研究ブログ

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2019/09/28

劇団昴『君恋し ハナの咲かなかった男』@東京芸術劇場シアターウエスト

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東京芸術劇場シアターウエスト
2019年9月19日~26日
作:中島淳彦
演出:黒岩亮

公演終盤の25日の上演を見た。浅草で客が呼べなくなったかつてのスター・二村定一(白倉裕人)と、これから中央劇界を目指す井上ひさし(永井誠)と渥美清(矢崎和哉[崎はたつさき])が、戦後間もない千葉の芝居小屋で出会っていた、という設定の作品。「そうだったらいいのにな」と素直に思える、芝居への愛に根ざしたファンタジーである。テンポの良いセリフで随所で笑いを取る一方、しんみりするところもあり、昭和戦前期の主に二村のヒット曲も多数挿入されていて、脚本はよくまとまっている。

ただ、物語の落とし所がそれで良かったのかはよく分からない。作中では、かつての持ち歌をかつてと同様にアップテンポで演奏することにこだわり続けてきた二村が、ゲスト出演先の一座の座長・香代子(磯辺万沙子)と、井上ひさしとに再三提案されて、ついには自らと向き合い万感の思いを込めて、スローテンポで「君恋し」を歌う、というところが、最大の聴かせどころとなっている。駆け出し台本作家の井上が、ドラマ重視でスローテンポでの演奏を主張するのは理解できるんだけど、二村の全盛期を知っていて、その声の軽さ、テンポの速さの魅力を充分に理解していて、二村のエノケンへのわだかまりも承知していたはずの香代子まで、二村にスローテンポでの演奏を直接提案するのは、どういう理由なのかよく分からなかった。

最後のスローな歌唱によって、二村の到達した境地を象徴的に示そうとしている、という意図はもちろん分かるんだけど、結局わたしが見たいのはそういう二村像じゃなかった。最終場で伝聞によって伝えられる、血を吐いてなおヘラヘラしていた、という姿のほうが、わたしには二村らしいと感じられる。それはきっと「人が信じたがる明るい伝説の部分」にすぎないのだけど。

あと、歌唱表現のみで心境の変化を表すには(そしてそれまでの場面で落魄ぶりを表すのにも)、二村役の白倉裕人の歌は、やや不充分だったと思う。実在人物をモデルとする3つの役柄はいずれも、見た目は本人に似せて作り込んでいたので、だったら歌唱の発声ももう少し実際の二村に寄せる努力をしても良かったんじゃないか、とも思うけど、まあ、どうやってもモノマネの域を出ない気もする。

二村を含めた多くの登場人物が、しっかりと奥行きを持って、「ダメなところもあるけれど愛すべき人物」として描かれている。それだけに、「ハナの咲かなかった男」という副題はいかにも残酷だ。芸人たちにこれほど温かなまなざしを向けた台本なのだから、その温かさのままで副題つけても良かったんじゃないの?

作品冒頭、若手たちが「私の青空」を演奏していると、スローすぎる、エノケンの影響だと香代子がばっさり切り捨てる、という箇所がある。けれど劇中の二村は最後まで、この曲を歌わない。で、カーテンコールで初めて、実際の二村による演奏が流れる、という形になる(開演の直前に劇場に着いたので確かなことは言えないけれど、開演前の客入れにも二村の録音を使ってはいたけど、「私の青空」を含め、劇中に登場する曲はすべて避けられていたように思う)。二村版未体験の観客にとっては、ここでようやく、二村の演奏がどれだけ速かったのかを知ることになるわけで、これだけ溜めてから聴くとさぞかし新鮮に聞こえただろうと思う。ちょっとうらやましい。

帰ってきた街のSOS! 二村定一コレクション1926-1934
二村定一
ぐらもくらぶ(2016/05/15)
値段:¥ 3,456

沙漠に日が落ちて─二村定一伝
毛利 眞人
講談社(2012/01/27)



00:04 | Impressed! | Voted(0) | Comment(0) | 音楽・舞台
2019/09/21

バレエ・アム・ライン『白鳥の湖』(マーティン・シュレップァー版@Bunkamuraオーチャードホール)

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2019年9月20日・21日
Bunkamuraオーチャードホール
マーティン・シュレップァー振付・演出
小林資典指揮、シアターオーケストラトーキョー

デュッセルドルフとデュースブルクを拠点とするバレエ・アム・ラインの初来日公演。シュレップァー版の『白鳥』は2018年6月の新制作で、今回が初の海外公演。特設サイトでは、このプロダクションの特徴として、音楽にチャイコフスキーの原典版を使用したこと、台本もプティパ=イワノフ版以前のオリジナル版を使用していることを挙げている。ここだけ抽出すると古色蒼然たる復刻上演みたいな印象だけど、シンプルモダンな衣装をつけた長身のダンサーたちによるスタイリッシュな舞台写真もふんだんに掲載されている。

で、興味を持って20日(金)の回を見に行った。振付や、音楽や照明の使い方の細部に、いいなと思うアイデアはいくつもあったのだけど、物語の根本の部分のミソジニーな感じが、ちょっとわたしは受けつけなかった。

この版では、ジークフリートもオデットも、母親との関係に苦しんでいる。ジークフリートをマザコンぽく描く演出はありがちだけど、この版では王妃もはっきり王子に対して、上から押さえつけるような態度で接している。そしてこの王妃に式典長がぴったりと付き従い、王妃の意を汲んで行動するさまは、どう見ても主従の関係を超えている。1幕の王子はこの2人の関係を見てうんざりしている様子で、ちょっとハムレットっぽい。

これに対しオデットのほうは、プログラム冊子によると、妖精の母と人間の騎士である父の間に生まれたハイブリッドだ。しかし実母は「騎士である夫に虐げられて命を落と」し、実父が再婚した相手は魔法使いで、「オデットの抹殺を狙っている」。この前日譚の部分は1877年のベギチェフとゲリツェルの原台本の設定をほぼ踏襲したものであるらしい(プログラム冊子に日本語訳で引用あり)。

ただし、これらの経緯は作品中に描かれず、オデットの実父も実母も、舞台には登場しない。作中で対峙するのは、オデットの継母と、オデットを庇護する祖父(実母側の)である。2幕と4幕の舞台となる湖は、オデットの実母の死を嘆いた祖父の涙でできたものである(プティパ=イワノフ版だと、湖はオデットの母の涙でできたものとオデットが説明するマイムがあるけど、省略されることが多い)。また、ロットバルトという名の男性登場人物はいるのだけど、継母の「手先」という位置付けで、プティパ=イワノフ版におけるような大きな存在ではない。通常の版のロットバルトに相当する役柄は、継母のほうである。

要するにジークフリートもオデットも、母であって母でないような強い女のせいで不幸になっている、ということになるわけだけど、なんかもうそういうのお腹いっぱいです。原台本に回帰する、という方法で独自性を出そうとしたはずが、結果的には今時の古典の再解釈に超ありがちな、親子関係に全部原因があるみたいな話になっているので、そこまで新しさを感じない。その一方で、なまじビジュアルは今風にスタイリッシュなものだから、由緒正しき古典を見た、という印象にもならない。

それから、4幕で継母と直接対決するのがジークフリートではなくオデットの祖父なのも、物語を散漫にしてしまう。祖父といっても老人ぽいビジュアルに作り込んでいるわけではなく、ダンサーの実年齢相応の見た目で登場するので、プログラムを見ておかなかったら「オデットが王子じゃない若い男に抱きついている」ようにしか見えなかったと思う。

そうは言っても、オデットの祖父が湖の底に住んでいる「水の精の賢者」という設定なのは、いかにもライン河畔のバレエ団って感じではある。今の目で見れば複数の伝承が入り混じっちゃった感じのする、この混沌こそが、よく言えば、後世の手の入っていない原典らしさ、ということでもあるのだろう。

(ところで、オデットの実父が登場しないのは、継母にすでにどうかされちゃってるんじゃないか、という想像でいいんだろうか……)

なお、この日の配役では、継母とその4人の側近とロットバルトは全員アジア系(の見た目)のダンサーが演じていて、いくら何でもマズいんじゃないかと思った。継母のヨンスン・ホは、存在感も年齢からいっても、たいへんなハマり役だと思うけど、側近とロットバルトまで全員アジア系で固めてしまうとなると。ハリウッド式の、何が何でも多様性に配慮した配役も、個人的にはどうかと思うときがあるけど、今時これはなあ。式典長はアフリカ系のダンサーで、王子を見下ろす高身長で胸板もあって、威圧感にたいへん説得力があったのだけど、チーム継母を見てしまった後だと、この配役も人種的偏見に乗っかったもののように見えてしまう。

日本公演のもう1組のキャスト(21日マチネのみ)では、チーム継母はメンバーチェンジなしでやっぱり全員アジア系なのだけど、オデットもアジア系、王子がヒスパニックで式典長は白人、という組み合わせになるようなので、それも見てみたかった。

話を戻して、そんなわけで1877年版の原台本を採用したことは、わたしはあんまり評価しないのだけど、一方で音楽を原典版ベースにしたことは、意外に面白い効果を上げていた。黒鳥PDDのコーダを1幕の王子と友人たちの踊りの中で早々に使ってしまうのは、原典版の曲順どおりでもあるのだけど、この版の話の流れから言ってもふさわしい。またこの版では、3幕の民族舞踊をほとんどカットする代わりに、一般的な版で省略されがちな花嫁候補のパ・ド・シスを(たぶん)全曲使って王子の花嫁選びの顛末を描いている。民族舞踊のディベルティスマンに比べると、物語がぶつ切りにならないのが良かった(グリゴローヴィチ版のオディールの曲の箇所では王妃が踊る、というのもキャラクターに合っていた。一方で、オディールの見せ場はロシアの踊りの曲)。

そして、小林資典指揮のシアターオーケストラトーキョーが、たいへんメリハリの効いた野趣あふれる演奏で、わたしの好みでもあるけど、この版の暴力性とか、未整理な感じの残る筋書きとかにも、似つかわしいものだったと思う。

振付で、ちょっと面白いなと思う箇所もたくさんあった。ほんの一例を挙げるだけだけど、4幕の白鳥たちのグランプリエ。膝がスカートにつかえてにゅーっとなるのが、この場面の閉塞感をいや増していて、うまい。

装置、照明、衣装にも工夫があって、視覚的に面白い箇所が多かった。2幕と4幕はごく簡素な装置に暗めの照明、出演者もほぼ全員白または黒の衣装、というシンプルさなのだけど、装置と照明をうまく使って、何もない暗がりからいきなり白チームが現れる、とか、いつの間にか黒チームがそこにいる、みたいな表現が繰り返される。

そんなわけで、良いところもたくさんある、それなりに面白い版だとは思うのだけど、やっぱりどうしても、物語の解釈そのものは好きになれない。それに、せっかくこの版が描こうとしているオデットの複雑な家庭環境が、作品そのものの中では説明しきれておらず、プログラム冊子を読まないと分からない、というのはやっぱり不充分だと思う。

11:55 | Impressed! | Voted(0) | Comment(0) | 音楽・舞台
2019/07/18

受賞報告(第24回日本比較文学会賞)

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ご報告が遅れましたが、昨年7月に上梓した拙著『日本語オペラの誕生──鴎外・逍遙から浅草オペラまで』(森話社)が、第24回日本比較文学会賞を受賞いたしました。


本書は今回の受賞に先立って、第51回日本演劇学会河竹賞奨励賞も受賞しています。

本書は「日本語オペラ」と総称しうる一連の音楽劇作品を取り上げて、その発生と展開を通時的に追ったものですが、個々の舞台作品を検討する際にはもっぱら台本と同時代評を分析の対象とし、エクスプリカシオン・ド・テクスト(本文の解釈)という、日本の比較文学研究が伝統的に重視してきた方法を用いています。なので、日本演劇学会での受賞の際は、こうしたやり方が演劇研究の仕事として認められた、ということを光栄に思いました。一方、日本比較文学会での受賞については、エクスプリカシオン・ド・テクストの総本山で評価された、ということに安堵しました。いずれの選考委員の先生方にも、長大な本にお付き合いいただいて、しかも的確な選評を寄せてくださったことに、お礼申し上げたいです。

なお日本比較文学会では、学会誌『比較文学』の最新第61巻(2019年3月)に、有光隆司先生による拙著の書評を掲載していただいています。

例によって、東京大学および所属研究科のウェブサイトにも、受賞報告を掲載していただきました。

[東京大学 大学院総合文化研究科・教養学部>総合情報>ニュース>トピックス]
[2019/9/23 リンク切れを修正しました]

日本語オペラの誕生──鷗外・逍遙から浅草オペラまで
大西 由紀
森話社(2018/07/31)
値段:¥ 5,184


19:17 | Impressed! | Voted(0) | Comment(0) | 告知・報告
2019/07/06

有間しのぶ『その女、ジルバ』全5集(小学館ビッグコミックス、2013~18年)

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今年度(第23回)手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作品。Amazonで何かとお勧めされるので読んでみたら、実際わたしにとってはいろいろ気になるキーワードの散りばめられた作品だった。細川周平先生のブラジル移民文化もの、東谷護先生の進駐軍クラブの話、昭和のキャバレー、ダンスホールスナック居酒屋……あたりの閲覧履歴を拾われたんだろうか。Amazonさんたら恐ろしいほど仕事ができる。

40歳未婚、職場でも追い出し部屋に回された女性主人公が、時給につられて高齢ホステス専門のバーでバイトを始め、先輩たちの来し方に耳を傾けるうち、いつしか店の継承を意識するようになる……。とまとめてしまうと、さほど目新しい話ではないのだけど、登場人物1人1人の物語が丁寧に描かれていて、また、重たい現実を描く一方で、笑いの絶えないお店の日常がちょうど良い匙加減で挿入されるので、たいへん温かな作品に仕上がっている。じんわりと勇気づけられた。

店の創業者でブラジル移民出身のジルバ(故人)を筆頭に、現役の5人のママたちにも、それぞれに波乱万丈の過去があって今がある。主人公や、その同世代の親族や友人たちも、作中でそれぞれに人生の転機を迎え、乗り越えてゆく。登場する女性たちの誰もが、良い出会いに恵まれ、でも結局はみずからの資質によって(機転や勇気や素直さによって)、みずからの人生の舵を良い方に切っていく。男性登場人物も、その多くは彼女たちの良き仲間であり戦友だ。彼女たちを食い物にしようとする男性もごく少数は登場するのだけど、それぞれに憐れむべき事情があったり、憎みきれない人間味があったりする。登場人物1人1人が奥行き豊かに描かれていて、読ませる作品だ。

もうひとつ好ましく思ったのは、この物語が最初は「視点人物であるアララが、周囲の人の思い出話に耳を傾けながら、生前は会う機会のなかったジルバの人物像を自分なりに構築していく」という形で始まっているのに、話が佳境に入ってからは、むしろその方法の限界が繰り返し指摘される、という点だ。「人が人を理解するなんてできないと思うよ」「見ても聞いても話しても取りこぼすんだ」とマスターは言う(第2集105ページ、以下、引用では原文の改行を省略)。マスターはやがて、自分がそれまでアララに語ってきたジルバの思い出話は「嘘じゃないが半分だ」「人が信じたがる明るい伝説の部分」だけだ、と認めてしまう(第2集196ページ)。アララ自身、ジルバが生前に使っていた部屋のしつらえを見て、「ジルバママにあたし勝手なイメージ作りかけてた」と自戒する(第2集200ページ)。

それとほぼ同じタイミングで、作品の語りは重層化していく。はじめの第1・2集では、読者はひたすらアララの視点を通して先輩ホステスたちの過去に接していくのだが、中盤からはその構造が崩れる。たとえば、くじらママが「誰にも話さず墓まで持って逝きたい話もあるわ」(第3集29ページ)とひとりごちてから長い回想に入る場面。読者はアララの知らないくじらママの過去を直接読み進めていくことになり、アララの持たない手がかりによって、くじらママの人物像を膨らませていくことになる。わずかの手がかりだけで他人の人生を知ることなんてできない、とアララが自覚した直後に、物語がこのように進んでいくのは、なるほど面白い処理だと思う。

くじらママはやがて、封印するつもりだった過去の一部をアララにも語り始めるのだけれど(第4集152ページ)、語る側と聞く側の双方が、そのことをきっかけに相手から疎まれることを覚悟し、それでもなお相手を気遣っているのがグッと来る。

さて、ブラジル移民の歴史や、戦後日本の盛り場文化など、かなり調べて書かれた作品なのが分かるだけに、ところどころ数字の合わない箇所があるのが、読み進めていく中でひどく気になった。

一番分かりやすいのが、主人公の自称年齢がずっと40歳のままだということ。作中では季節がめぐって、5回の夏を迎えているのに、アララは実際の発話の中でも、読者に向けたモノローグの中でも、常に「40歳」「シジュー」と名乗り続けている。

他のホステスたちについても、昔語りの中の細かい数字と時代背景を追及しだしたら、いろいろおかしなところがある。たとえば、エリーが娘時代に「財閥のご子息」「子爵」「伯爵」との縁談を断った(第1集79ページ)という話を真に受けるなら、華族制度や財閥が残っていた時代に当時の適齢期を迎えていた、つまり1930年代前半くらいまでの生まれということになるはずで、この物語の「現在」(東日本大震災からの数年間)には、もう80歳近くになっていないとおかしい。ところが彼女は、アララの加入までずっと店の最年少を自称していて、作品終盤でその嘘はバレるのだけれど、それでもまだ「エリーは60すぎ」とナマコに説明されている(第5集109ページ)。エリーの年齢も怪しいけれど、ナマコが「あたしゃギリギリまだ50代よ」(同)というのも、店の創業時期と突き合わせるとどうもおかしい。

最初はそれを、細かいところの設定を詰めていなかった故のミス、かと思って読んでいたのだけど、全巻を読了した後では、たぶんわざとやっているのだろうと思うようになった。最年少の称号はかつてナマコから金で買ったもの、と自白したエリーが高らかに「一番若い若いと言い続けてたら」「なんかすっかり自分でも若い気がすんのよ」(第5集114ページ)と宣言するとおり、この店では何も、実年齢を馬鹿正直に申告する必要などない(エリーのこの回想の場合は、相手の身分の方を盛っている可能性もある)。

お客さんの誕生日を祝う際に、くじらママが「このマンガでトシをとる珍しい方!」(第3集121ページ)と言う場面がある。つまり、自分たちの自称年齢が増えていかないことも、そもそも自分たちが漫画の登場人物であることも、認めてしまっているのである。

こういう分かりやすい引っ掛かりをところどころに挿入することで、この漫画は読者に対して、登場人物の語りを全部信じてはいけない、と警告しているのかな、と思う。作中のアララが、先輩たちの語りをもとに彼女たちの過去を再構築しても、結局は「勝手なイメージ」でしかないように、わたしたち読者がこの漫画の語りを元にそれぞれの登場人物の人となりを想像するのも、やっぱり「勝手なイメージ」でしかないのだ。そしておそらくこの漫画は、高齢バーに集う人々や、アララの故郷・福島で生きる人々について、やっぱり「人が信じたがる明るい伝説の部分」しか語ってはいないのだろう。語ること(語りによって自己を偽ること、語りを元に他者を理解しようとしても限界があること)について、いろいろ考えさせられる作品だ。

そんなわけでこの漫画は、単に昭和の夜の盛り場という題材だけでなく、その語りの手法においても、わたしの好みのど真ん中の作品だった。

なお、これは作品そのものへのコメントじゃないし、この漫画に限ったことでもないけれど、作中に登場する歌へのクレジットの付け方は、外国曲の日本語訳詞を研究対象とする者としては、どうしても納得が行かない。たとえばAmazonの「なか見!検索」でも読める第1集第1話の終盤、ホステスたちが岩谷時子の訳詞で「ろくでなし」を歌って踊る場面(22ページ)。サビの歌詞が2コマにわたってがっつり引用されて、欄外にクレジットが付くんだけど、原題、原作詞作曲者(アダモ)、原語版の著作権表示(1964年EMIベルギー)と続いて、そのあと、日本のEMIの許諾を取っていることが示される。以上。いやいやいや、ここで岩谷時子の名前を出さないのはおかしいでしょ絶対。日本語版のタイトルすら、(たまたまサビの中で連呼されてるだけで)クレジットには示されてないことになるわけだし。

その女、ジルバ コミック 全5巻セット
有間 しのぶ
小学館(2018/09/28)



20:03 | Impressed! | Voted(0) | Comment(0) | 批評
2019/06/18

所属大学の公式サイトに河竹賞奨励賞の受賞報告が掲載されました

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東京大学および所属研究科のウェブサイトに、日本演劇学会河竹賞奨励賞の受賞報告を載せていただきました。

[東京大学 大学院総合文化研究科・教養学部>総合情報>ニュース>トピックス]

日本語オペラの誕生──鷗外・逍遙から浅草オペラまで
大西 由紀
森話社(2018/07/31)
値段:¥ 5,184


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