研究ブログ

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2019/11/16new

拙著の書評が東京大学『教養学部報』に掲載されました(評者・山口輝臣氏)

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東京大学『教養学部報』最新の第613号に、拙著の書評を掲載していただきました。

[HOME>総合情報>概要・基本データ>刊行物>教養学部報>最新号目次 613号 2019.11.01]

書評の中でまとめていただいた通り、日本のオペラ受容史の最初の20年を、先行研究とは違った立場から記述し直そうとした本なので、歴史学がご専門の先生に読んでコメントをいただけたのは、たいへんありがたい機会でした。

文中でご紹介いただいた2017年のコンサートの当日プログラムは、こちらのページで公開しています。

教員になって、大学の冠をつけてもらって大きなイベントを企画するという最初の機会で、いま思うと反省点は山ほどあるのですが、こうして改めて言及していただいてありがたい限りです。

そしてこの文章が、学部前期課程の学生に対して、教室の外に目を向けてみようと呼びかけて終わっているのも嬉しいですね。わたし自身、教室の外で多くを学んだ学生だったので、こういう形で引き合いに出していただいたことを光栄に思います。

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2019/11/10

【ネタバレあり】田尾下哲演出『カルメン』@神奈川県民ホール

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神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2019
グランドオペラ共同制作『カルメン
全4幕・フランス語上演・日本語および英語字幕
2019年10月19日・20日
神奈川県民ホール大ホール

「ショービジネスの世界」を舞台とする読み替え演出での『カルメン』。20日の上演を見た。

バーレスク! ブロードウェイ! アカデミー賞! というキーワードを聞いた時点では、正直、わりと誰でも思いつきそうな読み替えだと思った。でも蓋を開けてみたら、読み替え後の物語は単なる思いつきレベルのものではなく、しっかり練られてあって感心した。プログラム冊子によると歌詞は一切変更していないらしいのだけど(後述)、それでもどの場面もちゃんと辻褄を合わせてあるし、セリフで説明した箇所もそこまで多くない(むしろほとんどない)。

とりわけうまいと思ったのが、第3幕冒頭の密輸業者たちの合唱。この版では、カルメンたちはスニガを怒らせてブロードウェイを追われ、地方のサーカスに流れ着いて、客席の準備のために椅子をバケツリレーしながらこの曲を歌うことになっている。重いものを運ぶイメージは残したまま、読み替えた話の筋からいって不自然のない場面になっているし、カルメンたちが再起を願う歌として、原作とは違ったニュアンスが付け加わっている。

一方で、さすがに無理があると思った場面もある。第1幕の児童合唱がそれで、黒の稽古着みたいなのを着たローティーンがバーレスクのクラブにわちゃわちゃと入ってきて、「未来のスター」(以下、字幕からの引用はすべて記憶に基づく)を自称して歌い踊った後、クラブ側の大人(モラレス?)にセリフで「大きくなったらオーディションを受けに来い」みたいなこと言われて退散、という流れになっていた。いや、バーレスクのクラブって、小学生が白昼堂々、大挙して押し寄せられるような健全な場所であっちゃダメでしょ。

前宣伝を読んで気になっていたのが、「ミカエラはミュージカルスターの卵」という言い回しだった。ええー、あの役は堅気の娘さんじゃないと、カルメンとの対比にならない……、と危惧していたのだけど、嘉目真木子の役作りはごく一般的なミカエラのそれだったと思う。「ミュージカルスターの卵」らしき要素としては、第1幕でクラブに来たときに『レ・ミゼ』の楽譜を落として男たちにからかわれる、というのと、第3幕でホセを訪ねてサーカスにやってきて、なぜかオーディションを受けて(「何を恐れることがありましょう」の中盤以降は、このオーディションでの歌唱という設定になっている)大喝采を受ける、という場面があるのだけど、その程度のことなら「音大を出て今は地元で音楽の先生をしている」くらいの設定でも良かったのでは? それとも、地方の親元に住んで真面目な生活態度のまま真面目にショウビズ界で活動してる人もいますよ、という話にしたかったんだろうか?

上演前にプログラム冊子の演出ノートを流し読みした時点で一番気になったのは、以下の一節だった。

今回の『カルメン』の解釈は〔略〕明日のスターを夢見る若者の成功物語であり、その若者を食い物にする悪い大人たちの物語でもある。
〔田尾下哲「闘牛士エスカミーリョはなぜ“song"を歌うのか?」、プログラム冊子p.9〕

歌詞を書き換えずに「その若者を食い物にする悪い大人たちの物語」をどこまで描けるか、と思ったわけだけど、それは舞台上のマイムで示唆されていた。たとえば第2幕「うまい話」の五重唱では、歌と同時進行の戯画的なマイムの中で、ダンカイロとレメンダードの主導でネットレビューの操作が行われ、カルメンが枕営業をさせられ……といった出来事が矢継ぎ早に、そしてあくまでコミカルに描かれていく。

圧巻なのは最終場のエスカミーリョだ。この版のエスカミーリョは、俳優とプロデューサーを兼ねる「万能なハリウッドスター」である。第4幕はアカデミー賞のレッドカーペットで、ホセがカルメンを刺したところに、エスカミーリョが受賞して会場から戻ってくる。カルメンの死を知ったエスカミーリョは少しも騒がず、遺体の傍にいたフラスキータを無言でエスコートし、詰めかけた報道のカメラの前に立たせる。と、そこで全編の幕が下りる(劇場の公式ツイートに、この場面の写真がある)。きっと「志半ばで悪質なファンに刺殺された悲劇の若手女優の、下積み時代からの親友」みたいな触れ込みで、これからはフラスキータを売り込んでいくつもりなのだろう。カルメンの女友達は2人いるのに、迷いなく青木エマのフラスキータにだけ声をかけているあたり、分かりやすく「悪い大人」だ。さかのぼって、第3幕でエスカミーリョがカルメンを追って地方のサーカスまでやって来たのも、愛のためなどではなく、単にカルメンは売り物になると踏んだだけということになる。すごく背筋の冷たくなる、でも腑に落ちる終わり方である。

振り返れば、この幕の冒頭からカルメンはすでに様子がおかしかった。エスカミーリョに連れられてレッドカーペットに現れた時点で、字幕がそれまでとは打って変わって、「あなたを愛します」みたいな、しおらしい文体になっている。演技の上でも伏し目がちにエスカミーリョに寄り添っていて、もうこの大物プロデューサーに屈服してしまっている風なのである。みんなの大好きな強くて自由なカルメンは第4幕が始まる前にもう死んでいて、この物語の黒幕はエスカミーリョ、ということだったのだろう。

そんなわけで、些細なツッコミどころはあるものの、今回の田尾下哲による再解釈、全般的なアイデアは良かったと思うし、よく練られていて、普遍的な説得力のある物語になっていたと思う。ただ、その物語を舞台上で具現化する部分に関しては、正直いろいろ物足りなさを感じた。

何と言っても、劇中に登場するバーレスクなりブロードウェイなりでのショウが、どれも再現度が低い。お色気とかスター性とか観客の熱狂とかがいまいち伝わってこない。もちろん、そもそもの演出意図として、これらの舞台の単なるリアルな再現を目指したわけではない、ということは理解できる。そうは言ってもやっぱり、「カルメンをショウビズ界で」と宣伝してチケット売っちゃった以上、観客はド派手なミュージカルシークエンスを期待して見に来るだろう。もうひとつ問題なのは、カルメンがバーレスクを振り出しにブロードウェイに行ってもサーカスに行っても、舞台や客席にそこまで変化がないので(一応、幕ごとに配置を変えてはいるのだけど、スケール感があまり違わない)、特に出世したとか落魄したとかいうふうに見えないのである。

もちろん、オペラ歌手に本職のショウダンサーと同等の踊りを求めたって無理な相談なのは分かっている。そのために本職のダンサーさんが多数出演しているわけだけど(振付はキミホ・ハルバートで、本人の出演シーンも多い)、今回の上演に関しては、それが割と裏目に出た感じがする。

たとえば第2幕では、エスカミーリョはあえて闘牛士っぽい衣装を避けたのだろうけど、同じ舞台に乗っている男性ダンサー2人はいかにもラテンなダンス衣装にオールバックで背筋ピーンなので、そっちの方がよっぽど闘牛士っぽく見えてしまう。比べてしまうと、普段はあんなに格好いい与那城敬(注:個人の感想です)が、ドサ回りの演歌歌手みたいに見えた。第3幕でホセと対峙するところはさすがの格好良さだったし、幕切れの「悪い大人」っぷりも見事なものだったので、ほんとにこの場面の演出が歌手にとって不利だっただけだと思うのだけど、「闘牛士の歌」が魅力的に見えないというのは、それはもう「だけ」で済まされる瑕疵ではないよね。

一方、序曲を使って描かれるバーレスクのオーディションのシーンでは、カルメンは周囲のダンサーと同じ振付を踊らないのだけど、それがちゃんと「指定された振付もまともにやらないくせに振付師をたらし込んでちゃかりオーディション通過」みたいな話になっていて、アグンダ・クラエワのキャラにも合った、うまい処理だと思った。ただ、さすがに全編その調子で歌手に踊りを回避させる、というのは無理だったのだろう。

最後に、字幕について。前述の通り、歌詞は一切変更していないらしいのだけど、わたしのフランス語力はそれを確認できるレベルではない。ただし日本語字幕(田尾下哲)に関して言えば、今回の版の設定に引きつけて書き換えた箇所と、あえて原テクストを直訳した箇所とが混在しているようだった。たとえば幕開きの合唱は「劇場の」外を人々が通り過ぎる、とはっきり書いてあったし、子供の合唱は前述の通り、「未来のスターのお出ましだ」みたいな歌い出しにしていた。ただし、第2幕以降はそこまでの書き換えはなくなっていて、汎用性の高い語句で文脈に寄せる(「カドリーユ」を「四人組」とするとか)か、あるいは比喩的な意味で読んでほしいところに山括弧をつける(「憐れな〈兵隊さん〉」「〈山〉を目指す」)、という形になっていた。せっかく原テクストを書き換えていないのなら、字幕も第2幕以降のやり方で徹底すべきだったと思う。途中で訳出の方針が変わって、修正が間に合わなかったりしたのかな。


21:10 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | 音楽・舞台
2019/11/10

NBAバレエ団『海賊』(久保紘一版・再演)@東京文化会館

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NBAバレエ団『海賊
2019年10月19日・20日
東京文化会館大ホール
芸術監督・演出・振付:久保綋一

19日の上演を見た。昨年春の初演をたいへん興奮して見て、レビューの〆に「ぜひまた近いうちに、もう少し手を入れた形での再演が見られれば良いと思う」と書いた。はたして1年半後に再演が果たされて、実際作品にはいろいろ手が入ったわけだけど、改訂の結果はやや詰め込みすぎて、初演の際のある種の明快さは損なわれてしまった気がする。一方で、踊りの見せ場が増えたり主要登場人物の描き方が深まったりと、嬉しい変更もたくさんあったけれど。いずれにせよ、古典全幕のたいへん野心的な改訂振付には違いないのに、客席の入りがかなり残念なのも気になって、それならもう少し客席数の少ない劇場にみっちり詰め込まれて見たかった気がした。

初演からの大きな変更点としてバレエ団公式の記事の中で挙がっているのは、1幕前半に町の人の踊りとハレムの女性たちの踊りが加わったこと。「町の人」は、男たちの多くが酔っ払っているふうで、『ペトルーシュカ』の町の場面ばりに、あちこちでちょっとクスッとなる芝居をしている。そこにオスマン軍も加わって、元気があってたいへんよろしい。女性たちと組んでの民族舞踊風の踊りも、ちょっと独特なキレの良さが楽しい。

一方でハレムの女性たちというのは、パシャ・ザイードとギュルナーレのパドドゥよりも前に挿入されていて、曲はドリーブ『シルヴィア』の「エチオピア人の踊り」を使っている。女性たちはヘソ出しにハーレムパンツのいかにもな衣装で、ベリーダンス風に腰を左右に揺すったり、真後ろを向いて背中を大きく反らせたりといった、エキゾチックな振り付けが入る。『シルヴィア』の戦闘系乙女たちのイメージも相まって、なんか、このハレムの女性たちのほうも、心なしか、強くカッコいい存在のように見えてしまう。初演ではほぼ、海賊が青/オスマン軍は赤と色分けされていたのだけど、今回のハレムの女性たちは水色系の衣装ということもあって、なおさらザイードの奴隷とは見えなかった。

それに続くザイードとギュルナーレのパドドゥは、初演ではアダジオに女性群舞が加わって、真ん中とほぼ同じ振付を整然と踊る、ザ・古典のグラン・パ・ド・ドゥになっていたと記憶している(ただ今回、わたしは自分の記憶の不確かさに失望したところなので、あんまり信用せずに読んでほしい)。中の1人がザイードに突き倒されたらしい箇所もあって、女性たちはいかにも抑圧されている感じがした。一方、今回の群舞の女性たちは、この場面では舞台の周囲に散って見てるだけなので、やっぱりある程度自由を謳歌しているように見える。良かった、抑圧された性奴隷はいないんだ……ってそれじゃドラマが始まっていかないじゃんか(なお、群舞の1人が転ぶ芝居は、今回はPDDが終わった後の群舞の踊りに取り入れられていて、わたしは今回もまんまと決定的瞬間を見落とした)。

ギュルナーレ(竹内碧)もこの場面はそこまでザイード(三船元維)を嫌う風ではなく、それどころか、ザイードが群舞の中の別の女性に目をかけていると、舞台袖からわざわざ出てきてザイードの腕に手をかけてみせたりもする。その程度の自己主張は許される立場のようで、現状に特に疑問は感じていないようである。ただしそのぶんこの直後の、コンラッド(高橋真之)の急襲を受けた場面で、ザイードが自分を盾にとったことにひどくショックを受けた様子だった。ザイードの寵愛とか自分の立場とかについて確信が揺らいだところで、優しくされたコンラッドに惹かれる……という展開に説得力が生まれていたし、2幕でメドーラ(竹田仁美)がハレムに連れていかれた時の態度との差も際立つので、これはこれでありだと思った(初演の時とはキャストを変えて見ているので、個々人の役柄解釈なのか、演出が変わっているのかは不明)。

初演時にわたしの見た宝満直也のザイードは、ほとんどサイコパスみたいな冷酷な為政者だったけれど、今回この役を演じた三船元維は、そこまで酷薄な感じではなかった。ギュルナーレに対しては熱情すら感じた。女性たちを抑圧する描写が控えめになったことに加えて、本人の役柄解釈に負うところもあるかもしれない。良く言えば人間臭い悪役、ということになるのだろうけど、コンラッドとのキャラクターの違いは見えにくかった。なお、初演時のレビューで不満を述べさせてもらった1幕PDDでのザイードのバリエーションは、今回は曲ごと違うものに差し変わっていたもよう。

初演の時は、ビルバントのコンラッドとの確執はよく分からなかった、と書いてしまったけれど、改めて見ると開幕の直後から、ビルバント(安西健塁)の不満が蓄積されていく様子はたいへん丁寧に描かれていた。1幕前半の港町のシーンでは、仲間と一緒に羽目を外して踊っているとコンラッドに咎められる、というエピソードがある。ザイードを襲う場面では、アリ(新井悠汰)とともにコンラッドの片腕ずつを担っている感じの活躍をしていたのに、船の上の戦勝会でコンラッド、アリ、メドーラがパ・ド・トロワを踊るその場にビルバントがいない、というのもおかしな話である。ビルバントは主役たちのPDTが終わったところに現れて鉄砲を打ち鳴らし、そこからウサ晴らしのように、荒々しい群舞の場面になる。高潔な指導者であるコンラッドに対して、ビルバントの絵に描いたような海賊らしさはいかにも異質で、1幕ラストでのビルバントの選択は、今回の上演では充分に納得できた。

同様に、2幕終盤でメドーラとギュルナーレが対峙する場面も、今回の上演の方が、それぞれの心情がよく理解できた。この場面はメドーラが1人で長大なソロを踊るところから始まるのだけど、竹田のメドーラは身の置きどころのないような、実に哀切な調子である。ギュルナーレが入ってきてからも、みずからの苦しみを相手に切々と訴える感じ。なので、ギュルナーレがいったんメドーラに刃を向けてやっぱり刺せないのは、相手も苦しんでいると知ったから、のように見えた。そこで一瞬、ザイードの被害者同士、連帯が生まれたように見えたし、そこへ入ってきたザイードに矛先が向かうのも自然な流れに思えた。初演時のプログラム冊子は(いま手元にないのでうろ覚えだけど)たしかこの箇所を、メドーラのコンラッドへの愛の深さにギュルナーレがひるむ、みたいに説明してあったと記憶するのだけど(今回の配布物には、この辺の粗筋は記載がない)、今回の竹田・竹内組の描き出した物語の方が、個人的にはよっぽど納得できる。

というわけで、主要登場人物の演技については、再演で人物像にぐっと奥行きが感じられるようになり、ダンサーごとの解釈の違いも見えて面白かったのだけど、一方で群舞の見せ場を増やした結果、物語の明快さが失われてしまったのは残念に思う。パシャ・ザイードがそこまで人々を抑圧している風には見えなくなってしまったので、そうなるとコンラッドらがザイードと敵対する大義名分も失われかねない。それはもしかしたら、イスラム世界の描き方について配慮を重ねた結果なのかもしれないけれど。

最後に、今回の上演のチラシのビジュアルには正直がっかりした。初演の時よりもセンスが古臭くなっている。舞台写真をべたべたコラージュすること自体あまり感心しないけれど、中央の主役カップルの写真に、なぜそれを選択した? 久保版の全幕のあらすじを知ったあとなら、大切な良いシーンなのは分かるけど、初見の人が『海賊』というタイトルから期待するものはそれじゃないと思う。


21:07 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | 音楽・舞台
2019/11/10

異動のご報告

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本年9月末をもって任期満了により東京大学大学院総合文化研究科を退職いたしました。

10月からは引き続き、東京大学大学院総合文化研究科の学術研究員として、また早稲田大学総合研究機構の招聘研究員として、研究活動を続けさせていただいております。

教育活動では、今学期は複数の大学で、翻訳関係の科目と英語科目を非常勤で担当しています。

雑事に取り紛れ、こちらでのご報告が遅くなりましたこと、お詫び申しあげます。今後ともご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

21:06 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | 告知・報告
2019/09/28

劇団昴『君恋し ハナの咲かなかった男』@東京芸術劇場シアターウエスト

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東京芸術劇場シアターウエスト
2019年9月19日~26日
作:中島淳彦
演出:黒岩亮

公演終盤の25日の上演を見た。浅草で客が呼べなくなったかつてのスター・二村定一(白倉裕人)と、これから中央劇界を目指す井上ひさし(永井誠)と渥美清(矢崎和哉[崎はたつさき])が、戦後間もない千葉の芝居小屋で出会っていた、という設定の作品。「そうだったらいいのにな」と素直に思える、芝居への愛に根ざしたファンタジーである。テンポの良いセリフで随所で笑いを取る一方、しんみりするところもあり、昭和戦前期の主に二村のヒット曲も多数挿入されていて、脚本はよくまとまっている。

ただ、物語の落とし所がそれで良かったのかはよく分からない。作中では、かつての持ち歌をかつてと同様にアップテンポで演奏することにこだわり続けてきた二村が、ゲスト出演先の一座の座長・香代子(磯辺万沙子)と、井上ひさしとに再三提案されて、ついには自らと向き合い万感の思いを込めて、スローテンポで「君恋し」を歌う、というところが、最大の聴かせどころとなっている。駆け出し台本作家の井上が、ドラマ重視でスローテンポでの演奏を主張するのは理解できるんだけど、二村の全盛期を知っていて、その声の軽さ、テンポの速さの魅力を充分に理解していて、二村のエノケンへのわだかまりも承知していたはずの香代子まで、二村にスローテンポでの演奏を直接提案するのは、どういう理由なのかよく分からなかった。

最後のスローな歌唱によって、二村の到達した境地を象徴的に示そうとしている、という意図はもちろん分かるんだけど、結局わたしが見たいのはそういう二村像じゃなかった。最終場で伝聞によって伝えられる、血を吐いてなおヘラヘラしていた、という姿のほうが、わたしには二村らしいと感じられる。それはきっと「人が信じたがる明るい伝説の部分」にすぎないのだけど。

あと、歌唱表現のみで心境の変化を表すには(そしてそれまでの場面で落魄ぶりを表すのにも)、二村役の白倉裕人の歌は、やや不充分だったと思う。実在人物をモデルとする3つの役柄はいずれも、見た目は本人に似せて作り込んでいたので、だったら歌唱の発声ももう少し実際の二村に寄せる努力をしても良かったんじゃないか、とも思うけど、まあ、どうやってもモノマネの域を出ない気もする。

二村を含めた多くの登場人物が、しっかりと奥行きを持って、「ダメなところもあるけれど愛すべき人物」として描かれている。それだけに、「ハナの咲かなかった男」という副題はいかにも残酷だ。芸人たちにこれほど温かなまなざしを向けた台本なのだから、その温かさのままで副題つけても良かったんじゃないの?

作品冒頭、若手たちが「私の青空」を演奏していると、スローすぎる、エノケンの影響だと香代子がばっさり切り捨てる、という箇所がある。けれど劇中の二村は最後まで、この曲を歌わない。で、カーテンコールで初めて、実際の二村による演奏が流れる、という形になる(開演の直前に劇場に着いたので確かなことは言えないけれど、開演前の客入れにも二村の録音を使ってはいたけど、「私の青空」を含め、劇中に登場する曲はすべて避けられていたように思う)。二村版未体験の観客にとっては、ここでようやく、二村の演奏がどれだけ速かったのかを知ることになるわけで、これだけ溜めてから聴くとさぞかし新鮮に聞こえただろうと思う。ちょっとうらやましい。

帰ってきた街のSOS! 二村定一コレクション1926-1934
二村定一
ぐらもくらぶ(2016/05/15)
値段:¥ 3,456

沙漠に日が落ちて─二村定一伝
毛利 眞人
講談社(2012/01/27)



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