研究ブログ

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2017/06/20

低強度災害と原発事故・原発を扱ったいくつかの作品

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東京電力福島第一原発事故は7年目に入った(最初の年を1年目とする)。妥当な表現はこのようになるのであって、「東京電力福島第一原発事故から6年以上が経った」とはならない。

原発事故そして原発災害は今も続いている。

言葉を当てはめたとき、それが存在に対応しているものであっても、その言葉に接する側が持っている解釈の体系に吸収され「わかられる」ことで、存在が失われることがある。とても頻繁にある。

それにもかかわらず、ここで6年以上続いている東京電力福島第一原発事故と放射能汚染災害に「低強度災害」という言葉を与えよう。

この言葉のもとにあった低強度紛争(low-intensity warfare)と同様、「低強度」であることは、事故と災害の規模が小さいことを意味はしない(ニカラグアをはじめ中米でアメリカ合衆国が加えた低強度攻撃は膨大な人権侵害を引き起こし犠牲を生んだ)。

低強度災害のもとで生きるためには、一方で、日常的な生活を維持し送りつつ、他方で災害を日常化し忘却しないことが必要になる。日常的な生活を送れないと被害はさらに拡大するし、災害を忘却すると被害を強いられる状況は恒常化される。

ここで、いくつかの作品を紹介しよう。

壷井明さんの『連作 祭壇画 無主物』
http://dennou.velvet.jp/index.html

丹下紘希さんの『トーキョーミラクルラブストーリー
(同じサイトで丹下さんのビデオ作品を他にもいくつか見ることができます。)

ハッピーアイランドネットワークの『U235の少年たち』
Trailer 1
Trailer 2

少し捉えにくいけれど、おしどりマコ・ケンさんが連綿と続けている取材と報道


低強度災害という言葉で表される事態は「わかられる」ものではなく、それを前に私たちが立ち止まることを強いられるものとして、すぐここにある。

ここで紹介した作品は、そのために(も)ある。作品そのものに表現されているのだから改めて「わかられる」ことを促す危険を犯して低強度災害などという言葉を導入する必要はない、かもしれない(実は、ずっとそう考えていた)。

昨日、知り合いと二人でこれらの作品をPC上で見直していて(とはいえ、本来のスケールでではない)、これらの作品は見かけ上の肌触りが異なるために(また、別途、ここでは述べない背景もあって)、わかられ、略奪される危険を犯しても、言葉をあてたほうがよいのではないかという結論に至ったため、書いておく。

低強度災害は、「ゆでがえる」という言葉で表されているものと同じではないか、という指摘はありうるだろう。まさにそのようなかたちで「わかられる」ものとしてではなく、低強度災害という言葉が表している存在を前に立ち止まってしまいそれに触れてしまう可能性を開くために、上で引いた作品はある。重要なのは低強度災害という事態で現在の状況をわかることではない。それが表している事態に、その中に私たちがいるものとして、触れること。忘れるのではなく、忘れないと言うことにより忘れるのでもなく。




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2017/03/11

「あれから5年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」

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昨年3月の『現代思想』に掲載された記事です。長さの関係から2つに分けます。『現代思想』への寄稿時に、ネット上で公開する可能性があることは、編集者に伝え、了解を得ています。

1年経って、事故の状況は基本的に変わっていないものの、安倍晋三氏が「節目越えた」と述べ会見をやめ、住宅支援打ち切りと帰還が進められるなど、現実をごまかしながらの「平常化」は一層進んでいますが、基本的な状況は変わっていないので(とはいえ避難者や悪性疑いの方の数のようにある程度具体的なことがらには変化があります)、このまま公開します。


1. 2016年 東電福島第一原発事故

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故から、2016年3月で5年が経とうとしている。

 メディアなどでしばしば見られるこのような表現は、東京電力福島第一原発事故は今まさにこの瞬間も進行中なのだから、通常の日本語の解釈では誤りである[1]。2011年3月に放出された放射性物質の量は大気への放出だけで推定90万テラベクレルにおよび[2]、現在も平時とは比較にならない量の放射性物質が放出され続け[3]、事故初期に大量にばら撒かれた放射性物質の除染は十分には進まないまま[4]、広い範囲に拡散した放射性物質は放射線を出し続けている。

 避難者は依然として10万人近くおり[5]、福島県に限定された「県民健康調査」が2015年11月30日に出した甲状腺検査の結果は先行検査ベースで推定される悪性率の2.8倍となっていながら[6]、対応は進んでいない。また、福島県以外では汚染の激しい地域についてさえ体系的な健康調査はなされないまま現在に至っている。被曝量の評価そして健康対策の観点から極めて重要な初期被曝については曖昧にされたままである[7]。

 国会事故調が「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と指摘し、「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られ ないまま 3.11を迎えたことで発生したものであった」と述べているにもかかわらず[8]、事故そのものの責任はほとんど問われないまま[9]、全電源喪失の危険を指摘されながら対策を取る必要はないとして東京電力福島第一原発事故を引き起こすことにつながる安全対策の欠如を支えた人物が[10]再び首相の座に戻って以前と変わらぬ無策を放置したまま原発の再稼働を推進している。

 そしてそうした責任を問わないまま、また事故の解明もしないまま、事故が引き起こした膨大な損失を無視して「原発停止は国の損失」といった発言が政財界からなされ[11]、原発を称揚したり放射線の健康影響を矮小化する一部「専門家」の発言やメディアの報道も続いている[12]。

 したがって、2016年3月を「事故から5年」として「事故」を振り返り、振り返る振舞い自体によって「事故」を過去のものとする「年に一度のイベント」[13]に同調するわけにはいかないが、いずれにせよ多くの人が「事故から5年」を語ることが想定されるのであれば、それを契機に、現在進行中の事態を5年前の出発点に立ち戻りつつ捉え直すことで明確になるものもあろう。ここでは、この5年間、とりわけ2014年から政府が大規模に展開し現在も続けている「リスクコミュニケーション」を改めて追い直し[14]、現在私たちが置かれている状況を確認することとしたい。


2. 「専門家」と東電福島第一原発事故・汚染・被曝

 原発事故後、原子力や放射性物質に関係する「専門家」の反応は大きく三つに分かれた。すなわち、発言しないで距離を置く、自分が有している(と考えた)「科学的」知識を持ち出して事故およびその影響を解釈しようとする、科学的知識と専門的技術を活用して事故の状態と事故が引き起こした状況を把握しようとする、である。メディア等を通して最も目立ったのは二番目の反応であった[15]。

 二番目の反応に属する「専門家」の発言は、発言者の誠実さいかんに拘らず、かなりの程度、事故と事故が引き起こした状況を見誤った。典型的なものをいくつか挙げておこう。

・東電福島第一原発・原子炉の状況について

【1】「爆破弁というものがあるんですが、そのようなものを作動させて一気に圧力を抜いた、そのようなことともありうるのかと」(2011年3月12日、東京大学教授関村直人氏のNHKでの発言)

【2】「メルトダウンじゃないだす」(2011年3月12日、大阪大学教授菊池誠氏のtwitter上の発言)[16]

・環境・食品等の汚染状況について

【3】「測定点近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっている所があります」(2011年5月21日時点での「東京大学環境放射線情報 環境放射線情報に関するQ&A」。東京大学柏キャンパスの線量が高いことへの回答の第一行)[17]

【4】「海の魚っていうのはもともと海草なんかを食べて、いわゆるヨウ素がたっぷりあるんです。体の中に。ですから、新たにですね、放射性ヨウ素が出てきても、それをですね、体の中に取り込みにくいですね。基本的にはですね、安心して食べていただいて問題ありません。」(2011年3月28日、東京大学病院准教授中川恵一氏の日本テレビNEWS24での発言)

 爆発は水素爆発であり、メルトダウンは起きており、柏キャンパスの線量が高いのは圧倒的に福島第一原発事故に起因する放射性物質の影響であり、コウナゴから基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、これらの発言が誤っていたことは既に事実に照らして明らかになっている。ところで、原発事故後現在まで「専門家」と称する人たちがかなり頻繁に誤った発言をしてきたとしても、また、「爆破弁」という存在しないものを専門家が誤って持ち出すことは考えにくいにせよ、専門家や研究者が誤ること自体はさほど希なことでもない。

 重要なのは、むしろ誤り方である。これらの誤りは、既往の一般化された「科学的」知識(であるとその「専門家」が考えたもの)をほとんどアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は「このようにあるべき」であるというかたちで状況を解釈しようとしたことから来ている[18]。この形式の思考は、仮に持ち出された知見が科学的に妥当なものだったとしても[19]、事故を前にほぼ必然的に誤る。というのも、事故が事故として認識され問題化されるのは、まさにそれが定常的な状況から逸脱した出来事であるからであり、そこで科学や専門性に要請されるのは「まさにその事故」の状況を明らかにすることだからである[20]。さらに、この形式の誤り方は、事故の現実を前に補正されるかわりに、事故を「まさにその事故」として問題とする人々、すなわち事故に対して妥当な認識力を有する人々への批判に向かった。

 自ら「科学者」を称する人による次の発言(【5】としよう)はこれを典型的に示している。

 放射能については、怖がるだけじゃなく、もっと「知る」ことが重要です。もちろん放射能は怖いものではありますが、そもそも我々は自然放射線をかなり浴びながら暮らしているわけで、皆さんが日々暮らしている地面からも放射線は出ています。さまざまな食品にも放射性物質はごくわずかですが含まれています。太陽光からはもっと強力な宇宙線がやってきています。人類は太古の昔から、さまざまな放射線とともに生きてきたのです。
 今の一部の人たちは放射能を極度に怖がりながらも、レントゲンや飛行機など通常の生活より多量の放射線を浴びる行為は平気でしています。放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります。
 なぜ、そうなってしまうのか? それは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ということがちゃんと教育されてこなかった、ということが背後にあるのではないでしょうか?
 原子力や放射能についての過度な恐怖はその典型です。科学や技術に対する信頼のみならず、論理的に考えるという姿勢が欠けている。
 ・・・・・・
 科学者の1人として、私もその一助となる活動をしていきたいと思っています。[21]

 【5】の筋は、次のように(多少の補間もしつつ)要約できる。

(1) 放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない。
(2) 人は(原発事故がもたらした)放射線を恐がりながら自然放射線は気にせずまたレントゲンも平気で受ける。
(3) (1)に鑑みると(2)の行動は一貫していない。
(4) このような一貫しない行動は、人が恐怖のあまり「考える」ことを放棄することからくる。
(5) 「考える」ことを放棄するのは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ことが教育されてこなかったからである。
(6) 従って科学的な教育を人に施す必要がある。
(7) 科学者の一人として、自分も(6)に貢献したい。

 まず誤り方を確認しよう。

(a) 原発事故後の問題を把握できていない。

 【5】の議論は、人々が問題にしているのは「放射線そのもの」であると決めつけない限り成立しない[22]。しかしながら、人々が問題にしているのは「まさにその事故」であり、絶対安全だと言われていた原発が爆発し大量に放出された放射性物質がどこにどのくらいあるのかも十分には明らかにされず管理もされないまま存在し被曝を強いていることであり、さらにそれに対して責任を負う東電や行政が十分な対応をせずに(あるいはできずに)いる状況である。その状況に対して「XXXそのもの」に「科学的」に差異がない、という議論が有効であると考えるのは、道路脇のビルの五階の窓から撒かれた水で濡れて怒っている通行人に水の専門家が「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません」と言うことが有効だと考えるのと同じで、単に問題を把握できていないだけである。

(b) 被曝の影響に関する科学的知見を前提とした論理的な議論ができていない。

 現在、放射線被曝の影響に関して最も有力な科学的知見は、放射線による健康への影響(発がん)に閾値はなく、線量に比例して発症の確率は増え、かつ発症した場合に重篤度の違いはない、というものである[23]。この知見は、社会的な基準を定めるための前提ともなっている。原発事故後、しばしば100 mSv以下では影響がないかのような発言を専門家が行い、そうした報道もなされたが、それらは科学的に不適切なのである[24]。

 標準的な科学的知見を前提とし、健康を害するリスクは可能な範囲で最小限に抑えるという当然の基準に従うならば、(i) いずれにせよ避けられない自然放射線による被曝及び(ii) 生活上必要と自ら判断して行う行動で受ける追加的な被曝を人々がしているから、それ以上の被曝は避けた方がよい、とりわけ他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝は受け入れない、というのが妥当な判断であり、(i)と(ii)が避けられないなら他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとするのは非論理的である。ビールを十分飲んだから支払いをして帰ろうとしていたAさんの前に現れたBさんがAさんにさらに無理矢理ビールを飲ませようとしてAさんが拒否している状況に対しAさんは既に十分ビールを飲んでいるのだからBさんが強制するビールを拒否するのはおかしいと言うならば、その発言は論理的でも科学的でもない。仮に強制がなかったとしても、こうした主張は論理的ではない。仮にそうした議論が(自称)「科学者」によりなされるとしてもこの点は変わらない(話者の属性に依存して変わるならばそもそも論理性や科学性ではない)。

(c) 事故の問題を事故を問題視する人の問題にすり替える。

 問題を把握し損ねた上で、こうした議論は人の批判へと向かう。【5】のまとめ(1)-(6)は、【5】の主題が「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない」という枠組み以外で状況を認識する人たちであり、内容がそうした人々への批判であることを示している[25]。このような発言がいかなる機能を持つかを確認するために、【5】における「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります」という記述について、喩えをさらに展開してみよう。

「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません。この点、怒りのあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

「ビールそのものに、Aさんの自己判断由来かBさんの押し付け由来かの差異はありません。この点、酔ったあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

 いわゆる「二次的加害」と呼ばれる行為にとても近いことがわかるだろう[26]。

 紙幅の都合からこれ以上紹介できないが、原発事故後から現在まで、次のパターン、すなわち、(1) 科学的と称しながら「これまでの科学的知見に基づけば」という規範的な観点から状況を解釈しようとして、本来ならば科学的な知識を活用できる点においても誤り、(2) しかもしばしばその「科学的知見」自体が当該主題に関する科学的知見の現状からは不適切で、(3) そうした誤りと問題点把握の失敗を補正することなしに、自分の考えを共有しない人を問題化する[27]、というパターンに従った発言は「専門家」「科学者」を称する人々により数多くなされてきた[28]。

 さらにこうした「専門家」「科学者」の発言は(当然のことながら)、(4) 自分が批判の対象とした人々の発言内容そのものは検討の対象とせず(だからこそ「人」を批判する)、(6) 議論の内容においてではなく自分が「専門家」「科学者」であることに訴えることで議論の正当性を支えようとする[29]、というかたちを取ることになる。



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2017/01/14

個人・名前・人・「普通の人」

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どこから始めるか少し迷いましたが、日本国憲法と自民党改憲草案から。自民党改憲草案が立憲主義を破壊するものであることは、色々なところで(正しく)言われていますが、とりあえず、以下もご覧下さい。
ここでは、このうち「立憲主義と『改憲』(4)」の「D. 『個人』と『人』」で述べたことから話しを始めます。

日本国憲法第13条は、日本国憲法第13条は、

「すべて国民は、個人として尊重される。」

となっています。これに対して、自民党「改憲」草案では、対応する条文は次のようになっています。

「全て国民は、人として尊重される。」

日本国憲法の「個人」が自民党「改憲」草案では「人」になっているのです。この違いは極めて重大です。この記事では、改めてその点を確認し、それに関連する事例をいくつか見てみることにします。


A. 個人と人

「個人」という言葉は、存在の単位を「一人一人それぞれの人」と指定するもので、その一人一人それぞれの人がどのような属性を持っているかには関係しません。

「個人」が指すのは、それぞれの人がまさにこの私、自分であって、他の誰でもない、ということだけであって、現実にその人が持っている属性とは、原理的に関係しません。

例えば、この文章を書いている「この私」は、この文章を書いていなかったら別の「この私」になっていたわけではありません。また、私の身長が仮に190センチだったり160センチだったりしても、「この私」であることに変わりありません。

この文章を後から見直して「こんな稚拙な文章を書くなんて、このときの私は本当の、まさにこの私じゃない」と思ったとしても、そのように思っている私は、稚拙な文章を書いた私とその後にそれを後悔する私を貫く「この私」として存在しています。

とてもいい人である「この私」が(実際にはさほどいい人ではないですが)誰かに酷いことをして悪人になったとしてもやはり「この私」であることには変わりありません。

「東京大学大学院教育学研究科の教員で2014年度から情報学環の流動教員になっている人物」は現実世界では確かに私(影浦)ですが、仮に私がそうでなかったとしてこの私である私(影浦)が私でなくなることはありません。

このように見てくると、「私が私であること」には「中身」が無いように思えます。実際その通りで、「個人」という言葉の重要性は、まさにこの、「私がまさにこの私である」というだけで、実体的な中身がないというところにあります。ここにない「中身」というものは、個々人が実際には持っている色々な属性のことです。そして、「個人」という言葉が指し示す「一人一人それぞれの人」がそれぞれに「まさにこの私」であることは、そうした属性には原理的に関係しないのです。

そのことは、日本国憲法が、日本の社会を、

どのような属性をそれぞれの人が有していようと、そんなことはどうでもよくて、それとはまったく無関係に、それぞれの人が「この私」として権利を十全に有する

社会として規程している、ということです[1][2]。

ちなみに、ここで尊重される「この私」は、記号のレベルでは「固有名」(名前)で示されます。固有名には意味(中身)はありません。例えば「影浦」という名前は影とも海辺とも無関係で、ただ、たまたまこの文章を書いた「この私」を指すラベルとして(そして書いてなくても「この私」であるような「この私」を指すラベルとして)あります。

属性とは無関係に「この私がこの私であること」をそれぞれの人において成り立たせ、その上で他の人と「この私」同士として関係を保つためには呼び名が無いと不便なので、属性については何も述べていない「名前」を付けているのです。

「中身」の無い「名前」を持っていることの大切さは、次のような例を考えると、実感としてわかりやすいと思います[3]。Aさん(Aは名前)という人がいて、B高校の校長先生(校長先生は一人だけ)をしているとしましょう。Aさんのことを、

「Aさん」

と呼んでも、

「(B高校の)校長先生」

と呼んでも、現実の世界で同じ人を曖昧性なく指し示すという役割は果たせます。

でも、友人にAさんが「校長先生」と呼ばれ続けたら違和感を持つでしょう。一方、生徒や生徒の親から「校長先生」と呼ばれることはもちろん、そのような「属性」を通した関係なのだから、それはそれで当然です。「友人」にそう呼ばれると嫌なのは、友人というのは「この私」が持つほかの個人との関係で、仮に私が校長先生でなかったとしてもやはり友人であるという、そういう関係だからです(現実にはそうもいきませんが)。

大切なことは、日本国憲法では、多様な仕事や属性それぞれを持っているそれぞれの人がその属性それぞれを通して知り合う他の人々とその属性それぞれを通した付き合いにおいて互いに尊重することを述べているのではまったくなくそうしたこととはまったく関係なしに、ただ「この私」としてあることが尊重されると述べているという点です[4]。

「人」は、これとはまったく違います。「人」は「まさにこの私」ではなく、ある属性(を有するグループ)を示す概念です。では、この「人」は何か。

仮に、自然科学的に「人」の概念が確固としてあって共有されていて動かないものだとしましょう[5]。

そうだとすると、「人」以外が「国民」になることはありませんから[6]、「全て国民は人として尊重される」という言葉の「人として」は何も意味しないことになります。

ここで大切なのは、
  • それにもかかわらず、この文言が自民党の「改憲」草案に入っているという事実、そして
  • そして「人として」という言葉が何も意味しなくはないという事実です。
実際、「すべて国民は尊重される」という表現よりも「すべて国民は人として尊重される」という表現の方が、「何か制限されている」と感じる方は多いのではないかと思います。

このととは、「人」という言葉が、「仮に」で言った自然科学的な意味で使われるよりもはるかに柔軟に運用されていることと関係しています。例えば、次のような感じです。
  • 風呂に3週間入ってないなんて、人であることを捨ててるな。
  • オリンピックに反対する奴らは人じゃない。
  • あいつ、30になって結婚してないなんて、人じゃないね。
などなど。

こうした言葉は、相手の「この私」を尊重して接するのではなく、あくまで属性の集まりとして相手を見なした上でなされる発言なので[7]、「この私」の尊重と真っ向から衝突することに注意しましょう。

日本国憲法と自民党「改憲」草案の文脈では、「個人」と「人」は、対立する、衝突する概念になっているのです。

自民党「改憲」草案が、わざわさ「全て国民は、人として尊重される」という文言を入れていることで目指しているのは、日本国憲法のもとの、「私たち一人一人がそれぞれ」「この私」として尊重される(「この私」であるところについては干渉されない)社会を完全にひっくり返して、人か人じゃないかの属性に基づき評価される社会を作ることです。

では、誰が評価するのか。

次のような自民党の政治家の発言は、一部の人々(現在の自民党政治家とその周囲を想像するのが一番具体的な「誰が」に近いでしょう)が評価することが想定されていることが伺えます。

「そもそも国民に主権があることがおかしい」(西田昌司自民党議員・2012年11月)

また、自民党「改憲」草案の「緊急事態条項」は、その評価を、政府が行うことを可能にするメカニズムになっています。

とはいえ、実際には、第二次世界大戦前の日本の状況から伺えるように、その一番大元の一部の人による評価は、どんどん引き継がれて、権力的意味も含めた「多数派」が少数派に対して、そのような社会的配置の中で相対的に優位な存在だと自分で思っているものが劣位にあると決めつけた相手に対して、人であるかどうかを評価する、というかたちで現れるでしょう。

実際、前からそういうことはあったし、また、現在、それは色々なところでかなりあからさまに目に付くようになっています。いくつか、最近の例を見てみましょう。


B. ベビーカー

昨年末に、車内のベビーカーを「迷惑」とする人が2割にのぼることが国土交通省の調査でわかった、と報じられ「話題」になりました。社会的配置の中で相対的に優位な存在だと自分で思っているものが劣位にあると決めつけた相手に対して人であるかどうかを評価する、という配置の一つの現れです。

そもそも、すべて国民が個人として尊重される社会では、ベビーカーが迷惑かどうか、などという調査を、憲法遵守義務を有する公務員からなる国土交通省がやってはいけません。迷惑と感じている人がいようがいまいが、公共交通機関をしかるべき料金を払って利用することは当然のことだからです。迷惑を感じる人がいたとして、それは感じる人の側の問題であり、具体的な場で調整すべき課題が発生したら調整すればよいだけです(ベビーカーのためにできるだけ場所を譲りましょう)。

そうでない問題として扱うなら、それは本来、個々人が当たり前に利用するときにしょっちゅう調整が必要となってしまうようなシステムの問題なので、公共交通機関の利便性を具体的に高めるために、「迷惑かどうか」という、相手への評価につながる「気持ち」を聞くのではなく、主に中年男性の集団が毎日同じような時間に列車にぎっしり詰まっている構造的な原因を分析することに資する調査をすればよいのですし、ベビーカーについても置き場を確保したり、色々な人の調整を今よりもまともに可能にする具体的な配置を設計するために必要な調査をすればよいだけです。

にもかかわらずこのような調査がなされてしまい、その結果が「ベビーカー」を話題の中心とするかたちで報道されてしまったことは、第一に個人を尊重することではなく人の属性を評価する態度が社会に広まっている状況を反映しており、第二に、特定時間にスーツを着た中年以上の人が電車にぎっしりつまっている、その中年以上の男性を迷惑と思うかどうかという質問ではなくベビーカーが問題にされることが端的に示しているように、人の属性を評価する際に、多数派・強者(と自分が思っている人たち)が少数派・弱者(だと見なしている相手)を評価する態度がやはり広まっていることを反映しています。


C. 長谷川豊氏の発言

2016年9月19日、長谷川豊氏は、次のようにブログ上で述べています[8]。

医者の言うことを何年も無視し続けて
自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?
今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!

人工透析の経緯も内訳も根拠のない(さらにコピペの疑いもある)記事のようですが、この投稿が「炎上」したことは割と広く知られました。

長谷川豊氏がこのように言い、そのレベルでの発言が何か公共的な議論になりうるということを認めたとたん、「そのように言うあなたの方がはるかに社会の害悪」(実際そうであったことは過去のドイツや日本の例が示しているのではありますが)という、相手の属性を取り上げて批判をし合うという泥沼に入ります(テレビなどでは蔓延していることではありますが)。いずれにせよ、この発言は、個人ではなく、透析患者であるという人の属性を対象として取り立ててそれを批判しているという点で「人として尊重される」という言葉が何をもたらすかを示す事例になっています。

ちなみに、この長谷川氏の発言に対する批判は「炎上」ではなく、それをめぐる「意見」や「議論」は特に意見や議論といったものではありません。こんな発言をしてはいけないというのは、公共の場で議論をすることの条件であって、その条件が満たされなければそもそも議論は成り立たない、そのようなものだからです。

もう一つ、この言葉が(長谷川氏思うところの、そして社会的に広く思われている)少数派・弱者と見なした人たちに向けらていることも、いったん属性を評価するかたちになったとたんに誰が評価するかが多数派・力・強者によって決められることを示しています。重要なことは、長谷川氏が、「批判」の矛先を、権威を引き継ぐかたちで決めていることが極めてはっきりしていることです。

第一に、透析医療の比率が高いことには、制度上の問題も寄与していますが、長谷川氏の制度への言及は個人の攻撃と結びついており、制度上の問題をそのものとして検討するかたちにはなっていません。

第二に、国家予算の問題を語るならば、他にも色々な話題はありえたはずです。

透析の医療費の国庫負担額は年間2兆円と推定されています[9]。まったく何一つ役に立っていない「もんじゅ」の研究開発費は1980年の開始以来総額で1兆円、東電福島第一原発の廃炉費用が8兆円(これからまた上方修正される可能性が高いものです)、賠償費用を合わせると21兆円(しかも賠償費用は被害者と被害の範囲を大幅に切り捨てたものです)、相当分は国が負担・電気消費者に上乗せされるものです。

まっとうな専門家の言うことを何年も無視し続けて
自業自得で事故を起こした東電の廃炉費用まで国民が負担しなくてはいけないのか!
今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!

という発言を、寡聞にして、長谷川豊氏が述べたという情報を私は知りません[10]。権威やら力を引き継いで弱者を評価するだけの人たちは、このような問題については、関連する人たちの不作為が引き起こしたものであることを無視して、電力を使っていたことと事故を起したことは別でであるにもかかわらず、「国民が電力を使っていたのだから国民が負担するのが当然」と言いがちです。(ここ少し端折ります・両方向に向けて「弱い」議論になってます。)透析を受けている患者さんの費用を国民が負担するのは当然と言うことは、「個人として尊重される」という点を抜きにしても、東電の事故を負担するのは当然というよりも論理的に正当なことです(電力は認可制なので誰もが事故の責任者になる可能性はありませんが、透析を受ける患者になる可能性は誰にでもあります)。

このような相対的な話しとは別に、「個人として尊重される」という、憲法が定める社会の基本を踏まえるならば、費用がかかるからとして透析を受けているという属性を持つ人々をその属性が故に切り捨てる発言を公にすることは、個人が尊重される社会であるという日本の原則を破壊することで、それこそ言葉の真の意味で社会を滅ぼす行為でありましょう。

他人を「個人」としてではなく属性として見て、「弱い」属性のものはいらないという態度が、病気を抱えている人やベビーカーの攻撃に向かうのはほぼ必然的で、というのも、病気の人や赤ちゃん・子どもは普通の意味では「弱い」からです[11]。


D. 共謀罪

今国会に提出と言われている共謀罪は、Aで述べたことを政府が実際に運用できるよう道筋を付けるものです。内容には深入りしませんが(ぜひ日弁連のサイトをご覧下さい。過去の経緯から把握できます。新しいところは主にページの下の方に情報があります)、現在提出されようとしている共謀罪は、犯罪への着手が要件として必要とされず、話しただけで対象となりうるという点だけ確認しておきます。

あからさまにこの記事のテーマとの関係が示されているのは、共謀罪をめぐって、菅義偉官房長官が、2017年1月6日の記者会見で、「一般の方々が対象になることはあり得ない」と述べたことです。では、誰が一般の人かを決めるのかというと、それは政府になります。実際には、「一般の人」の属性など定義されていないので、共謀罪を適用したい相手は「一般の人」ではないと恣意的に決めつけることが十分にあり得ます。

戦前に、治安維持法が導入された際にも、同様の言い訳が最初はなされていました。そして、恣意的に拘束して、拘束したのは(拘束したからには)一般人ではない、という転倒した話しになりました。

気に入らない「個人」を「一般の人」ではないから抑圧することに対する歯止めがない共謀罪をめぐって菅官房長官が「一般の方々(人)」が対象となることはないと述べたことは、自民党「改憲」草案が「個人」ではなく「人」という言葉をわざわざ使ったことにちょうど対応し、それを先取りしたものいなっています。

個人を尊重しない、それぞれの「この私」はもう尊重しない。お前たちが人であるかどうかは我々が判断し、我々政府が認定する「人」(「一般の方々」)の要件を満たすものだけ、存在を認めよう、というわけです。


* * *

最後に固有名と個人の話しに少し戻ります。

夫婦別姓に反対する人たちは----ほとんどの場合に結婚後姓を変えるのは女性であるという実情をふまえるならば----女性を個人として尊重する気がないと表明していることになります。

ちなみに、注[3]で述べたように、本質的に大切なのは今持っている名前ではなく名前を持っていることだとするならば、姓が変わったって名前はあるのだから個人として尊重しないわけではないという理屈が成り立つかというと、成り立ちません。ある個人が既に今持っている名前を変更しようと強いるときは、「今持っている名前」をその人から剥奪しようとしているだけでなく、同時に「名前を持っている」ことで成り立つ「まさにこの自分」であることも剥奪しようとしています。というのも、例えばAさんが、誰か別の人の名前を剥奪することができると見なしたとたん、Aさんは、その人の名前を、個人としての「まさにその人」を表すものとしてではなく、取り替え可能な属性として扱うことになるからです。

少しだけ時間ができたときに慌てて書いたので、この文章は少し雑になりました。時間ができたら整理するかもしれませんが、今はこのまま公開しておきます。


注など

[1] 大雑把に言うと、そのような「この私」の間で(あくまでそれぞれの「この私」の間で)衝突が生じたときに仕方ないから調整するのが「公共の福祉」という概念です。

[2] これは「みんな違ってみんないい」というのとレベルが違うことに注意してください。個人として尊重される、というのは、例えばAさんが「みんな違ってみんないい」と言ったときに、私が「一体あなたはどのような資格で私を『みんな』に含め『いい』などと言うのでしょうか、私はみんなと違ってませんし、いくもないし、いくなりたくもないし、あなたに不用意に『いい』などと解釈され、『いい』と言われる『みんな』の一人などとして扱われたくなどまったくないので今すぐその発言を撤回してください」と(まあ普通の意味では少なからぬ人にいささか不快に受け取られるような)反応をしたときに、Aさんがその私を前にしてただ立ち止まらなくてはならないことを意味しています。どうしてか、というと「いい」というのは属性をめぐっての評価であって、「個人として尊重される」というのは、そんな評価など人から受けるいわれも何もない存在として「この私」がただあることが尊重されるということだからです。「どうでもよくて」という表現を用いたのは、そのためです。ここで述べた意味/方向での「どうでもよくて」がないと属性のない「この私」は「この私」であることを失ってずるずる他人から決めつけられることに抵抗できなくなります。

[3] 「今持っている自分の名前」の大切さではなく、「名前を持っていること」の大切さであることに注意してください。ただし、このように言うことには注意が必要です。最後にこの話には戻ってきます。

[4] 「この私」には属性に関わるような「中身」はないのですから、ここで「尊重される」というのは、「この私」であることには誰も手をつけてはいけない、ということです。その尊重が権利の大元にあって、それを確保するために属性に関わる様々な側面で具体的なことが保障され制度となると考えると一応よいでしょう。

[5] これは本当ではありません。あくまで「仮に」です。


[7] その意味では「25歳で結婚して家族を支えてるの。人として偉いね」という「褒める」言葉にも注意が必要です。普通に言って、大きなお世話ですね。なお、属性に関する中身のある言葉を使って人と接することは、「この私」「個人」が尊重されるという前提の上で、具体的な社会の中での役割とか属性に関わってなされる限り妥当なことですが(例えば「首相」として不適任、とか)、「人」はそのような具体性を持っていません。

[8] 元ブログは削除されているようですので、「長谷川豊の人工透析のブログ全文と原文。内容はコピペで訂正も炎上。しかし、賛同の声も挙がる」という記事から再引用しています。

医療費ほぼ全額を国庫が負担しているとの仮定のもとで出された数値なので過剰推定になっていると思われます。

[10] グーグルで検索してみました。ちなみに、この文は不適切なところがあります。共産党の吉井英勝議員が2006年12月13日に提出した「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」に対し、安倍晋三内閣総理大臣は同年12月22日、「衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書」で、基本的に対策の必要はないと答えていることにはっきり示され、また、国会事故調の報告書が示しているように、この事故には政府・規制当局も責任を負っているからです。ですから東電だけでなく安倍首相や規制当局関係者、経産省の担当を含め、責任を追及しなくてはならないはずです。

[11] ちなみに長谷川豊氏は、次のように述べています。

キリギリスは餓死しなければいけないのです。でなければ、アリさんはやる気を失うのです。
やる気を失ったアリさんがキリギリスに変身してしまうのです。それは当然の流れなのです。
だって、人間の脳は「出来るだけ怠ける方向に」働くおうに出来ているからです。

自分のやる気も、相対的に他人との比較でしか成り立たないご自身のあり方、すなわちどうであれ「この私」は「この私」という「この私」がないあり方をよく反映した言葉になっています。安冨歩さんが言う「立場主義」はこのようなあり方と対応するのでしょう。


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2016/11/18

「誰もが毎日果物を食べている」を英訳してみる

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1. はじめに

唐突ですが、

J-1. 誰もが毎日果物を食べている。

この文を英語にしてみましょう。普通に訳すと(バリエーションはありえますが)、次のようになります。

E-1. Everyone eats some fruit everyday.

では、次の日本語はどうでしょう。

J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている。

これの訳もE-1でよいでしょうか。それを検討するために、何を考えなくてはならないでしょうか、というお話しを少しだけ整理してみます。

見かけ上、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域があって、それは実は学校で学んで、そして学校で学ぶ「言語」はそういうもので、そしてそれは母語以外についても同様で、そしてそれは存在に触れるために大切だということを、非常に簡単な例を通して確認することが狙いですが、少しこのところ言葉への虐待を目にし過ぎたので、わずかばかりであれ気持ちのよい言葉の相貌を救済したいというのがこの記事を書く個人的な動機です。

並行して、「外国語を学ぶ」というときの議論で忘れ去られがちな、日常言語ではない言語の領域(多くの場合それが「学ぶ」という点からは大切なのですが)のうち日常言語の平板な理解に一番近い日常言語でないところを少しだけ意識化する手がかりを示す作業でもあります。そして翻訳者が翻訳について語るときについ忘れがちな領域を示唆する作業でもあります。

論理学で言う量化子を扱いますし、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域の一部分は論理的なものと言えますがそれは一部に過ぎず、そしてここで扱う例として量化子を取り上げたのは論理的な言語操作そのものを示すためではなく、日常言語と区別できないけれど日常言語ではない言語表現の領域一般に意識を向けるための一つの素材としてであることをお断りしておきます[1]。


2. 二つの日本語文(J-1とJ-2)

二つの日本語文を再掲します。「ある」があるかないかの違いです。

J-1. 誰もが毎日果物を食べている。
J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている。

これらの文の可能な解釈の範囲はどのようになるでしょうか。いずれも、すべての人がそれぞれ一人のこらず、すべての日に日々欠かさず、何らかの果物を、という表現が入っています(「すべて」「何らかの」「ある」などを量化子と言います)。

ここで、人と、日と、果物の種類の関係はどうなっているでしょう。

先取りして、これらの組み合わせについて可能な関係(J-1とJ-2の表現が普通に意味することができる、と言う意味ではなく)をあげてしまいます。以下の4つになります。
  1. すべての人が、それぞれなりに、すべての日に、それぞれの日ごとに、とにかく果物を食べている(Aさんは日1にパパイヤ、日2にマンゴー、・・・、Bさんは日1にマンゴスチン、日2にりんご、・・・)
  2. すべての人が、それぞれなりに決まったある果物を、毎日食べている(Aさんはマンゴーを毎日、Bさんは王林を毎日・・・)
  3. すべての日にそれぞれの日毎に決まったある果物を、すべての人が食べている(日1には全員がマンゴーを、日2には全員がパパイヤを・・・)
  4. ある果物を、全員が毎日食べ続けている(ドリアンを誰もが毎日ずっと・・・)
他の可能性はありません。「すべて」「すべて」「ある」を並べ替える並べ替え方は6通りで、そのうち「すべて」「すべて」が続くときは順番を入れ替えても同じ意味なので、解釈の可能性は4通りに絞られます。

次に、J-1とJ-2に対しては、この1から4の解釈のうち、どれが成り立つかを考えてみます。皆さんも考えてみて下さい。ここは、日本語の話者として多少の曖昧性があるかもしれません。私の感覚では、次のようになります。

J-1. 普通に捉えると、成り立つのは解釈1のみ。
J-2. 1から4まですべての解釈が成り立つ。ほとんど優先順位なし。

皆さんはどう判断しましたか? 


3. 英訳

さて、以上を踏まえて、J-1とJ-2の英訳を考えます。一応、上で私が与えた解釈が普通に妥当なものと考えて話を進めます。ここでは、日本語においてもともと曖昧であるものを曖昧さを同じかたちで残して英訳するといったことには特にこだわらずに(翻訳において、もともと著者が曖昧さを意図したときにのみこれは必要で、そうでなければ、まず曖昧性を解消した上で妥当な解釈に対応する表現を使えばよい、というのが、乱暴ですが普通のやり方でしょう。"bank"をどう訳すかというのとその点では一緒です)。

まずは、J-1の普通の翻訳としてあげたE-1。

E-1. Everyone eats some fruit everyday.

とりあえず、J-1は私の感覚では解釈1だけ。では、E-1はどうでしょうか。これは実は、J-1にとても近いです。やはり、ほぼ解釈1。

では、J-2の翻訳はどうでしょう。第一に、1-4の解釈を同時にほぼ同程度に可能にする英語表現を作ることは可能か(すぐ上でこだわらないと言ったので、別に可能でなくてもいいし、こだわる必要もないのですが)。第二に、1-4それぞれの解釈にさほど曖昧性なく(というのは普通の解釈だとこれだよね、と大体の人が合意するという程度の意味)対応する、一番、日常っぽい表現は何か。

というわけで、皆さんもよろしければ少し考えてみて下さい。

まず最初の質問。解釈1-4を可能にする英文。これはかなり難しいっぽいです。基本的に、「ない」と言っていいでしょう。英語母語話者で論文を日常的に英語で書いている人4人に聞きましたが、「なさそう」という答えでした。

ちなみに、everyoneとevery dayと、everyの等価な拘束力に順序を導入するのはeveryを使い続ける限りかなりむずかしいと言うのがひとつの理由っぽいです(これについては関連することをあとで整理します)。つまり、英語の場合、everyが二つあるとsomeに対していずれも同じ側に来る(主題化の操作などで変えることもできるかもしれませんが)。そのため、案外工夫が必要なのは、2と3の解釈に対応する英文、ということになります[2]。

さて、2番めの問題。E-1だけじゃなくて、

E-1' Every day, everyone eats some fruit.

これも基本的に解釈1になります。

E-2. Some fruit is eaten by everyone every day.

これはかなり4で行けそうです。ただし、"Some fruit is eaten by everyone every day, but not some meat"のようなかたちで、fruitとmeatが強調される場合を想定すると、1の解釈も「ありうる」ことになりそうです。でも、2と3は難しい[3]。

every, every, someの組み合わせではだんだん苦しくなってきたので、そろそろ別の言葉を考える必要が出てきました。everyの系列としては、each, all、someの系列としては、a certain set ofとか、そんな表現が思い浮かびます。

1-4に対応する英文は、能動態を保ちできるだけ「普通」なものとしようとすると、大体、次のようになるでしょう。ここからE-Xの"X"は、解釈の番号に対応しています。1については、既に見ましたが、それも含めてすべて列挙してみます。

E-1. Everyone eats some fruit every day.
E-2. Each person eats a certain set of fruit every day.
E-3. Each day, everyone eats a certain set of fruit.
E-4. Everyone eats a certain set of fruit every day.

大体これでよいのですが、残念ながら異論の余地はあります(これらについては、大体これでよいという点と、曖昧さが残るところがあるという点の双方について、英語の母語話者である計算機科学と法学の専門家と議論し確認しました)。

これらは、上で述べたeveryの作用をなかなか良く示していて、かつ、比較的多くの人の解釈として「説明されればああ、確かに」という程度には一致し[4]、かつ、日常的な英語の範囲の操作であるという条件では、大体このくらいになりそうという感じのものです。興味深いのは、E-4が優先的な解釈としては4になる、というところ。4に明確に対応させるにはやはり受動態にするのがよさそうですが、ここでは強引に、能動態のまま無理をしてみました。

これらは、この範囲では、結構、規則的です。すなわち、外側から順に量化子の位置取りの順序を示すと、あくまで暫定的にですが、

Each = a certain set of > every > some

となりそうです。Eachとa certain set ofを=にしたのは、E-3で"each day"を冒頭に置かなくては3の解釈を優先的にしにくいこと、一方で、4の解釈を取るためにはeachは使えないことからです。暫定的にこのようにしていますが、もう少しいろいろ考えてみる必要がありそうです。


4. では今度は英日翻訳

さて、今度は英日翻訳です。つまり、E-1からE-4の、したがって、何もなければ基本的に優先的にそれぞれ1-4で解釈される英文を、日本語に訳してみよう、というお話しです。たぶんこのブログを読んでいる方は、仮にいるとすると、日本語の母語話者がほとんどでしょうから、それぞれお試し下さい。

ちなみに、Google翻訳は次のようになります。

JG-1. 誰もが毎日果物を食べる。
JG-2. 各人は毎日特定の果物を食べる。
JG-3. 毎日誰もが果物を食べる。
JG-4. 誰もが毎日一定の果物を食べる。

皆さんは、どう思いますか? 

JG-1はOK、JG-2もそこそこ(「特定の果物」と「毎日」の順序が逆だともっとよかったですね)、JG-3はダメ、JG-4は可能だけれど、優先的ではない、という感じでしょうか。でも、表現として何を使えばよさそうかは、少し参考になります。

GoogleはNMTで、こうした論理的な表現の差異はルールベースの方が・・・ということでExcite翻訳も使ってみました(ExciteはRBMTでしたっけ?)。

JE-1. 誰もが毎日いくらかの果実を食べる。
JE-2. 個々の人は毎日果実の一定のセットを食べる。
JE-3. 個々の日、誰もが、果実の一定のセットを食べる。
JE-4. 誰もが毎日果実の一定のセットを食べる。

それほど得意、とも言えなさそうです。

ちなみに、この例の場合、人間なら翻訳者でなくても、4つの英語の共通性と差異をできるだけ反映させながら日本語を作るということをすると思います。それを大雑把に「意味」と呼ぶことは可能ですが、ここで挙げた例はむしろ記号の表面的同一性が保つ作用として捉える方が妥当なもので、その点ではGoogle翻訳ができないのは意味が取れていないからだ」と、もちろん妥当でなくはないけれどもでは「意味」とは何かと言われた時にそこは了解されていると見なす以外今のところそれほど適切な答え方もない「意味」という代わりに、記号の作用域の問題としてより表層に近いところで、課題を見えるようにしてみたという、これは意識的な例でもあります。ここでの列挙は、意味との関係においても翻訳との関係においても本質的です。それはもちろんある文章の中である用語の訳を一貫して用いるというかたちで当たり前に目に見えていることの展開ではありますが、その展開の射程は体系化できるほどには一般にはわかられてもいないものです。


5. 最後に

量化子(「すべて」「ある」)が3つの文を扱ったのは、一文の中で操作する量化子の数としては、3つまでがほとんどで、それ以上になると、文をわけたり等、言語表現において別の形態を取ることが多くなるからです(昔調べたことがあります。実際には3つ量化子を含む文もそれほど多くなかったと記憶しています。よろしければ皆さんも調べてみて下さい)。

図で言うと3次元のセルのどこを黒く塗るかというお話しなので、文理を問わず、普通に使いこなせなくては自分が扱っている領域の事象を表現できない最低ラインと考えることができます。セイン・カミュさんの"What time is it now"とは外国人/ネイティブは言わないという誤った脅しに影響されるよりも[5]、こちらのほうがそれに楽しいですし。

さて、課題が残っています。J-1とJ-2の否定はどうすればよいでしょうか。

^J-1. 誰もが毎日果物を食べている状況は成り立っていない。
^J-2. 誰もが毎日ある果物を食べている状況は成り立っていない。

まず、日本語で。いかにも不格好な上の二つの文を、より自然な文----否定を一番内側に入れて、「食べてない」にするというのが目安です----にする、という作業が第一の課題。

第二に、それに対応する英語を作る、という課題。第三に、それをまた日本語にするという課題(これは、日英日で対応が壊れる場合にのみ)。

これらは、そのうち扱ってみます。

最初に「存在に触れるために大切だ」という話をしました。

実は、ここでは二つのレベルで存在に触れることを扱っています。大げさなことではなく、私たちが日常的にやっていること、やっているはずのことです。ひとつは、1-4の状況を反映する言語表現はどのようなものか、その言語表現の形式を通して、1-4の状況に触れること。一番基本的なことですね。

もうひとつはレベルがあがって、1-4の状況に対応する表現がさほど意識するともなく与えられた時にそれがどのようなものであるかを説明する言葉を与えること。実際のところ、ここで私自身が最も楽しんだのは、1-4とJ1, J2, E1-E4の対応を与えることではなく、それに対応を与えるという問題の領域を共有するために解釈とか状況と呼びながら(といっても「状況」という言葉は最後のほうでしか使っていませんが)実際には言語表現でしかなかった1-4の言語表現そのものを解釈とか状況とか呼ぶことでなぜかしらJ1やJ2、E1からE4についての議論を言語表現と解釈という枠組みで表現できてしまうという言葉の説明作用の側を、文章を作りながら目に見えるかたちにすることでした。でもそれはこの文章においてあるものではありますが、説明されているものではありません。

少し別の視点から言葉を与えておきましょう。この文章で論じてきたことは、J-1とJ-2という二つの、それほど希でもないであろう日本語の文だけであり、それ以外はすべてこの二つの文の、それも量化子に特化した説明であったということができます。そして、ここでの説明は、日本語でこの二つの文のいずれを実際に言葉にするかという当たり前の選択において無意識に当然考えられてしまっていること(の一部)を言語化したに過ぎないということになります。その視点からは、J-1とJ-2の選択とそこで判断に作用する認識の言語化に使う説明用の言語としてここでは日本語と英語を利用した、ということになります[6]。

自然言語処理のタスクで、与えられた文あるいは文章について、それと並列して生成されながら表出には至らなかった文あるいは文章の集合を推定する話を考えてみるのもよいかもしれません。そのとき「それを考えるとはどういうことか」という問いをめぐる問いも必然的に起きるでしょう。

多少中途半端ですが、これで公開します。


注など

[1] 
なお、ここでは、一般にfruitを使い、fruitsは少し変で、あえてfruitsが使われるときは異なる種類の果物が複数あるときといったことは扱いません。

[2] 
私もちょっと考えてこれには少し感動しました。能動文にこだわる限り4が難しいのではと、作業をする前は思っていたのでした。

[3] ちなみに一般的なメタ表示の慣例として、英語における強調はイタリックを使います。また、アンダーラインはタイプライターではイタリックの変わりに(図書標題を示すためなどに)使われていましたが、可読性を落とすので通常は使いません。tailやdescender、serifなどを潰して文字の識別を阻害するからと言われています。

[4] 
「説明されれば」というのは一致するかどうか以前にそもそもこの曖昧性のバリエーションがわからないという人が少なくないからです。

[5] 
私の指導教員も私の義理の両親も70歳代とか80歳代だからと言われそうですが"What time is it now"と普通に言います。6億人(?)の日常的使用者を擁する英語で"What time is it now"とは言わないという乱暴な一般化に乗せられる必要はありませんし、いささかアルカイックな言葉を日常の中で話すというのは、教員が学生や生徒の言葉遣いを真似る必要などどこにもないのと同じで、別に悪いことではありません。「デザートは何がいい?」と聞かれて"assorted fruit"とレストランのデザートメニューを思い出しつつ答えると思いっきり気取った感じで文脈を外すことになる場合がほとんどですがいずれにせよ外国語であることの滑稽さは残るのですから一つ一つの滑稽さを気にする必要はありませんし(それはもちろん言葉を学び続けるなというわけではありません)、丁寧で誠実な滑稽さのほうが何となくあわせてみた滑稽さよりもよいでしょう。空気を読むとかはどうでもよいことですし、きちんとした大人のコミュニティでは、「ネイティブネス」を種にマウンティングする振舞いは(少なくとも表立っては)なされない程度にdiversityとinclusionは英語においてはできつつあるし、また私たちもそれに貢献していけばよい。ついでに言うと、セイン・カミュさんとか英語自慢の人たちが脅していることの多くは、それぞれの場にかなり異存するもので、「慣れ」でそれなりに対応できます。少し乱暴に言うと、使えて悪くはないけれども「わざわざ学ぶこと」ではありません。

[6] これは何も特別なことではなくて、私たちは言葉の意味がわからないときに辞書を引きますが、辞書には意味は書かれていなくて、定義と言われる言葉の列があるだけです。プログラミング、そして数学における等号等の一部の用法はこの点を明示するものですが、何故か「言語処理」においてこの視点はとても薄いのではないかと思います。話が飛びますが、シンボルグラウンでイング問題は、記号の存在をめぐる遠近法の過誤のもとにたてられた擬似問題ではないかと私は疑っています。「認知」の課題設定一般に見られる論理的な順序関係の過誤が記号をめぐってたどり着いた先ではないかと。ただしこの点は、今のところ私が論理的な説明を構成していると考えるこれをめぐる言語表現を使った説明が既にこの点をわかっている人以外を説得したことがないので(おや、とそこに何かあることを感じてくださる方はそれなりにいるようです)、今のところ、説明の責任を将来に先延べした断言になっています。




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2016/11/11

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(2)

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 2016年5月7日、京都新聞に「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。この記事をめぐって、このブログでは、次の二つについて検討しています。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
このうち、第一の点は、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討しました。ここでは、第二の点について検討します。

 前回のブログ「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で既に記事の関連部分を掲載しましたが、ここでも改めて掲載します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 これから千葉雅也氏の発言を検討していきます。その際、第一の点、すなわち「見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて」、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討したことは前提とします。お読みになっていない方は、まずこちらからお読みください。また、この「ワークショップ」については案内サイトを、当日の経緯については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をご覧下さい。

 千葉氏の発言は、文言自体は一般論に見えますが、京都新聞の記事の話題の範囲で述べられていることから、「デリヘルを呼ぶ」という企画のあったワークショップに適用されることを前提として、以下の検討を進めます。


A. 「突出した行為に対し」

 千葉氏の発言は、「デリヘルを呼ぶ」企画を「突出した行為」と評価しているものと理解できます。しかしながら、実際には、前回の検討で明らかにしたように、この行為は、「デリヘルを呼ぶ」という企画自体が陳腐であることに加え、

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

という、個人個人が独立してものを考えない内輪の集団に典型的に見られる、その意味では極めて凡庸で陳腐な行為です[1]。

 セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、アカデミックハラスメントなどと同質であって、このような行為をもたらす機序は「自分たちの仲間内のノリに従って相対的に弱い(と自分たちが思い込んだ)相手に矛先を向ける」という、不幸にしてとてもよく見られるものの一変形です。このような、内輪の集団に典型的に見られる機序に従って、行為が歯止めなく他人の侵害に向かうことを「突出」と言う言葉で表すことは不可能ではありませんが、それは、あくまで陳腐で凡庸な思考様式にもとづく行為がやはり「内輪のノリでなんとなく」が歯止めを失うという陳腐で凡庸な機序により逸脱的に肥大するというだけで、わずかなりともポジティブな価値を認めうるものではありません。

 前回は、「デリヘルを呼ぶ」という行為とそれに対する認識に見られる、性差別的な側面を確認し、それを維持した上で、似たかたちを取る例を挙げました。性差別的な視点は、相対的に弱い相手を同定する際に男性の仲間内で共有される視点として特に目に付くものですが、仲間内で思い込んだ「弱いもの」を同定する視点は、他にもあります。障がい、人種、病気、学歴(東大生による暴行事件ではこの視点も入っていました)、収入、年齢、見かけなどが、すぐに思い浮かびます。

 このレベルで「デリヘルを呼ぶ」という企画の特徴を把握すると、これに類する出来事はさらに増えます。

 例えば、長谷川豊氏は、2016年9月19日、「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか? 今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題されたブログで、「人工的な装置を使って、週に3回ほど病院に行き、血液をキレイな状態に変えてもらう訳です。でなければ死んでしまいます」と言いつつ、先天性の患者以外を自業自得とひとくくりにし、透析患者があたかも働いていないかのような前提で、保健で透析を支える「アリ」に対し透析患者を「キリギリス」に見立て、「キリギリスは餓死しなければいけないのです。でなければ、アリさんはやる気を失うのです」と述べます。

 これも同じかたちをしています。

 もしかすると、こちらについてのみ「酷い」と思われる方もいるかもしれません。とはいえ、この発言も、会社などでそう少なからず見られる「あいつ使えない」といったやはり凡庸で陳腐な、「自分はできると思っている仲間内のノリに基づく何となくの発言」を逸脱的に肥大させただけのものに過ぎませんし、批判を受けたのちの長谷川氏の応答はまさにそうした意識を内面化し気づきもしないという、これもまた当たり前に見られる状況を示しているに過ぎません(「過ぎません」という言葉で表される陳腐さが深刻な被害を及ぼすことが大きな問題であることはこれまでも述べてきました。ここで「過ぎません」というのは、これがもたらす被害の深刻さを軽視するものではありません)。

 「デリヘルを呼ぶ」を企画しあるいはそれに参加した何人かの人々が、自分たちの平凡な、けれども他人に危害を加えることになる可能性のある行為を正当化するために持ち出したのは「芸術」でした。これに対し、長谷川氏が正当化に持ち出したものは「日本の再生」「経済」です。前回見たセクハラ・アカハラ上司は「頼りになる大人」を、女性に集団暴行を加えた学生は「学歴」を正当化に持ち出していました。いずれの場合でも、自分たちだけで了解している仲間内の「俺達ってすげえ」という無根拠な集団的自意識に一見したところポジティブな印象を与える言葉をかぶせることで、凡庸で陳腐な欲望を逸脱的に肥大させて他人に向ける言い訳に使うという点は、これも残念ながら極めて普通に見られるな機序です(共通していること自体が、その平凡さを明確に示しています)。

 千葉氏の言葉からは「デリヘルを呼ぶ」という企画がどのように「突出した行為」と見なしうるのかわわかりません。これまでの検討で、唯一、言葉として「突出した」と言えるのは、陳腐で凡庸な欲望を逸脱的に肥大化させたという点だけです。実際にはそれが「突出した行為」でないことは既に示しましたが、それ以外に整合的な解釈の使用がないので、これを「突出した行為」と見なしていると少しの間仮定してみましょう。


B. 「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」

 「突出した行為」に対する「批判」の「殺到」は「ある種の羨望の裏返し」と千葉氏は述べます。ここで皆さんに質問です。

数人で集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画を立て、それを「芸術」の名のもとに正当化しようとする行為

羨ましいですか?

勤務時間外に部下の女性を連れ出し「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ,それ」と言って相手に自己否定感を植え付け、それを「頼りになる大人」の行動として正当化する行為

羨ましいですか?

女性を集団で暴行し、それを「彼女らはアタマが悪いからとか,バカにして」正当化する行為

羨ましいですか?

先天性でない透析患者は自己責任だから保健は不要、「キリギリスは餓死しなくてはならない」と述べてそれを「日本の再生」「経済」を持ちだして正当化する行為

羨ましいですか?

 私は、まったく羨ましくありません。こうした行為を耳にしたとき、自分がそんなことをしたり言わないできてよかったと、心の底からほっとします。同時に、気づかないうちにしたり言ったりしてきたのではないかと本当に不安になりますし、思い当たることにたじろぎます。いずれにしても、ほんのわずかも羨ましくありません。自分は一生そんなことをしたくないし、誰もがそんなことをしないことを心の底から望みます。

 ところで、この段落(すぐ上の「私は、」から始まる段落)を読んだ段階で、違和感を感じられた方がいるかもしれません。それは、当然です。

 そもそも「羨ましいか?」という問いに対し、それを拒否するのではなく、羨ましいとか羨ましくないと答えることは、答える人が、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」の目線に自分の目線を重ねることによってのみ可能です。「羨望の裏返しにすぎない」という発言は、呼ばれたかもしれないデリヘルの人、部下の女性、暴行を受けた女性、殺せと言われた透析患者には自分を重ねる人が存在することを想定していません。すなわち、千葉氏の発言では、侵害を受けるかもしれない側の人とそれに目線を重ねる人の存在は、最初から排除されています。そして、上の段落の答えは、暫定的に千葉氏の発言が前提としてしまっている目線を共有した上でなされたものでした。

 より自然な順序で、千葉氏の発言の性質を整理しましょう。
  • 千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしている。
  • その上で、千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると決めつけている。
これらの発言は、対象となる出来事に関与する最低限の要素をさえ考慮できていないという点で、認識のプロセスとして不十分なものに基づいており、その当然の結果として、単純に経験科学的に検証しうる事実のレベルで完全に誤っているのです。

 実際、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に言葉を寄せている方々は、被害を受けかねなかった人たちの目線で、「デリヘルを呼ぶ」という行為を何となく思いついた数人の人たちに対し、その人たちとその行為には侵害行為を別にして何一つ突出したことは存在しないし、何一つ羨むべきことはないという明確な評価を与えています。この議論を無視して、「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という紋切り型の言葉でこの出来事をめぐる論争を表すことは、論争そのものを見ないことによってしか可能になりません。

中間整理(1)

 ここまで、千葉氏の発言に見られる特徴を整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。


C. 特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、

 ネットで検索すると、デリバリーヘルスの料金は、15,000円から30,000円程度のようです。「年収の分布」によると(統計元は国税庁平成26年民間給与実態統計調査結果)、男性サラリーマンの年収は300万円台(18.3%)、次いで400万円台(17.4%)が多く、200万円台(13.2%)と500万円台(12.8%)、600万円台(8.4%)と続きます。デリバリーヘルスのサービスを呼ぶことは、さほど「特権的」なことではなさそうです。

 また「デリバリーヘルス」「接待」でネットを検索すると、「幹事様必見! デリヘル(風俗)接待コース」といったサイトが上位に複数出てくることから、「何人かの人が集まってデリバリーヘルスのサービスを」というのもどうやら「特権的」なアイディアとは言えそうにありません。

 さらに、その行為を「芸術」と呼ぶことは、たぶん無料で、何の「特権」もなくてもできます。

 千葉氏の発言は、数人の集団が撮影可で不特定多数の人が出入りする場所に「デリヘルを呼ぶ」行為のどこに特権性があるかは書いていないので、もしかすると何か千葉氏しかご存じない特権性があったのかとも思いますが(まあ「デリヘルを呼ぶ」という行為を「芸術」と呼べるまでに徹底的な反省的知性の欠如はある種「特権的」かもしれませんが、でも随所に見られますし・・・)、上で見たように、千葉氏の直前の発言にはある事象に対して妥当な思考の表現が有するべき重要な属性のいくつかが欠けており経験科学的に容易に検証可能な事実についても誤りがあることから推測すると、ここでもまた、単に発言に持ち出された観念が現実と乖離していたと推測する方が妥当性は高いと思われます。

 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」は、むしろ、まったく逆のかたちで妥当します。

 男だから何か偉いとか、学歴が何か偉いと思う観念、自分が「芸術」だと思っていることが偉いと思う観念など、自分は相対的に上位にあると思っている人たちがそれを維持するために持ち出しがちな実体(個人における)と乖離した観念は、けれども対応するものが明示的なあるいは暗黙の制度として一部で依然として維持されている程度には凡庸なもので、その制度の中で相対的に優位な場にある自分たちよりも下位にあるものはまさに制度として維持されているがゆえにその制度で押し付けられた立ち位置が「平準化」の基準点と見なされ、つまり「現状」の維持が「平準」の基準であり、それを逸脱すると叩かれる、ということは非常に頻繁に見られます。「当たり前に働く女性」はその典型です。「生活保護を受ける女性」もその典型です。むしろこうした極めて「日本的な」(日本に限りませんがそれでも私の知るいくつかの場所と比べてやはり強いという点で「日本的な」という、通常、一定の条件がなければ使うことを避けるべき用語を千葉氏の言葉を借りて使います)制度的配置において、平準化された中の相対的に優位にある集団のその中でまた平準化された思考と行動の発露の典型的なものとして、

ある場所に集った人たちが、特に考えもなしに仲間内の「ノリ」で「デリヘルを呼ぶ」ことを、その影響も考えずに提案してみた。それを「芸術」という観念でなんとなく正当化した。

という行為は存在し、そのような平準化された曖昧な理解に、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」で違和を表明し異議を唱えた人々の行為こそが、この出来事をめぐって観察される光景の中では言葉の最も適切な意味で「突出した行為」でありましょう。それを現状の相対的優位を維持したい人々が典型的な「日本的な平準化欲望」の表明として「特権的」と見なし批判するというわかりやすい図式がここにあります。

 その特権性を前に、状況と乖離していることは少しきちんと調べればわかるにもかかわらずそれをせずに述べられた「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」そして「特権性を許さない日本的な平準化欲望」といった言葉こそ、まさに2016年の日本が置かれた風景の中で、かくも戯画的な図式にこれほどまでみごとに当てはまってしまってよいのかとたじろぐほどに典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」であることは、これまでの議論と事態そのものが、解釈の余地もないほど明確に示していることであります(実際のところは、そんなことを踏まえるまでもほどに明らかなものです)。

 差別的な視点を内面化し問題さえ認識できなくなっている人たちが内輪で「このくらいやっても大丈夫だろう」と思うこともなく思っている行為に対し、その行為の被害者から反論を受けて「とんでもないことが起きた」と相手を批判しはじめる。これは「欅坂46」のナチス風衣装をめぐっても見られたもので、「日本的な平準化欲望」にまみれた人々が当然の反応を前に「日本的な平準化欲望」に浸りきったがゆえにそれが当然と認識できずに「特権的な」ものと見なし攻撃を始めるという痛々しい行為を、千葉氏の発言は、こともあろうか「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という言葉を発することで今一度反復しています。簡単に言うと「俺らのぬるい欲望に対しお前らが反論する特権は許さない」というわけです。

 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について言うと、この出来事が京都市立芸術大学のギャラリーで、すなわち「アカデミズム」との「共犯関係」においてなされていたことを指摘しておきます。それに対して、たとえば「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に名を連ねている9名のうち「アカデミズム」に属していると確認できたのは2名です。なお、これに関する問題は、別のかたちで下でまた扱います(「共犯関係」は一般論だという可能な反論も途上で暗黙・間接的にですが扱います)。


D. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」

 「前もっての過剰な配慮」どころか、配慮そのものがなかったことは、企画者たちがなした「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか? といった会話」に対し、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏が「それは誰にとってのどんなリスクだということが話されたのですか」と問うたとき絶句して答えられなかったこと、つまり「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」ことが示しています。

 「『気にしい』」も、その場に呼ばれて問題を説明したげいまきまき氏に参加者が「デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?」「ダメなんですか?」などと聞いたこと、「『じゃあ何で、"デリヘルを呼ぶ"の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」ことなどから、出来事に対する妥当な特徴付けでないことがわかります。

 なお「前もっての配慮」については、「アカデミズム」の話とともに、後ほど関連する問題を扱います。

中間整理(2)

 ここまで、千葉氏の発言をめぐって確認したことを整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。


E. 「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。

 まず、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」という言葉の(非)論理構造を、出来事との対応とは別に指摘しておきましょう。そもそも、この発言は、法律や憲法への無理解を示しています。そしてそのことは、法律や憲法の勉強をしなくても、中学校までで学ぶ法律の基本的な位置づけを踏まえ、やはり中学校までで学ぶ初等的な論理に従って思考すればわかることです。

 法律は、人間ができることを禁止するものです。人間が「やるときはやる」からこそ、法律や憲法に規程があるのです。人間がどんなにやろうとしてもできないこと、想像もつかない行為を、法律や憲法は禁止しません(Proxima Bへの移住を規制する法律は存在しませんし、想像もつかないことについては禁止することを思いつけさえしません)。「人間は何事かをやるときにはやる存在だ」から、やらない方がよいことを「法律や憲法が禁止」するのです。

 むろん、それを踏まえた上で、論理の破綻と無意味さを通して意識的に「やるときはやる」ことの重要さを強調するためになされた発言だったのかもしれません。もちろん、ここまでで見てきたように、おそらくはそうでなかろう、むしろこの発言は単純な思考力の欠如を示しているものだろうと推測する証拠の方が圧倒的に強くはあるのですが。

 次に、出来事と「法律や憲法」との関係を考えます。「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」のサイトに、社会学者の山田創平氏が「表現の自由を守るために」という文章を寄せています。一段落一段落、担々と書かれていますが、すべて重要なので、次の段落に行く前に、まずお読み下さい。


 山田氏が言及しているのは、人体実験を禁じるニュルンベルク綱領とヘルシンキ宣言、それに依拠した、学術機関(美術館や博物館を含み、学芸員やキュレーターにもこの規定の順守が求められます)の倫理規定です。重要な点をあげます。
  • 「かつてナチスドイツはユダヤ人、障がい者、少数民族、同性愛者などをターゲットに膨大な人体実験を行いました。ニュルンベルク綱領はその反省の上に作られました。」
  • 「いわゆる九大事件(九州大学生体解剖事件、1945)や新潟大学事件(リケッチア人体実験事件、1955)など、大学における研究が学問の自由を大きく逸脱し、『人体実験』という、越えてはいけない一線を越えた事例も数多く存在します。」
  • 「今回の出来事に即して言えば、『デリヘル嬢を呼んで話を聞く』というのはインタビュー調査、面接調査、参与観察に該当します。今回、展覧会やワークショップの主催者はほとんど意識していなかった可能性もありますが、セックスワーカーを呼んで話を聞くという計画や実践は、大学や美術館がそれをやる以上『人を対象とする調査・研究』に該当するのです。」
 つまり、この出来事に関連して直接的に問題となる規定は、遡ると、ナチスドイツの人体実験にたどり着きます。それへの反省、また日本でもそう遠くない過去に起きていた学術機関での人体実験への反省から生まれた規定である、ということです。これに対して、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る言葉の中には、この無責任さの中で肯定される「やるときはやる」行為の一つにナチスドイツ下で行われた人体実験までは含まないことを示すものは何一つありません。

 したがって、今回の出来事が違反する規定の歴史的文脈において、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と言うことは、ナチスドイツにおいて、そして日本においてなされた人体実験も含めて、その存在を現在において否定しないことです。さらに、「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」という言葉は、「アート」において単にそれを否定しないだけでなく「理念的に」は積極的に肯定する側に一歩踏み出したものと解釈できます。

 ここで、ナチスドイツ時代の宣伝ポスターを一つ紹介します。

遺伝的欠陥を持つ人間の一生に6万ライヒマルクもかかる。それは他ならぬ君の金だ。考えろ。

  1. この言葉は、長谷川豊氏の発言に(長谷川氏の発言では「遺伝的欠陥」は除外されていますが)たいへん似ています。
  2. 長谷川豊氏の発言においては、「日本の再生」「経済」が正当化に持ち出されました。
  3. この長谷川豊氏の発言と発言の正当化は、「誕生日研究会」のメンバーが女性に集団暴行を加え、その実行を正当化するために「学歴」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
  4. 長谷川豊氏の発言と発言の正当化、「誕生日研究会」のメンバーの行動とその正当化は、何人かが集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画をたて、それを正当化するために「芸術」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
 千葉氏の発言は、議論の対象であったはずだった「デリヘルを呼ぶ」という事態を具体的に検討することなしに極めて一般的なものとしてなされ、この経路を逆から辿って、途中で対象を構成する要素に関する具体的な属性の変化から適用不可能になるような制約が存在しないものであったために、今回のケースに具体的に適用される規定の歴史的文脈を介してナチスドイツ下の人体実験に類することまでを「アート」の可能な射程に含め擁護する作用を有しています。

 「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」という文言、そして千葉氏のこれまでの発言の中に、ナチスドイツ型の人体実験を「アート」の名目で行うことは否定する要素は、どこにもありません。今回の出来事が、ナチスドイツによる人体実験の反省から作られたニュルンベルク綱領に起源を持つ研究機関の倫理規定に違反する可能性があること、まさにその出来事をめぐって千葉氏が「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」と述べていることが導く、これは論理的な帰結です。


F. 「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 以上のような帰結を導く発言ののちに、「他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもり」がない、ということは、単純に発言にも発言の一貫性にも責任を取らない放言に過ぎないと自らの発言を見なしているか、人体実験は少なくとも「理念的」には「他人に迷惑をかけ」ることではないと言いたいか、あるいは、この出来事をめぐって千葉氏が発言し記録されたことがその言語の形式において何を意味してしまうかについて考えが及ばない程度に言語における思考に関して未熟であるか、(あるいはその可能な組み合わせの)いずれかであることを示しています。

 既に、「『しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない』と警鐘を鳴らす」ことの性質は明らかですが、少しのべておきます。

 まず、特定の出来事の妥当性を検証しているときに、「あらゆる迷惑行為」を持ち出すのは、典型的な議論の過誤です。そもそも、この出来事をめぐって「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止」すべきという主張が存在していることを千葉氏は示していません。一方で、まさにこの行為がいかに問題かを具体的に論じた主張は極めて目につきやすいにもかかわらず、扱われていません。

 この言葉についてはもう一点、日本社会における「迷惑行為」の実質的な適用範囲を踏まえて、適用の過誤を指摘することができます。経験科学的事実確認と社会科学的概念批判の組み合わせで極めて単純に行えるものです。

 現在の日本では、比較的広い範囲で、セクハラやアカハラよりも、それを訴える行為が「迷惑行為」であると、実質上は見なされがちです(少し調べてみるとわかります。また、不幸にして実感されている方も少なくないと思います)。それと相関して、訴えることをあらかじめ封じ込めようとする圧力も強くあります。

 例えば、性的事件についての報告率は「平成24年版犯罪白書」では18.5%とされており、また、内閣府による2014年度「男女間における暴力に関する調査」では「異性から無理やりに性交された経験(女性のみ)」で被害経験のある人は6.5%となっています。そのうち「相談した人」は31.6%、「警察への相談」はわずか4.3%に過ぎません。

 このことが示唆するのは、実際には、「アートと称してデリヘルを呼ぶ」とか「頼りになる大人」を装ってセクハラとパワハラを続けるとか、自分は「東大生」だからという観念のもとで女性に暴行を加えるといったときに、現在の社会で絶望的に不足しているのは、それを防止しようとする社会的意志であって、この社会的意志の欠落の中で生み出されているのは、千葉雅也氏が述べることとは全く逆に、被害を訴え出る行為が、むしろこうした侵害を当たり前のものとするような雰囲気を受け入れそれを意識するともなく前提として思考する人々によって「迷惑行為」と捉えられ抑圧を受けているという状況です。

 もし「デリヘルを呼ぶ」という企画が未遂に終わらなかったら、派遣された女性は訴えることができたでしょうか?

 「他人に言えない」人が多いという条件を考えると、上で述べた報告率に対応する確率よりも訴える可能性は低いと考えるのがより妥当だと思われます。「デリヘルを呼ぶ」という企画は、「あらゆる(被害者が訴え出るという)迷惑行為をあらかじめ防止しよう」という圧力が蔓延し被害者が「萎縮」する「社会」の中で、安全地帯にいる人々が他人への侵害を行えるような、千葉氏の言葉を借りると「ファシズムに転化しかねない」状況があるからこそ、かくもやすやすと凡庸に陳腐に成り立ってしまったのであり、それによる被害を訴えることは、「ファシズムに転化しかねない」状況に対する極めてまっとうな反対です。

 それを認識せずに(しかしながら「中間整理(1)」「中間整理(2)」でまとめたように千葉氏はこの出来事についてほぼ何一つ認識することに成功していないのですが)、「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べてしまう千葉氏が、「法律や憲法」、規定の文脈で、ナチスドイツ下の人体実験を「理念的」に容認する帰結を導く発言をしたことは、これもまたあまりに戯画的ではありますが、当然のことであったと言わざるを得ないほど整合性が取れてはいます。

 検討の対象であるべき出来事の具体性を捉えず、歴史的文脈を捉えず、紋切り型の一般論を持ちだして何か言った気になるという、単純に、記事に記載されている限りでの千葉氏の文言から抽出できる議論の性格は、「ファシズム」という言葉の弛緩し倒錯した使用法も含めて、すぐれて「日本的」に「平準化」された緩さであるという点で「突出した行為」から限りなく離れたところにあるという点も、既に十分に自明ではありますが、ここで指摘しておきましょう。


最後に

 簡単に千葉氏の発言と発言行為の特徴と作用をまとめます。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。
  8. 「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べることが、相対的優位にあると思い込んでいながらそれに気づきもしない自分がそれに気付かされるような反論を「迷惑行為」と見なして防止しようという「特権性(と自分たちが見なすもの)を許さない日本的な平準化欲望」の発露になっていること[2]。
 経験科学的に検証しうる事実認識の誤り、思考の出発点における要素の見落とし、社会科学的概念の操作と経験科学的な分析で認識できる事実関係の誤りに基づき、自ら批判的に述べている行為をまさにそれを批判する言葉を発することによって行っている、千葉氏の言葉は、思考と思考するという行動はこのようなものであってはならないという典型的な在り方を短い言葉の中によく詰め込んだものになっています。

 芸術だと自分が思い込んでいることを言い訳に肥大した好奇心を満たす行為と芸術との区別がつかないくらいに芸術を知らない「芸術家」たちによってでなければ提案されるはずもないと思わざるを得ないような、「芸術」の名を付けてなされた芸術と言うべくもない人権侵害未遂をめぐって、出来事そのものが求める問いと自分が問いだと思っていることの区別がつけられないくらいに問いを問うことを知らない「記者」によってでなければ提出されるべくもないと思わざるを得ないような問いモドキが提出されてしまい、それに対して自分が知性/思考だと思っていることと知性/思考との区別がつけられないくらいに知性/思考を知らない「哲学者」によってでなければ発せられるはずもないと思わざるを得ないような一見したところ言葉に見える列が発せられてしまい、それが問いモドキとともに何か意味があるかのように新聞に印刷されて人目に触れてしまったという、芸術にとっても報道にとっても思考にとってもあまりに殺伐として救いがたい、けれども不幸にして極めて見慣れた凡庸な光景が、ここにあります。

 もうひとつ付け加えておくならば、千葉氏の発言は、原発事故後に、事故そのものを調べることなく一般論を、しかもしばしば誤ったかたちで繰り返した「科学者」と、その位置づけと全体の構造において、ほとんど同じです。

 私たちは、こうした悲惨な状況に対して、当たり前に人権や芸術や思想や哲学や科学を救済していきましょう。どうすればそれができるのか、げいまきまき氏が示唆しています。

私はあい変わらず芸術も生活も人も大切だと思う。特別ではなく大切だと。

科学も、思想も、人権も、美味しい食事も、楽しい会話も、同じように、特別ではなく、大切なものです。空疎な一般論を振りかざして何か言った「気になる」のではなく、一つ一つ言葉を積み重ねましょう。食べログの情報を確認して味わった「気になる」のではなく、一つ一つ料理を味わいましょう。


注など

[1] 「凡庸」「陳腐」といった言葉は、個々人に向けられているものではなく、行動と思考様式に向けられています。論を追っていただければわかるように、「凡庸」「陳腐」という言葉はまず行動そのものに、次に「内輪のノリで何となく・・・をしてしまう」という思考(の欠如)様式に与えられ、そこでは、そもそも「凡庸」「陳腐」であると言えるような「個人」が存在しないこと、がまさに凡庸さ、陳腐さであるわけです。

[2] ちなみに千葉雅也氏はご自身の発言をアイロニーとして読み取れるはずだとこの記事よりも前に書いていますよ、と指摘してくださった方がいました。もちろん、このような記事を書く時に、その程度の可能性は考慮するものです。というかこの記事を読んでそれが考慮されていないと考える方がむしろ不思議ではあります。実際、「アイロニーですよ」と言うことは、「アイロニー」ととても言えないものを、自分が「アイロニー」と思っているもので正当化する、という、まさにこの記事が指摘している構造の単純な反復になっていて、それはまあ当然のことです。この記事が分析したことの一つはまさにそのことなのですから。「デリヘルを呼ぶ」を「芸術」と言ったり差別を「シャレ」「ジョーク」と言うのと同じかたちです(ただし自己申告した評価の方向性は違ったりしますが)。

「京都新聞の記事、「読めない」人は、あのデリヘルアートを評価してるように見えるかもしれない、一言明言しておくべきだったかも、という指摘を受けた。そうかもしれない。あんなのダメに決まってんじゃん、その上で、という話で、あの記事はアイロニーで書かれてるから、読み取れると思ってたけど。」

「「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」(熊本地震のとき)は「シャレ」だとわかると思ってたけど。だってそんなわけないに決まってんじゃん。シャレで書いている。わからない人もいるんだな。」

論理的に当然外挿できることではありますが、一応書いておきます。分析的な検討をしない点は、麻生太郎氏が香港のメディアにAIIBの質問をめぐって「嘲笑」で誤魔化したのと似かよっています。
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2016/11/10

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
 2016年5月7日、京都新聞に「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。

 一部、引用します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 ここでは、二つの点について、検討します。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
分量の関係から、二つに分けて、このポストでは、第一の点を扱います。

 検討に入る前に、記事で言及されているワークショップについて、もう少し情報を共有しておきましょう。ワークショップは、2016年1月30日、丹羽良徳氏により開催されたもので、案内サイトに説明があります。終了後の追記も掲載されています。

 当日、「実現に向けて実践的な行動を開始する」とされていた「提案」は、以下の通り。
  • デリバリーヘルス[1]のサービスを会場に呼ぶ
  • 男子トイレと女子トイレを入れ替える
  • 階段で野菜の天ぷらを揚げる
  • タクシーで城の周りを5周する
 「当日はビデオ撮影を予定しているので、参加者はビデオに映ることをご了承のうえ参加ください」とのこと。実際、この「ワークショップ」は撮影自由だったとのことです。

 「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」は実現されず、かわりに、女優パフォーマーのげいまきまき氏が会場に呼ばれ、この課題の問題について説明がなされました。この経緯に関しては、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」というサイトに、アーティストのブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏によるまとめ(「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」)、そして「事情に詳しい方」として呼ばれた女優パフォーマーのげいまきまき氏本人の文章(「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」)が掲載されています。

 ぜひ、このサイトに掲載されている文章をすべてお読みいただければと思います。元の文章の緊張感は失いますが、重要な点だけ、以下で確認しておきます。
  • ワークショップ参加者の間で「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか?」といった会話がなされたが、「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」。
  • ワークショップに「事情に詳しい人」として呼ばれたげいまきまき氏に、丹羽良徳氏と参加者から「『デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?』『ダメなんですか?』という質問があった」。「丹羽氏やほかの参加者も笑っていた」。
  • 「ワークショップの間、他の観客の出入り及び写真・ビデオ撮影は自由であった」。「そのことに気付いたげいまきまきさんは丹羽さんに対して『この空間は撮影自由なのですか?』と尋ねたところ、丹羽さんは『ああ、自由ですよ』と当然のように答えた」。
  • 「彼らは何度も『たとえ人の怒りを買っても』と世界を理解したい欲や好奇心の崇高さに酔いしれた発言をしていた。 そこまで言うにしては『何故デリヘルなのか?』の質問に最初は答えず、 終いには『特に意味はない』『別に呼びたいわけではない』『ラーメン屋でもよかった』『ポーランドの作家もしてたから』と繰り返し言ってきた」。さらに、「とある参加者は『じゃあ何で、``デリヘルを呼ぶ''の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」。
 また、げいまきまき氏は直後のツイートの一つで、「国内のセックスワーカーへの調査の中に『セックスワークへの従事を何人が知っているか』というのがあります。平均2人です。しかもその2人の内訳は同じ職場や職種だったりします。現状とても打ち明けにくいと実感している人が多いのです」と書いています(「直後のつぶやき」)。セックスワークに従事していることを他の人に知られないようにしている人が多いだろうということは、容易に想像がつきます。

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。


A. 「デリヘルを呼ぶ」という企画をめぐって起きていたことは何と呼ばれるか?

 少し大げさにビックリマークを付けて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か!?」と書くと、いかにも、既存の権威やタブーに挑戦する芸術をめぐって、まさに芸術が既存の権威やタブーに挑戦するがゆえに巻き起こった論争で、ここが芸術の正念場、という印象を持ちます。

 「芸術」かどうかが記事見出しの問いになっており、ここでの作業はその問い自体を検討することにあります(「芸術」かどうかを検討することにはないことに注意して下さい。ただし、その点も自ずと明らかになります)。その検討にあたって「芸術」という言葉があるとやはりそれに対して抱いている観念に影響されるかもしれないので、とりあえず、問いの性質を「芸術」に関する先入観なく見極めるために、「芸術」という言葉を、意味のない言葉(例えば「X」)で置換えて、それに何が当てはまるか、というかたちで考えることにしてみます。

 まず、ここでの出来事の基本的な性格は、出来事の経緯とそれを実行していた人たちの振舞いを通して、次のようにまとめることができます。

起きたこととその基本的な性格
  1. 何人かの人たちが、デリヘルの派遣を撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に呼ぼうとした。その際、デリヘルの会社・派遣される人にはそれと知らせずに呼ぼうとした。
  2. その際、デリヘルから呼ばれた人のリスクについては考えもしていなかった。また、デリヘルから呼ばれた人のリスクについて自分たちが考えもしていないことに気づいてもいなかった。
  3. その際、なぜデリヘルであるかについても考えもしていなかった。また、他でもよかったにもかかわらずなぜ実際にはデリヘルになったかについても考えもしていなかった。
 さて、以上を踏まえた上で(もう少し何が起きたか確認したい方は、改めてこの出来事の場となった「ワークショップ」の案内サイトと「Don't exploit my anger! わたしの怒りを盗むな」に掲載されているブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏の「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」、げいまきまき氏の「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」から、この企画を実行しようとした人々の振舞いと理解がどのようなものであったか確認してみてください)、次の問いを考えてみます。

「これらの人たちの、以上のような行動をXと呼ぶ」のXに当てはまる言葉をあげてみる。

 割とはっきりしています。
  • 好意的に捉えた場合:「悪ノリ」「悪ふざけ」
  • 傍観者的に捉えた場合:「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」
  • 呼ばれた人のことを少し想像した場合:「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」
  • 呼ばれた人に起きる最悪の事態を想像した場合:「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」
 もう一度、出来事を簡単に記述します。実際にこの行動が起しうる状況については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」の「Q&A」も参照してください。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

この行為に対して与える言葉は、大体、ここで与えた言葉及びその類義語やバリエーションでほぼ尽きています。

 私たちは、これに類する行動を、最近でもいくつか目にしています。「類する」というのは、何人かの人間が内輪のノリで、あるいはそうした内輪のノリを観念的に内面化した個人が、断りもなく他人を侵害する行為です。

 二つ、これに類する出来事をあげておきます。

 一つ目として、「私がいても、いなくても」というブログの記事「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか? 自殺した電通女性新入社員のツイートを見て思い出したこと」に書かれている出来事を紹介します。一部、引用します。

 上司は私を連れ出し、飲み会で散々ダメ出しをした。仕事のダメ出しではない。そんなのは業務時間中にいやというほどされている。業務時間外にされたダメ出し、それは私の外見や性格や言動に対するものだった。
「ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ」
「LINEのアイコンをアニメキャラにするな。男が引く。今すぐ変えろ」
「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ、それ」
「お前は世間を知らないから、いろんな男と付き合って経験値を上げろ」
 今考えれば立派なセクハラとパワハラのオンパレードだが、当時の私はそう思わなかった。【・・・】自分のためを思って言ってくれているのだと思った。自分には女として色んなダメな部分があって、それを指摘してくれているのだと。
 そして、とてもしんどかった。仕事でも女としても自分はダメなのだと、深く落ち込んだ。苦しかった。
 【・・・その後、社内に彼氏ができて報告しなかったことで彼氏がその上司に怒られるという出来事が起きます。・・・】
 目が覚めた。
 別にこの人は、私のためを思っていろいろ言ってくれていたわけじゃない。
 それに、私に何か女としての欠陥が特別あったわけでもない。
 この人は単純に、私と何かしらの形で関わりたかっただけ。そのために取れる手段が、『ダメ出し』しかなかっただけだ。
 『頼りになる大人』の皮を被り、自分の支配下に置きたいがために、私に自己否定感を植え付け、何の根拠もない偏ったアドバイスという名のクソバイスを繰り広げて、自分勝手に気持ち良くなっていただけ。しかも、本当にそれが相手のためだと信じ込んでいるというオマケ付き。

 「デリヘルを呼ぶ」行為の「何人かの人が、特に考えもなしに」を、「ここに登場する上司が属している集団の文化を意識するともなく内面化し」に置き換え、影響として「相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け」ることとするならば、よく対応していることがわかります。

 もうひとつの出来事をあげます。事件になったものです。

 2016年5月10日、東京大学の学部・大学院学生による集団強制わいせつ事件が置きました。「誕生日研究会」というサークルのメンバー5名が女性をマンションに連れ込み、集団で性的暴行を加えた事件です[2]。

 この事件で、加害者たちは、当初、笑いながら女性に暴行を加えていたこと、その場にいて途中で帰った別の女性に「これは犯罪だ」と指摘されても「大丈夫、大丈夫」と答えていたことが報じられています。被害者女性が泣き叫んだため、近隣の住民に通報されることを恐れて服を渡したのち、女性が部屋を飛び出して警察に通報したため事件が発覚しました。

 2016年10月25日の判決では「数人が全裸の被害者の体を交互に触り、周囲の者はこれをはやし立て、被害者が泣き出した後も被害者の体を弄び、虐げたもの」としています。裁判の過程で、加害者たちが、被害者を「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」いたこと、「ネタ枠」などと呼んでいたことも示されています。

 この事件は、次の通り、「デリヘルを呼ぶ」出来事といくつかの言葉を入れ替えるだけで、ほとんど同じかたちで表現できます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行した。

 改めて共通点を確認しておきます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
 こうした行動の様式は、不幸にして、少なからず見られ、とりわけ一部の男性集団の中では頻繁に見られます。その意味で、極めて凡庸で陳腐な行動及び行動様式です。もちろん、そのことは、その行動が引き起こす侵害の重大さや深刻さを減ずるものではありません。まったく逆に、重大な侵害をもたらす行動を引き起こすメカニズムが極めて陳腐で凡庸なものであるという点は、非常に深刻です[3]。げいまきまき氏が「あんたらのやろうとしてることは人殺しだ」と述べたこと、それを計画者たちが十分に理解できなかった様子であることは、まさにこの、行動がもたらす深刻さを想像できずに行動を提案した人たちの陳腐さと凡庸さをとても明確に示しています。繰り返しになりますが、こうした陳腐さと凡庸さがが極めて深刻な危害と侵害を被害者にもたらすことが少なからずあります。

 以上の検討で、京都新聞が扱っている出来事の基本的な性格が明らかになりました。改めてまとめておきます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。それがもたらす侵害の深刻さを指摘してくれる人がいて、その行為は未遂に終わった。

 「誕生日研究会」の加害者たちが、「これは犯罪だ」と指摘されても止めなかったのに対し、とりあえず企画を止めたという点がかろうじての救いでしょうが、それも、経緯をみる限り、「特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた」人たちがその影響に気づき自分たちの行為の問題を理解したからというよりは、単に、たじろいだから(相対的な権威の前に日和った)という側面が強そうです(げいまきまきさんが呼ばれたきっかけはこの企画が「リスキーなのでは?」と企画者が考えたところにあり、その段階で「誰にとってのどんなリスク」かがまったく考えられていなかったことは、デリヘルの会社の人との関係で自分たちに取って「リスキー」なのではと漠然と感じていただけなのではないかということを強く示唆します)。

 「デリヘルを呼ぶ」は未遂で終わっていますので、パワハラ・セクハラ、そして暴行が実際に行われた二つのケースとはその点で異なりますが、その途上で、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏は影響を受けています(「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をお読み下さい)。


B. 「芸術」はどこから出てきたか?

 さて、ここで私たちは大きな問題に直面します。

 セクハラ的価値観を内面化していると言ってもそう誤りでない数人の人々が集まって何となくの内輪のノリで、撮影自由で不特定多数の人が出入りしうる場にデリバリーヘルスのサービスを呼ぶことを提案してみたという、「悪ノリ」「悪ふざけ」「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」といった言葉で最も適切に表現されかつそれ以外では表現されようもない、不幸にして日本社会ではしばしば見られるという意味で陳腐で凡庸としか言いようのない、したがっておよそ芸術とこれほどかけ離れた行動もなかなか存在しなかろうと言えるほどに芸術から遠いこの行動の提案について[4]、どこからどうしてどのように「芸術」が関係してきたのでしょうか?

 答えは簡単です。

 これらの行為を企画した本人たちが自分たちの仲間内でこれを「芸術」と呼んでいたのでした。それ以外に、この行為をめぐって「芸術」が出てくる部分はどこにもありません。従って、ここで行われた行為の系列全体の中で、「芸術」は次のように位置づけられます。

何人かの人が「芸術」を名目にあつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

 外から観察する目で、この状況を記述し直すと次のようになります。

デリヘルを呼ぶという陳腐で凡庸な、けれども深刻な侵害を引き起こしうる行為を、何人かの人間が集まった内輪のノリで何となく思いつき、その行為を「芸術」という言葉で正当化した。

 そして、この光景は、類似の出来事を通して、私たちに覚えのあるものです。例えば、Aで紹介した二つのケースは、「デリヘルを呼ぶ」における「芸術」に相当する要素を入れて、次のように述べることができます。

自分が属している集団の文化を意識するともなく内面化している上司が、勤務時間外に権力関係を利用して新入社員の女性にパワハラ・セクハラをして相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け、その行為を「頼りになる大人」が相手のためにやっていると自分で見なして正当化した。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行し、その行為を「自分たちは東大生」で「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」正当化した。

 これら三つの行為に共通する点を改めて挙げましょう。一つ追加されます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
  3. 自分たちの行為を「芸術」とか「頼りになる大人」とか「東大生」といった自分たちが所有しいると思っており「正の価値」を持つと思い込んでいる観念に訴えて正当化していること。
 三番目の点もまた、頻繁に観察されます。実際、大学の場におけるアカデミックハラスメントでは、ハラスメント行為を行うものはその正当化に、しばしば「学問」とか「科学」とか「真理の追求」といった概念を持ち出しますし、セクシャルハラスメント行為を行うものは「社会」とか「大人」とか「女たるもの」といった概念を持ち出しますし、パワーハラスメントを行うものは「仕事」とか「使命」とか「社会人」といった言葉を持ち出します。

 つまり、「デリヘルを呼ぶ」という行為だけでなく、それを正当化するために「芸術」を持ち出すという行為も、随所で観察されるハラスメントや暴行において正確にそれに対応するものを容易に同定することができる、極めて凡庸で陳腐なものだということが確認できます。繰り返しになりますが、行動とその正当化のパターンが陳腐で凡庸であっても、それがもたらす侵害や被害は深刻なものになります。
 

C. 「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」について

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか?」の事例及び東大生による強制わいせつ事件の事例に対応するものであることが確認できたので、この問いを検討するにあたって、これら二つの出来事・事件で対応する問い(見出し)を立ててみます。

 少し表現を操作する必要はありますが、大体、次のようになるでしょう。

「業務時間外に部下の女性に『ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ』等々と言うのは頼りになる大人のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

「女性を集団で暴行するのは東大生のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

これらの問いから、このような問いを問うこと自体が、完全に不適切であることがはっきりとわかります。

 では、この出来事について、実際に問われるべき問いはどのようなものだったでしょうか?

 理論的に導き出される答えは簡単で、

「芸術」をダシに使ってデリバリーヘルスのサービスを本来呼ぶべきところではないところに呼び自分たちの好奇心を満足させようという凡庸で陳腐なお仲間集団の行動は妥当か?

というもので、この問いに対する答えは、直ちにもちろん妥当ではない、となりますから、最初から、京都新聞の見出しにあるような「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」といった疑似質問も、そして上の理屈の上ではまっとうな質問も、出すまでもなく、その前に、当たり前に「芸術をダシにして人権侵害をしてはいけません」と大人が指摘してお終いになるべき、これは極めて単純な出来事であったということが確認できます。

 そして実際に、絶望的な無理解を前に、けれどもげいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がそのように適切に振舞ってくれたことで、様々な場で同様の凡庸かつ陳腐な行為が深刻な侵害を引き起こしている中、また一つ深刻な侵害になるかもしれなかった事態がかろうじて回避された、というこれは出来事であったことも確認できます。

 勘違いした仲間内の悪ノリが深刻な侵害に至るまえに、きちんとした大人が制止してくれた。私たちが確認すべきは、そこに多少なりとも世界の救いがかろうじてあるということであって、勘違いした仲間内の悪ノリを正当化するために持ち出された「芸術」という観念に踊らされて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か?」という疑似質問を提出したりそれに答えたりすることではありません。そのことはまた、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がともに表現行為に関わる人であることからも確認できます。

 冒頭で提起した二つ目の問い、「『哲学者』千葉雅也氏の発言について」は稿を改めて述べることにします。


注など

[1] 「デリバリーヘルス」は、「派遣型のファッションヘルスのこと」で、「ファッションヘルス」は「一般に女性従業員が男性客に個室で性的なサービスを提供する日本におけるいわゆる風俗店の一種」だそうです。


[3] ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについて』(みずす書房)を思い起こされた方もいるでしょう。

[4] いくつか、芸術の付随的属性をめぐって、「デリヘルを呼ぶ」という行為及びそれを企画した人たちの態度を整理しておきます。第一に、「芸術は権威をゆるがす」といったことについて。撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に「デリヘルを呼ぶ」行為は「権威をゆるがす」ものではなく、既存の悪しき確立して蔓延している男性中心の権威に基づいた行為をいっそう悪しきところに向けて逸脱的に展開した行為です。第二に、「芸術は存在や悪に関わる」という点について。例えば殺人をそのまま行って芸術だというのは芸術が表象行為であることを考えるならば単に矛盾であり、芸術の否定です。第三に、「芸術は驚きをもたらす」というとき、このような侵害を考えもなしに提案できる人々の認識力のなさ以外、この提案に驚くべきことは何一つありません(私たちの前にはデュシャンもいたのです)。第四に、「たとえ人の怒りを買っても」芸術が担う使命があるという点について、企画者たちは当初「人の怒りを買う」とさえ思っていなかったことが示されていますから、これも妥当なものではありません(会田誠氏の言葉「僕はいつか例えば、イスラエルを完全に怒らせる表現をするかもしれない。具体的な予定はないが。その時は『刺し違える覚悟』でやると思う。芸術だから許されるとか、そういう話では一切ない」という発言は示唆的です)。なお、この場にいた「加須屋さん」は京都市立芸術大学の加須屋明子教授と思われます。女性ですが、この出来事をめぐる本稿の記述が加須屋氏の存在で変わることは特にありません。


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2016/11/07

「科学的に見て心配ない」

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電力中央研究所の、「原子力技術研究所 放射線安全研究センター」ウェブサイトに、放射線Q&Aのページがあります。そこに、次のように書かれています。

Q. 原爆症のニュース等から、多量の放射線を浴びると危険であることはわかるが、少量でも放射線>を浴びると危険なのか?

A. ・・・リスクの認知の仕方(どのような要因のリスクをどの程度危険と感じるか)は人それぞれに異なります。一般的に「放射線」は、原爆、原子力発電所の大事故などの悲惨なシーンを想起させるため、客観的・科学的に評価されたリスク要因間の比較よりも、人々のリスク認知において、他のリスク要因よりもより「危険」と認知される程度が強いといえます。しかし、実際の放射線影響は、広島・長崎の原爆被爆者12万人を戦後50年以上調査しても100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません。
 (1段落省略)
 ・・・これまでの種々の研究から、少ない線量(200ミリシーベルト以下)の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではないといえます。

さて、2016年時点の科学的知見として、「100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません」と言うのが不適切であるという点はさておき[1]、この「A」の中には、放射線が引き起こす健康被害について、これまで蓄積された科学的知見を知らなくても気づく、奇妙な部分があります。

最後の段落の「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではないといえます」という部分です。

話を簡単にするために「発がんリスク」だけを考えましょう。同じ程度の発がんリスクをもつ別の要因についてよりも、被曝をより深刻なリスクと見なしている人に対して、「客観的・科学的に見てそのレベルのリスクではない」ということは(まあつまり、「A」の第一段落に書かれていることは)、状況が整っていれば、必ずしも科学的に不適切な発言ではありません(とはいえ、繰り返しになりますが「100mSv以下ではなんともいえません」といった前提で話すならば当然不適切ですから、この「A」は第一段落も不適切です)。

けれども、ここではっきり述べられているのは、

少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない

ということです。診断のために、ちょっと状況を変えましょう。

ここでおみやげに持っていったチョコレートは、客観的・科学的に見て喜ぶような量ではない。

落としてしまったブルーベリーの数は、客観的・科学的に見て悲しむような量ではない。

シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクは、客観的・科学的に見て心配するような数ではない。

言葉のかたちを踏まえると、「A]の最終段落、そして上であげた3つの例では、「客観的・科学的に見て」の適用対象は、次のようなものであることがわかります。

少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係
チョコレートの量と人が喜ぶこととの関係
落としたブルーベリーの数と人が悲しむこととの関係
シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクと人が心配することとの関係

注意しましょう。

いずれの場合でも「客観的・科学的に見」た言明は、「少ない放射線を浴びることのリスク」(繰り返しになりますが、2016年の段階で「100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません」というのは科学的に不適切ですから、この「A」はこの範囲でも科学的ではありません)、「チョコレートの量」「落としたブルーベリーの数」「シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスク」ではなく、

少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係
チョコレートの量と人が喜ぶこととの関係
落としたブルーベリーの数と人が悲しむこととの関係
シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクと人が心配することとの関係

をめぐるものとしてなされています。そうであることを示す表現の形式になっています。

ここで、次の点を確認しておきます。
  • 科学が、対象の記述と説明に関わるものであって、「べきだ!」に関わるものではないこと。「太陽は西からのぼるべきだ!」というのは科学ではありません[2]。
  • 実際に「少ない」(200 mSv以下!)被曝線量の影響を心配する人たちが存在すること。
  • 「心配」は、「物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)と定義されることからわかるように、人々の気持ちの状態に関連する概念であること[3]。
さて、少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係に関する科学的言明の形式は、極めて常識的に、リスクに対応した不安を感じる人の発生を把握できるようなモデル化を行う、ということになります。その形式は、典型的には

かくかくの条件でこのくらいのリスクがあるとき全体のうちこのくらいの比率の人が心配する可能性はこのくらい

といったかたちになります。まあ設定によりどこまで何を考慮するかは異なりますが[4]。

ところで、「A」は、そんなかたちになっていません。それ以前に、そもそも、

「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」

というのは、心配する人がいるという事実の前に、「少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係」に関する記述としては「客観的・科学的に見て」誤っています。したがって、この言明は、科学の適用過誤として最初から誤っており、また、科学的なものと見做したとしても事実との関係において誤っている、ということになります。

つまり、客観的でも科学的でもありません。

ここまで診断すると、実際にこの表現で言われているのがどういうことか、はっきりします(というか、最初から明らかではあったのですが)。この言明が言っているのは、

このくらいの線量がもたらすリスクで心配などすべきではない

ということに過ぎません。

「すべきではない」と言ってしまうと、あまりに非科学的な押し付けであることが生々しく露呈してしまうので、「客観的・科学的に見て」という言葉を使って、客観的・科学的であるかのような装いをつけようとした、ということに過ぎません。

多少の「読み」も含めて、改めて整理しましょう。「A」の次の言葉。

「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」

  1. 「少ない線量の放射線を浴びることのリスク」に関する「科学的」知見を提示する(ちなみに、この段階で、リスクについて提示された知識は科学的に不適切なものだった)
  2. 「心配すべきじゃない」という主張を正当化するために、その範囲での「客観的・科学的」知見を、適用対象に関する科学的過誤を犯して「客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」として、心配と強引に結びつけた(ここは科学的に不適切どころか科学以前のごまかし)
結局のところ、何のことはない、違う振舞いをする人を押さえつけるために「客観的・科学的」を持ち出す、よくあるマウンティングのパターンに過ぎません。で、よくあるパターンに見られる2つの誤り(科学的知見そのものの誤りと適用の過誤)を両方とも犯している、という(ここで検討してきたのは後者です)。

個人的には、このQ&Aを作成した方が、ここで書いてきたようなことは十分に意図していたことを期待します。というのも、ナチス・ドイツで初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスは、次のように述べていて、それは、意識された逸脱よりも、より一層、恐ろしいことだからです。

プロパガンダは、それを通して操ろうとしている相手が、自分は自由意志で行動しているのだと信じ込むときに、最もうまくいっている。

プロパガンダの秘訣は、次の点にある。プロパガンダが説得しようとする対象が、プロパガンダが伝える考えに、自分が染まっているとさえ気づかないまでに完全に染まるようにすること。

ここまで書いてウェブサイトを検索したら、東京大教授の早野龍五さんによる「科学的には心配ない」という言葉が東京新聞2016年3月5日付け紙上で紹介されているのを発見しました(11月9日追記:これに関するtogetterまとめがありました)。少し調べてみると、早野龍五教授は、2011年3月22日、関東を汚染した雨が降っていたときに「春雨じゃ濡れてまいろう」とツイートした人物のようです。

「科学者」を自称する人たちのこうした言葉がするすると公共領域に出てしまうメディアの状況は、とても不健康なものです。Tayが、24時間のうちに人種差別主義者・ナチス擁護者になるのも、不思議はありません。

それに対する歯止めをどうするか。一言で言うと「言語のデカルト的使用」をきちんと守り、伝え、その領域を広げる、というのがポイントかな、と最近思っています。

「守り、伝え、広げる」のだけはなく「使用」にも、勝手な放言と比べるとはるかにたくさんの時間がかかります。でも、美味しいご飯を味わうときには、それぞれが求める時間があり、その時間にそれなりに沿って味わうとより幸せであるように、ある対象について考えるためにはそれが求める時間があって、その時間にそれなりに沿って考えるのは幸せなことでです。


注など

[1] 実際には、特に近年の研究で、100mSv以下でも影響があることは「仮説」ではなく「知見」として蓄積されてきています。詳細な文献紹介は「論文等の紹介 そのX by みーゆさん」としてtogetterにまとめられています。また、低線量での健康被曝に関する最近の研究は、濱岡豊「長期低線量被曝研究からの知見・課題と再分析」(『科学』2015年10月, p. 985-1006)に著者本人の分析とともに紹介されています。それにもかかわらず、こうした「主張」は繰り返しなされてきました。たとえば、2011年3月29日に『日経メディカル』は「国立がん研究センターが放射線影響について緊急記者会見 100mSv未満の線量なら発がんリスクなし」という見出しの記事を発表しました(担当記者は大滝隆行氏)。山下俊一福島県健康リスク管理アドバイザーは2011年5月3日に二本松市で行った講演で「何度もお話しますように100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません」と述べています。また、事故直後に「海の魚はヨウ素を取り込みにくいので安心してよい」と誤った断言をした中川恵一東京大学病院准教授は「100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません」と述べた上で「現在の福島市のように、毎時1 uSvの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100 mSvに達するには11年以上の月日が必要です」と、影響がないかのような表現を使っています。いずれも科学的な知見を十分に踏まえた主張とは言えません。

[2] もちろん、科学的にはこう考える「べきだ」というのは普通にあります。この場合は、対象に対してこうある「べきだ!」と述べているのではなく、対象に対する科学的認識はこうある「べきだ!」と述べているので、レベルが違います。「太陽が地球の周りを回るべきだ!」と言うことと、「太陽が地球の周りを回ると考えるべきだ!」と言うことは違います。

[3] 菊島勝也・村田英代 (2007) 「心配性者における安全追求行動と思考の制御困難性」『愛知大学教育実践総合センター紀要』第10号, p. 261-267.によると、心配は「worry」に対応するもので、その「worry」は「否定的な情緒を伴った、制御の難しい思考やイメージの連鎖。不確実だが、否定的な結果が予期される問題を心的に解決する試み」(Borkovec, Robinson, Pruzinsy & DePee, 1983)と定義されているようです

[4] 被曝(によるリスク)の大きさに対応して全員に共通の心配する確率pを与えて、大きさnの集団についてB(n,p)を考えるというのが最も素朴なイメージの一つでしょう。もちろん、研究ではもっときちんと考えるでしょうが。



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2016/10/12

根性ではなくて環境を

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ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』はとてもよく知られています。

「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」

何かをするためには、それに必要な外的条件があります。同じことを成し遂げるなら、ふんばって苦しくやるよりも、楽しく気持よくやったほうがよい。もちろんこれは、そのことをやるにあたって不利な環境にいながら力を注いで何かを成し遂げた、その一つ一つの行為を軽視するものではありません。けれども、もちろん、そのことをやるにあたって適切な環境であるほうがよいのです。

このことは、「日常生活」と距離が離れたところでは、当たり前に認められています。たとえば、ある種の研究をするためには電子顕微鏡が必要で、「それなしで頑張る」というのが空疎な精神論にさえならないことを、その研究に関わる人は知っています。

衛生の専門家・お掃除の専門家は、素手でのトイレ掃除が衛生上不適切なものであると知っていて、教育をちゃんと考える人は、たとえ素手でのトイレ掃除を提唱する人が「ナントカに感謝する気持ちが生まれる」とどんなに声高に言ってもそれが楽しく気持ちよく創造的に生きるために必要なものとはずれていることを知っているはずです。

でも、日常に近くなればなるほど、適切な外部環境は、軽視されがちになります。というか、しばしばそれを変えれば楽になる、という点に気づきさえしないことが多い。

たとえば、言葉でものを考えるとき。特に母語は「自分の」言葉だから「自由に」使えると思い込み過ぎると、実は、ある考えを展開するために求められる言語操作の技術を持っていないことに思い至らない、ということもありえます。うーん、と一生懸命考えていてうまくいかなくてごちゃごちゃで、でも量化子と否定の操作、主題(抽象的案意味ではなく「は」の前に来るもの)を抽出して列挙して存在論的カテゴリにしたがって抽象化する技術等々を身に付ければ実はすんなり考えることができる、といったことはかなりあるでしょう(言語についていうとこの操作をそれに伴う思考とともに心の底から納得するかたちで身に付けることが大切ですが)。

さて、今滞在しているシドニーの研究所で、コンピュータを使う環境のセットアップに関する簡単なチェックを(ソフトウェアがやっている)受けたら、私は腱鞘炎を始めとする筋肉等の傷害の可能性に関して「ハイリスク」と診断され、今度「産業医」の人が視察に来ることになりました。

(もともと私自身がひ弱ですぐ壊れそうだということ以外に)何が問題だったかは、結構大切なので、研究室の大学院生と共有したのですが、それをもとに、大学院生(今年度の研究室委員です)がとてもエレガントに日本語で注意点をまとめてくれたので、それをここに書いておきます。

ご存知の方も多いのだとは思いますが、気づいたときに共有しておくのは悪くないことでしょう。

1. 書類を見ながら入力する機会がある場合は、書類ホルダー(書見台)を使いましょう。特にモニターと同じ高さに固定できるものが良いです。

2. 肩をリラックスさせたままの状態で、肘から先の前腕が地面と平行にできるように、椅子の高さとアームレストを調整しましょう。

3. 前腕を平行になるようにしたために足が地面から浮いてしまうときは、足置きを使いましょう。

# 2と3について。私の受け入れ責任者は身長が150センチくらいなので、それに合わせて低い机を提供され、それを使っています。

4. タイピングするとき、マウスを使うときなど、肘は身体に引き寄せましょう。また、手首はねじらないようにします。

5. アームレストが広がりすぎていませんか? 4と同様に、肘が肩幅に落ち着くあたりに引き寄せましょう。

6. マウスを使うときもアームレストで腕を支えましょう。腕を浮かせてマウスを動かすとつらいです。

7. マウスを動かすときは腕全体を使うようにし、決して手首だけ・指だけで動かさないようにしましょう。

8. マウスはキーボードの近くに置きましょう。

専門家の目からは、他にもあるかもしれませんが、私が指摘された問題は以上でした。

根性や気合で肩こりは治りません(私は不思議と肩こりがほとんどない)。腱鞘炎も(こちらはHappy Hacking Professional 2があればOK)。

予算がゆるす限り、大学院生が使うキーボード、ディスプレイ、椅子等は、徐々に、良いものにしていっています。

18:24 | 投票する | 投票数(2) | コメント(0) | テクノロジー
2016/07/10

第97条、目、あることを可能にする条件、言語処理

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
雑ですが、まとめて書いておきます。

97条の会発足イベントで、私がした宣言の中に、次のようなところがあります。

このことは、日本の社会が、

そこに暮らす一人一人が基本的人権を享有すること

を、最も重要な原則として成り立っていることを示しています。

日本国憲法第97条が「最高法規」にあることと関連して、とても大切なのは、97条を「最も重要な原則として」日本の社会が「成り立っている」という点です。

目でものを見るとき、見えないものは、大きく二種類にわかれます。一つは、外側にあって隠れていたり、遠すぎたり、小さすぎたりするもの。もう一つは、ものを見ている目、そのもの。

第97条が、第11条と違うのは、第97条が、ものを見ることを可能にしている目そのものと同じ位置づけに、すなわち、社会を構成することを可能にしている条件そのものとして存在している点にあります。

ところで、それにもかかわらず、第97条は第11条等と同じように読めてしまいます。これが、目のアナロジーとずれるところ(目そのものは見えない)。読めてしまうので、第97条が社会を可能にする条件である、という点がわかりにくくなっています。そのため、「11条と重複しているので削除」といった主張が、存在するレベルの違いを無視しているにもかかわらず、何か意味を持つかのように取られる恐れが出てきます。

別のかたちで、第97条の位置づけをはっきりさせるために、次のような状況を考えてみましょう。(あまりうまくないけどたたき台として出しておきます。)

外でリベラルな発言をして活動を一生懸命している男性がいて、その人の家ではすべての家事をパートナーがやっている。本人は家事は全然しない。で(とりあえずヘテロなカップルを想定します)、活動を一緒にしている友人が自宅に遊びにきて、女性の権利に関する熱心な議論をしている。パートナーは台所(キッチンとも言いますね)で料理をしていて、そのパートナーの発言は、女性の権利に関する熱心な議論の一環として扱われる。


このとき、第97条は、「女性の権利に関する熱心な議論」にではなく、「パートナーは台所で料理をしていて」、その発言が「女性の権利に関する熱心な議論の一環として扱われる」という状況そのものに関わります。

それに関して作動してしまうべきなのが/というのが、第97条

印象論的な言葉を使うと、第97条は、私たちの認識の作動そのものに張り付いて存在します(個人と社会のつなぎはここでは省略します)。でも、第97条は言葉で表現されているために、認識やら議論の対象と混同されてしまいがちです。

さて、自然言語処理。

自然言語処理が面白いのは、「言葉を使って何かする」という枠組み(だけ)ではなく、「言葉においてしてしまっていることは何なのか」という問いを(意識するかどうかは別として)、原理的に強いられることにあります。

基本的人権との配置の対応で言うと、前者が日本国憲法第11条、後者が日本国憲法第97条。

その点では、ビッグデータ/MLの「応用」は、意識化されたかたちで答えが競われていることそのものはそれほど面白い話しではなく(私にとっては)、でもそれがはからずも示すものは興味深いことがあります。そして、それに触れるためには、技術的解像度が高くなくてはならない(これが21世紀の辛いところ)。

蛇足になるけれど、言語学がおもしろくないのは(ごめんなさい、あくまで私にとってです)、言語学が学の論理的な配置として、第11条の位置づけに留まり、第97条の位置づけには触れ得ないから。

認識に対して外在的な対象として言語を捉えるくらいなら、外にはもっとたくさん楽しいものがある(猫とか、キノコとか、スキー、とか、これもあくまで私にとって)。

で、立憲主義の破壊や、壊れた言葉が跋扈する状況を放置すると、自然言語処理を有意義なかたちで行う条件そのものが破壊されてしまいます。言語がハイパーインフレーションを起こすなら、例えばMTがどの程度適切かの判断そのものは成り立たなくなる、ので。

ビッグデータを解析して「イスラム」と「テロリズム」が近いという結果が出るというのは、それをイスラムという存在やテロリズムという存在と混同するならば、知的には退屈だし、研究的には自分の足下を崩壊させるし、社会的には危険です。

第97条を第97条として捉えることの重要性は、ここにもつながっています。

というわけで、日本国憲法第97条。

第十章 最高法規

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。



11:48 | 投票する | 投票数(4) | コメント(0) | 社会情報リテラシー講義
2016/07/07

97条の会発足イベントで言ったこと

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
2016年7月5日、「97条の会」発足イベントに呼ばれて参加しました。一人一人が宣言してくださいと言われたので、私が宣言したこと。

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日本国憲法第97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この第97条は、日本国憲法「第十章 最高法規」に、その冒頭に、置かれています。

このことは、日本の社会が、

そこに暮らす一人一人が基本的人権を享有すること

を、最も重要な原則として成り立っていることを示しています。

150年前、日本で、私たちは被選挙権も選挙権も持っていませんでした。70年と少し前、女性は被選挙権も選挙権も持っていませんでした。今、誰もが当たり前に投票し、立候補できるのは、楠瀬喜多さんや平塚らいてうさんをはじめとする数多くの人々の、自由獲得の努力のおかげです。

あまり自信もないのですが、私もまた、その流れにわずかであれ貢献し、現在そして将来の人々に基本的な権利を引き継いで行くことができればと考えています。

2016年7月5日
参院選を5日後に控えて

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背景として、「立憲主義と『改憲』(4)」もご覧下さい。


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