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2019/11/01

春日政治が文学研究を始めた動機

Tweet ThisSend to Facebook | by SoTANAKA
 用事があって新潮社の『日本文学講座』(全19巻、1926-1928)を見ていたら、第1巻の巻末の「雑録」というところに「日本文学研究の動機」なる欄があることに気付いた。色々な学者が、自らが文学研究の道を歩むことになったきっかけを語る短文を寄稿しているのだが、その中に春日政治(かすが・まさじ、1878-1962)の名を見付けた。訓点語学では神様のような人である。題目を見ると、「好きだからやれさうだから」とある。面白そうだ。
 読んでみると、実際面白かった。この短文は『春日政治著作集』に収められていないようだし、著作年譜[注1]にも出ていないため、世にあまり知られていないのではないかと思う。よって以下に全文を写しておく[注2]漢字は通行字体に改めた。

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 好きだからやれさうだから 春日政治

 学問とか研究とかいふ事は、それ自体が目的であること、従つて一種の道楽であることゝいふ一面を許す自分には、自分の今辿つてゐる道に這入り込んだ時、別に大した外的刺戟があつたわけでもなく、強い内的発憤によつたわけでもない。振返つて見ると只自然にといはうか、否漫然と踏入つたとより外言ひやうはない。要するにそれを嗜好するから、それに興味を覚えるから、而してそれならば自分にやゝ可能らしいからであつた。しかし自分は自分の行路を全く無意義に歩いてゐるものでない事だけは知つてゐる。
 文学は知るものではなくて感ずるものであるとはよく聞くことである。しかし文学を感ずることは何に由つてするかといふに、必ず言語――文字に表された――而も時代々々の言語に由るのである。己[注3]に言語に由る以上、その言語がよく解せられないで、換言すると、作者が表現した際の心持に力めて接近するのでなくて、果して正しい感取が出来るであらうか。新しい文学の研究法は、動もすると餘りに直観的であつて、其の言語についての意識が弱過ぎる嫌がある。理解が不十分でありながら感取が早過ぎる弊がある。文学の研究といふのは、テキストを碌々読まないで――或は読めないで――ゐて、理窟ばかりいふことではない。
 自分は常に言ふ、「よく感ずることはよく知ることに由つてゞある。従つて真の文学の研究は真の語学の上に立たなくてはならない。真の国文学の研究は真の国語学の上に建てられなくてはならない」と。かくて自分は国語の音韻や語彙や語法を其の時代々々の文学に就いて観て、其の時代々々の作者が表した心持を、先づ遺憾なく理解していくことに最も趣味をもつものであつて、亦さうした道を辿つてゐるものである。

 [底本]『日本文学講座 第一巻』(新潮社、1926年11月)

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 「要するにそれを嗜好するから、それに興味を覚えるから、而してそれならば自分にやゝ可能らしいからであつた。」というところが何とも言えず良い。共感を覚えると共に、励まされる。思えばこの文章の題目じたい「好きだから」だけでは物足りないのであって、そこから「やれさうだから」と繋がるところに興趣があるように思う。
 

[1] 春日和男「春日政治著作年譜」『語文研究』16、1963年。
[2] 著作権について確認しておく。現行の著作権法では著作物の保護期間は死後70年である。春日政治の逝去は1962年なので、2019年現在70年を経ていない。しかし保護期間が50年から70年へと延長されたのは2018年12月の法改正によるものであって、それより前に著作権が失効した著作物に対しては適用されない。よって、春日政治の著作権は保護期間50年時代の2012年末を以て満了しており、現在もそれは変わらない。
[3] 己は已の誤か。

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