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2012/02/26

中川恵一氏を擁護する (「専門家」の見解をどう捉えるか(3))

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社会情報リテラシー講義
補足(2012年2月26日)



なぜか2011年7月8日に東京大学で行われた討論会をきっかけに、『低線量被爆のモラル』という奇妙なタイトルの本を、一ノ瀬正樹・伊東乾・児玉龍彦・島薗進・中川恵一と共編著というかたちで出したこともあり、これを機会に、ここで、中川恵一氏の発言をいくつか取り上げて検討したいと思います。

とりわけ、同書に児玉龍彦氏の原稿も掲載されることになったことを受けて、中川恵一氏が新たに寄稿した「リスク評価とリスク管理の混同をめぐって」(以下「混同をめぐって」と略)という文章(81~106ページ)の表題にある「リスク評価」と「リスク管理」をめぐって、そして中川恵一氏の議論をめぐって、氏の他の文章もいくつか参照しながら考えてみることが、本講の趣旨です[1]。

いつにも増して、長くなります。ご容赦ください。また、議論のための議論のようになってしまうことを最初にお詫び致します。

注のいくつかは、恐らくほとんどの読者にとっては無意味にペダンチックなものとなっています。これは事故前まで「情報を批判的に読み解く」とか声高に言っていながら事故後の状況に対して沈黙した人々を頭に置いたものです。こちらも、どうかご容赦ください。

2012年3月5日補足リンク:
牧野淳一郎氏「中川恵一氏の主張について
makirintaro氏「中川恵一(team nakagawa)による悪質な「安全デマ」


1. 前提

1.1 リスクマネージメントの基本的な枠組み

リスクを捉え、リスクに対処する枠組みの基本は(といっても主張する人によって多少の違いはありますが、面倒なので参考文献はあげません。ここでは中川恵一氏の分類に沿いつつ、ごく一般的な枠組みをあげるにとどめます)、
  1. リスクの存在(あるいは存在・発生の可能性)を認識すること
  2. リスクを評価すること
  3. リスクを管理しリスクに対処すること
です。2番目が「リスク評価」、3番目が「リスク管理」ですね。

「リスクの存在を認識すること」は実は高等技術で、色々大切なところはあるのですが、ここでは扱いません[2]。また、全体を通して、リスクコミュニケーションがとても大切なのですが、それも正面からは扱いません[3]。

1.2 リスク管理の原則

状況に対するリスク評価がかなり具体的にしっかりできた場合、リスク管理は最適化の観点から行われます。いろいろなリスクを考え、一番、リスクが小さくなるようにとか、一番メリットが大きくなるようにとか、そんなかたちでどうするか決めるわけです。ある場所に行かなくてはならないとき、右の道を行くと犬に噛まれる確率がp1、左の道を行くと犬の糞を踏んでしまう確率がp2ということがわかっているとき、どちらがよりリスクが小さいかを計算する、といった感じです(少しいんちきな例ですが)。便益や費用を考えたりする場合もあったり、細かく見ると色々ですが、大体はこんな感じです。

一方、曖昧なかたちでしかリスク評価ができないこともあります。例えば、いくつか異なるレベルのリスクが、それぞれこのくらい起こりそうだ、というかたちでリスクの評価がなされる場合です。このようなときには、単に平均的なリスクを考えるだけでなく、最悪の事態を想定し、それがもたらす危険はどのくらいか、を考慮して、どう対処するか考えるのが、リスクマネージメントの基本法則です。

もちろん、最悪の事態に対応したリスク管理方法が常に採用されるわけではありません。企業のリスクマネージメントで、最悪の事態でもそう大した損失を生まないけれど、最悪の事態を阻止するためには膨大な費用がかかる、という場合は、最悪の事態を阻止するための投資はしなくてよい、と判断されるかもしれません。一方、最悪の事態になると倒産する、最悪の事態を防止するための投資は膨大だけれど倒産は避けられるなら、防止策を取ることになります。

いずれの場合でも、最悪の事態をきちんと考慮し検討することは、必須です。

1.3 リスク評価の構成要素とリスク管理

大まかに言うと、リスク評価は、以下の二つの要素から構成されます(順番は、必ずしも時間的なものではありません)。
  1. リスク評価の準拠枠
  2. 実際の状況におけるリスク評価(状況の測定や計測・観察・観測・調査・診断・予測・モデリングなど)
例えば、小学生男子の集団で、喧嘩により誰かが怪我をするリスクを考えるとします。

このとき、過去の調査にもとづき、10人が集まればそのうち2人が喧嘩をして1人が怪我をする可能性が5%、20人が集まればそのうち2人が喧嘩をして1人が怪我をする可能性が10%、・・・・・・100人が集まれば・・・・・・といった、一般的な知見が得られているものとしましょう。これが、リスク評価の準拠枠に相当します。ここでは、これまでに蓄積された「科学的知見」が重要な役割を果たします。

さて、今、校庭で小学生男子がたくさん遊んでいます。さらに教室から何人もが校庭に出てきました。その状況を眺めていた先生が、実際に一体何人集まってきたかを数えて、喧嘩が始まり怪我をする生徒が出る可能性を把握することが、実際の状況におけるリスク評価に相当します。

以上を把握した上で、リスク管理は、「怪我をする生徒が出る可能性がX%を超えてはいけない」という、設定(合意)された基準に基づき、それを超えそうだったら何らかの措置を取る、というかたちでなされることになります。

1.4 対象と視点

ここまで、リスクマネージメントといったときに、何のリスクをどのような視点から話しているのかを曖昧なままにしてきました。三つの軸から整理します。

最初の軸は、1.3節のお話と重なります。

リスクマネージメントは、個々の具体的な状況に対して行われるものです。リスクマネージメントと、ある想定された状況にどのくらいのリスクがあるかを一般的(理論的)な知識として知っておくこと・検討しておくこととはちょっと違います。後者は、リスク評価の準拠枠を定めるために科学的知見を得ておくことに相当します。例えば、ある物質の毒性を、実験や過去の事例から把握しておくことがこれに相当します。

リスクマネージメントは、例えばその物質が実際に人体に一定以上入らないようにすることや、その物質を誤ってたくさんの人が摂取してしまう事態が生じたときにどう対処するかといった、個々の、現実の、具体的な状況に関わるものです。

東京電力が起こした原発事故後のリスクを考えるというのは、まさに、今、私たちが置かれている具体的な状況のリスクを考えることであって、それと離れて「このくらいの被曝ならこうなんだよ」という一般的な思索をめぐらせたり、一般的な知識を伝えることではありません(それはそれで重要ですが)。

二番目の軸は、より直接に何のリスクか、です。

リスクといっても、健康のリスクだったり、相互の信頼を失うリスクだったり、倒産するリスクだったりと、色々あります。それらが重なることもたくさんあります。

例えば、保育園で、園児をインフルエンザから守る対策をたてるときに問題になっているのは、第一に、園児の健康に関するリスクですが、経営者の頭には保育園の運営に対するリスクもそこに重なって存在するでしょう。

東京電力が起こした原発事故後のリスクを考えるときには、放射線の健康被害のリスクがクローズアップされがちですが、社会的な信頼を喪失することが与える社会的ダメージのリスクなど、広い範囲で様々なリスクが関わってきます。

ちなみに、健康リスクについても、放射線との関係ではとかく発がんがクローズアップされますが、日本が加盟しているWHO(世界保健機関)憲章は、「健康」を次のように定義しています。
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、満たされた状態にあることをいいます。
本来、健康リスクを議論するときは、この定義にしたがって論ぜられなくてはなりません[4]。

第三は、リスクマネージメントをどのような視点から捉えるか、です。

政策立案の観点からは、リスクを数値に還元して、例えば2万人に1人が交通事故にあうことは社会的にはがまんするより仕方ないリスクと考えたりするわけですが、一人一人の市民の観点からは、自分がその1人だったときという観点からリスクを見ます[5]。

これについては、医療の現場を考えてみるとわかりやすいかもしれません。

最近では、例えば、この薬を投与すると2万人に1人には後遺症が残るような作用があります、といった説明を受けた上で、同意しますか、と聞かれ、同意書に署名して薬を使ったり、署名しないで薬を使った治療を受けなかったり、ということになります。

社会的な視点からのリスクは情報として提示するわけですが、あくまで、リスクを負うのは一人一人なので、個人の視点から、その個人に決めてもらうわけです。これは、自分で決めるとともにその帰結も受け入れるという前提にたつものです[6]。


2. 放射線の影響に関する健康リスクをめぐって

2.1 「混同をめぐって」では何が扱われているか

「リスク管理」と「リスク評価」の混同を扱っているとされる中川恵一氏の「混同をめぐって」は、では、こうしたリスクマネージメントの枠組みのうち、どのようなレベルで議論を展開しているのでしょうか。

全文を引用するわけにはいきませんから、節見出しを掲載してみます。
  1. 放射線と発がんについての因果関係
  2. 被曝量と発がんリスク
  3. 低線量放射線被曝の動物実験
  4. リスク評価とリスク管理
  5. ICRP
  6. 人類の財産としての「国際合意された科学的知見」
  7. 広島とチェルノブイリ
  8. 放射線被曝を避ける代償
  9. スクリーニング効果と過剰診断
  10. 情報格差
見出しからも推測できるかと思いますが、実はこの記事で扱っているのは、1.3でお話ししたリスク評価の二つの要素のうち、リスク評価の準拠枠だけです。状況における実際のリスク評価は扱われていません(「スクリーニング効果と過剰診断」はもしかして? と期待させますが、ここも一般論です)。

少し高踏的な観点から言うと、リスクマネージメントに関連する文献にいくつか目を通しただけで、議論をこのレベルに限ってしまっては、そもそもリスク評価とリスク管理について十分な論を展開することはできないことがわかります。

それは別にして、何より重要なのは、今、当たり前に求められているのは、リスク評価の準拠枠についての個人的な所見ではなく、状況における実際のリスク評価、とりわけ、それにもとづいて具体的な防護措置を取れるような具体的なリスク評価であるということです。

2.2 リスク評価の準拠枠をめぐる議論の構造

さて、リスク評価の準拠枠をめぐって、「混同をめぐって」はどのような議論を展開しているでしょうか。少し長いですが、引用しましょう(87から88ページ)。

放射線については、専門家の意見が食い違っているとよく指摘される。たしかに、1ミリシーベルト以上の被曝は危険であるという「科学的事実」があるかのように発言する「自称専門家」がいて、とりわけ、お母さんたちが不安に包まれている。しかし、このような発言は、「リスク評価」と「リスク管理」を混同したものである。

「リスク評価」は科学的事実に基づき、「リスク管理」は「放射線防護の考え方」を規定する"安全哲学"(ポリシー)を導く。たとえば、「100ミリシーベルト以下では、被曝と発がんとの因果関係の証拠が得られない」という言明は、サイエンスである。このような科学的事実(仮説)のうち、国際的な合意を得られたものを発表する機関がUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)で、「疫学的には、100ミリシーベルト以下の放射線の影響は認められない」という報告がなされている。

他方、「リスク管理」として、ICRPは「放射線被曝は少ない方がよい」という当たり前の立場をとっているが、ICRPが出す勧告の根拠は上記UNSCEARが示すサイエンスである。すなわち、100ミリシーベルトを超えると被曝量に比例して直線的にがんのリスクが増えること、100ミリシーベルト以下では、そうした影響が疫学的に認めらないことなど、UNSCEARが認めた放射線の科学的影響を前提にして、ICRPは、"安全哲学"として、100ミリシーベルト以上における"線量と影響の直線関係"のグラフの線を100ミリ以下にも延長して、放射線の防護の体系を作っている。これは、安全面に配慮した防護思想に基づいている。

官邸ホームページに掲載された長瀧氏の文章と極めて似たものですが、三つの点から、中川恵一氏の他の文章も参照しつつ、この主張に見られる問題点を整理しましょう。

2.2.1 自分が議論の対象とする社会の状況についての認識

第一は、「たしかに、1ミリシーベルト以上の被曝は危険であるという「科学的事実」があるかのように発言する「自称専門家」がいて」というところです。

そのように言う人もいるのでしょうが、私も含め、多くの人が、中川恵一氏などの見解に対して表明しているのは、「100ミリシーベルト以下はわからないのは科学的知見の限界であって、それをあたかも影響がないことがわかったかのような効果を実質上もつようなかたちで表現してはいけない」ということです。これはまったく別のことで、実際、『低線量被曝のリスク』の中で、低線量被曝のリスクについて直接科学的な知見をもとに言及しているのは児玉龍彦氏だけです[7]。

その点で、中川恵一氏は、自分が議論の対象とする社会の状況に関する把握を十分なさっていないところがありますが、それについては第3節で改めて取り上げます。

2.2.2 わからないこと(科学の限界)と存在しないこと(科学的知見)

第二は、一応広くわかっていること考えられていることと、わからないこととの境界、そしてわからないことの位置づけをめぐる論の展開です。

以下の表現を見てみましょう。
  1. 100ミリシーベルト以下では、被曝と発がんとの因果関係の証拠が得られない
  2. 疫学的には、100ミリシーベルト以下の放射線の影響は認められない[8]
中川恵一氏は、1の「言明は、サイエンスである」、と言います(なぜカタカナでサイエンスと言ったのかわかりませんが、面倒なので以下では「科学」とします)。実は、これは、100ミリシーベルト以上で直線的に発がんが増えるという知見と同じレベルに属する科学的知見ではありません。「証拠が得られない」というのは、現時点における科学の限界を示すものです。

山に松茸があるかどうかを考えます。次の二つの主張は対になります。
  • この山には松茸がある
  • この山には松茸がない
それぞれ、「あることがわかった」「ないことがわかった」というわけです[9]。一方、もう一つ、探してみてなかったけど・・・というときに、
  • この山には松茸があるという証拠が得られていない
という状況があります。

これは、「ないことがわかった」というのとはまったく違います。単に、これまでの方法では「あることがわかる」にも「ないことがわかる」にも不十分だった、というだけです。つまり、方法の限界(科学の限界)です。

ところで「疫学的には、100ミリシーベルト以下の放射線の影響は認められない」という表現になると、その点が少し曖昧にされてしまいます。もちろん、「疫学的には」というところで、つまり、疫学の方法論では、「認められていない」は「わかっていない」と読むこともできますが、「認められていない」という表現は「わかっていない」よりも少しだけ「ない」への含意が強い感じですね。

「わからない」から「ない」への誘導は別のところでも見られます。例えば、次のような記述があります(なぜか中川恵一氏自身が科学ではなく政策であるとしているICRPに「科学」の文脈で言及しているのでそのまま使います[10])。

「実際、ICRP(国際放射線防護委員会)も、10ミリシーベルト以下では、発がんは増えないと断言している*。」(85ページ)

ところで、そのすぐ後の注では、

* ・・・結果について、「大きな被曝集団でさえ、がん罹患率の増加は見られない」としている。
ICRP Publications 96[面倒なので詳しい文献情報省略].

さて、注で言っているのは、「見られない」すなわち「観察した範囲では見つからなかった」ということであり、「増えないと断言」することとは、ずいぶん違います。

ちなみに、そのすぐ前には、実は「要するに、低線量被曝で、がんが増えるかどうかは永遠に検証できないだろう」(84ページ)という一文があります。こちらでは、「わからない」と言っているわけです。

「広範囲に調べたんだけど、この山で松茸は見られなかった」とAさんが言ったとします。Bさんがそれを聞き伝えで、「Aさんはこの山に松茸はなかったと断言している」と言ったら、ずいぶんニュアンスが違いますね。場合によってはAさんはBさんに抗議するかもしれません[11]。

「わからない」から「ない」への誘導は、中川恵一氏が書いた他の文章にも見られます。例えば、次の文章を見てみましょう。

ヒトの場合、250mSvを超えると白血球の数が減り始めます。100mSvの被ばくで、がん死亡のリスクは0.5%とわずかながら高まります。日本人のがんによる死亡率は現在30%ですから、それが30.5%となる、という計算になります。100mSvを超えると直線的にがん死亡リスクは上昇しますが、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません。それでも、安全のため、100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定しているのが今の考え方です。

仮に、現在の福島市のように、毎時1μSvの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100mSvに達するには11年以上の月日が必要です。・・・・・・[12]

まず、「100mSvの被ばくで、がん死亡のリスクは0.5%とわずかながら高まります」というのは、一応、科学的に合意された知見、「次いで、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません」というのは、科学の限界をきちんと示した適切な表現です。

ところで、1.2で述べた、リスク管理の原則を思い起こしましょう。リスク評価に不確定な部分があるときには、最悪のシナリオを想定するのが基本法則です。それにしたがうと、

「次いで、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません」

という評価から、リスク管理のレベルに話を移すためには、

ですから、安全のため、100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定」

のように、順接の接続詞を使うのが、適切です[13]。

ここで、「それでも」という逆説の接続詞を使う人は、基本的にリスク評価とリスク管理の関係、そしてリスク管理の原則を理解していないと評価されても仕方ないですし、また、「それでも」という逆説は、立ち戻って「わからない」ことは「ないこと」と見なしている暗黙の前提があって成り立つ接続関係ですから、この接続詞を使った語り手は、
  • 「わからない」ことと「ない」ことという、基本的な概念の区別がついていないか、
  • この「わからない」状況を「ない」と希望的観測で解釈したいバイアスを持っているか、
のいずれか、あるいはその両方であることが強く示唆されます。

さて、そこから予測される結果として、次の段落では、

身体に影響が出始める100mSvに達するには・・・

と表現が変わっています。「わからないこと」が、あたかもそれ以下だと身体に影響が出ないかのような記述に変わっているのです。これは、「科学的」ではありません。

リスク評価(本当はその準拠枠)が科学的なものだという(それなりの妥当性をもつ)主張をなさる議論においては、なおさら、「わからない」ことを「ない」ことの方に向けてしまう論の展開は避けてしかるべきことだったはずです[14]。

科学の方法論として折に触れ(必ずしも明示的にではないかもしれませんが)学ぶ、論理でも、統計でも、また、医学では疫学の領域でも、この「ない」と「わからない」の違いは、最も基本的なことの一つなのですから。

低線量被爆に対する特定のアプローチで「わからないこと」を「ないこと」と同一視することについて、もう少しきちんと考えたい方は、調麻佐志氏の「「低線量被ばくによるがんリスク」論文解題」をご覧ください。

2.2.3 「科学」の位置づけをめぐって

第三は、科学の位置づけをめぐって、です。

科学の基本は(こんなことを改めて言わなくてはならないのも恥ずかしいのですが)、「これまでわからなかったことを明らかにする」ことです。つまり、科学をやるのは、「わからない」からです[15]。

わからないことをやるわけですから、それをめぐってはいろいろな議論や論争が起きます。

とても単純化して言うと、基本的に、科学というのは事実をめぐる議論の場であって、科学を特徴づけるのは、その知見や事実、真実においてではなく、対象をめぐる認識を追求する際の態度と手続きです(お互いにわからないことについて説を展開するときに、好き勝手なかたちで展開されたどんな議論も同じくらい大切だとすると、少し困ってしまうわけですから)。

それでもまあ、いろいろな議論をへて、そのときどきで、「この範囲はこうだね」と言えるようなところがあります。それが暫定的に「科学的知見」とか「科学的な事実」といった言葉で表現されるものです。

このような知見は、とても大切なものだということについては、恐らく多くの人が同意するでしょう。私も、とても大切だと思っていますし、中川恵一氏もそれをはっきり表明しています。

「混同をめぐって」でそれを最も明示的に論じているのは、「人類の財産としての『国際合意された科学的知見』」という節です。

「混同をめぐって」では、その合意点をUNSCEARとチェルノブイリ・フォーラムに求めています。いずれも、純粋に科学的な議論の場ではないので、それ自体が政治的であって、そこで合意されたものを「国際合意された科学的知見」と見なすこと自体が、科学とは別のところで立場を表明するものに過ぎない、という批判は、当然ありえます[16]。

ここでは、その点はとりあえず置いておいて、「混同をめぐって」の文章をもう少し観察してみることにしましょう。

チェルノブイリの一般住民に対する健康影響については、二つの報告書[17]を要約すると、以下の通りである。
「チェルノブイリでは、高線量汚染地の27万人は50ミリシーベルト以上、低線量汚染地の500万人は10~20ミリシーベルトの被曝線量と計算されている。放射線による住民の明らかな健康被害は、小児の甲状腺がんの増加だけで、白血病の増加も指摘できない。小児の甲状腺がんは、汚染された牛乳を規制なく飲用した子どもの中で6000人が手術を受け、現在までに15名が亡くなっている」。
もちろん今後、小児白血病以外の健康被害が疫学上検出される可能性は高いとは言えないが、否定できるものではない。ただし、今後得られる新知見も、小児甲状腺がんと同様に、国際的な合意として認識されるべきものである。(94ページ)

ここは、まっとうな記述になっていることに注意しましょう。

現在明らかになっていることがあり、それ以外のことは「存在しない」のではなくて、国際的に合意された科学的知見のレベルでは「指摘できない」だけであり、科学の限界からわかっていないところについて、影響があるとわかる可能性は否定できない、と言っているのですから。

ところで、「混同をめぐって」は、さらに次のように続きます。

そして、専門家、科学者は、とりわけ、放射線の人体影響に関して社会が混乱している状況では、「国際的に合意に達している事項はどこまで」と明確に表明する必要があろう。「科学的に不確実」な部分については、「国際的に合意が得られていない」と社会にメッセージする必要がある。この区別がなされないことで、国民は「何を信じて良いのか」と疑心暗鬼となる。専門雑誌に掲載された学術論文がすべて正しいわけではないことも国民は知っておく必要があろう。(95ページ)

この部分をめぐる一つの大きな問題は、第3節で検討しますが、それは別にして、ここも、それほど変な主張ではありません[18]。

ここで整理する必要があるのは、このような科学的知見の状況がリスク評価の準拠枠であるとき、それはリスク管理とどのようにつながるのか、です。

リスクマネージメントの基本的な枠組みからは、1.2で述べたように、準拠枠の中で曖昧な点が残る場合には、最悪の状況を想定し、リスク管理を考えることになります。

「混同をめぐって」でも、2.2.2で見たような、論理的に成り立たない主張やすり替えの部分を差し引けば、すぐ上で引用した部分も示しているように、「100ミリシーベルト以下の影響についてはよくわからない」ことは確認されています。

ですから、リスク管理の観点からは:

わからないところについては、リスク管理上、最悪の場合を考え、対処作を検討する

のが当然なのです。

ちなみに、科学の観点からは、

わからない部分について研究をすすめ、議論する

のが当然です。

いずれの観点からも、100ミリシーベルト以下についてはよくわかっていないところも多く、科学的にも議論があることを、あたかも、影響は存在しないかのようにすり替えて、リスク管理の対象としない、科学的議論を専門家的権威で否定する、といったことは、避けなくてはなりません。

ところが、2.2.2で見たように、中川恵一氏ご自身が、よくわかっていないことと存在しないことを混同しがちですし、また、注14で引用したように、「専門家」という仲間うちの権威に訴えて、低線量被曝の影響について科学的でない観点から一定の主張をしています。

その一方で、「混同をめぐって」には、100ミリシーベルト以下についてはよくわかっていないという科学の状況を踏まえたリスク評価の準拠枠を前提として、リスク管理をどうするかについては、明確な言葉がありません。

「リスク評価」と「リスク管理」の混同を整理することを意図した文書としては、とても不思議なことです。

2.3 現在の状況における実際のリスク評価

「混同をめぐって」は、リスク評価とリスク管理の混同を整理することを意図したらしい文章であるにもかかわらず、1.3であげたリスク評価の第二の構成要素、すなわち現状における実際の状況の観測、計測、測定・・・・・・は言及されていません。

リスクマネージメントは、現実の事態に応じて行われるものであり、現実の事態から離れて一般的知見を繰り返すだけではリスクマネージメントではありません。

とりわけ、東京電力が起こした原発事故は、事故です。事故というのは、これまでの知識で予測される範囲を超えたことが起きたときに事故と認識されるわけですから、状況の測定や計測・観察・観測・調査、それに基づく状況の診断・展開の予測などが非常に重要になります[19]。

では「混同をめぐって」の著者である中川恵一氏は、状況について、どのような判断や診断を下してきたでしょうか。同氏の他の文章も見ながら検討してみることにしましょう。

実は、2.2.2でも見た「『放射線』の正しい知識を身につける 放射線の『正しい』怖がり方とニュースの読み取り方を知る」(教育家庭新聞8月22日号、ウェブ掲載分)には、次のような文があり、

放射線が「あるかないか」で怖がるのではなく、「どの程度の量がどこにどの期間あるのか」を知ることがニュースを正しく読み取るポイントといえます。

まさに、中川恵一氏も、状況の具体的な評価が重要であることを指摘しているのです。

さて、2011年7月3日、毎日新聞に掲載された、中川恵一氏による次の記事を見てみましょう。

現在、原発からの放射性物質の放出はほぼなくなっており、福島県の大半の地域でも大気中の放射性物質は検出されていません。・・・・・・大気中に放射線を出す放射性物質が漂っているわけではありません。・・・・・・空気中に放射性物質がないわけですから、布団や洗濯物に放射性物質が付着することはなく、外に干しても大丈夫です。マスクや長袖も必要ありません[20]。

東京電力が2011年7月19日に発表したデータによると、セシウム134と137は、毎時10億ベクレル出ています。3月の200万分の1ですが、一方、これまでの平時の希ガス放出量最大値の約17倍です。

『INES国際原子力・放射線事象評価尺度ユーザーズマニュアル』(2008年)では、異なる核種をヨウ素換算することになっており、セシウム134の換算係数は3、137は40、希ガスは0ですから、セシウムは134と137が等量として
ヨウ素換算で215億ベクレル、一方希ガスは0となります。

本来、リスク評価の観点からは、「ほぼなくなっており」という表現ではなく、中川恵一氏ご本人がおっしゃるように、「どの程度の量がどこにどの期間あるのか」、わかる範囲できちんとした情報を出すべきところです。

また、

福島県の大半の地域でも大気中の放射性物質は検出されていません。・・・・・・大気中に放射線を出す放射性物質が漂っているわけではありません。・・・・・・空気中に放射性物質がないわけですから、布団や洗濯物に放射性物質が付着することはなく、外に干しても大丈夫です。マスクや長袖も必要ありません。

という部分についても、同様です。

第一に、放射性物質がかなり局在しホットスポットを構成したりすることがある中で、「どの程度の量がどこにどの期間あるのか」を詳しく評価せずに「空気中に放射性物質がない」というのは適切とは言えません。

例えば、2011年11月に、東京都杉並区の小学校で1キロ当たり9万ベクレルの養生シートが見つかったこと、それが風などで舞い上がる可能性があることを考えると、「空気中に放射性物質がない」(「空気中」に厳密な定義が与えられていないこと、実際的な防護の観点からは舞い上がったものを考慮するのが妥当なことに注意しましょう)という決めつけは、必ずしも正しくないことがわかります。

朝日新聞が9月20日に報じたように、日本原子力研究開発機構の研究から、一度地面に降下し風で舞い上がるなどした放射性セシウムを取り込んだ場合の内部被ばく量は、大気から直接吸入するのに比べて約10倍多いことが示唆されたことを考えると、上記の毎日新聞記事の記述を「リスク評価」として見た場合、ますます疑問であると言わざるをえません。

次に、「『どの程度の量がどこにどの期間あるのか』を知ることがニュースを正しく読み取るポイント」であるとご教示下さっている、「『放射線』の正しい知識を身につける 放射線の『正しい』怖がり方とニュースの読み取り方を知る」の記述を、状況に対する実際のリスク評価の観点から見てみましょう。

以下のような記述があります。

福島第一原発から60キロ離れた福島市の空間放射線量が、20キロ圏内の福島県南相馬市より高いのは、「風」の影響です。東京でも、葛飾区、足立区など北東地域で線量が高い傾向があります。ただし、東京都の線量は、ローマ、ロンドン、香港など、多くの都市を下回るレベルです。過度な心配は要りません。

この段落では、一方で「葛飾区、足立区など北東地域で線量が高い傾向」があると述べていながら、すぐ次に「東京都の線量は」・・・「過度な心配は要」らないくらいだ、と述べています。「どの程度の量がどこにどの期間あるのか」の判断は、東京都という大雑把なレベルでやってよい、というのでしょうか? 一方で、葛飾区、足立区などが高いと言っていること、また、より局所的な汚染が明らかになってきていることを考えると、こうした記述が、中川恵一氏ご本人ご推奨の「どの程度の量がどこにどの期間あるのか」に基づく妥当なリスク評価として適切であるとは言いにくいことが伺えます。

次のような記述もあります。

「ストロンチウム」は、カルシウム同様体内に取り込まれると骨に集まります。外部にガンマ線を出さないため、検出が難しいものですが、私たちの調査でも、原発からの放出はないようですので、安心してよいと思います。

ストロンチウムについては、いくつかの調査で検出されており、原発事故由来のものであるかどうかの慎重な検討が専門家により進められているところです[21]。記事が出されたときには、すでに、検出の報告やシミュレーションはあり、「私たちの調査でも、原発からの放出はないようですので、安心してよいと思います」という主張が、「ようです」「と思います』という表現があったとしても、いささか勇み足的な、「リスク評価」の観点から決して妥当とはいえないものであることがわかります。

蛇足ですが、線量がどの程度だとかストロンチウムが出ているとかいった「リスク評価」の領域から、「過度な心配は要りません」「安心してよいと思います」といった、「リスク管理」の領域に(リスク管理の原則を参照することなしに)なしくずしてきに移行する、これらの例のような記述は、リスクマネージメントの観点からは、「リスク評価」と「リスク管理」が混同された文章と評価されることがあります。

2.4 ここまでの簡単な整理

以上の分析で、「混同をめぐって」および著者の関連する言説は、次の二点から特徴づけられていることを明らかにしました。
  • リスク評価の準拠枠を支える科学的知見の位置づけについて「わからない」ことを「ない」ことと同一視してしまう傾向がもたらす混乱が見られること。とりわけ、リスク評価とリスク管理の関係について、リスクマネージメントの基本的な考え方を十分に把握しているとは言い難い記述(あるいは記述の不在)が見られること。
  • リスク評価の構成要素のうち、リスクマネージメントの観点から本質的なものである、実際の状況の評価に関して、関連する文書で述べられていることが、実際の状況と食い違っていたり、必要な詳細度を持っていないこと。
  • リスク評価の領域に属する記述・主張と、リスク管理の領域に属する記述・主張とが、リスク管理の基本原則を参照することなしにつなげられてしまっていること。

21:36 | 投票する | 投票数(13) | コメント(0) | 社会情報リテラシー講義

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