるほどには一般にはわかられてもいないものです。


5. 最後に

量化子(「すべて」「ある」)が3つの文を扱ったのは、一文の中で操作する量化子の数としては、3つまでがほとんどで、それ以上になると、文をわけたり等、言語表現において別の形態を取ることが多くなるからです(昔調べたことがあります。実際には3つ量化子を含む文もそれほど多くなかったと記憶しています。よろしければ皆さんも調べてみて下さい)。

図で言うと3次元のセルのどこを黒く塗るかというお話しなので、文理を問わず、普通に使いこなせなくては自分が扱っている領域の事象を表現できない最低ラインと考えることができます。セイン・カミュさんの"What time is it now"とは外国人/ネイティブは言わないという誤った脅しに影響されるよりも[5]、こちらのほうがそれに楽しいですし。

さて、課題が残っています。J-1とJ-2の否定はどうすればよいでしょうか。

^J-1. 誰もが毎日果物を食べている状況は成り立っていない。
^J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている状況は成り立っていない。

まず、日本語で。いかにも不格好な上の二つの文を、より自然な文----否定を一番内側に入れて、「食べてない」にするというのが目安です----にする、という作業が第一の課題。

第二に、それに対応する英語を作る、という課題。第三に、それをまた日本語にするという課題(これは、日英日で対応が壊れる場合にのみ)。

これらは、そのうち扱ってみます。

最初に「存在に触れるために大切だ」という話をしました。

実は、ここでは二つのレベルで存在に触れることを扱っています。大げさなことではなく、私たちが日常的にやっていること、やっているはずのことです。ひとつは、1-4の状況を反映する言語表現はどのようなものか、その言語表現の形式を通して、1-4の状況に触れること。一番基本的なことですね。

もうひとつはレベルがあがって、1-4の状況に対応する表現がさほど意識するともなく与えられた時にそれがどのようなものであるかを説明する言葉を与えること。実際のところ、ここで私自身が最も楽しんだのは、1-4とJ1, J2, E1-E4の対応を与えることではなく、それに対応を与えるという問題の領域を共有するために解釈とか状況と呼びながら(といっても「状況」という言葉は最後のほうでしか使っていませんが)実際には言語表現でしかなかった1-4の言語表現そのものを解釈とか状況とか呼ぶことでなぜかしらJ1やJ2、E1からE4についての議論を言語表現と解釈という枠組みで表現できてしまうという言葉の説明作用の側を、文章を作りながら目に見えるかたちにすることでした。でもそれはこの文章においてあるものではありますが、説明されているものではありません。

少し別の視点から言葉を与えておきましょう。この文章で論じてきたことは、J-1とJ-2という二つの、それほど希でもないであろう日本語の文だけであり、それ以外はすべてこの二つの文の、それも量化子に特化した説明であったということができます。そして、ここでの説明は、日本語でこの二つの文のいずれを実際に言葉にするかという当たり前の選択において無意識に当然考えられてしまっていること(の一部)を言語化したに過ぎないということになります。その視点からは、J-1とJ-2の選択とそこで判断に作用する認識の言語化に使う説明用の言語としてここでは日本語と英語を利用した、ということになります[6]。

自然言語処理のタスクで、与えられた文あるいは文章について、それと並列して生成されながら表出には至らなかった文あるいは文章の集合を推定する話を考えてみるのもよいかもしれません。そのとき「それを考えるとはどういうことか」という問いをめぐる問いも必然的に起きるでしょう。

多少中途半端ですが、これで公開します。


注など

[1] 
なお、ここでは、一般にfruitを使い、fruitsは少し変で、あえてfruitsが使われるときは異なる種類の果物が複数あるときといったことは扱いません。

[2] 
私もちょっと考えてこれには少し感動しました。能動文にこだわる限り4が難しいのではと、作業をする前は思っていたのでした。

[3] ちなみに一般的なメタ表示の慣例として、英語における強調はイタリックを使います。また、アンダーラインはタイプライターではイタリックの変わりに(図書標題を示すためなどに)使われていましたが、可読性を落とすので通常は使いません。tailやdescender、serifなどを潰して文字の識別を阻害するからと言われています。

[4] 
「説明されれば」というのは一致するかどうか以前にそもそもこの曖昧性のバリエーションがわからないという人が少なくないからです。

[5] 
私の指導教員も私の義理の両親も70歳代とか80歳代だからと言われそうですが"What time is it now"と普通に言います。6億人(?)の日常的使用者を擁する英語で"What time is it now"とは言わないという乱暴な一般化に乗せられる必要はありませんし、いささかアルカイックな言葉を日常の中で話すというのは、教員が学生や生徒の言葉遣いを真似る必要などどこにもないのと同じで、別に悪いことではありません。「デザートは何がいい?」と聞かれて"assorted fruit"とレストランのデザートメニューを思い出しつつ答えると思いっきり気取った感じで文脈を外すことになる場合がほとんどですがいずれにせよ外国語であることの滑稽さは残るのですから一つ一つの滑稽さを気にする必要はありませんし(それはもちろん言葉を学び続けるなというわけではありません)、丁寧で誠実な滑稽さのほうが何となくあわせてみた滑稽さよりもよいでしょう。空気を読むとかはどうでもよいことですし、きちんとした大人のコミュニティでは、「ネイティブネス」を種にマウンティングする振舞いは(少なくとも表立っては)なされない程度にdiversityとinclusionは英語においてはできつつあるし、また私たちもそれに貢献していけばよい。ついでに言うと、セイン・カミュさんとか英語自慢の人たちが脅していることの多くは、それぞれの場にかなり異存するもので、「慣れ」でそれなりに対応できます。少し乱暴に言うと、使えて悪くはないけれども「わざわざ学ぶこと」ではありません。

[6] これは何も特別なことではなくて、私たちは言葉の意味がわからないときに辞書を引きますが、辞書には意味は書かれていなくて、定義と言われる言葉の列があるだけです。プログラミング、そして数学における等号等の一部の用法はこの点を明示するものですが、何故か「言語処理」においてこの視点はとても薄いのではないかと思います。話が飛びますが、シンボルグラウンでイング問題は、記号の存在をめぐる遠近法の過誤のもとにたてられた擬似問題ではないかと私は疑っています。「認知」の課題設定一般に見られる論理的な順序関係の過誤が記号をめぐってたどり着いた先ではないかと。ただしこの点は、今のところ私が論理的な説明を構成していると考えるこれをめぐる言語表現を使った説明が既にこの点をわかっている人以外を説得したことがないので(おや、とそこに何かあることを感じてくださる方はそれなりにいるようです)、今のところ、説明の責任を将来に先延べした断言になっています。




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2016/11/11

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(2)

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
 2016年5月7日、京都新聞に「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。この記事をめぐって、このブログでは、次の二つについて検討しています。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
このうち、第一の点は、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討しました。ここでは、第二の点について検討します。

 前回のブログ「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で既に記事の関連部分を掲載しましたが、ここでも改めて掲載します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 これから千葉雅也氏の発言を検討していきます。その際、第一の点、すなわち「見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて」、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討したことは前提とします。お読みになっていない方は、まずこちらからお読みください。また、この「ワークショップ」については案内サイトを、当日の経緯については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をご覧下さい。

 千葉氏の発言は、文言自体は一般論に見えますが、京都新聞の記事の話題の範囲で述べられていることから、「デリヘルを呼ぶ」という企画のあったワークショップに適用されることを前提として、以下の検討を進めます。


A. 「突出した行為に対し」

 千葉氏の発言は、「デリヘルを呼ぶ」企画を「突出した行為」と評価しているものと理解できます。しかしながら、実際には、前回の検討で明らかにしたように、この行為は、「デリヘルを呼ぶ」という企画自体が陳腐であることに加え、

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

という、個人個人が独立してものを考えない内輪の集団に典型的に見られる、その意味では極めて凡庸で陳腐な行為です[1]。

 セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、アカデミックハラスメントなどと同質であって、このような行為をもたらす機序は「自分たちの仲間内のノリに従って相対的に弱い(と自分たちが思い込んだ)相手に矛先を向ける」という、不幸にしてとてもよく見られるものの一変形です。このような、内輪の集団に典型的に見られる機序に従って、行為が歯止めなく他人の侵害に向かうことを「突出」と言う言葉で表すことは不可能ではありませんが、それは、あくまで陳腐で凡庸な思考様式にもとづく行為がやはり「内輪のノリでなんとなく」が歯止めを失うという陳腐で凡庸な機序により逸脱的に肥大するというだけで、わずかなりともポジティブな価値を認めうるものではありません。

 前回は、「デリヘルを呼ぶ」という行為とそれに対する認識に見られる、性差別的な側面を確認し、それを維持した上で、似たかたちを取る例を挙げました。性差別的な視点は、相対的に弱い相手を同定する際に男性の仲間内で共有される視点として特に目に付くものですが、仲間内で思い込んだ「弱いもの」を同定する視点は、他にもあります。障がい、人種、病気、学歴(東大生による暴行事件ではこの視点も入っていました)、収入、年齢、見かけなどが、すぐに思い浮かびます。

 このレベルで「デリヘルを呼ぶ」という企画の特徴を把握すると、これに類する出来事はさらに増えます。

 例えば、長谷川豊氏は、2016年9月19日、「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか? 今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題されたブログで、「人工的な装置を使って、週に3回ほど病院に行き、血液をキレイな状態に変えてもらう訳です。でなければ死んでしまいます」と言いつつ、先天性の患者以外を自業自得とひとくくりにし、透析患者があたかも働いていないかのような前提で、保健で透析を支える「アリ」に対し透析患者を「キリギリス」に見立て、「キリギリスは餓死しなければいけないのです。でなければ、アリさんはやる気を失うのです」と述べます。

 これも同じかたちをしています。

 もしかすると、こちらについてのみ「酷い」と思われる方もいるかもしれません。とはいえ、この発言も、会社などでそう少なからず見られる「あいつ使えない」といったやはり凡庸で陳腐な、「自分はできると思っている仲間内のノリに基づく何となくの発言」を逸脱的に肥大させただけのものに過ぎませんし、批判を受けたのちの長谷川氏の応答はまさにそうした意識を内面化し気づきもしないという、これもまた当たり前に見られる状況を示しているに過ぎません(「過ぎません」という言葉で表される陳腐さが深刻な被害を及ぼすことが大きな問題であることはこれまでも述べてきました。ここで「過ぎません」というのは、これがもたらす被害の深刻さを軽視するものではありません)。

 「デリヘルを呼ぶ」を企画しあるいはそれに参加した何人かの人々が、自分たちの平凡な、けれども他人に危害を加えることになる可能性のある行為を正当化するために持ち出したのは「芸術」でした。これに対し、長谷川氏が正当化に持ち出したものは「日本の再生」「経済」です。前回見たセクハラ・アカハラ上司は「頼りになる大人」を、女性に集団暴行を加えた学生は「学歴」を正当化に持ち出していました。いずれの場合でも、自分たちだけで了解している仲間内の「俺達ってすげえ」という無根拠な集団的自意識に一見したところポジティブな印象を与える言葉をかぶせることで、凡庸で陳腐な欲望を逸脱的に肥大させて他人に向ける言い訳に使うという点は、これも残念ながら極めて普通に見られるな機序です(共通していること自体が、その平凡さを明確に示しています)。

 千葉氏の言葉からは「デリヘルを呼ぶ」という企画がどのように「突出した行為」と見なしうるのかわわかりません。これまでの検討で、唯一、言葉として「突出した」と言えるのは、陳腐で凡庸な欲望を逸脱的に肥大化させたという点だけです。実際にはそれが「突出した行為」でないことは既に示しましたが、それ以外に整合的な解釈の使用がないので、これを「突出した行為」と見なしていると少しの間仮定してみましょう。


B. 「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」

 「突出した行為」に対する「批判」の「殺到」は「ある種の羨望の裏返し」と千葉氏は述べます。ここで皆さんに質問です。

数人で集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画を立て、それを「芸術」の名のもとに正当化しようとする行為

羨ましいですか?

勤務時間外に部下の女性を連れ出し「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ,それ」と言って相手に自己否定感を植え付け、それを「頼りになる大人」の行動として正当化する行為

羨ましいですか?

女性を集団で暴行し、それを「彼女らはアタマが悪いからとか,バカにして」正当化する行為

羨ましいですか?

先天性でない透析患者は自己責任だから保健は不要、「キリギリスは餓死しなくてはならない」と述べてそれを「日本の再生」「経済」を持ちだして正当化する行為

羨ましいですか?

 私は、まったく羨ましくありません。こうした行為を耳にしたとき、自分がそんなことをしたり言わないできてよかったと、心の底からほっとします。同時に、気づかないうちにしたり言ったりしてきたのではないかと本当に不安になりますし、思い当たることにたじろぎます。いずれにしても、ほんのわずかも羨ましくありません。自分は一生そんなことをしたくないし、誰もがそんなことをしないことを心の底から望みます。

 ところで、この段落(すぐ上の「私は、」から始まる段落)を読んだ段階で、違和感を感じられた方がいるかもしれません。それは、当然です。

 そもそも「羨ましいか?」という問いに対し、それを拒否するのではなく、羨ましいとか羨ましくないと答えることは、答える人が、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」の目線に自分の目線を重ねることによってのみ可能です。「羨望の裏返しにすぎない」という発言は、呼ばれたかもしれないデリヘルの人、部下の女性、暴行を受けた女性、殺せと言われた透析患者には自分を重ねる人が存在することを想定していません。すなわち、千葉氏の発言では、侵害を受けるかもしれない側の人とそれに目線を重ねる人の存在は、最初から排除されています。そして、上の段落の答えは、暫定的に千葉氏の発言が前提としてしまっている目線を共有した上でなされたものでした。

 より自然な順序で、千葉氏の発言の性質を整理しましょう。
  • 千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしている。
  • その上で、千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると決めつけている。
これらの発言は、対象となる出来事に関与する最低限の要素をさえ考慮できていないという点で、認識のプロセスとして不十分なものに基づいており、その当然の結果として、単純に経験科学的に検証しうる事実のレベルで完全に誤っているのです。

 実際、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に言葉を寄せている方々は、被害を受けかねなかった人たちの目線で、「デリヘルを呼ぶ」という行為を何となく思いついた数人の人たちに対し、その人たちとその行為には侵害行為を別にして何一つ突出したことは存在しないし、何一つ羨むべきことはないという明確な評価を与えています。この議論を無視して、「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という紋切り型の言葉でこの出来事をめぐる論争を表すことは、論争そのものを見ないことによってしか可能になりません。

中間整理(1)

 ここまで、千葉氏の発言に見られる特徴を整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。


C. 特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、

 ネットで検索すると、デリバリーヘルスの料金は、15,000円から30,000円程度のようです。「年収の分布」によると(統計元は国税庁平成26年民間給与実態統計調査結果)、男性サラリーマンの年収は300万円台(18.3%)、次いで400万円台(17.4%)が多く、200万円台(13.2%)と500万円台(12.8%)、600万円台(8.4%)と続きます。デリバリーヘルスのサービスを呼ぶことは、さほど「特権的」なことではなさそうです。

 また「デリバリーヘルス」「接待」でネットを検索すると、「幹事様必見! デリヘル(風俗)接待コース」といったサイトが上位に複数出てくることから、「何人かの人が集まってデリバリーヘルスのサービスを」というのもどうやら「特権的」なアイディアとは言えそうにありません。

 さらに、その行為を「芸術」と呼ぶことは、たぶん無料で、何の「特権」もなくてもできます。

 千葉氏の発言は、数人の集団が撮影可で不特定多数の人が出入りする場所に「デリヘルを呼ぶ」行為のどこに特権性があるかは書いていないので、もしかすると何か千葉氏しかご存じない特権性があったのかとも思いますが(まあ「デリヘルを呼ぶ」という行為を「芸術」と呼べるまでに徹底的な反省的知性の欠如はある種「特権的」かもしれませんが、でも随所に見られますし・・・)、上で見たように、千葉氏の直前の発言にはある事象に対して妥当な思考の表現が有するべき重要な属性のいくつかが欠けており経験科学的に容易に検証可能な事実についても誤りがあることから推測すると、ここでもまた、単に発言に持ち出された観念が現実と乖離していたと推測する方が妥当性は高いと思われます。

 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」は、むしろ、まったく逆のかたちで妥当します。

 男だから何か偉いとか、学歴が何か偉いと思う観念、自分が「芸術」だと思っていることが偉いと思う観念など、自分は相対的に上位にあると思っている人たちがそれを維持するために持ち出しがちな実体(個人における)と乖離した観念は、けれども対応するものが明示的なあるいは暗黙の制度として一部で依然として維持されている程度には凡庸なもので、その制度の中で相対的に優位な場にある自分たちよりも下位にあるものはまさに制度として維持されているがゆえにその制度で押し付けられた立ち位置が「平準化」の基準点と見なされ、つまり「現状」の維持が「平準」の基準であり、それを逸脱すると叩かれる、ということは非常に頻繁に見られます。「当たり前に働く女性」はその典型です。「生活保護を受ける女性」もその典型です。むしろこうした極めて「日本的な」(日本に限りませんがそれでも私の知るいくつかの場所と比べてやはり強いという点で「日本的な」という、通常、一定の条件がなければ使うことを避けるべき用語を千葉氏の言葉を借りて使います)制度的配置において、平準化された中の相対的に優位にある集団のその中でまた平準化された思考と行動の発露の典型的なものとして、

ある場所に集った人たちが、特に考えもなしに仲間内の「ノリ」で「デリヘルを呼ぶ」ことを、その影響も考えずに提案してみた。それを「芸術」という観念でなんとなく正当化した。

という行為は存在し、そのような平準化された曖昧な理解に、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」で違和を表明し異議を唱えた人々の行為こそが、この出来事をめぐって観察される光景の中では言葉の最も適切な意味で「突出した行為」でありましょう。それを現状の相対的優位を維持したい人々が典型的な「日本的な平準化欲望」の表明として「特権的」と見なし批判するというわかりやすい図式がここにあります。

 その特権性を前に、状況と乖離していることは少しきちんと調べればわかるにもかかわらずそれをせずに述べられた「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」そして「特権性を許さない日本的な平準化欲望」といった言葉こそ、まさに2016年の日本が置かれた風景の中で、かくも戯画的な図式にこれほどまでみごとに当てはまってしまってよいのかとたじろぐほどに典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」であることは、これまでの議論と事態そのものが、解釈の余地もないほど明確に示していることであります(実際のところは、そんなことを踏まえるまでもほどに明らかなものです)。

 差別的な視点を内面化し問題さえ認識できなくなっている人たちが内輪で「このくらいやっても大丈夫だろう」と思うこともなく思っている行為に対し、その行為の被害者から反論を受けて「とんでもないことが起きた」と相手を批判しはじめる。これは「欅坂46」のナチス風衣装をめぐっても見られたもので、「日本的な平準化欲望」にまみれた人々が当然の反応を前に「日本的な平準化欲望」に浸りきったがゆえにそれが当然と認識できずに「特権的な」ものと見なし攻撃を始めるという痛々しい行為を、千葉氏の発言は、こともあろうか「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という言葉を発することで今一度反復しています。簡単に言うと「俺らのぬるい欲望に対しお前らが反論する特権は許さない」というわけです。

 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について言うと、この出来事が京都市立芸術大学のギャラリーで、すなわち「アカデミズム」との「共犯関係」においてなされていたことを指摘しておきます。それに対して、たとえば「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に名を連ねている9名のうち「アカデミズム」に属していると確認できたのは2名です。なお、これに関する問題は、別のかたちで下でまた扱います(「共犯関係」は一般論だという可能な反論も途上で暗黙・間接的にですが扱います)。


D. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」

 「前もっての過剰な配慮」どころか、配慮そのものがなかったことは、企画者たちがなした「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか? といった会話」に対し、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏が「それは誰にとってのどんなリスクだということが話されたのですか」と問うたとき絶句して答えられなかったこと、つまり「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」ことが示しています。

 「『気にしい』」も、その場に呼ばれて問題を説明したげいまきまき氏に参加者が「デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?」「ダメなんですか?」などと聞いたこと、「『じゃあ何で、"デリヘルを呼ぶ"の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」ことなどから、出来事に対する妥当な特徴付けでないことがわかります。

 なお「前もっての配慮」については、「アカデミズム」の話とともに、後ほど関連する問題を扱います。

中間整理(2)

 ここまで、千葉氏の発言をめぐって確認したことを整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。


E. 「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。

 まず、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」という言葉の(非)論理構造を、出来事との対応とは別に指摘しておきましょう。そもそも、この発言は、法律や憲法への無理解を示しています。そしてそのことは、法律や憲法の勉強をしなくても、中学校までで学ぶ法律の基本的な位置づけを踏まえ、やはり中学校までで学ぶ初等的な論理に従って思考すればわかることです。

 法律は、人間ができることを禁止するものです。人間が「やるときはやる」からこそ、法律や憲法に規程があるのです。人間がどんなにやろうとしてもできないこと、想像もつかない行為を、法律や憲法は禁止しません(Proxima Bへの移住を規制する法律は存在しませんし、想像もつかないことについては禁止することを思いつけさえしません)。「人間は何事かをやるときにはやる存在だ」から、やらない方がよいことを「法律や憲法が禁止」するのです。

 むろん、それを踏まえた上で、論理の破綻と無意味さを通して意識的に「やるときはやる」ことの重要さを強調するためになされた発言だったのかもしれません。もちろん、ここまでで見てきたように、おそらくはそうでなかろう、むしろこの発言は単純な思考力の欠如を示しているものだろうと推測する証拠の方が圧倒的に強くはあるのですが。

 次に、出来事と「法律や憲法」との関係を考えます。「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」のサイトに、社会学者の山田創平氏が「表現の自由を守るために」という文章を寄せています。一段落一段落、担々と書かれていますが、すべて重要なので、次の段落に行く前に、まずお読み下さい。


 山田氏が言及しているのは、人体実験を禁じるニュルンベルク綱領とヘルシンキ宣言、それに依拠した、学術機関(美術館や博物館を含み、学芸員やキュレーターにもこの規定の順守が求められます)の倫理規定です。重要な点をあげます。
  • 「かつてナチスドイツはユダヤ人、障がい者、少数民族、同性愛者などをターゲットに膨大な人体実験を行いました。ニュルンベルク綱領はその反省の上に作られました。」
  • 「いわゆる九大事件(九州大学生体解剖事件、1945)や新潟大学事件(リケッチア人体実験事件、1955)など、大学における研究が学問の自由を大きく逸脱し、『人体実験』という、越えてはいけない一線を越えた事例も数多く存在します。」
  • 「今回の出来事に即して言えば、『デリヘル嬢を呼んで話を聞く』というのはインタビュー調査、面接調査、参与観察に該当します。今回、展覧会やワークショップの主催者はほとんど意識していなかった可能性もありますが、セックスワーカーを呼んで話を聞くという計画や実践は、大学や美術館がそれをやる以上『人を対象とする調査・研究』に該当するのです。」
 つまり、この出来事に関連して直接的に問題となる規定は、遡ると、ナチスドイツの人体実験にたどり着きます。それへの反省、また日本でもそう遠くない過去に起きていた学術機関での人体実験への反省から生まれた規定である、ということです。これに対して、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る言葉の中には、この無責任さの中で肯定される「やるときはやる」行為の一つにナチスドイツ下で行われた人体実験までは含まないことを示すものは何一つありません。

 したがって、今回の出来事が違反する規定の歴史的文脈において、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と言うことは、ナチスドイツにおいて、そして日本においてなされた人体実験も含めて、その存在を現在において否定しないことです。さらに、「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」という言葉は、「アート」において単にそれを否定しないだけでなく「理念的に」は積極的に肯定する側に一歩踏み出したものと解釈できます。

 ここで、ナチスドイツ時代の宣伝ポスターを一つ紹介します。

遺伝的欠陥を持つ人間の一生に6万ライヒマルクもかかる。それは他ならぬ君の金だ。考えろ。

  1. この言葉は、長谷川豊氏の発言に(長谷川氏の発言では「遺伝的欠陥」は除外されていますが)たいへん似ています。
  2. 長谷川豊氏の発言においては、「日本の再生」「経済」が正当化に持ち出されました。
  3. この長谷川豊氏の発言と発言の正当化は、「誕生日研究会」のメンバーが女性に集団暴行を加え、その実行を正当化するために「学歴」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
  4. 長谷川豊氏の発言と発言の正当化、「誕生日研究会」のメンバーの行動とその正当化は、何人かが集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画をたて、それを正当化するために「芸術」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
 千葉氏の発言は、議論の対象であったはずだった「デリヘルを呼ぶ」という事態を具体的に検討することなしに極めて一般的なものとしてなされ、この経路を逆から辿って、途中で対象を構成する要素に関する具体的な属性の変化から適用不可能になるような制約が存在しないものであったために、今回のケースに具体的に適用される規定の歴史的文脈を介してナチスドイツ下の人体実験に類することまでを「アート」の可能な射程に含め擁護する作用を有しています。

 「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」という文言、そして千葉氏のこれまでの発言の中に、ナチスドイツ型の人体実験を「アート」の名目で行うことは否定する要素は、どこにもありません。今回の出来事が、ナチスドイツによる人体実験の反省から作られたニュルンベルク綱領に起源を持つ研究機関の倫理規定に違反する可能性があること、まさにその出来事をめぐって千葉氏が「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」と述べていることが導く、これは論理的な帰結です。


F. 「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 以上のような帰結を導く発言ののちに、「他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもり」がない、ということは、単純に発言にも発言の一貫性にも責任を取らない放言に過ぎないと自らの発言を見なしているか、人体実験は少なくとも「理念的」には「他人に迷惑をかけ」ることではないと言いたいか、あるいは、この出来事をめぐって千葉氏が発言し記録されたことがその言語の形式において何を意味してしまうかについて考えが及ばない程度に言語における思考に関して未熟であるか、(あるいはその可能な組み合わせの)いずれかであることを示しています。

 既に、「『しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない』と警鐘を鳴らす」ことの性質は明らかですが、少しのべておきます。

 まず、特定の出来事の妥当性を検証しているときに、「あらゆる迷惑行為」を持ち出すのは、典型的な議論の過誤です。そもそも、この出来事をめぐって「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止」すべきという主張が存在していることを千葉氏は示していません。一方で、まさにこの行為がいかに問題かを具体的に論じた主張は極めて目につきやすいにもかかわらず、扱われていません。

 この言葉についてはもう一点、日本社会における「迷惑行為」の実質的な適用範囲を踏まえて、適用の過誤を指摘することができます。経験科学的事実確認と社会科学的概念批判の組み合わせで極めて単純に行えるものです。

 現在の日本では、比較的広い範囲で、セクハラやアカハラよりも、それを訴える行為が「迷惑行為」であると、実質上は見なされがちです(少し調べてみるとわかります。また、不幸にして実感されている方も少なくないと思います)。それと相関して、訴えることをあらかじめ封じ込めようとする圧力も強くあります。

 例えば、性的事件についての報告率は「平成24年版犯罪白書」では18.5%とされており、また、内閣府による2014年度「男女間における暴力に関する調査」では「異性から無理やりに性交された経験(女性のみ)」で被害経験のある人は6.5%となっています。そのうち「相談した人」は31.6%、「警察への相談」はわずか4.3%に過ぎません。

 このことが示唆するのは、実際には、「アートと称してデリヘルを呼ぶ」とか「頼りになる大人」を装ってセクハラとパワハラを続けるとか、自分は「東大生」だからという観念のもとで女性に暴行を加えるといったときに、現在の社会で絶望的に不足しているのは、それを防止しようとする社会的意志であって、この社会的意志の欠落の中で生み出されているのは、千葉雅也氏が述べることとは全く逆に、被害を訴え出る行為が、むしろこうした侵害を当たり前のものとするような雰囲気を受け入れそれを意識するともなく前提として思考する人々によって「迷惑行為」と捉えられ抑圧を受けているという状況です。

 もし「デリヘルを呼ぶ」という企画が未遂に終わらなかったら、派遣された女性は訴えることができたでしょうか?

 「他人に言えない」人が多いという条件を考えると、上で述べた報告率に対応する確率よりも訴える可能性は低いと考えるのがより妥当だと思われます。「デリヘルを呼ぶ」という企画は、「あらゆる(被害者が訴え出るという)迷惑行為をあらかじめ防止しよう」という圧力が蔓延し被害者が「萎縮」する「社会」の中で、安全地帯にいる人々が他人への侵害を行えるような、千葉氏の言葉を借りると「ファシズムに転化しかねない」状況があるからこそ、かくもやすやすと凡庸に陳腐に成り立ってしまったのであり、それによる被害を訴えることは、「ファシズムに転化しかねない」状況に対する極めてまっとうな反対です。

 それを認識せずに(しかしながら「中間整理(1)」「中間整理(2)」でまとめたように千葉氏はこの出来事についてほぼ何一つ認識することに成功していないのですが)、「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べてしまう千葉氏が、「法律や憲法」、規定の文脈で、ナチスドイツ下の人体実験を「理念的」に容認する帰結を導く発言をしたことは、これもまたあまりに戯画的ではありますが、当然のことであったと言わざるを得ないほど整合性が取れてはいます。

 検討の対象であるべき出来事の具体性を捉えず、歴史的文脈を捉えず、紋切り型の一般論を持ちだして何か言った気になるという、単純に、記事に記載されている限りでの千葉氏の文言から抽出できる議論の性格は、「ファシズム」という言葉の弛緩し倒錯した使用法も含めて、すぐれて「日本的」に「平準化」された緩さであるという点で「突出した行為」から限りなく離れたところにあるという点も、既に十分に自明ではありますが、ここで指摘しておきましょう。


最後に

 簡単に千葉氏の発言と発言行為の特徴と作用をまとめます。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。
  8. 「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べることが、相対的優位にあると思い込んでいながらそれに気づきもしない自分がそれに気付かされるような反論を「迷惑行為」と見なして防止しようという「特権性(と自分たちが見なすもの)を許さない日本的な平準化欲望」の発露になっていること[2]。
 経験科学的に検証しうる事実認識の誤り、思考の出発点における要素の見落とし、社会科学的概念の操作と経験科学的な分析で認識できる事実関係の誤りに基づき、自ら批判的に述べている行為をまさにそれを批判する言葉を発することによって行っている、千葉氏の言葉は、思考と思考するという行動はこのようなものであってはならないという典型的な在り方を短い言葉の中によく詰め込んだものになっています。

 芸術だと自分が思い込んでいることを言い訳に肥大した好奇心を満たす行為と芸術との区別がつかないくらいに芸術を知らない「芸術家」たちによってでなければ提案されるはずもないと思わざるを得ないような、「芸術」の名を付けてなされた芸術と言うべくもない人権侵害未遂をめぐって、出来事そのものが求める問いと自分が問いだと思っていることの区別がつけられないくらいに問いを問うことを知らない「記者」によってでなければ提出されるべくもないと思わざるを得ないような問いモドキが提出されてしまい、それに対して自分が知性/思考だと思っていることと知性/思考との区別がつけられないくらいに知性/思考を知らない「哲学者」によってでなければ発せられるはずもないと思わざるを得ないような一見したところ言葉に見える列が発せられてしまい、それが問いモドキとともに何か意味があるかのように新聞に印刷されて人目に触れてしまったという、芸術にとっても報道にとっても思考にとってもあまりに殺伐として救いがたい、けれども不幸にして極めて見慣れた凡庸な光景が、ここにあります。

 もうひとつ付け加えておくならば、千葉氏の発言は、原発事故後に、事故そのものを調べることなく一般論を、しかもしばしば誤ったかたちで繰り返した「科学者」と、その位置づけと全体の構造において、ほとんど同じです。

 私たちは、こうした悲惨な状況に対して、当たり前に人権や芸術や思想や哲学や科学を救済していきましょう。どうすればそれができるのか、げいまきまき氏が示唆しています。

私はあい変わらず芸術も生活も人も大切だと思う。特別ではなく大切だと。

科学も、思想も、人権も、美味しい食事も、楽しい会話も、同じように、特別ではなく、大切なものです。空疎な一般論を振りかざして何か言った「気になる」のではなく、一つ一つ言葉を積み重ねましょう。食べログの情報を確認して味わった「気になる」のではなく、一つ一つ料理を味わいましょう。


注など

[1] 「凡庸」「陳腐」といった言葉は、個々人に向けられているものではなく、行動と思考様式に向けられています。論を追っていただければわかるように、「凡庸」「陳腐」という言葉はまず行動そのものに、次に「内輪のノリで何となく・・・をしてしまう」という思考(の欠如)様式に与えられ、そこでは、そもそも「凡庸」「陳腐」であると言えるような「個人」が存在しないこと、がまさに凡庸さ、陳腐さであるわけです。

[2] ちなみに千葉雅也氏はご自身の発言をアイロニーとして読み取れるはずだとこの記事よりも前に書いていますよ、と指摘してくださった方がいました。もちろん、このような記事を書く時に、その程度の可能性は考慮するものです。というかこの記事を読んでそれが考慮されていないと考える方がむしろ不思議ではあります。実際、「アイロニーですよ」と言うことは、「アイロニー」ととても言えないものを、自分が「アイロニー」と思っているもので正当化する、という、まさにこの記事が指摘している構造の単純な反復になっていて、それはまあ当然のことです。この記事が分析したことの一つはまさにそのことなのですから。「デリヘルを呼ぶ」を「芸術」と言ったり差別を「シャレ」「ジョーク」と言うのと同じかたちです(ただし自己申告した評価の方向性は違ったりしますが)。

「京都新聞の記事、「読めない」人は、あのデリヘルアートを評価してるように見えるかもしれない、一言明言しておくべきだったかも、という指摘を受けた。そうかもしれない。あんなのダメに決まってんじゃん、その上で、という話で、あの記事はアイロニーで書かれてるから、読み取れると思ってたけど。」

「「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」(熊本地震のとき)は「シャレ」だとわかると思ってたけど。だってそんなわけないに決まってんじゃん。シャレで書いている。わからない人もいるんだな。」

論理的に当然外挿できることではありますが、一応書いておきます。分析的な検討をしない点は、麻生太郎氏が香港のメディアにAIIBの質問をめぐって「嘲笑」で誤魔化したのと似かよっています。
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2016/11/10

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
 2016年5月7日、京都新聞に「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。

 一部、引用します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 ここでは、二つの点について、検討します。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
分量の関係から、二つに分けて、このポストでは、第一の点を扱います。

 検討に入る前に、記事で言及されているワークショップについて、もう少し情報を共有しておきましょう。ワークショップは、2016年1月30日、丹羽良徳氏により開催されたもので、案内サイトに説明があります。終了後の追記も掲載されています。

 当日、「実現に向けて実践的な行動を開始する」とされていた「提案」は、以下の通り。
  • デリバリーヘルス[1]のサービスを会場に呼ぶ
  • 男子トイレと女子トイレを入れ替える
  • 階段で野菜の天ぷらを揚げる
  • タクシーで城の周りを5周する
 「当日はビデオ撮影を予定しているので、参加者はビデオに映ることをご了承のうえ参加ください」とのこと。実際、この「ワークショップ」は撮影自由だったとのことです。

 「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」は実現されず、かわりに、女優パフォーマーのげいまきまき氏が会場に呼ばれ、この課題の問題について説明がなされました。この経緯に関しては、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」というサイトに、アーティストのブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏によるまとめ(「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」)、そして「事情に詳しい方」として呼ばれた女優パフォーマーのげいまきまき氏本人の文章(「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」)が掲載されています。

 ぜひ、このサイトに掲載されている文章をすべてお読みいただければと思います。元の文章の緊張感は失いますが、重要な点だけ、以下で確認しておきます。
  • ワークショップ参加者の間で「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか?」といった会話がなされたが、「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」。
  • ワークショップに「事情に詳しい人」として呼ばれたげいまきまき氏に、丹羽良徳氏と参加者から「『デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?』『ダメなんですか?』という質問があった」。「丹羽氏やほかの参加者も笑っていた」。
  • 「ワークショップの間、他の観客の出入り及び写真・ビデオ撮影は自由であった」。「そのことに気付いたげいまきまきさんは丹羽さんに対して『この空間は撮影自由なのですか?』と尋ねたところ、丹羽さんは『ああ、自由ですよ』と当然のように答えた」。
  • 「彼らは何度も『たとえ人の怒りを買っても』と世界を理解したい欲や好奇心の崇高さに酔いしれた発言をしていた。 そこまで言うにしては『何故デリヘルなのか?』の質問に最初は答えず、 終いには『特に意味はない』『別に呼びたいわけではない』『ラーメン屋でもよかった』『ポーランドの作家もしてたから』と繰り返し言ってきた」。さらに、「とある参加者は『じゃあ何で、``デリヘルを呼ぶ''の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」。
 また、げいまきまき氏は直後のツイートの一つで、「国内のセックスワーカーへの調査の中に『セックスワークへの従事を何人が知っているか』というのがあります。平均2人です。しかもその2人の内訳は同じ職場や職種だったりします。現状とても打ち明けにくいと実感している人が多いのです」と書いています(「直後のつぶやき」)。セックスワークに従事していることを他の人に知られないようにしている人が多いだろうということは、容易に想像がつきます。

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。


A. 「デリヘルを呼ぶ」という企画をめぐって起きていたことは何と呼ばれるか?

 少し大げさにビックリマークを付けて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か!?」と書くと、いかにも、既存の権威やタブーに挑戦する芸術をめぐって、まさに芸術が既存の権威やタブーに挑戦するがゆえに巻き起こった論争で、ここが芸術の正念場、という印象を持ちます。

 「芸術」かどうかが記事見出しの問いになっており、ここでの作業はその問い自体を検討することにあります(「芸術」かどうかを検討することにはないことに注意して下さい。ただし、その点も自ずと明らかになります)。その検討にあたって「芸術」という言葉があるとやはりそれに対して抱いている観念に影響されるかもしれないので、とりあえず、問いの性質を「芸術」に関する先入観なく見極めるために、「芸術」という言葉を、意味のない言葉(例えば「X」)で置換えて、それに何が当てはまるか、というかたちで考えることにしてみます。

 まず、ここでの出来事の基本的な性格は、出来事の経緯とそれを実行していた人たちの振舞いを通して、次のようにまとめることができます。

起きたこととその基本的な性格
  1. 何人かの人たちが、デリヘルの派遣を撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に呼ぼうとした。その際、デリヘルの会社・派遣される人にはそれと知らせずに呼ぼうとした。
  2. その際、デリヘルから呼ばれた人のリスクについては考えもしていなかった。また、デリヘルから呼ばれた人のリスクについて自分たちが考えもしていないことに気づいてもいなかった。
  3. その際、なぜデリヘルであるかについても考えもしていなかった。また、他でもよかったにもかかわらずなぜ実際にはデリヘルになったかについても考えもしていなかった。
 さて、以上を踏まえた上で(もう少し何が起きたか確認したい方は、改めてこの出来事の場となった「ワークショップ」の案内サイトと「Don't exploit my anger! わたしの怒りを盗むな」に掲載されているブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏の「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」、げいまきまき氏の「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」から、この企画を実行しようとした人々の振舞いと理解がどのようなものであったか確認してみてください)、次の問いを考えてみます。

「これらの人たちの、以上のような行動をXと呼ぶ」のXに当てはまる言葉をあげてみる。

 割とはっきりしています。
  • 好意的に捉えた場合:「悪ノリ」「悪ふざけ」
  • 傍観者的に捉えた場合:「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」
  • 呼ばれた人のことを少し想像した場合:「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」
  • 呼ばれた人に起きる最悪の事態を想像した場合:「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」
 もう一度、出来事を簡単に記述します。実際にこの行動が起しうる状況については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」の「Q&A」も参照してください。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

この行為に対して与える言葉は、大体、ここで与えた言葉及びその類義語やバリエーションでほぼ尽きています。

 私たちは、これに類する行動を、最近でもいくつか目にしています。「類する」というのは、何人かの人間が内輪のノリで、あるいはそうした内輪のノリを観念的に内面化した個人が、断りもなく他人を侵害する行為です。

 二つ、これに類する出来事をあげておきます。

 一つ目として、「私がいても、いなくても」というブログの記事「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか? 自殺した電通女性新入社員のツイートを見て思い出したこと」に書かれている出来事を紹介します。一部、引用します。

 上司は私を連れ出し、飲み会で散々ダメ出しをした。仕事のダメ出しではない。そんなのは業務時間中にいやというほどされている。業務時間外にされたダメ出し、それは私の外見や性格や言動に対するものだった。
「ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ」
「LINEのアイコンをアニメキャラにするな。男が引く。今すぐ変えろ」
「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ、それ」
「お前は世間を知らないから、いろんな男と付き合って経験値を上げろ」
 今考えれば立派なセクハラとパワハラのオンパレードだが、当時の私はそう思わなかった。【・・・】自分のためを思って言ってくれているのだと思った。自分には女として色んなダメな部分があって、それを指摘してくれているのだと。
 そして、とてもしんどかった。仕事でも女としても自分はダメなのだと、深く落ち込んだ。苦しかった。
 【・・・その後、社内に彼氏ができて報告しなかったことで彼氏がその上司に怒られるという出来事が起きます。・・・】
 目が覚めた。
 別にこの人は、私のためを思っていろいろ言ってくれていたわけじゃない。
 それに、私に何か女としての欠陥が特別あったわけでもない。
 この人は単純に、私と何かしらの形で関わりたかっただけ。そのために取れる手段が、『ダメ出し』しかなかっただけだ。
 『頼りになる大人』の皮を被り、自分の支配下に置きたいがために、私に自己否定感を植え付け、何の根拠もない偏ったアドバイスという名のクソバイスを繰り広げて、自分勝手に気持ち良くなっていただけ。しかも、本当にそれが相手のためだと信じ込んでいるというオマケ付き。

 「デリヘルを呼ぶ」行為の「何人かの人が、特に考えもなしに」を、「ここに登場する上司が属している集団の文化を意識するともなく内面化し」に置き換え、影響として「相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け」ることとするならば、よく対応していることがわかります。

 もうひとつの出来事をあげます。事件になったものです。

 2016年5月10日、東京大学の学部・大学院学生による集団強制わいせつ事件が置きました。「誕生日研究会」というサークルのメンバー5名が女性をマンションに連れ込み、集団で性的暴行を加えた事件です[2]。

 この事件で、加害者たちは、当初、笑いながら女性に暴行を加えていたこと、その場にいて途中で帰った別の女性に「これは犯罪だ」と指摘されても「大丈夫、大丈夫」と答えていたことが報じられています。被害者女性が泣き叫んだため、近隣の住民に通報されることを恐れて服を渡したのち、女性が部屋を飛び出して警察に通報したため事件が発覚しました。

 2016年10月25日の判決では「数人が全裸の被害者の体を交互に触り、周囲の者はこれをはやし立て、被害者が泣き出した後も被害者の体を弄び、虐げたもの」としています。裁判の過程で、加害者たちが、被害者を「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」いたこと、「ネタ枠」などと呼んでいたことも示されています。

 この事件は、次の通り、「デリヘルを呼ぶ」出来事といくつかの言葉を入れ替えるだけで、ほとんど同じかたちで表現できます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行した。

 改めて共通点を確認しておきます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
 こうした行動の様式は、不幸にして、少なからず見られ、とりわけ一部の男性集団の中では頻繁に見られます。その意味で、極めて凡庸で陳腐な行動及び行動様式です。もちろん、そのことは、その行動が引き起こす侵害の重大さや深刻さを減ずるものではありません。まったく逆に、重大な侵害をもたらす行動を引き起こすメカニズムが極めて陳腐で凡庸なものであるという点は、非常に深刻です[3]。げいまきまき氏が「あんたらのやろうとしてることは人殺しだ」と述べたこと、それを計画者たちが十分に理解できなかった様子であることは、まさにこの、行動がもたらす深刻さを想像できずに行動を提案した人たちの陳腐さと凡庸さをとても明確に示しています。繰り返しになりますが、こうした陳腐さと凡庸さがが極めて深刻な危害と侵害を被害者にもたらすことが少なからずあります。

 以上の検討で、京都新聞が扱っている出来事の基本的な性格が明らかになりました。改めてまとめておきます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。それがもたらす侵害の深刻さを指摘してくれる人がいて、その行為は未遂に終わった。

 「誕生日研究会」の加害者たちが、「これは犯罪だ」と指摘されても止めなかったのに対し、とりあえず企画を止めたという点がかろうじての救いでしょうが、それも、経緯をみる限り、「特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた」人たちがその影響に気づき自分たちの行為の問題を理解したからというよりは、単に、たじろいだから(相対的な権威の前に日和った)という側面が強そうです(げいまきまきさんが呼ばれたきっかけはこの企画が「リスキーなのでは?」と企画者が考えたところにあり、その段階で「誰にとってのどんなリスク」かがまったく考えられていなかったことは、デリヘルの会社の人との関係で自分たちに取って「リスキー」なのではと漠然と感じていただけなのではないかということを強く示唆します)。

 「デリヘルを呼ぶ」は未遂で終わっていますので、パワハラ・セクハラ、そして暴行が実際に行われた二つのケースとはその点で異なりますが、その途上で、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏は影響を受けています(「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をお読み下さい)。


B. 「芸術」はどこから出てきたか?

 さて、ここで私たちは大きな問題に直面します。

 セクハラ的価値観を内面化していると言ってもそう誤りでない数人の人々が集まって何となくの内輪のノリで、撮影自由で不特定多数の人が出入りしうる場にデリバリーヘルスのサービスを呼ぶことを提案してみたという、「悪ノリ」「悪ふざけ」「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」といった言葉で最も適切に表現されかつそれ以外では表現されようもない、不幸にして日本社会ではしばしば見られるという意味で陳腐で凡庸としか言いようのない、したがっておよそ芸術とこれほどかけ離れた行動もなかなか存在しなかろうと言えるほどに芸術から遠いこの行動の提案について[4]、どこからどうしてどのように「芸術」が関係してきたのでしょうか?

 答えは簡単です。

 これらの行為を企画した本人たちが自分たちの仲間内でこれを「芸術」と呼んでいたのでした。それ以外に、この行為をめぐって「芸術」が出てくる部分はどこにもありません。従って、ここで行われた行為の系列全体の中で、「芸術」は次のように位置づけられます。

何人かの人が「芸術」を名目にあつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

 外から観察する目で、この状況を記述し直すと次のようになります。

デリヘルを呼ぶという陳腐で凡庸な、けれども深刻な侵害を引き起こしうる行為を、何人かの人間が集まった内輪のノリで何となく思いつき、その行為を「芸術」という言葉で正当化した。

 そして、この光景は、類似の出来事を通して、私たちに覚えのあるものです。例えば、Aで紹介した二つのケースは、「デリヘルを呼ぶ」における「芸術」に相当する要素を入れて、次のように述べることができます。

自分が属している集団の文化を意識するともなく内面化している上司が、勤務時間外に権力関係を利用して新入社員の女性にパワハラ・セクハラをして相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け、その行為を「頼りになる大人」が相手のためにやっていると自分で見なして正当化した。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行し、その行為を「自分たちは東大生」で「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」正当化した。

 これら三つの行為に共通する点を改めて挙げましょう。一つ追加されます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
  3. 自分たちの行為を「芸術」とか「頼りになる大人」とか「東大生」といった自分たちが所有しいると思っており「正の価値」を持つと思い込んでいる観念に訴えて正当化していること。
 三番目の点もまた、頻繁に観察されます。実際、大学の場におけるアカデミックハラスメントでは、ハラスメント行為を行うものはその正当化に、しばしば「学問」とか「科学」とか「真理の追求」といった概念を持ち出しますし、セクシャルハラスメント行為を行うものは「社会」とか「大人」とか「女たるもの」といった概念を持ち出しますし、パワーハラスメントを行うものは「仕事」とか「使命」とか「社会人」といった言葉を持ち出します。

 つまり、「デリヘルを呼ぶ」という行為だけでなく、それを正当化するために「芸術」を持ち出すという行為も、随所で観察されるハラスメントや暴行において正確にそれに対応するものを容易に同定することができる、極めて凡庸で陳腐なものだということが確認できます。繰り返しになりますが、行動とその正当化のパターンが陳腐で凡庸であっても、それがもたらす侵害や被害は深刻なものになります。
 

C. 「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」について

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか?」の事例及び東大生による強制わいせつ事件の事例に対応するものであることが確認できたので、この問いを検討するにあたって、これら二つの出来事・事件で対応する問い(見出し)を立ててみます。

 少し表現を操作する必要はありますが、大体、次のようになるでしょう。

「業務時間外に部下の女性に『ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ』等々と言うのは頼りになる大人のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

「女性を集団で暴行するのは東大生のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

これらの問いから、このような問いを問うこと自体が、完全に不適切であることがはっきりとわかります。

 では、この出来事について、実際に問われるべき問いはどのようなものだったでしょうか?

 理論的に導き出される答えは簡単で、

「芸術」をダシに使ってデリバリーヘルスのサービスを本来呼ぶべきところではないところに呼び自分たちの好奇心を満足させようという凡庸で陳腐なお仲間集団の行動は妥当か?

というもので、この問いに対する答えは、直ちにもちろん妥当ではない、となりますから、最初から、京都新聞の見出しにあるような「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」といった疑似質問も、そして上の理屈の上ではまっとうな質問も、出すまでもなく、その前に、当たり前に「芸術をダシにして人権侵害をしてはいけません」と大人が指摘してお終いになるべき、これは極めて単純な出来事であったということが確認できます。

 そして実際に、絶望的な無理解を前に、けれどもげいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がそのように適切に振舞ってくれたことで、様々な場で同様の凡庸かつ陳腐な行為が深刻な侵害を引き起こしている中、また一つ深刻な侵害になるかもしれなかった事態がかろうじて回避された、というこれは出来事であったことも確認できます。

 勘違いした仲間内の悪ノリが深刻な侵害に至るまえに、きちんとした大人が制止してくれた。私たちが確認すべきは、そこに多少なりとも世界の救いがかろうじてあるということであって、勘違いした仲間内の悪ノリを正当化するために持ち出された「芸術」という観念に踊らされて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か?」という疑似質問を提出したりそれに答えたりすることではありません。そのことはまた、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がともに表現行為に関わる人であることからも確認できます。

 冒頭で提起した二つ目の問い、「『哲学者』千葉雅也氏の発言について」は稿を改めて述べることにします。


注など

[1] 「デリバリーヘルス」は、「派遣型のファッションヘルスのこと」で、「ファッションヘルス」は「一般に女性従業員が男性客に個室で性的なサービスを提供する日本におけるいわゆる風俗店の一種」だそうです。


[3] ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについて』(みずす書房)を思い起こされた方もいるでしょう。

[4] いくつか、芸術の付随的属性をめぐって、「デリヘルを呼ぶ」という行為及びそれを企画した人たちの態度を整理しておきます。第一に、「芸術は権威をゆるがす」といったことについて。撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に「デリヘルを呼ぶ」行為は「権威をゆるがす」ものではなく、既存の悪しき確立して蔓延している男性中心の権威に基づいた行為をいっそう悪しきところに向けて逸脱的に展開した行為です。第二に、「芸術は存在や悪に関わる」という点について。例えば殺人をそのまま行って芸術だというのは芸術が表象行為であることを考えるならば単に矛盾であり、芸術の否定です。第三に、「芸術は驚きをもたらす」というとき、このような侵害を考えもなしに提案できる人々の認識力のなさ以外、この提案に驚くべきことは何一つありません(私たちの前にはデュシャンもいたのです)。第四に、「たとえ人の怒りを買っても」芸術が担う使命があるという点について、企画者たちは当初「人の怒りを買う」とさえ思っていなかったことが示されていますから、これも妥当なものではありません(会田誠氏の言葉「僕はいつか例えば、イスラエルを完全に怒らせる表現をするかもしれない。具体的な予定はないが。その時は『刺し違える覚悟』でやると思う。芸術だから許されるとか、そういう話では一切ない」という発言は示唆的です)。なお、この場にいた「加須屋さん」は京都市立芸術大学の加須屋明子教授と思われます。女性ですが、この出来事をめぐる本稿の記述が加須屋氏の存在で変わることは特にありません。


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